―『返り点に対する「括弧」の用法。』といふタイトルから、予想される内容とは異なる「内容の記事」が続いてゐるため、『返り点に対する「括弧」の用法』といふタイトルに相応しい「記事」を、改めて、書くことにします。―
(01)
① 3〔2(1)〕。
に於いて、
① 2( )⇒( )2
① 3〔 〕⇒〔 〕3
といふ「移動」を行ふと、
① 3〔2(1)〕⇒
① 〔(1)2〕3=
① 1<2<3。
である。
(02)
② 5〔2(1)4(3)〕。
に於いて、
② 5〔 〕⇒〔 〕5
② 2( )⇒( )2
② 4( )⇒( )4
といふ「移動」を行ふと
② 5{2(1)4(3)}⇒
② 〔(1)2(3)4〕5=
③ 1<2<3<4<5。
である。
(03)
③ 2(3〔1)〕。
に於いて、
③ 2( )⇒( )2
③ 3〔 〕⇒〔 〕3
といふ「移動」を行ふと、
③ 2(3〔1)〕⇒
③ (〔1)2〕3=
③ 1<2<3。
である。
(04)
④ 4[2(3〔1)〕]。
に於いて、
④ 2( )⇒( )2
④ 3〔 〕⇒〔 〕3
④ 5[ ]⇒[ ]5
といふ「移動」を行ふと、
④ 4[2(3〔1)〕]⇒
④ [(〔1)2〕3]4=
④ 1<2<3<4。
である。
(05)
⑤ 2(5[3〔1)〕4]。
に於いて、
⑤ 2( )⇒( )2
⑤ 3〔 〕⇒〔 〕3
⑤ 5[ ]⇒[ ]5
といふ「移動」を行ふと、
⑤ 2(5[3〔1)〕4]⇒
⑤ ([〔1)2〕34]5=
⑤ 1<2<3<4<5。
である。
然るに、
(06)
① 3〔2(1)〕。
② 5〔2(1)4(3)〕。
③ 2(3〔1)〕。
④ 4[2(3〔1)〕]。
⑤ 2(5[3〔1)〕4]。
に於いて、
① 〔 ( ) 〕
② 〔 ( )( ) 〕
は、「括弧」であるが、
③ ( 〔 ) 〕
④ [ ( 〔 ) 〕 ]
⑤ ( [ 〔 ) 〕 ]
は、「括弧」であるとは、言へない。
然るに、
(07)
① 3 2 1
② 5 2 1 4 3
③ 2 3 1
④ 4 2 3 1
⑤ 2 5 3 1 4
に於いて、
① 3 2 1
② 5 2 1 4 3
ではなく、
③ 2 3 1
④ 4 2 3 1
⑤ 2 5 3 1 4
の場合は、
③ 2<3>1
④ 4 2<3>1
⑤ 2<5 3>1 4
のやうに、
③ M<N>M-1
といふ「順番」を、含んでゐる。
従って、
(06)(07)により、
(08)
③ 2<3>1
④ 4 2<3>1
⑤ 2<5 3>1 4
のやうに、
③ M<N>M-1
といふ「順番」を、含んでゐる場合は、「括弧」を用ゐて、
③ 1<2<3
④ 1<2<3<4
⑤ 1<2<3<4<5
といふ「順番」に、「並び替へ(ソートす)る」ことが出来ない。
然るに、
(09)
① 3 2 1
② 5 2 1 4 3
③ 2 3 1
④ 4 2 3 1
⑤ 2 5 3 1 4
に対する「返り点」は、
① 三 二 一
② 下 二 一 中 上
③ 二 三 一
④ 四 二 三 一
⑤ 二 五 三 一 四
である。
然るに、
(10)
従って、
(10)により、
(11)
④ 只‐管要纏擾我=
④ 只‐管4[2(3〔1)〕]=
④ 只‐管要下 纏二 擾上 我一。
である。
従って、
(09)(11)により、
(12)
① 3 2 1
② 5 2 1 4 3
③ 2 3 1
④ 4 2 3 1
⑤ 2 5 3 1 4
に対する「返り点」は、
① 三 二 一
② 下 二 一 中 上
③ 二 三 一
④ 四 二 三 一
④ 下 二 上 一
⑤ 二 五 三 一 四
である。
然るに、
(13)
(3)上中下点(上・下、上・中・下)
レ点・一二点だけで示しきれない場合。必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、43頁)
従って、
(12)(13)により、
(14)
④ 下 二 上 一
といふ「それ」は、
④ 下 二 一 上
ではないが故に、「返り点」ではない。
従って、
(12)(14)により、
(15)
① 3 2 1
② 5 2 1 4 3
③ 2 3 1
④ 4 2 3 1
⑤ 2 5 3 1 4
に対する「返り点」は、元に戻って、
① 三 二 一
② 下 二 一 中 上
③ 二 三 一
④ 四 二 三 一
⑤ 二 五 三 一 四
である。
然るに、
(16)
「返り点」とは、「縦書き」であれば、「下から上へ、返る点」であるため、
「返り点」とは、「横書き」であれば、「右から左へ、返る点」である。
従って、
(16)により、
(17)
「横書き」であれば、「右から左へ、返る点」は、「返り点」であるが、
「横書き」であれば、「左から右へ、返る点」は、「返り点」ではない。
然るに、
(18)
① 三 二 一
② 下 二 一 中 上
③ 二 三 一
④ 四 二 三 一
⑤ 二 五 三 一 四
に於いて、
① 三 二 一
② 下 二 一 中 上
ではなく、
③ 二 三 一
④ 四 二 三 一
⑤ 二 五 三 一 四
であるならば、
③ 二→三
④ 二→三
⑤ 二 → 三
に於いて、「左から右へ、返ってゐる。」
従って、
(17)(18)により、
(19)
① 三 二 一
② 下 二 一 中 上
③ 二 三 一
④ 四 二 三 一
⑤ 二 五 三 一 四
に於いて、
③ 二 三 一
④ 四 二 三 一
⑤ 二 五 三 一 四
といふ「それ」は、「返り点」ではない。
従って、
(08)(19)により、
(20)
③ 2<3>1
④ 4 2<3>1
⑤ 2<5 3>1 4
のやうに、
③ M<N>M-1
といふ「順番」を、含んでゐるならば、その時に限って、「括弧」と「返り点」は、
③ 1<2<3
④ 1<2<3<4
⑤ 1<2<3<4<5
といふ「順番」に、「並び替へ(ソートす)る」ことが出来ない。
従って、
(06)(19)(20)により、
(21)
① 〔 ( ) 〕
② 〔 ( )( ) 〕
といふ「括弧」に対する、
③ ( 〔 ) 〕
④ [ ( 〔 ) 〕 ]
⑤ ( [ 〔 ) 〕 ]
といふ「それ」は、「括弧モドキ」であって、
① 三 二 一
② 下 二 一 中 上
といふ「返り点」に対する、
③ 二 三 一
④ 四 二 三 一
⑤ 二 五 三 一 四
といふ「それ」は、「返り点モドキ」である。
然るに、
(22)
従って、
(10)(21)(22)により、
(23)
④ 只‐管要纏擾我=
④ 只‐管4[2(3〔1)〕]=
④ 只‐管要下 纏二 擾上 我一。
に加へて、
⑤ 西門慶促‐忙促‐急儧‐造不出床来=
⑤ 西門慶促‐忙促‐急儧‐2(5[3〔1)〕4]=
⑤ 西門慶促‐忙促‐急儧二造 不五 出三 床一 来四。
といふ「それ」に対しては、「返り点」と「括弧」を加へることが、出来ない。
然るに、
(24)
③ Who are you?=
③ Who(are〔you)〕?⇒
③ (〔you)Who〕are?=
③ (〔あなたは)誰〕ですか。
の場合も、「括弧モドキ」である。
従って、
(20)~(24)により、
(25)
③ Who are you?
④ 只‐管要纏擾我。
⑤ 西門慶促‐忙促‐急儧‐造不出床来。
のやうな、「英語」や「中国語」に対しては、「返り点」と「括弧」を加へることが、出来ない。
然るに、
(26)
従って、
(20)(26)により、
(27)
⑥ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬=
⑥ D{籍誠8〔5〔2(1)4(3)〕7(6)〕A(9)以C(B)}=
⑥ 使乙 籍誠不下 以二 畜レ 子 憂一レ 寒 乱上レ 心 有レ 財 以済甲レ 薬=
⑥ 使人 籍誠不丙 以下 畜二 子一 憂中 寒上 乱乙 心甲 有二 財一 以済地 薬天。
であれば、「括弧」であって、「返り点」であって、「漢文」である。
cf.
「D 8 5 2 1 4 3 7 6 A 9 C B」は、「13個の、一桁の、16進数」。
然るに、
(28)
従って、
(20)(28)により、
(29)
⑦ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
⑦ 是以、大学始教、必C〈学者2(凡天下之1)、B{A[4(其已知之3)、而益6(5)、以9〔8(乎其7)〕]}〉=
⑦ 是以、大学始教、必使下 学者即二 凡天下之物一、莫上レ 不下 因二 其已知之理一、而益々極レ 之、以求上レ 至二 乎其極一=
⑦ 是以、大学始教、必使己 学者即二 凡天下之物一、莫戊 不丁 因二 其已知之理一、而益々極二 之一、以求丙 至乙 乎其極甲。
であれば、「括弧」であって、「返り点」であって、「漢文」である。
cf.
「C 2 1 B A 4 3 6 5 9 8 7」は、「12個の、一桁の、16進数」。
然るに、
(30)
① 3〔2(1)〕=
① 不〔読(文)〕。
に於いて、
① 三=不
① 二=読
① 一=書
であれば、
① レ=不
① レ=読
① =書
であるため、「レ点」による「返り点」は、「横書き」であれば、
① 不レ 読レ 書。
である。
従って、
(27)(29)(30)により、
(31)
① レ レ
⑥ 乙 下 二 レ 一レ 上レ レ 甲レ
⑦ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「レ点を含む、返り点」は、
① 三 二 一
⑥ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天
⑦ 乙 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
といふ「レ点を含まない、返り点」に、「置き換へ」ることが出来、
① 三 二 一
⑥ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天
⑦ 乙 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
といふ「レ点を含まない、返り点」は、
① 三〔二(一)〕
⑥ 人{丙[下〔二(一)中(上)〕乙(甲)]二(一)地(天)}}
⑦ 乙〈二(一)戊{丁[二(一)二(一)丙〔乙(甲)〕]}〉
に於ける、
① 〔 ( )〕
⑥ { [ 〔 ( ) ( )〕 ( )] ( ) ( )}}
⑦ 〈 ( ) { [ ( ) ( ) 〔 ( )〕]}〉
といふ「括弧」に、「置き換へ」ることが出来る。
然るに、
(32)
例へば、
① -1×(2)+3+4=+5
② -1×(2+3)+4=-1
③ -1×(2+3+4)=-9
である。
従って、
(32)により、
(33)
「括弧」が無くとも、
① -1×2+3+4=+5
② -1×2+3+4=-1
③ -1×2+3+4=-9
であるならば、それだけで、
① -1×(2)+3+4=+5
② -1×(2+3)+4=-1
③ -1×(2+3+4)=-9
でなければ、ならない。
従って、
(33)により、
(34)
④ -1×2+3+4=囗
に於いて、
④ 囗
の「値」が定まれば、
① -1×(2)+3+4=+5
② -1×(2+3)+4=-1
③ -1×(2+3+4)=-9
の内の、「どれか一つ」に、「確定」する。
従って、
(35)
① 囗=-1×2+3+4
がさうであるやうに、
⑦ 囗=是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
の場合も、
⑦ 囗
といふ「意味」が、「判明」するならば、例へば、
⑦ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ風に、「括弧」が、「確定」する。
然るに、
(36)
⑦ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於ける、
⑦ 〈 ( ) { [ ( ) ( ) 〔 ( )〕]}〉
といふ「括弧」が、
⑦ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の、「補足構造」を表してゐる。といふ風に、「仮定」する。
然るに、
(37)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
然るに、
(38)
⑦ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
⑦ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於いて、
⑦ 使〈 〉⇒〈 〉使
⑦ 即( )⇒( )即
⑦ 莫{ }⇒{ }莫
⑦ 不[ ]⇒[ ]不
⑦ 因( )⇒( )因
⑦ 極( )⇒( )極
⑦ 求〔 〕⇒〔 〕求
⑦ 至( )⇒( )至
といふ「移動」を行ふと、「画像」でも示した通り、
⑦ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
⑦ 是以、大学始教、必〈学者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
⑦ 是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
⑦ そのため、大学の教へを始める際には、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)ついて、{[(その学者がすでに知っているの理に)依って、益々(これを)極め、以て〔(その極点に)至ることを〕求め]ないことが}無いやうに〉させる。
といふ「漢文訓読」成立する。
従って、
(36)(37)(38)により、
(39)
⑦ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
⑦ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「漢文」を、
⑦ 是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ風に、「訓読」するといふことは、
⑦ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
⑦ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「漢文」の、
⑦ 〈 ( ) { [ ( ) ( ) 〔 ( )〕]}〉
といふ「補足構造」に従って、「読んでゐる」といふ、ことになる。
然るに、
(40)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない(ウィキペディア)。
然るに、
(41)
もし強いて白話文(中国語)を訓読するとたいへん奇妙な日本語といふことは、「漢文」と「中国語(白話文)」とは、「全く異なる言語」である。といふことに、他ならない。
然るに、
(42)
江戸時代には、荻生徂来(おぎゅう・そらい、1666-1728)が、漢文訓読法を排斥して、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきだと主張しました。荻生徂来は、長崎通詞であった岡島冠山(おかじま・かんざん、1674-1728)から唐話(とうわ=中国語)を学んでいました。漢詩文を唐音で読むという徂来の主張は強固なもので、彼の古文辞学(擬古的な漢文)とともに一世を風靡する大流行となりました。ただし、当時のいわゆる唐音というのは、中国南方の方言音で、現在の北京語を基礎とした普通話(pŭ tōng huà)とはかなり違うものでした。当時、わが国は清国と正式の国交はなく、貿易は長崎において清国商人に信牌(貿易許可証)を与え、私貿易という形で許可していました。そのため、長崎で用いられる中国語も、清国商人が用いる南方方言だったのです(Webサイト:日本漢文の世界)。
従って、
(41)(42)により、
(43)
⑦ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、「現在の北京語を基礎とした普通話(pŭ tōng huà)とはかなり違うものであった、荻生徂徠の当時の中国南方の方言」に訳した場合に、並びに、「現在の北京語を基礎とした普通話(pŭ tōng huà)」に訳した場合に、
⑦ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
⑦ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「漢文」の、
⑦ 〈 ( ) { [ ( ) ( ) 〔 ( )〕]}〉
といふ「補足構造」に従って、「読んでゐる」といふことに、なるとは、限らない。
然るに、
(44)
「支那の言語や文字を研究するのに、漢文と支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)。
(45)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
然るに、
(46)
漢文にネイティブはいない『白文攻略 漢文法ひとり学び』
漢文は外国語。この当り前の事実に気づかないことが多い。ラテン語ならば動詞の活用や名詞の格変化を覚えなければならないから、たとえ欧米の高校生でも外国語だと意識する。ところが漢文では変化を暗記する必要がない。しかも日本では伝統的にレ点とか一二点といった符号をつけて読むので、漢文の学習が返り点の読み解き方に終始してしまう。あとはフィーリングで漢字を適当に解釈するものだから、いつまで経ても読めるようにならない(黒田龍之介、寝るまえ5分の外国語、2016年、194頁)。
(47)
まず「学習の前に」では、漢文を読むための基礎知識が紹介されている。はじめに漢文は自然言語を土台にして作り上げられた人口的な書記言語であることを確認する。話すのではなく、読んで書くために作られたのである。ただし音読はできる。だから音調を整えるためには工夫もされる(黒田龍之介、寝るまえ5分の外国語、2016年、194・195頁)。
従って、
(44)~(47)により、
(48)
「アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)が故に、日本人が「漢文」を学ぶ際も、さうすべきである。」といふ「見解」は、「漢文は自然言語を土台にして作り上げられた人口的な書記言語である(漢文にはネイティブはいない)。」といふ「視点」が、完全に、欠落してゐる。
(49)
かつて漢文は、東洋のエスペラントであった。漢文で筆談すれば、日本人も、朝鮮人も、ベトナム人も、意思疎通することができた(加藤徹、漢文の素養、2006年、11頁)。
(50)
シナや極東の王国では、一般に文字をも語を表わすのではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほど広い範囲に了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な数の符号があるのである(服部英次郎、多田英次、ベーコン、学問の進歩 他、2005年、124頁)。
然るに、
(51)
「エスペラントは、中立で使いやすい国際共通語です。 エスペラントは民族の言語や文化をその歴史的遺産として尊重し、大切にすると同時に、 それぞれの言語や文化の違いを越えて人々がコミュニケーションできるようにするために橋渡しの役目を果たすことを目的としています(エスペラント Esperanto - 東北大学文学部 - Tohoku University)。」といふことは、エスペラント語には、ネイティブがゐてはならない。
従って、
(52)
「人口的な書記言語」である「漢文」が、「東アジアに於ける、国際共通書記言語」であるべき、であるならば、平安時代の「正音(漢音)」や、荻生徂徠の時代の「唐音(南方方言)」や、現在の「北京語(北方方言)」に対して、「特別な地位」を与へるべきではない。
cf.
勅。明経之徒不レ 習二 正音一。発声誦読既致二 訛謬一。宜習二熟 漢音=
勅。明経之徒不〔習(正音)〕。発声誦読既致(訛謬)。宜〔習‐熟(漢音)〕⇒
勅。明経之徒〔(正音)習〕不。発声誦読既(訛謬)致。宜〔(漢音)習‐熟〕=
勅。明経の徒〔(正音を)習は〕ず。発声誦読既に(訛謬を)致す。宜しく〔(漢音を)習‐熟す〕べし。
(日本記略、延暦十一年閏十一月一月二十日)
(53)
桓武天皇の時代の「正音」が、「漢音」であるならば、桓武天皇にとって、「現代中国語(北京語)音」は、「正音」ではなく、「誤音」である。
従って、
(54)
「現代中国語がしゃべれないような人は本当は漢文は読めないんです(Webサイト)。」といふことが本当であるか、どうかは、別にして、「漢文」に対して、「中国語(北京語)音」だけを、「特別待遇」すべきではない。
(55)
「荻生徂徠先生、太宰春台先生、倉石武四郎先生、牛島徳次先生」他の、先生方の「見解」は、「東アジアに於ける、国際共通書記言語としての漢文」といふ「理念」と、「逆向き」である。
(56)
「言葉」が通じない者同士が、「互いに、自分の言葉を、他者に押し付け合ふ」のではなく、その代りに、「話し言葉」ではなく、「書き言葉」に関しては、「共通の言葉」にしようとした「結果」が、「漢文」であるとしたら、「北京語が話せない人は、本当は、漢文を理解できない。」とする「気分」は、「漢文といふ、思想」とは、「逆向き」である。
平成29年12月11日、毛利太。
―「関連記事」―
(α)「返り点」と「括弧」の条件。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)。
(β)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ) :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)。
(γ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)。
(δ)「下中上点」等が必要な「理由」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)。
(ε)「返り点・モドキ」について。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)。
(ζ)「一二点・上下点」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)。
(η)「括弧」の「順番」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)。
(θ)「返り点」の「付け方」を教へます。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)。
(ι)「括弧・返り点」の「読み方」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_7.html)。
(κ)「返り点」に代はる『括弧』の付け方。:(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_8.html)。
(λ)白文に「括弧」を付けるプログラム。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_52.html)。
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