―「返り点」と「括弧」については、併せて、『「一二点・上下点」について(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)』他を、お読み下さい。―
(01)
① 読(書)。
に於いて、
① 読( )⇒( )
といふ「移動」を行ふと、
① 読(書)⇒
① (書)読=
① (書を)読む。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(02)
① 読(書)。
に於いて、
① ( )の中を読んだ後で、
① 読 を読んだとしても、
① (書を)読む。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(03)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 読(書)。
に於ける、
① ( )
といふ「括弧」は、
① 読書。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐる。
(05)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
② 不〔 〕⇒〔 〕不
② 読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
② 我不〔常読(漢文)〕⇒
② 我〔常(漢文)読〕不=
② 我〔常には(漢文を)読ま〕ず。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(06)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
② 我 は、そのまま読み、
② 〔 〕の中を読んだ後で、
② 不 を、読み、
② 常 は、そのまま読み、
② ( )の中を読んだ後で、
② 読 を読むならば、
② 我常には(漢文を)読まず。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(03)(05)(06)により、
(07)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於ける、
② 〔 ( )〕
といふ「括弧」は、
② 我不常読漢文。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐる。
然るに、
(08)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
② 我 は、そのまま読み、
② 常 も、そのまま読む。
といふのであれば、わざわざ、
② 我 は、そのまま読み、
② 常 は、そのまま読み、
といふ風に、「書く」必要はない。
従って、
(07)(08)により、
(09)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
② 不 は、〔 〕の中を読んだ後で、読み、
② 読 は、( )の中を読んだ後で、読むならば、
② 我常には(漢文を)読まず。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(10)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於いて、
③ 使〈 〉⇒〈 〉使
③ 即( )⇒( )即
③ 莫{ }⇒{ }莫
③ 不[ ]⇒[ ]不
③ 因( )⇒( )因
③ 極( )⇒( )極
③ 求〔 〕⇒〔 〕求
③ 至( )⇒( )至
といふ「移動」を行ふと、
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
③ 是以大学始教必〈学者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
③ 是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
③ そのため、大学の教へを始める際には、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)ついて{[(その学者がすでに知っているの理に)依って、益々(これを)極め、以て〔(その極点に)至ることを〕求め]ないことが}無いやうに〉させる。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(09)(10)により、
(11)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於いて、
③ 使 は、〈 〉の中を読んだ後で、読み、
③ 即 は、( )の中を読んだ後で、読み、
③ 莫 は、{ }の中を読んだ後で、読み、
③ 不 は、[ ]の中を読んだ後で、読み、
③ 因 は、( )の中を読んだ後で、読み、
③ 極 は、( )の中を読んだ後で、読み、
③ 求 は、〔 〕の中を読んだ後で、読み、
③ 至 は、( )の中を読んだ後で、読むならば、
③ 是以大学始教必〈学者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
③ 是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(03)(10)(11)により、
(12)
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於ける、
③ 〈 ( ) { [ ( ) ( ) 〔 ( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐる。
従って、
(01)~(12)により、
(13)
① 読(書)。
② 我不〔常読(漢文)〕。
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於ける、
① ( )
② 〔 ( )〕
③ 〈 ( ) { [ ( ) ( ) 〔 ( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読書。
② 我不常読漢文。
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐると、「同時」に、
① 書を読む。
② 我、常には書を読まず。
③ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、其の已に知るの理に因って、益々、之を極め、以て、其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ「訓読」の「語順」を示してゐる。
従って、
(13)により、
(14)
私自身は、「括弧」は、単なる「返り点」の「代用」であるとは、思ってはゐなくて、例へば、
① 読書。
② 我不常読漢文。
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」には、
① ( )
② 〔 ( ) 〕
③ 〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧(補足構造)」が「実在」する。といふ風に、思ってゐる。
然るに、
(15)
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
といふ「返り点」は、
③ 己乙 二二 一一 戊戊 丁丁 二二 一一 二二 一一 丙丙 乙乙 甲甲
といふ風に、「返り点」が付いてゐる「漢字」とする。
然るに、
(16)
③ 己〈二(一)戊{丁[二(一)二(一)丙〔乙(甲)〕]}〉。
に於いて、
③ 乙〈 〉⇒〈 〉乙
③ 二( )⇒( )二
③ 戊{ }⇒{ }戊
③ 丁[ ]⇒[ ]丁
③ 二( )⇒( )二
③ 二( )⇒( )二
③ 丙〔 〕⇒〔 〕丙
③ 乙( )⇒( )乙
といふ「移動」を行ふと、
③ 己〈二(一)戊{丁[二(一)二(一)丙〔乙(甲)〕]}〉⇒
③ 〈(一)二{[(一)二(一)二〔(甲)乙〕丙]丁}戊〉己。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
然るに、
(17)
従って、
(17)により、
(18)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以、大学始教、必使己 学者即二 凡天下之物一、莫戊 不丁 因二 其已知之理一、而益々極二 之一、以求丙 至乙 乎其極甲。
に於いて、
③ 己 が付いてゐる「漢字」は、
③ 戊 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 二 が付いてゐる「漢字」は、
③ 一 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 戊 が付いてゐる「漢字」は、
③ 丁 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 二 が付いてゐる「漢字」は、
③ 一 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 丁 が付いてゐる「漢字」は、
③ 丙 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 二 が付いてゐる「漢字」は、
③ 一 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 二 が付いてゐる「漢字」は、
③ 一 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 丙 が付いてゐる「漢字」は、
③ 乙 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 乙 が付いてゐる「漢字」は、
③ 甲 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読むならば、
③ 是以、大学始教、必学者凡天下之物一 即二、其已知之理一 因二、而益々之一極二、以乎其極甲 至乙 求丙 不丁 莫戊 使己=
③ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして凡そ天下の物一に 即二きて、其の已に知るの理一に 因二りて、益々之一を 極二め、以て其の極甲に 至乙るを 求丙め 不丁るを、莫戊から 使己む。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(15)~(17)により、
(19)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以大学始教必使己 学者即二 凡天下之物一莫戊 不丁 因二 其已知之理一而益々極二 之一以求丙 至乙 乎其極甲⇒
③ 是以大学始教必学者凡天下之物一 即二其已知之理一 因二而益々之一極二以乎其極甲 至乙 求丙 不丁 莫戊 使己=
③ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして凡そ天下の物一に 即二きて、其の已に知るの理一に 因二りて、益々之一を 極二め、以て其の極甲に 至乙るを 求丙め 不丁るを、莫戊から 使己む。
に於ける。
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
といふ「返り点」も、
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐると、「同時」に、
③ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、其の已に知るの理に因って、益々、之を極め、以て、其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ「訓読」の「語順」を示してゐる。
然るに、
(20)
「学校で習ふ、返り点」は、
③ 是以大学始教必使下 学者即二 凡天下之物一莫上レ 不下 因二 其已知之理一益々極レ 之以求上レ 至二 乎其極一。
に於ける、
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
であって
③ 是以大学始教必使己 学者即二 凡天下之物一莫戊 不丁 因二 其已知之理一而益々極二 之一以求丙 至乙 乎其極甲。
に於ける、
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
ではない。
然るに、
(18)により、
(21)
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」が示す「順番」を説明することは、
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
といふ「返り点」が示す「順番」を説明することよりも、「むずかしい」。
加へて、
(16)により、
(22)
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
であれば、
③ 己〈二(一)戊{丁[二(一)二(一)丙〔乙(甲)〕]}〉。
のやうに、「括弧」を加へることが、出来るものの、
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
に対しては、「括弧」を加へることが、出来ない。
従って、
(19)(22)により、
(23)
「学校で習ふ」ところの、
③ 是以大学始教必使下 学者即二 凡天下之物一莫上レ 不下 因二 其已知之理一益々極レ 之以求上レ 至二 乎其極一。
に於ける、
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」は、「補足構造」ではなく、「語順」を表してゐる。
然るに、
(03)により、
(24)
漢語における補足構造における語順は、国語とは全く反対である。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁改)
従って、
(23)(24)により、
(25)
「漢文の語順」を「国語の語順」に直すこと自体が、「漢文の補足構造」を示すことであって、それ故、
③ 是以大学始教必使下 学者即二 凡天下之物一莫上レ 不下 因二 其已知之理一益々極レ 之以求上レ 至二 乎其極一。
に於ける、
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」は、「語順」を表してゐると「同時」に、「不完全な形」で、「補足構造」を表してゐる。
然るに、
(26)
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の語順を、日本語の語順に変換する符号である(古田島洋介、湯城吉信、漢文訓読入門、2011年、45頁)。
といふ【定義】には、「補足構造」といふ「言葉」が無く、それ故、【定義】としては、「一面的」であって、「十分」ではない。
従って、
(25)(26)により、
(27)
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の「補足構造」を表すと同時に、古典中国語の語順を日本語の語順に変換する符号である。
とするのが、「正しい」。
然るに、
(28)
漢文にネイティブはいない『白文攻略 漢文法ひとり学び』
漢文は外国語。この当り前の事実に気づかないことが多い。ラテン語ならば動詞の活用や名詞の格変化を覚えなければならないから、たとえ欧米の高校生でも外国語だと意識する。ところが漢文では変化を暗記する必要がない。しかも日本では伝統的にレ点とか一二点といった符号をつけて読むので、漢文の学習が返り点の読み解き方に終始してしまう。あとはフィーリングで漢字を適当に解釈するものだから、いつまで経ても読めるようにならない(黒田龍之介、寝るまえ5分の外国語、2016年、194頁)。
(29)
まず「学習の前に」では、漢文を読むための基礎知識が紹介されている。はじめに漢文は自然言語を土台にして作り上げられた人口的な書記言語であることを確認する。話すのではなく、読んで書くために作られたのである(黒田龍之介、寝るまえ5分の外国語、2016年、194・195頁)。
従って、
(28)(29)により、
(30)
「漢文」は、ネイティブがゐない所の、「自然言語を土台にして作り上げられた人口的な書記言語」である。
従って、
(27)(30)により、
(31)
【定義】返り点とは、「人口的な書記言語」の「補足構造」を表すと同時に、「その言語の語順」を、「日本語の語順」に変換する符号である。
とするのが、「正しい」。
従って、
(31)により、
(32)
固より、「漢文(人工言語)」は、「中国語(chinese)」ではないし、
ここに上海で出版された非常に便利な『文言読本』の前書きの一、二行を引用したい。まず中国語の原文:「…我們認為、在名副其實的文言跟現代口語之間已有很大的距離。我們學習文言的時候應該多少採取一點學習外国語的態度和方法、一切從根本上做起、處處注意它踉現代口語的同異…」、敢えて日本語に翻訳すれば、次の意味になる:「本物の漢文と現代口語のあいだにはたいへん大きな距離があるとわれわれは思う。漢文を勉強する時、外国語を勉強するような態度と方法を取らねばならないものであって、すべて基礎より初め、ところどころ現代口語との相違に注意するべきである」。現代中国語と漢文(文言)を別々のものとして勉強するのは一番確かな方法である(Webサイト:二十一世紀の漢文-死語の将来、ジャン-ノエル ロベール、パリ国立高等研究院 教授)。
然るに、
(33)
古典を正しく理解するためには、訓読によるのではなく、まず中国語を学習して中国語音を身につけ、中国人と同様になる必要があると、主張する徂徠は、自らの学塾に岡島冠山を講師として招き、自身も冠山の指導のもと中国語を学んだ。
(続訓読論、川島優子 他、2010年、316頁)
従って、
(32)(33)により、
(34)
古典(漢文)を正しく理解するためには、訓読によるのではなく、まず中国語を学習して中国語音を身につけ、中国人と同様になる必要がある。
とする、荻生徂徠(1666~1728)の主張は、アテには、ならない。
従って、
(34)により、
(35)
支那の言語や文字を研究するのに、漢文と支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)が故に、日本人もアメリカ人を見習ふべきである。
とする、倉石武四郎(1897~1975)の主張も、正しいとは、思へない。
平成30年01月07日、毛利太。
―「関連記事」―
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)。
(β)「返り点」と「括弧」の条件。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)。
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ) :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)。
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)。
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)。
(ζ)「返り点・モドキ」について。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)。
(η)「一二点・上下点」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)。
(θ)「括弧」の「順番」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)。
(ι)「返り点」の「付け方」を教へます。:(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)。
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