(01)
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・
② 上 中 下
③ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
④ 天 地 人
⑤ レ
は、「返り点」である。
(02)
(03)~(21)に於いて、
① 二 三 一
② 下 二 上 一
③ 二 下 三 一 上
④ 三 二レ 一
といふ「順番」は、「返り点」ではない。といふことを、説明します。
(03)
① 不注意=意を注がず。
の「返り点」は、
① レ レ
である。
(04)
① 注不意=意を注がず。
の「返り点」は、敢へて、さうするのであれば、
① 二 三 一
である。
cf.
然るに、
(05)
① 不注意=意を注がず。
に対して、
① 注不意=意を注がず。
といふ「漢文」は、有り得ないし、
① レ レ
① 三 二 一
に対して、
① 二 三 一
といふ「返り点」は、見たことが無い。
(06)
一・二点をはさんで返る時は上・中・下点。上・中・下点をはさんで返る時は甲・乙点。甲・乙点をはさんで返る時は天・地(天・地・人)点である(志村和久、漢文早わかり、1982年、20頁)。
然るに、
(07)
② 四 二 三 一
の場合は、
② 二 をはさんで、
② 三 から
② 四 へ返ってゐる。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② 四 二 三 一
の場合は、
② 下 二 上 一
でなければ、ならない。
然るに、
(09)
② 下 二 上 一
であれば、
② 下 二 上
であって、尚且つ。
② 二 上 一
である。
然るに、
(10)
② 下 二 上
であれば、「上下点」が、「一二点」を挟んゐて、
② 二 上 一
であれば、「一二点」が、「上下点」を挟んゐる。
然るに、
(11)
一二点(一・二・三・・・・・・)二字以上を隔てて返る場合。
上中下点(上・下、上・中・下)
必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。(原田種成、私の漢文講義、1995年、41・43頁)
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
② 下 二 上 一
といふ「それ」は、「返り点」ではない。
(13)
③ 二 五 三 一 四
の場合は、
③ 三 一 をはさんで、
③ 四 から
③ 五 へ返ってゐる。
従って、
(02)(13)により、
(14)
② 二 五 三 一 四
の場合は、
② 二 下 三 一 上
でなければ、ならない。
然るに、
(15)
② 二 下 三 一 上
であれば、
② 下 三 一 上
であって、尚且つ、
② 二 下 三 一
である。
然るに、
(16)
② 下 三 一 上
であれば、「上下点」が、「一二点」を挟んゐて、
② 二 下 三 一
であれば、「一二点」が、「上下点」を挟んゐる。
従って、
(11)(15)(16)により、
(17)
② 二 下 三 一 上
といふ「それ」は、「返り点」ではない。
(18)
③ 三 二レ 一
であれば、
③ 三 二 一 一
となって、
③ 一 一
となるため、
③ 二レ
といふ「返り点」は、有り得ない。
(19)
③ 四 三レ 二 一
であれば、
③ 四 三 二 二 一
となって、
③ 二 二
となるため、
③ 三レ
といふ「返り点」も、有り得ない。
従って、
(18)(19)により、
(20)
(1)一とレ点とはいっしょになって「一レ」となる。
(2)二とレ点とはいっしょになって「二レ」にはならない。
(3)三・四点も同じくレ点といっしょにならない。
(江連隆、総合 新漢文、1968年、15頁改)
従って、
(20)により、
(21)
いづれにせよ、
③ 三レ
を含む、
③ 二 三レ 一
といふ「返り点」は、有り得ない。
従って、
(03)~(21)により、
(22)
① 二 三 一
② 下 二 上 一
③ 二 下 三 一 上
④ 三 二レ 一
といふ「順番」は、「返り点」ではない。
然るに、
(23)
その一方で、
② 只‐管要纏我 ⇒
② ヒタスラ 我ガ ヤツカイニナル。
③ 端‐的看不出這婆‐子的本‐事来 ⇒
③ 端的に這の婆子の本事を看出だし来たらず。
③ 西門慶促‐忙促-急儧‐造不出床来 ⇒
③ 西門慶促忙促急に床を儧造し出し来たらず。
④ 吃了不多酒 ⇒
④ 吃むこと多からず。
といふ「白話文(中国語)」に於ける「順番」は、(24)で示す通り、
② 下 二 上 一
③ 二 五 三 一 四
③ 二 五 三 一 四
④ 二 三レ 一
である。
(24)
従って、
(22)(23)(24)により、
(25)
① 只‐管要纏我。
② 端‐的看不出這婆‐子的本‐事来。
② 西門慶促‐忙促-急儧‐造不出床来。
③ 吃了不多酒。
のやうな「中国語(白話文)」の場合は、「返り点」を加へることが、出来ない。
cf.
しかし私が専門にしている中国明清の白話小説は必ずしも漢文訓読の方法では読めません。「白話」というのは話し言葉をもとにした書面語で、それを読むためには現代中国語の知識が必要になります。皆さんがよく知っているでしょう『三国志演義』・『水滸伝』・『西遊記』・『封神演義』などはみな白話で書かれている長編小説です。これらの小説を読むためには、まず現代中国語をしっかり学ばなければなりません(Webサイト:中川諭|大東文化大学)。簡潔を旨として作られた文言文とは異なり、話し言葉に基づく白話文は、本来訓読には適していない(実際、現在では白話文の訓読はほとんど行われていない)。しかし江戸時代、白話文は訓読されていた(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、330頁)。
従って、
(05)(23)(25)により、
(26)
① 二 三 一
② 下 二 上 一
③ 二 下 三 一 上
④ 二 三レ 一
すなはち、
① 2<3>1
② 4 2<3>1
③ 2<5 3>1 4
④ 2<4 3>1
といふ「順番」には、「返り点」を加へることが、出来ない。
然るに、
(27)
① 3>2>1
② 4 3>2>1
③ 5>2 1<3 4
④ 4>2 1<3
に対する「返り点」は、
① レ レ
② レ レ レ
③ 二 レ 一
④ 二 レ 一
である。
従って、
(26)(27)により、
(28)
① 2<3>1
② 4 2<3>1
③ 2<5 3>1 4
④ 2<4 3>1
といふ「順番」には、「返り点」を加へることが、出来ないものの、
① 3>2>1
② 4 3>2>1
③ 5>2 1<3 4
④ 4>2 1<3
といふ「順番」には、「返り点」を加へることが、出来るであって、このことが、ここ迄の、「結論」である。
(29)
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・
② 上 中 下
③ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
④ 天 地 人
⑤ レ
は、「返り点」であって、
① ( )
② 〔 〕
③ [ ]
④ { }
⑤ 〈 〉
は、「括弧」である。
(30)
(31)~(51)に於いて、
① 3>2>1
② 4 3>2>1
③ 5>2 1<3 4
④ 4>2 1<3
といふ「順番」には、「返り点」だけでなく、「括弧」を加へることが、出来るものの、
① 2<3>1
② 4 2<3>1
③ 2<5 3>1 4
④ 2<4 3>1
といふ「順番」には、「返り点」だけでなく、「括弧」を加へることが、出来ない。
といふことを、説明します。
(31)
① ( )は 「小さな函」。
② 〔 〕は 「中位の函」。
③ [ ]は 「大きな函」。
④ { }は 「より大きな函」。
⑤ 〈 〉は「もっと大きな函」。
に譬へることが、出来る。
(32)
①「小さな函」が、
②「中位の函」の中に、入ってゐる「状態」を、
② 〔 ( ) 〕
とする。
(33)
②「中位の函」が、
①「小さな函」の中に、入ってゐる「状態」を、
① ( 〔 〕 )
とする。
然るに、
(34)
②「Mサイズの箱」が、
①「Sサイズの箱」の中に、入ることは、物理的に、有り得ない。
従って、
(32)(33)(34)により、
(35)
① ( 〔 〕 )
① ( 〔 ) 〕
① 〔 ( 〕 )
といふ「函」は有り得ない。
但し、
(36)
② 〔( )〕
だけでなく、
② 〔( )( )〕
② 〔( )( )( )〕
であっても、
①「小さな箱」が、
②「中位の箱」の中に、入ることには、変はりがない。
従って、
(31)~(36)により、
(37)
① ( )
② 〔 〕
③ [ ]
④ { }
⑤ 〈 〉
に於いて、
② の中には、一つ以上の ① が有って、
③ の中には、一つ以上の ② が有って、
④ の中には、一つ以上の ③ が有って、
⑤ の中には、一つ以上の ④ が有る。
ならば、その時に限って、「括弧(函)」とする。
(38)
① 3>2>1
である時、
① 3〔2(1)〕
とする。
(39)
① 3〔2(1)〕。
に於いて、
① 2( )⇒(1)2
① 3〔 〕⇒〔 〕3
とするならば、
① 3〔2(1)〕⇒
① 〔(1)2〕3。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
然るに、
(40)
① 2<3>1
である時、
① 2(3〔1)〕
とする。
(41)
① 2(3〔1)〕
に於いて、
① 2( )⇒(1)2
① 3〔 〕⇒〔 〕3
とするならば、
① 2(3〔1)〕⇒
① (〔1)2〕3。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
然るに、
(35)により、
(42)
① 〔 ( ) 〕
に対して、
① ( 〔 ) 〕
は、「括弧」ではない。
従って、
(40)(41)(42)により、
(43)
① 3〔2(1)〕⇒
① 〔(1)2〕3。
といふ「並び替へ(ソート)」に於ける、
① 〔 ( ) 〕
は、「括弧」であるが、
① 2(3〔1)〕⇒
① (〔1)2〕3。
といふ「並び替へ(ソート)」に於ける、
① ( 〔 ) 〕
は、「括弧」ではない。
従って、
(38)~(43)により、
(44)
① 3>2>1
といふ「順番」に対しては、「括弧」を用ゐて行ふ、
① 1<2<3
といふ「並び替へ(ソート)」が、可能である一方で、
① 2<3>1
といふ「順番」に対しては、「括弧」を用ゐて行ふ、
① 1<2<3
といふ「並び替へ(ソート)」は、可能ではない。
従って、
(45)
2<3>1
のやうに、
L<M>N
に於いて、
L=N+1
であるならば、「それら順番」は、「返り点」では表すことが出来ず、尚且つ、「函(括弧)」に、入らない。
(46)
L<M>N & L=N+1
といふことは、
N<L<M
といふ、ことである。
然るに、
(47)
L<M>N
を、
N<L<M
といふ「順番」に「並び替へる(ソートする)」ためには、
L(MN)
とした上で、
L(M〔N)〕
としなければならない。
然るに、
(48)
L(M〔N)〕
であれば、
( 〔 ) 〕
であるが、(29)により、
( 〔 ) 〕
は、「括弧」ではない。
然るに、
(49)
① 2<3>1
② 4 2<3>1
③ 2<5 3>1 4
④ 2<4 3>1
の場合は、全て、
L<M>N & L=N+1
といふ「順番」を含んでゐて、尚且つ、(37)により、
① 2(3〔1)〕⇒
① (〔1)2〕3。
② 4[2(3〔1)〕]⇒
② [(〔1)2〕3]4。
③ 2(5[3〔1)〕4]⇒
③ ([〔1)2〕34]5。
④ 2(4[3〔1)〕]⇒
④ ([〔1)2〕3]4。
に於ける、
① ( 〔 ) 〕
② [ ( 〔 ) 〕 ]
③ ( [ 〔 ) 〕 ]
④ ( [ 〔 ) 〕 ]
は、「括弧」ではない。
然るに、
(50)
① 3>2>1
② 4 3>2>1
③ 5>2 1<3 4
④ 4>2 1<3
の場合は、全て、
L<M>N & L=N+1
といふ「順番」を含んでゐないし、尚且つ、(37)により、
① 3〔2(1)〕
② 4[3〔2(1)〕]
③ 5〔2(1)34〕
④ 4〔2(1)3〕
に於ける、
① 〔 ( ) 〕
② [ 〔 ( ) 〕 ]
③ 〔 ( ) 〕
④ 〔 ( ) 〕
は、「括弧」である。
従って、
(26)(27)(49)(50)により、
(51)
① 3>2>1
② 4 3>2>1
③ 5>2 1<3 4
④ 4>2 1<3
といふ「順番」には、「返り点」だけでなく、「括弧」を加へることが、出来るものの、
① 2<3>1
② 4 2<3>1
③ 2<5 3>1 4
④ 2<4 3>1
といふ「順番」には、「返り点」だけでなく、「括弧」を加へることが、出来ないのであって、このことが、ここ迄の、「結論」である。
(37)により、
(52)
① 〈{[〔( )〕( )]}〉
は、「括弧(箱)」である。
然るに、
(53)
① 1F〈2E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}〉。
に於いて、
F〈 〉⇒〈 〉F
E{ }⇒{ }E
D[ ]⇒[ ]D
9〔 〕⇒〔 〕9
7( )⇒( )7
C( )⇒( )C
とするならば、
① 1〈2{3[〔(456)78〕9(AB)C]D}E〉F。
従って、
(52)(53)により、
(54)
① 1<F>2<E>3<D>9>7>4<5<6<8<C>A<B
といふ「16進数」は、
① 〈{[〔( )〕( )]}〉
といふ「括弧」を介して、
① 1<2<3<4<5<6<7<8<9<A<B<C<D<E<F
といふ「昇べき順」に、「並び替へること(ソート)」が、可能である。
従って、
(54)により、
(55)
1=我
F=不
2=必
E=使
3=人
D=求
9=以
7=解
4=中
5=国
6=語
8=法
C=解
A=漢
B=文
であるならば、
① 〈{[〔( )〕( )]}〉
といふ「括弧」を介して、
① 我不必使人求以解中国語法解漢文=
① 我不〈必使{人求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}〉=
① 1F〈2E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}〉⇒
① 1〈2{3[〔(456)78〕9(AB)C]D}E〉F=
① 我〈必{人[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}使〉不=
① 我〈必ずしも{人をして[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}使め〉不=
① 私は必ずしも、人に対して、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解することを、求めさせない。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
(56)
① 我不必使人求以解中国語法解漢文
から、「返り点」が付かない「それ」を除くと、
F=不
E=使
D=求
9=以
7=解
6=語
8=法
C=解
B=文
然るに、
(57)
F=不 ⇒ 九=不
E=使 ⇒ 八=使
D=求 ⇒ 七=求
9=以 ⇒ 四=以
7=解 ⇒ 二=解
6=語 ⇒ 一=語
8=法 ⇒ 三=法
C=解 ⇒ 六=解
B=文 ⇒ 五=文
従って、
(06)(57)により、
(58)
九=不 ⇒ 戊=不
八=使 ⇒ 丁=使
七=求 ⇒ 丙=求
四=以 ⇒ 下=以
二=解 ⇒ 二=解
一=語 ⇒ 一=語
三=法 ⇒ 上=法
六=解 ⇒ 乙=解
五=文 ⇒ 甲=文
従って、
(58)により、
(59)
② 不使求以解語法解文=
② 不〈使{求[以〔解(語)法〕解(文)]}〉=
② 戊〈丁{丙[下〔二(一)上〕乙(甲)]}〉⇒
② 〈{[〔(一)二上下〕(甲)乙]丙}丁〉戊=
② 〈{[〔(語)解法〕以(文)解]求}使〉不=
② 〈{[〔(語を)解する法を〕以て(文を)解せんことを]求め}使め〉不。
従って、
(54)~(59)により、
(60)
① 我不必使人求以解中国語法解漢文。
② 不使求以解語法解文。
が入る「括弧(箱)」は、
① 〈{[〔( )〕( )]}〉
② 〈{[〔( )〕( )]}〉
であって、「返り点」は、
① 戊 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲
② 戊 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲
である。
然るに、
(61)
従って、
(60)(61)により、
(62)
① 我不必使人求以解中国語法解漢文。
② 不使求以解語法解文。
に付く「返り点」は、両方とも、
① 戊 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲
② 戊 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲
であるものの、
② 不使求以解語法解文。
の場合は、「レ点」を用ゐる。といふ「規則」により、
② レ レ 下 二 レ 一 上レ
としなければ、ならない。
(63)
③ 恐衆狙之不馴於己=
③ 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]⇒
③[衆狙之〔(於己)馴〕不] 恐=
③[衆狙の〔(己に)馴れ〕不るを] 恐る。
の「返り点」は、
③ 四 三 二 一
③ 二 一レ 二 一
の内の、
③ 二 一レ 二 一
である。
(64)
④ 非不読書=
④ 非[不〔読(書)〕]⇒
④ [〔(書)読〕不]非=
④ [〔(書を)読ま〕不る]非ず。
の「返り点」は、
④ 四 三 二 一
ではなく、
④ レ レ レ
である。
cf.
映像: 非不読書
然るに、
(65)
② レ レ 下 二 レ 一 上レ
③ 二 一レ 二 一
④ レ レ レ
は、「レ点の使い方」の全てを、網羅する。
従って、
(01)~(65)により、
(66)
① ( )
② 〔 〕
③ [ ]
④ { }
⑤ 〈 〉
といふ「括弧」は、「括弧の種類」が、「不足」しない限り、
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・
② 上 中 下
③ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
④ 天 地 人
⑤ レ
といふ「返り点」の「役割」を担ひ、
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・
② 上 中 下
③ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
④ 天 地 人
⑤ レ
は、「上 中 下」や「天 地 人」で、「不足」が生じない限り。
① ( )
② 〔 〕
③ [ ]
④ { }
⑤ 〈 〉
といふ「括弧」の「役割」を、担ふことになる。
(67)
「支那の言語や文字を研究するのに、漢文と支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない
区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)。
然るに、
(68)
① 〈{[〔( )〕( )]}〉
といふ「括弧」を介して、
① 我〈必ずしも{人をして[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}使め〉不=
① 我〈必{人[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}使〉不⇒
① 我不〈必使{人求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}〉=
① 我不必使人求以解中国語法解漢文。
といふ「漢作文」が、可能であるといふことは、「漢文」と「訓読」に於いて、
A:「語順」は異なるが、
B:「括弧(シンタックス)」は等しい。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(69)
既に確認したやうに、「中国語(白話)」に対して、しばしば、「返り点・括弧」が付けられないのであれば、その場合は、「和文」と「中国語(白文)」に於いて、
A:「語順」だけでなく、
B:「括弧(シンタックス)」も等しくない。
といふことを、意味してゐる。
加へて、
(70)
日本人が漢文を書く場合、漢文直訳体の日本語である漢文訓読は、有力な道具となり得る。まず頭のなかで漢文訓読体の日本語を思ひ浮かべ、それを漢文の語序にしたがって書く。次に、そうして書きあがった漢文を自分で訓読し、定型的な「句法」訓読できない箇所はないか、返り点に無理はないか、などをチェックする。実際に漢詩・漢文を自分で書いてみればわかることだが、日本人が音読直読だけで純正漢文を書くことは、なかなかに難しい(そもそも漢文の音読直読ができる現代中国人でも、純正漢文が書ける者は少ない)。
(勉誠出版、「訓読」論、2008年、265頁)
(71)
今の日本の中学・高校では英語・数学・国語を主要3教科と呼んでいますが、戦前、旧制の中学では英語・数学・国語・漢文が主要4教科でした。漢文は国語とは独立した教科だったんですね。読解はもとより、復文(書き下し文から原文を復元)や作文もやるし、これだけ高度な学習内容でしたから、白文の読解もなんのそのでした。しかし戦後、漢文は国語の一部である古典分野の、そのまた片隅に追いやられてしまいました。漢文の得意な教師は少なく、漢文に興味を持つ生徒も少なく、おまけに最近は大学入試科目から漢文が消えつつあるので、みんないやいやながら学んでいます。内容もたいしたことはなく、学者先生が返り点と送り仮名をつけた文章をえっちらおっちら読む程度です(Webサイト:漢文入門)。
従って、
(67)~(71)により、
(72)
ヨーロッパ人やアメリカ人にとってはともかく、日本人にとって、「音読直読」が、「漢文訓読」よりも、殊更に優れた「方法」であるとは、思へない。
(73)
仮に、「劣った方法」であらうとなからうと、アイヌ語や、ゲール語や、ピダハン語が、「消滅」してはならないのであれば、たとへ、「話し言葉」ではなくとも、明らかに、ユニークな「漢文訓読」は、「消滅」すべきではない。
平成27年10月01日、毛利太。
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