2018年1月29日月曜日

「aがFならば、」の「aが」について。

(01)
 1 (1)  F→ G A
  2(2)  F&~G A
  2(3)  F    2&E
 12(4)     G 13MPP
 12(5)    ~G 2&E
 12(6)  G&~G 45&I
 1 (7)~(F&~G)16RAA
(02)
1  (1)~(F&~G)       A
 2 (2)  F           A
  3(3)    ~G        A
 23(4)  F&~G        23&I
123(5)~(F&~G)&(F&~G)12&I
12 (6)   ~~G        35RAA
12 (7)     G        6DN
1  (8)  F→ G        27CP
従って、
(01)(02)により、
(03)
① FならばGである。
② FであってGでない。といふことはない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(04)
② FであってGでない。といふことはない。
③ GでなくてFである。といふことはない。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(05)
③ GでなくてFである。といふことはない。
④ GでないならばFでない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
① FならばGである。
② FであってGでない。といふことはない。
③ GでなくてFである。といふことはない。
④ GでないならばFでない。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(06)により、
(07)
① FならばGである。
② GでないならばFでない。
に於いて、
①=② である。
cf.
任意の仮言命題は、その命題の「対偶(contraposition)」に等しい。
然るに、
(08)
② GでないならばFでない
といふのであれば、
② Gである。とは、「言ってゐない」し、
② Fである。とも、「言ってゐない」。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① FならばGである。
といふのであれば、
① Fである。とは、「言ってゐない」し、
① Gである。とも、「言ってゐない。
従って、
(09)により、
(10)
① aFならば、dはGである。
といふのであれば、
① aはFである。とは、「言ってゐない」し、
① dはGである。とも、「言ってゐない」。
然るに、
(11)
がFならば、dはGである。
といふのであれば、
① aがFならば、とは、「言ってゐる」が、
がFならば、とは、「言ってゐない」し、
がFならば、とも、「言ってゐない」。
従って、
(10)(11)により、
(12)
① aがFならば、dはGである。
といふのであれば、
① aはFである。⇒「dはGである。」は、「本当である」。
② bはFである。⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
③ cはFである。⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
従って、
(12)により、
(13)
① aがFならば、dはGである。
といふのであれば、
① a is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
② b is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
③ c is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうかわからない」。
然るに、
(14)
その人(発話者)は
② b is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
③ c is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうかわからない」。
といふことよりも、
① a is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
といふことを、言ひたいのである。とする。
然るに、
(15)
その人(発話者)は
② b is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
③ c is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうかわからない」。
といふことよりも、
① a is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
といふことを、言ひたいのであれば、
① a is F.
に於ける、
① a は、「強調」されても、「不思議」ではない。
然るに、
(16)
① a is F.
に於いて、
① a
を、「強く発音する(強調)」する場合は、
① A is F.
といふ風に、書くことにする。
従って、
(13)~(16)により、
(17)
① aがFならば、dはGである。
といふのであれば、
① a is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
ではなく、
is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
といふ、ことになる。
然るに、
(18)
① aがFならば、
② aはFなので、
といふ「日本語」に対して、
① aFならば、
といふ「日本語」は、存在しない。
cf.
 ① aがFなら(仮定形)ば、
 ② aFなの(断定形)で、
 ② aFなれ(已然形)ば、
従って、
(17)(18)により、
(19)
① aがFならば、
② aはFなので、
といふ「それ」は、
① A is F ならば、
② a is F なので、
でなければ、ならない。
従って、
(16)~(19)により、
(20)
①「aが」は、A(強調形) であって、
②「aは」は、a(普通形) である。
従って、
(20)により、
(21)
①「a音)」は、A(強調形) であって、
②「aは(清音)」は、a(普通形) である。
然るに、
(22)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(23)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(21)(22)(23)により、
(24)
① ~が は、「(濁音による)強調形」であって、
② ~は は、「(清音による)普通形」である。
従って、
(24)により、
(25)
① 私が大野です。
② 私は大野です。
に於いて、
① 私 は、「(音による)強調形」であって、
② 私は は、「(清音による)普通形」である。
然るに、
(26)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
   b.Tom SENT Mary flowers.
   c.Tom sent MARY flowers.
   d.TOM sent Mary FLOWERS.
"Tom sent Mary flowers.”"(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(26)により、
(27)
① I am 大野。
に於いて、
① I が、「強調」されると、
その場合は、
① 私以外は大野ではない。
といふ、「意味」になる。
従って、
(25)(27)により、
(28)
① 私大野です。
といふ「日本語」は、
① 私以外は大野ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(29)
① 私以外は大野ではない。
といふことは、
① 私でないなら大野ではない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(30)
既に、述べたものの、
命題「AならばB」の対偶は「BでないならAでない」である。 論理記号を用いて説明すると、命題「A ⇒ B」の対偶は「¬B⇒ ¬A」(¬A は命題 A の否定)である。 通常の数学では、命題「AならばB」の真偽とその対偶「BでないならAでない」の真偽とは必ず一致する(すなわち真理値が等しい)。Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/対偶_(論理学)
従って、
(07)(30)により、
(31)
① 私でないなら大野ではない。
といふことは、
① 大野ならば私である。
といふことに、他ならない。
然るに、
(32)
① 大野ならば私である。
といふことは、
① 大野は私です。
といふことに、他ならない。
従って、
(28)~(32)により、
(33)
① 私大野です。
① 私以外は大野ではない。
① 私でないなら大野ではない。
① 大野ならば私である。
① 大野私です。
といふ「日本語」は、「論理的」には、「同じ」である。
従って、
(33)により、
(34)
① 私大野です。
といふ「日本語」は、
① 大野私です。
といふ「日本語」に、「等しい」。
従って、
(25)(34)により、
(35)
① 私が(濁音による強調形)大野です。
といふ「日本語」は、
① 大野は(清音による普通形)私です。
といふ「日本語」に、「等しい」。
然るに、
(36)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
 私大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
 大野私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(33)~(36)により、
(37)
① 私大野です。
① 大野私です。
といふ「日本語」は、
① 私以外は大野ではない
といふ「意味」なのであって、「既知・未知」といふこととは、「関係」がない。
(38)
① aがFならば、bはGである。
① 太陽が西から昇るならば、私は逆立ちをして地球を一周する。
といふ「日本語」に対して、
② aFならば、bはGである。
② 太陽西から昇るならば、私は逆立ちをして地球を一周する。
といふ「日本語」は、存在しない。
然るに、
(39)
① 太陽が西から昇るならば、
② 太陽は西から昇るならば、
に於いて、
① 太陽 は、「未知が」であって、
② 太陽は は、「既知は」である。
とするならば、そのやうな「理屈」は、詭弁であるに、違ひない。
平成30年01月29日、毛利太。

0 件のコメント:

コメントを投稿