― 昨日(12月15日)の記事(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)の補足を、書きます。―
(01)
① {( )}
② ({ })
に於いて、
① であれば、{ }の中に、( )が有り、
② であれば、( )の中に、{ }が有る。
然るに、
(02)
① {( })
② ({ )}
に於いて、
① であれば、{ }の中に、( )が有る。とは、言へないし、
② であれば、( )の中に、{ }が有る。とも、言へない。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① {( )} は、「括弧」であって、
② ({ )} は、「括弧」ではない。
従って、
(03)により、
(04)
① {( )} を、「括弧」とし、
② ({ )} を、「括弧・モドキ」とする。
然るに、
(05)
① 3{2(1)}。
に於いて、
① { の 左 には、3があり、
① ( の 左 には、2があり、
① )の 左 には、1がある。
然るに。
(06)
② 2(3{1)}。
に於いても、
② { の 左 には、3があり、
② ( の 左 には、2があり、
② )の 左 には、1がある。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 3{2(1)}。
② 2(3{1)}。
に於いて、
{ の 左 にある 3 を、}の右へ「移動」し、
( の 左 にある 2 を、)の右へ「移動」するならば、
① 3{2(1)}⇒ {(1)2}3。
② 2(3{1)}⇒ ({1)2}3。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
従って、
(07)より、
(08)
① 3{2(1)}。
② 2(3{1)}。
に於いて、
3{ }⇒{ }3
2( )⇒( )2
といふ「移動」を行ふと、
① 3{2(1)}⇒ {(1)2}3。
② 2(3{1)}⇒ ({1)2}3。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
従って、
(08)により、
(09)
③ 16{25(34)}。
④ 15(26{34)}。
に於いて、
6{ }⇒{ }6
5( )⇒( )5
といふ「移動」を行ふと、
③ 16{25(34)}⇒ 1{2(34)5}6。
④ 15(26{34)}⇒ 1(2{34)5}6。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
然るに、
(10)
⑤ 15(28{34)67}。
に於いて、
8{ }⇒{ }8
5( )⇒( )5
といふ「移動」を行ふと、
⑤ 15(28{34)67}⇒ 1(2{34)567}8。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
従って、
(04)(09)(10)により、
(11)
③ 16{25(34)} ⇒ 1{2(34)5}6。
④ 15(26{34)} ⇒ 1(2{34)5}6。
⑤ 15(28{34)67}⇒ 1(2{34)567}8。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立し、
③ は、「括弧」であって、
④ は、「括弧・モドキ」であって、
⑤ は、「括弧・モドキ」である。
然るに、
(12)
③ 囗6{囗5(囗4)}。
④ 囗5(囗6{囗4)}。
⑤ 囗5(囗8{囗4)囗7}。
に於いて、
③ 囗 囗 囗
④ 囗 囗 囗
⑤ 囗 囗 囗 囗
には、「返り点」が付かない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
③ 囗三{囗二(囗一)}。
④ 囗二(囗三{囗一)}。
⑤ 囗二(囗四{囗一)囗三}。
といふ風に、書くならば、
③ 三 二 一
④ 二 三 一
⑤ 二 四 一 三
といふ「それ」は、
③ 16{25(34)}。
④ 15(26{34)}。
⑤ 15(28{34)67}。
に付くところの、「返り点」である。
然るに、
(14)
「返り点」とは、「縦書き」であれば、「下から上へ、返る点」であるため、
「返り点」とは、「横書き」であれば、「右から左へ、返る点」である。
従って、
(14)により、
(15)
「横書き」であれば、「右から左へ、返る点」は、「返り点」であるが、
「横書き」であれば、「左から右へ、返る点」は、「返り点」ではない。
然るに、
(16)
③ 三 二 一
④ 二 三 一
⑤ 二 四 一 三
であるならば、
④ 二 → 三
⑤ 二 → → → 三
であるため、
③ 三 二 一
④ 二 三 一
⑤ 二 四 一 三
に於いて、
④ は、「左から右へ、返ってゐて」、
⑤ も、「左から右へ、返ってゐる」。
従って、
(15)(16)により、
(17)
③ 三 二 一
④ 二 三 一
⑤ 二 四 一 三
に於いて、
③ は、「返り点」であるが、
④ は、「返り点」ではなく、「返り点・モドキ」であって、
⑤ も、「返り点」ではなく、「返り点・モドキ」である。
然るに、
(18)
⑤ 二 四 一 三
ではなく、
⑤ 二 下 一 上
であるとすれば、
⑤ 二 → → → 三
ではないので、「左から右へ、返ってゐる」とは、言へない。
然るに、
(19)
(3)上中下点(上・下、上・中・下)
レ点・一二点だけで示しきれない場合。必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、43頁)
従って、
(19)により、
(20)
⑤ 囗二(囗下{囗一)囗上}。
に於ける、
⑤ 二 下 一 上
といふ「それ」は、
⑤ 下 二 一 上
ではないが故に、「返り点」ではなく、「返り点・モドキ」である。
従って、
(13)(17)(20)により、
(21)
③ 囗三{囗二(囗一)}。
④ 囗二(囗三{囗一)}。
⑤ 囗二(囗四{囗一)囗三}。
⑤ 囗二(囗下{囗一)囗上}。
に於いて、
③ は、「括弧」であって、「返り点」であるが、
④ は、「括弧・モドキ」であって、「返り点・モドキ」であって、
⑤ も、「括弧・モドキ」であって、「返り点・モドキ」である。
然るに、
(22)
③ 16{25(34)}。
④ 15(26{34)}。
⑤ 15(28{34)67}。
に於いて、
④ 5< 6 >4
⑤ 5< 8 >4
である。
従って、
(22)により、
(23)
③ 16{25(34)}。
④ 15(26{34)}。
⑤ 15(28{34)67}。
に於いて、
④ は、M<N>M-1 といふ「順番」を含んでゐて、
⑤ も、M<N>M-1 といふ「順番」を含んでゐる。
然るに、
(24)
④ M<N>M-1
であるならば、
④ M-1<M<N。
である。
然るに、
(25)
④ M(N{M-1)}。
に於いて、
N{ }⇒{ }N
M( )⇒( )M
といふ「移動」を行ふと、
④ ({M-1)M}N ⇒ M-<M<N。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
従って、
(21)(24)(25)により、
(26)
④ M<N>M-1
といふ「順番」を含む「順番」を、
④ 1<2<3<4<5 ・ ・ ・ ・ ・
といふ「昇べき順」に「並び替へ(ソートす)る」ためには、
④ ({ )}
といふ「括弧・モドキ」を、使はざるを得ず、尚且つ、
④ 二 三 一
⑤ 二 四 一 三
⑤ 二 下 一 上
のやうな、「返り点・モドキ」を、使はざるを得ない。
従って、
(27)
例へば、
⑥ What are you doing now?=
⑥ What(are[you doing〔now)〕]? =
⑥ 3 (5 [1 4 〔2 )〕]? ⇒
⑥ ([1 〔2 )3〕4]5 ? =
⑥ ([you〔now)what〕doing]are?=
⑥ あなたは、今、何を、して、ゐる、のですか。
のやうな、「英文和訳」の場合は、
⑥ ( [ 〔 ) 〕 ]
といふ「括弧・モドキ」と、
⑥ 二 四 三 一
といふ「返り点・モドキ」を、使はざるを得ない。
然るに、
(28)
⑦ Now you are doing what?=
⑦ 今、あなたは、何を、して、ゐる、のですか。
であれば、
⑦ Now you are〔doing(what)〕?
であるため、「括弧」と「返り点」は、
⑦ 三〔二(一)〕
である。
(29)
例へば、
⑧ 我非〈必不{求〔以〔解(中文)法〕解(漢文)〕}者〉。
⑧ 囗地〈囗レ{丙〔下〔二(囗一)上〕乙(囗甲)〕}天〉。
に於いて、
⑧ 下がって行く(右へ行く)のは、
⑧ 囗 囗 囗 囗
であって、
⑧ 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
に於いて、
⑧ 下 上 は、
⑧ 二 一 を挟んで上(左)へ行き、
⑧ 丁 丙 乙 甲 は、
⑧ 下 二 一 上 を挟んで上(左)へ行き、
⑧ 地 天 は、
⑧ 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 を挟んで上(左)へ行く。
従って、
(29)により、
(30)
「返り点」は、「横書き」であれば、「左にしか、戻らない」し、
「返り点」は、「縦書き」であれば、「上にしか、返らない」。
然るに、
(31)
然るに、
(32)
⑨ 端的看不出這婆子的本字来。
⑨ 西門慶促忙急儧造不出床来。
に付く、
⑨
二
五
三
一
四
のやうな「返り点・モドキ」の場合は、
⑨
二 二
↑ ↓ 五
↑ 三 三 ↑
一 ↓ ↑
四 四
のやうに、「下から、上へ行き」、「上から下へ行き」、そのため、「極めて、読みにくい」。
然るに、
(33)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
従って、
(30)~(33)により、
(34)
「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる読み方」は、「中国語(白話文)訓読」に於ける、「返り点・モドキ」の場合であって、「漢文訓読に於ける、返り点の読み方」ではない。
従って、
(27)(28)(31)(34)により、
(35)
「どのやうな言語」であっても、「返り点(括弧)」を用ゐて、「訓読」が出来るわけではないし、話し言葉に基づく中国語は、本来訓読には適していない(実際、現在では白話文の訓読はほとんど行われない)。しかし江戸時代、白話文は訓読されていた(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、330頁改)。
といふ、ことになる。
平成29年12月16日、毛利太。
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