(01)
「管到」を、「スコープ(scope)」と呼ぶことにする。
(02)
① 2×(1)+2+3=7
② 2×(1+2)+3=9
③ 2×(1+2+3)=12
に於いて。
① 2× のスコープは(1)であり、
② 2× のスコープは(1+2)であり、
③ 2× のスコープは(1+2+3)である。
とする。
(03)
① 2×(1)+2+3=7
② 2×(1+2)+3=9
③ 2×(1+2+3)=12
に於いて、
① 7
② 9
③ 12
を、「意味」とする。
従って、
(02)(03)により、
(04)
④ 2×1+2+3.
に於いて、
④ の「意味」が、
④ 12
であるならば、その時に限って、
④ 2×1+2+3=
④ 2×(1+2+3)=12
である。
従って、
(04)により、
(05)
④ 2×1+2+3.
に於いて、
④ の「意味」が、 「確定」すれば、
④ の「スコープ」も、「確定」する。
従って、
(06)
同様に、
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
に於いて、
⑤ の「意味」が、 「確定」すれば、
⑤ の「スコープ」も、「確定」する。
然るに、
(07)
補足・認定の両関係は、日本語とまったく逆の語順になる。したがって、ここに返り点を用いて、語順を日本式に入れ換える必要が起こってくる(角川漢和中辞典、1959年、1292頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」が、
⑤ 私は必ずしも中国語を理解する方法を用ゐて漢文を理解することを求めない。
といふ「意味」であるならば、
⑤ 補足・認定の両関係は、日本語とまったく逆の語順になる。
といふことから、
⑤ 不(認定) のスコープは、
⑤{必求以解中国語法解漢文}
であって、
⑤ 求(補足) のスコープは、
⑤[以解中国語法解漢文]
であって、
⑤ 以(補足) のスコープは、
⑤〔解中国語法〕
であって、
⑤ 解(補足) のスコープは、
⑤(中国語)
であって、
⑤ 解(補足) のスコープは、
⑤(漢文)
である。
然るに、
(09)
⑤ 私は必ずしも中国語を理解する方法を用いて漢文を理解することを求めない。
に対する、「グーグル翻訳」は、
⑤ 我並不要求你理解了中國經典的搭配方式來了解中國。
である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」が、
⑤ 我並不要求你理解了中國經典的搭配方式來了解中國。
といふ「意味」であると、仮定して、
⑤ 我並不要求你理解了中國經典的搭配方式來了解中國。
といふ「中国語」が、
⑤ 私は必ずしも中国語を理解する方法を用いて漢文を理解することを求めない。
といふ「意味」であると、仮定するならば、
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
の「スコープ」は、
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
であって、それ故、
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文=
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
⑤ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
⑤ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(06)(09)(10)により、
(11)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文=
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ「スコープ」に関しては、
⑤ 我必ずしも中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求めず。
といふ「漢文訓読」とは、「独立」に、成立する。
従って、
(10)(11)により、
(12)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文=
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}=
⑤ 我並不要求你理解了中國經典的搭配方式來了解中國。
に付く、
⑤ 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲=
⑤〈丁 丙{下〔二(一)上〕乙(甲)}〉⇒
⑤〈{〔(一)二 上〕下(甲)乙}丙〉丁=
⑤ 一 二 上 下 甲 乙 丙 丁。
といふ「返り点と括弧」は、
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文=
⑤ 我必ずしも中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求めず。
といふ「漢文訓読」とは、「独立」に、成立する。
(13)
青木は『本邦支那学革新の第一歩』で、訓読の弊害を3つ挙げている。
1.訓読は読書に手間取って、中国人同様に早く読むことが出来ない。
2.訓読は中国語固有の文法を了解するには害がある。
3.訓読は意味の了解を不正確にする。
これらについていちいち解説する必要は無いだろう。訓読により意味が取れていると感じるのは錯覚であって、ニュアンスが失われており、辞義もすり替えられている可能性があるのだ。倉石は『支那語教育の理論と実際』において、訓読では異なる字を同一の訓で読んだり、読まない字が生じたりすることで、中国人が考えていることが却ってわからなくなっていると指摘する。さらに「論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないというのは、信州に育った者が新鮮な生きの良い魚よりも塩鮭がうまいと言うようなものだ」と断言し、このくだりは「漢文訓読塩鮭論」として有名だそうだ(阿部和也の人生のまとめブログ)。
(14)
シナや極東の王国では、一般に文字をも語を表わすのではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほど広い範囲に了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な数の符号があるのである(フランシス・ベーコン、学問の進歩、124頁、ISBN不明)。
従って、
(15)
「漢文」は、成立した時点で、「学習」を必要とする「書き言葉」であったため、それが成立した当時から、「漢文」には、「ネイティブスピーカー」がゐない。
然るに、
(16)
All horses are animals; therefore all horses’ heads are animals’ heads.
といふ「英語」には、「ネイティブスピーカー」がゐる一方で、
(x)(Fx→Gx) ∴ (x)((∃y)(Fy&Hxy)→(∃y)(Gy&Hxy))
といふ「論理式」に、「ネイティブスピーカー」はいないし、「E.J.レモン、論理学初歩、1973年、167頁」等で、学ばなければ、それを理解することは、出来ない。
従って、
(17)
馬皆動物也。故、馬之頭皆動物之頭也。
といふ「漢文」に、近いのは、
(x)(Fx→Gx) ∴ (x)((∃y)(Fy&Hxy)→(∃y)(Gy&Hxy))
といふ「論理式」であって、
All horses are animals; therefore all horses’ heads are animals’ heads.
といふ「英語」ではない。
平成27年09月07日、毛利太。
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