2018年1月8日月曜日

「返り点」に代はる『括弧』の付け方。

―「返り点」と「括弧」については、併せて、『「一二点・上下点」について(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)』他を、お読み下さい。―
(01)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 A B C D E F G
は、16個の、「17進数」であるとする。
従って、
(01)により、
(02)
1<2<3<4<5<6<7<8<9<A<B<C<D<E<F<G
である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 1642357。
に於いて、
① 1 の右側に、1 よりも「小さい数」は無い。
(04)
① 1642357。
に於いて、
① 6 の右側で、6 よりも「小さい数」は、
①  (4235)である。
(05)
① 16(4235)7。
に於いて、
① 4 の右側で、4よりも「小さい数」は、
①    (23)である。
(06)
① 16〔4(23)5〕7。
に於いて、
① 2 の右側に、2 よりも「小さい数」は無い。
(07)
① 16〔4(23)5〕7。
に於いて、
① 3 の右側に、3 よりも「小さい数」は無い。
(08)
① 16〔4(23)5〕7。
に於いて、
① 5 の右側に、5 よりも「小さい数」は無い。
従って、
(03)~(08)により、
(09)
① 16〔4(23)5〕7。
に於いて、
① 6〔 〕⇒〔 〕6
① 4( )⇒( )4
といふ「移動」を行ふと、
① 16〔4(23)5〕7⇒
① 1〔(23)45〕67=
① 1<2<3<4<5<6<7。
といふ「並び替へ(ソート)」が成立する。
然るに、
(10)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 非〔 〕⇒〔 〕非
① 解( )⇒( )解
といふ「移動」を行ふと、
① 我非〔解(中文)者〕也⇒
① 我〔(中文)解者〕非也=
① 我は〔(中文を)解する者に〕非ざる也=
① 私は中国語の文を理解する者ではないのである。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(01)~(09)により、
(11)
「同様なやり方」によって、
② 1F〈2D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉G。
に於いて、
② F〈 〉⇒〈 〉F
② D{ }⇒{ )D
② C[ ]⇒[ ]C
② 8〔 〕⇒〔 〕8
② 6( )⇒( )6
② B( )⇒( )B
といふ「移動」を行ふと、
② 1F〈2D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉G⇒
② 1〈2{3[〔(45)67〕8(9A)B]C}DE〉FG=
② 1<2<3<4<5<6<7<8<9<A<B<C<D<E<F<G。
といふ「並び替へ(ソート)」が成立する。
然るに、
(12)
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
② 非〈 〉⇒〈 〉非
② 不{ }⇒{ }不
② 求[ ]⇒[ ]求
② 以〔 〕⇒〔 〕以
② 解( )⇒( )解
② 解( )⇒( )解
といふ「移動」を行ふと、
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
② 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
② 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也=
② 私は必ずしも、常に、中国語の文を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようとしない者、ではないのである=
② 私は、時には、中国語の文を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようとする者なのである。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(09)(10)(11)(12)により、
(13)
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」に対して、
① 1 6 4 2 3 5 7。
② 1 F 2 D 3 C 8 6 4 5 7 B 9 A E G。
といふ「語順」を与へることは、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」に対して、
① 我非〔解(中文)者〕也。
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「括弧」与へることに、「等しい」。
然るに、
(10)(12)により、
(14)
① 我非 中文 也。
② 我非 必不 常求 中文 漢文 也。
であるため、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
に対する「返り点」は、
① 下 二 一 上
② 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
である。
然るに、
(15)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
① 我非〔解(中文)者〕也。
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
①   〔 (  ) 〕
②   〈  {  [ 〔 (  ) 〕 (  )]} 〉
といふ「括弧」は、
① 下 二 一 上
② 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
といふ「返り点」によって示される「訓読の語順」を表すと「同時に」、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」の、「補足構造」を表してゐる。
然るに、
(17)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
然るに、
(18)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)
従って、
(17)(18)により、
(19)
括弧は、漢字の管到(スコープ)を明示する働きを持つ。管到(スコープ)は、漢字の意味が及ぶ範囲のことをいう。
従って、
(16)(19)により、
(20)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 我 の「意味」は、
①  非 を介して、
①   〔解(中文)者〕
に及んでゐる。
(21)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
①  非 の「意味」は、直接、
①   〔解(中文)者〕
に及んでゐる。
(22)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
①    解 の「意味」は、直接、
①      中文
に及んでゐる。
(23)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
①      中 の「意味」は、「連体修飾語」として、
①       文
に係ってゐる。
(24)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
①    解(中文) の「意味」は、「連体修飾句」として、
①         者
に係ってゐる。
(25)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
①           也 は、「語気詞」として、
① 我非〔解(中文)者〕
といふ「文全体」を、「断定」してゐる。
然るに、
(26)
gyoukou6_2_2008さん2012/9/1917:47:34
漢文(白文を書き下し文に)
白文を書き下すのって無理じゃないですか?
それとも何かコツでもあるんでしょうか?
どなたか教えて下さい。
(27)
kaede_flower_158432976さん2013/1/2002:09:54
【漢文】
白文が全く読めません…;
返り点と送り仮名がないと私は、本当に一文字も意味がわからないんです・・・
自分で白文に返り点・送り仮名をつける問題なんてしょっちゅう出てきますが、あんなのもってのほかです
どうしたら読めるでしょうか(ToT)
すみません、お願いします。。。
従って、
(13)(20)~(27)により、
(28)
gyoukou6_2_2008さんや、
kaede_flower_158432976さんが、仮に、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
のやうな「白文」を、「全く、読めない」のであれば、
gyoukou6_2_2008さんと、
kaede_flower_158432976さんは、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
に於いて、
①「左から順」に、それぞれの「 7個の、漢字の意味」が、「直接、あるいは、間接的に、どの漢字」にまで「及んでゐる」のか。
②「左から順」に、それぞれの「16個の、漢字の意味」が、「直接、あるいは、間接的に、どの漢字」にまで「及んでゐる」のか。
といふことが、「見て取れない」。といふことになる。
然るに、
(29)
③ 独逸非(羅馬属州)=ドイツはローマの属州に非ず。
④ 我以(善言葉)導〔僕与(其息子)〕=我、善き言葉を以て僕と其の息子とを導く。
とは、異なり、若かりし時に、両方とも挫折した、
③ Germania propvincia Romanorum non erat(ドイツはローマの属州ではなかった).
④ αγομεν τoυς δoυλoυς μετα των υιων αυτων λoγoις καλoις(我々は、その僕たちと彼等の息子たちを善い言葉で導く).
のやうな「言語(ラテン語とギリシャ語)」の場合は、「語順」ではなく、むしろ、「単語の形」が、「文法構造」を表してゐる。
すなはち、
(30)
④ αγομεν τoυς δoυλoυς μετα των υιων αυτων λoγoις καλoις.
に於いて、
④ δoυλoυς
といふ「それ」が、
④ δoυλoς δoυλoυ δoυλω δoυλoν δoυλε δoυλoι δoυλων δoυλoις
ではなく、
④ δoυλoυς
であるからこそ、
④ δoυλoυς は、
④ αγομεν の「目的語」である。といふことが、分る。
従って、
(29)(30)により、
(31)
④ δoυλoς δoυλoυ δoυλω δoυλoν δoυλε δoυλoι δoυλων δoυλoις
といふ「語形」ではなく、
④ δoυλoυς
といふ「語形」であるからこそ、
④ αγομεν τoυς δoυλoυς μετα των υιων αυτων λoγoις καλoις.
に於いて、
④ αγομεν といふ「動詞」の「意味」は、「語順」には、依存せずに、
④        τoυς δoυλoυς
に及んでゐる。
従って、
(29)~(31)により、
(32)
単語と単語との間の文法的関係を把握し、その意味を理解することが、その語形の変化や文法的な成分などによらずに、右のように、その文脈による全体的な直観にゆだねられていることが多いことは、単音節的・孤立的な言語としての漢語における大きなな特徴であるといわなければならない。漢語におけるこのような表現のしかたは、単語の間の関係を文法的な形式によって示すことを重んじている西欧の言語になれている人にとっては、まことに奇妙なことに思われるものと考えられる。カールグレン氏は、その著書《中国の言語》において、このような奇妙な孤立的な漢語の文法は、「非常に貧弱なものであり」、「漢語においては、文法的な分析は、あまり役に立たず、実際に役立つのは、広い読書を通じて習得した経験、つまり、中国人がどのようにして文をつくりあげているかということに対する感覚が、唯一のものである」と説き、更に、漢語の文の意味を理解するためには、「豊富な直観が、必要である」とも述べている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、293頁)。
といふ、ことになる。
従って、
(32)により、
(33)
「ラテン語やギリシャ語の文法」とは異なり、「漢文の文法」は、極言すると、「語順に対する、直感」だけである。
従って、
(01)~(33)により、
(34)
私の方が、
gyoukou6_2_2008さん
kaede_flower_158432976さんよりも、
① 我非解中文者也。
② 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
③ 独逸非羅馬属州。
④ 我以善言葉導僕与其息子。
といふ「漢文」の、
① 我非〔解(中文)者〕也。
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
③ 独逸非(羅馬属州)。
④ 我以(善言葉)導〔僕与(其息子)〕。
といふ「補足構造」を「把握」する上での「直観」が、「優れてゐる(豊富である)」。
といふ、ことになる。
然るに、
(35)
① 我非解中文者也。
② 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
③ 独逸非羅馬属州。
④ 我以善言葉導僕与其息子。
といふ「漢文」を書いたのは、私自身である。
従って、
(34)(35)により、
(36)
① 我は、中文を解する者に非ざるなり。
② 我は、必ずしも常には中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
③ 独逸は、羅馬の属州に非ず。
④ 我、善言を以て僕と其の息子とを導く。
といふ「訓読」を、
① 我非解中文者也。
② 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
③ 独逸非羅馬属州。
④ 我以善言葉導僕与其息子。
といふ風に、書けるやうになれば、すなはち、「復文」出来るやうになれば、
① 我非解中文者也。
② 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
③ 独逸非羅馬属州。
④ 我以善言葉導僕与其息子。
といふ「漢文」を、
① 我は、中文を解する者に非ざるなり。
② 我は、必ずしも常には中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
③ 独逸は、羅馬の属州に非ず。
④ 我、善言を以て僕と其の息子とを導く。
といふ風に、「読める」ことになる。
然るに、
(37)
20世紀の終はりか、21世紀の初めに、私の場合は、
1000 CLEAR ,,512/8,8*4
1010 DEFINT I-L:L=0
1020 DIM K$(L),N$(L),Y$(L)
1030 FOR I=1 TO L
1040  READ K$(I):READ N$(I):READ Y$(I)
1050 NEXT I
1060 LOCATE 0,12
1070 PRINT "「漢文の基礎、本文、練習」"
1080 PRINT
1090 PRINT "  F デ 1カラ。else 白文";B$
1100 B$=INKEY$ :M=RND :IF B$="" THEN 1100
1110 PRINT
1120 PRINT " F デ 白文 else 復文";C$
1130 B$=INKEY$ :M=RND :IF B$="" THEN 1130
で始まり、
1790 *TATE
1800 LNGT=(LEN(AA$)/2)-1
1810 FOR II=2 TO LNGT
1820 BB=ASC(MID$(AA$,II*2-1,1))*256
1830 CC=ASC(MID$(AA$,II*2 ,1)):DD=AA+BB
1840 Y=Y+20
1850 IF DD=9008 THEN Y=-20 :X=X+2 :GOTO 1910
1860 IF DD=8567 THEN Y=-20: X=X+1 :GOTO 1910
1870 IF DD=8482 THEN Y=Y-16 :GOTO 1910
1880 IF DD=8483 THEN 1910
1890 IF Y+16>(400-16*0) THEN Y=0 :X=X+1
1900 PUT@(16*(XX-X),Y),KANJI(DD)
1910 NEXT II
1920 RETURN
といふ「サブルーチン」を含む所の、「自作のプログラム:N88-日本語BASIC(86)」を用ゐて、「640×400ドット」のCRT上に、
例へば、
⑤ 悪称人之悪者。
といふ「白文」を、「縦書き」で示しては、その、
⑤ 悪称人之悪者。を、
⑤ 人の悪を称する者をにくむ。
といふ風に、「訓読」し、
⑤ 人の悪を称する者をにくむ。
といふ「訓読」を、「縦書き」で示しては、その、
⑤ 人の悪を称する者をにくむ。を、
⑤ ヲショウジンシアクシャ。
といふ風に、「復文(音読)」することを、「趣味」にしてゐて、その「過程」で、例へば、
⑤ 悪 人之悪
といふ「返り点」は、
⑤ 悪〔称(人之悪)者〕。
といふ「括弧」に等しい。といふことに、気付いた。
すなはち、
(38)
「受験参考書」の中に有る「漢文」を、「白文」に変へて、その「白文」を「訓読」する一方で、
「受験参考書」の中に有る「訓読」を、「口頭」で、「原文」に、「復文」してゐた。
然るに、
(39)
 はじめに ― 復文の過去と現在 ―
復文は、書き下し文から漢文の原文を復元する学習法です。漢文に熟達するための捷径つまり早道として、江戸時代は元禄元年(1688)ごろから少なくとも戦前すなわち昭和二十年(1945)まで、ざっと二百六十年間にわたって活用されていた学習法です。― 中略 ―、けれども、復文をいう学習法は、戦後(1945‐)漢文教育が衰退してゆくとともに、その著しい有効性にもかかわらず、水準の高すぎる学習法として学校教育の現場で禁止され、しだいに消え失せてしまったのです。
(古田島洋介、これならわかる復文の要領、2017年、3頁改)
従って、
(35)~(39)により、
(40)
私がさうであるやうに、少しは、「白文」を「訓読」出来るやうになりたい方には、「白文」を「訓読」し、「訓読」を「音読(復文)」することを、勧めたい。
但し、
(41)
私自身は、図書館で見付けた、「古田島洋介、これならわかる復文の要領、2017年」を、まだ、読んではゐない。
従って、
(39)(40)(41)により、
(42)
「古田島洋介、これならわかる復文の要領、2017年」が、「良書」であるのか、さうでないのかは、分らないし、「復文」を行ふのであれば、「普通にある、参考書の、例文」をPCに入力して、
⑥ 我読書。    を、
⑥ 我、書を読む。 と読んで、
⑥ 我、書を読む。 を、
⑥ ガ、ドクショ。 と読めば、良い。
但し、
(43)
受験生の段階で、「復文」までやってゐたら、「他の科目」が、その分、「苦手」になるはずなので、「参考書」にある「基本的な例文(句形)」を、自分自身で、「返り点」の無い「白文」に書き換へて、その「白文」を、「訓読」出来るやうに、なれば良い。
平成30年01月08日、毛利太。
 ―「関連記事」―
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)。
(β)「返り点」と「括弧」の条件。   :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)。
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ) :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)。
(δ)「返り点」は、下には戻らない。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)。
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)。
(ζ)「返り点・モドキ」について。   :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)。
(η)「一二点・上下点」に付いて。   :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)。
(θ)「括弧」の「順番」。       :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)。
(ι)「返り点」の「付け方」を教へます。:(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)。
(κ)「括弧・返り点」の「読み方」。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_7.html)。

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