2014年9月3日水曜日

「括弧(管到)は有ります!!」

(01)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁)。
然るに、
(02)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(01)(02)より、
(03)
どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。
といふことは、「訓読」に於ける、「管到」の、「正確な把握」に感心していた。といふことに、他ならない。
然るに、
(04)
① 読漢文=漢文を読む。
であれば、
① 読 の「目的語」は、 漢文 である。
従って、
(05)
① 読漢文=漢文を読む。
の「管到(上の語が、下のことばのどこまでかかるか)」を、「括弧」で表すならば、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
といふ、ことになる。
従って、
(06)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
に於いて、
① 読(といふ上の語)は、漢文(といふ下の語)を、「管到」してゐる。
然るに、
(07)
漢文は論理的な構文をたくさん含んでいる(山下正男)。
否定は文全体にかかるものとして理解するのが論理学の鉄則です(三浦俊彦)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
に於いて、
② 不(といふ上の語)は、読漢文(といふ下の語)を、「管到」してゐる。
然るに、
(09)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
の「返り点」は、
① 二 一。
② レ 二 一。
である。
従って、
(05)~(09)により、
(10)
① 読漢文。
② 不読漢文。
の「「管到(上の語が、下のことばのどこまでかかるか)」は、
① ( )
②〔( )〕
で、表すことが出来、尚且つ、
① 二 一。
② レ 二 一。
で、表すことが、出来る。
従って、
(11)
与えられた「漢文」の「管到」を、「括弧」 で表した場合が、『括弧』 であり、
与えられた「漢文」の「管到」を、「返り点」で表した場合が、『返り点』である。
従って、
(11)により、
(12)
『括弧』 は、「管到」に従って、付けられてゐる。
『返り点』も、「管到」に従って、付けられてゐる。
然るに、
(13)
① 不〔読(文)〕=〔(文を)読ま〕ず。
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
③ 不〔常読(文)〕=〔常には(文を)読ま〕ず。
④ 不〔常読(漢文)〕=〔常には(漢文を)読ま〕ず。
に対する「返り点」は、
① レ レ。
② レ 二 一。
③ 二 一レ 。
④ 三 二 一。
であって、四つとも、全て、「同じ」ではないし、
⑤ 不〔訓‐読(文)〕=〔(文を)訓読せ〕ず。
⑥ 不〔訓‐読(漢文)〕=〔(漢文を)訓読せ〕ず。
のやうに、「ハイフン」が付く場合もあるため、実際には、六通りが、「同じ」ではない。
従って、
(13)により、
(14)
『返り点』の場合は、「同じ管到」を、「異なる返り点」が、表すものの、『括弧』の場合は、そのやうなことが無い。
従って、
(11)(14)により、
(15)
「管到」=「返り点」 ではないが、
「括弧」=「管到」  である。
従って、
(15)により、
(16)
「漢文」に「括弧」が無いといふことは、「漢文」に「管到」が無い。といふことに、等しい。
然るに、
(01)により、
(17)
(中国の某君は)日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならないと、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。
従って、
(16)(17)により、
(18)
「管到」は「括弧」であり、「括弧」は「管到」であって、「漢文」には、「管到」が存在する。
従って、
(18)により、
(19)
「漢文」に、「管到」が存在し、「管到」とは「括弧」である以上、「括弧(管到)は有ります!!」と、せざるを得い。
(20)
「漢文」に、「括弧」が存在しない。といふためには、
(a)固より、「漢文」には「管到」が存在しない。
(b)存在したとしても、「括弧」は「管到」ではない。
といふことの、少なくとも、どちらか一方を、「証明」する必要がある。
平成26年09月03日、毛利太。

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