2018年3月30日金曜日

「鏡の中の、上下左右」について。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)
①「AE」と書かれた「Tシャツ」を着て、「鏡」に向かうと、「鏡の中」で、「AE」といふ「文字」は、「∃A」に見え、
①「AE」と書かれた「コピー用紙」等を、「鏡」に向ければ、「鏡の中」で、「AE」といふ「文字」は、「∃A」に見える。
(02)
②「AE」と書かれた「コピー用紙」等を、「ページ」をめくるように「裏返し」にして、「明るい方向(窓や照明)」に向けると、
②「AE」と書かれた「コピー用紙」は、「充分に薄い」ため、「裏から見る」と、「∃A」といふ「文字」が「透けて見える」。
従って、
(01)(02)により、
(03)
①「AE」と書かれた「Tシャツ」を着て、「鏡」に向かうと、「鏡の中」で「AE」といふ「文字」は、「∃A」に見え、
②「AE」と書かれた「コピー用紙」は、「裏から見る」と、「∃A」といふ「文字」が「透けて見える」。
然るに、
(04)
①「AE」と書かれた「Tシャツ」を着て、「鏡」に向かうと、「鏡の中」で、「AE」といふ「文字」は、「∃A」に見え、
②「AE」と書かれた「コピー紙」を「裏返し」にして、「透かして見る」と、「AE」といふ「文字」は、「∃A」に見える。
といふことは、すなはち、
①「鏡の中」の「Tシャツ」に書かれた「AE」といふ「文字」に関しては、「裏側」から「見てゐる」といふことに、他ならない。
然るに、
(05)
②「鏡」に映す際の、「コピー紙」といふ「平面上」の「AE」といふ「文字」には、「上下左右」はっても、固より、「奥行き(前後)」はい。
従って、
(04)(05)により、
(06)
①「AE」と書かれた「Tシャツ」を着て、「鏡」に向かうと、「鏡の中」で、「AE」といふ「文字」は、「∃A」に見える。
といふことは、要するに、
②「AE」と書かれた「Tシャツ」を着た「人物」の「上下左右」に関しては、「裏側背中の側)」が見えてゐる。
といふことを、「意味」してゐる。
然るに、
(07)
①「ある人」が「鏡の前」で「直立」するとき、「鏡の中」の「その人の、像(image)」は、「こちらを見てゐる」。
従って、
(06)(07)により、
(08)
①「ある人」が「鏡の前」で「直立」するとき、「鏡の中」の「その人の、像(image)」は、「前後」に関しては、「こちらを見てゐる」ものの、
②「上下左右」に関しては、「その人」が「背中裏側)を向けて、立ってゐる」際の、「人型(figure)」に「等しい」。
従って、
(08)により、
(09)
①「ある人」が、「こちらを見てゐる」にも拘らず、
②「その人」は、「背中を向けてゐる」ことになる。
すなはち、
(10)
① 「前後」 からすると、「ある人」は、「こちらを見てゐる」にも拘らず、
②「上下左右」からすると、「その人」は、「背中を向けてゐる」ことになる。
然るに、
(11)
①「ある人」が、「こちらを見てゐる」にも拘らず、
②「その人」は、「背中を向けてゐる」といふことは、「鏡のの世界」では「有り得ず」、それ故、「混乱」が生じることになる。
然るに、
(12)
③ 二人の人物が、「向い合う」場合は、
③ 一方の人物が、「立」してゐるならば、もう一方の人物は、必ず、何が何でも、絶対に「立ち」していなければならない。
といふ「ルール」があるとする。
従って、
(12)により、
(13)
②「鏡のの人物」が「立」をしてゐるのであれば、
③「鏡のの人物」は「立」をしていなければならないし、
(14)
②「鏡のの人物」が「立」をしてゐるのであれば、
③「鏡のの人物」は「立」をしていなければならない。
然るに、
(15)
② -E-
を -  - を「軸」にして、「180度、回転」させると、
③ -E- になる。
従って、
(15)により、
(16)
逆立ち」をすれば、「上下(A∀)」は「逆」になるが、「左右(EE)」は、「変らない」。
従って、
(12)~(16)により、
(17)
③ 二人の人物が、「向い合う」場合は、
③ 一方の人物が、「立」してゐるならば、もう一方の人物は、必ず、何が何でも、絶対に「立ち」していなければならない。
といふ「ルール」があるならば、
③「鏡の前の人物」は、「鏡の中の自分」を見て、
③ 鏡は、上下は反転するのに、左右にはなぜ反転しないのですか。
といふ「疑問」を持つことになる。
然るに、
(18)
質問者:mako6_6質問日時:2009/05/01 06:40回答数:7件
鏡は、左右は反転するのに、上下にはなぜ反転しないのですか。
従って、
(17)(18)により、
(19)
② 鏡は、左右は反転するのに、上下にはなぜ反転しないのですか。
といふ「疑問」を持ってゐる「mako6_6さん」であったとしても、
③ 二人の人物が、「向い合う」場合は、
③ 一方の人物が、「直立」してゐるならば、もう一方の人物は、必ず、何が何でも、絶対に「逆立ち」していなければならない。
といふ「ルール」が有る「社会」に住んでゐるならば、その場合は、
③ 鏡は、上下は反転するのに、左右にはなぜ反転しないのですか。
といふ「疑問」を、持つことになる。
従って、
(19)により、
(20)
我々の「社会」には、そのような「ルール」が無いからこそ、多くの人は、
③ 鏡は、左右は反転しないのに、上下にはなぜ反転するのですか。
といふ「疑問」を、持つことになる。
(21)
∀ は「全称記号(universal  quantifier)」であって、
∃ は「存在記号(existential quantifier)」である。
従って、
(21)により、
(22)
① Ex{少女x&Ay(少年y→愛yx)}=あるxは少女であって、すべてのyについて、yが少年であるならば、yはxを愛す。
② ∃x{少女x&∀y(少年y→愛yx)}=あるxは少女であって、すべてのyについて、yが少年であるならば、yはxを愛す。
において
①「EA」は「間違い」であって、
②「∃∀」が「正しい」。
然るに、
(23)
① Ex{少女x&Ay(少年y→愛yx)}
② ∃x{少女x&∀y(少年y→愛yx)}
において
①「EA」は「間違い」であって、
②「∃∀」が「正しい」とする「理由」は、ただ単に、そのように、「決めた」からである。
従って、
(19)(23)により、
(24)
③ 二人の人物が、「向い合う」場合は、
③ 一方の人物が、「直立」してゐるならば、もう一方の人物は、必ず、何が何でも、絶対に「逆立ち」していなければならない。
といふ「ルール」があるとするならば、
② 鏡の中の像は、左右が逆になるのに、どうして上下は逆にならないのですか?
といふ「疑問」ではなく、
③ 鏡の中の像は、上下が逆になるのに、どうして左右は逆にならないのですか?
といふ「疑問」を、持つことになる。
(25)
最後に、もう一度「確認」すると、
①「鏡の中」の「∃A」といふ「字形」は、「上下左右」に関して、
②「AE」と書いた「紙」を「裏側から、透かして見てゐる」際の「字形(figure)」に「等しい」。
といふことは、
①「ある人」が「鏡の前」で「直立」するとき、「鏡の中」の「その人の、像(image)」の場合も、「上下左右」に関しては、
②「その人」が「裏側背中)を向けて、立ってゐる」際の、「人型(figure)」に「等しい」。
といふことに、他ならない。
平成30年03月31日、毛利太。

2018年3月21日水曜日

「象は鼻に長い。」といふ「日本語」に対する、「論理学」による「考察」。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(c)「は」と「が」に関する「記事」は、『日本語の「は」と「が」について(https://blog.goo.ne.jp/onomameus3037)』に書くことにしたのですが、下の画像で示す通りです。

(d)といふわけで、「gooブログ」では、「文字数オーバー」になってしまひ、アップロードできません。
(e)そのため、今回のやうに、「30000文字」を超えてしまふ場合は、これまで通り「ブロガー」に投稿させてもらふことにします。

(001)
③ A is B.
に於いて、
③ A を、「強く発音」すると、
④ A以外はBでない
といふ「意味」になる。
従って、
(002)
「逆」に言ふと、
④ A以外はBでない
といふことを、「主張」したい場合は、
③ A is B.
に於いて、
③ A を、「大きな声で、発音」する。
従って、
(003)
① AはBである。
③ ABである。
に於いて、
① Aは〔清音〕 の「(心理的な)音量」よりも、
③ A音〕 の「(心理的な)音量」の方が、「大きい」のであれば、
その場合は、
③ ABである。
④ A以外はBでない
に於いて、
③=④ でなければ、ならない。
然るに、
(004)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(005)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(004)(005)により、
(006)
① Aは〔清音〕 の「(心理的な)音量」よりも、
③ A音〕 の「(心理的な)音量」の方が、「大きい」。
従って、
(003)(006)により、
(007)
③ ABである。
④ A以外はBでない
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(008)
② BはAである。
④ A以外はBでない
といふことは、
③ BならばAである。
④ AでないならばBでない
といふことに、他ならない。
然るに、
(009)
③ BならばAである。
④ AでないならばBでない
を、「記号」で書くと、
③  B→ A
④ ~A→~B
である。
然るに、
(010)
(a)
1  (1) B→ A 仮定
 2 (2)   ~A 仮定
  3(3) B    仮定
1 3(4)    A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B    35背理法
1  (7)~A→~B 26条件法
(b)
1  (1) ~A→~B 仮定
 2 (2)     B 仮定
  3(3) ~A    仮定
1 3(4)    ~B 13前件肯定
123(5)  B&~B 24&導入
12 (6)~~A    35背理法
12 (7)  A    6二重否定
1  (8)  B→ A 27条件法
従って、
(008)(009)(010)により、
(011)
② BはAである。
④ A以外はBでない
の場合は、「対偶(Contraposition)」であって、それ故に、
②=④ である。
従って、
(007)(011)により、
(012)
③ ABである。
④ A以外はBでない
に於いて、
③=④ であって、
② BはAである。
④ A以外はBでない
に於いて、
②=④ である。
従って、
(012)により、
(013)
② BはAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない
に於いて、
②=③=④ である。
然るに、
(014)
逆には、(1)真でないときと、(2)真であるときがあります。そこで(1)と(2)をひっくるめて、「逆は必ずしも真ならず」といいます(山下正男、論理的に考えること、1985年、13・14頁)。
従って、
(013)(014)により、
(015)
① AはBである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない
に於いて、必ずしも
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
(証明終了)
然るに、
(016)
① 中野区は東京都である。
② 東京都は中野区である。
③ 中野区東京都である。
④ 中野区以外は東京都ではない。
に於いて、
① は、「本当」である。
② は、「ウソ」である。
③ も、「ウソ」である。
④ も、「ウソ」である。
(017)
① 東京都は日本の首都である。
② 日本の首都は東京都である。
③ 東京都日本の首都である。
④ 東京都以外は日本の首都ではない。
に於いて、
① は、「本当」である。
② も、「本当」である。
③ も、「本当」である。
④ も、「本当」である。
従って、
(015)(016)(017)により、
(018)
① AはBである。
② BはAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない
に於いて、必ずしも
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
といふことは、実際に、さうである
然るに、
(019)
③ 東京都日本の首都である。
ならば、言ふまでもなく、
① 東京都日本の首都である。
従って、
(020)
③ ABである。
ならば、言ふまでもなく、
① ABである。
従って、
(020)により、
(021)
③ ABである=
③ AはBであって(A以外はBでない)。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(022)
Definition of exclusive proposition
: a proposition in logic whose predicate is asserted to apply to its subject and no other “none but the brave deserves the fair” is a simple exclusive proposition(merriam-webster).
従って、
(021)(022)により、
(023)
③ ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
といふ「それ」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と呼ぶことにする。
然るに、
(024)
② 藤井総太( )指原莉乃と婚約!
であれば、「週刊誌の見出し」は、
② 藤井総太()指原莉乃と婚約!
であって、
② 藤井総太()指原莉乃と婚約!
ではあり得ない
然るに、
(025)
 マリリンモンローディマジオと結婚!
のような見出しが女性週刊誌を賑わすのは、ガによってその上の体言を未知扱いにし、まったく驚いた、新しい情報だぞ! と読者に迫る手法である。
 あのチャップリン大往生。
のような場合、「あの」がついている以上、未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)
然るに、
(26)
「未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。」といふのは、「詭弁」に過ぎない。
従って、
(025)(026)により、
(027)
② 藤井総太()指原莉乃と婚約!
であれば、「週刊誌の見出し」は、
②(誰でも知ってゐる、なら、あの)藤井総太()指原莉乃と婚約!
といふ「意味」になる。
然るに、
(028)
②(なら)A
といふことは、
②(A以外ではない所の)A
といふ、ことである。
従って、
(028)により、
(029)
② ABである=
②(なら)ABである=
②(A以外ではない所の)ABである。
といふ、ことになる。
従って、
(023)(029)により、
(030)
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
② ABである=(A以外ではない所の)AがBである。
といふ「二通り」が、成立する。
然るに、
(031)
①(A以外はBでない)。は、「終止形」であって、
②(A以外ではない所の)は、「連体修飾語」である。
従って、
(030)(031)により、
(032)
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
② ABである=(A以外ではない所の)AがBである。
に於いて、
① は、「終止形としての排他的命題」であって、
② は、「連体形としての排他的命題」であるとする。
然るに、
(033)
37講 助詞「・の」の働き
助詞は助動詞ほど現代語と離れていませんので、解釈面をしっかり押さえることがポイントです。初めに格助詞「・の」です。両者は非常によく似ています
(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、100頁)
すなはち、
(034)
① 君の家、私の国、君の行く道、博士愛した数式。
に対して、
① 君が世、我が国、君が行く道、博士愛した数式。
であるため、「」と「の」は、非常によく似てゐる
然るに、
(035)
① AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
② AがBである=(A以外ではない所の)AがBである。
③ ABする(連体形)C(体言)。
に於いて、
① Aが(係助詞)
② Aが(係助詞)
③ A(格助詞)
であるため、
③ A助詞)Bする(連体形)C(体言)。
の場合は、ここでは、取りあげない。
然るに、
(036)
③ AならばBである(A→B)。
といふ「命題」を、「仮言命題」といふ。
然るに、
(037)
(a)
 1 (1)  A→ B        仮定
  2(2)  A&~B        仮定
  2(3)  A           2
 12(4)     B        13前件肯定
 12(5)    ~B        2&除去
 12(6)  B&~B        45&導入
 1 (7)~(A&~B)       16背理法
(b)
1  (1)~(A&~B)       仮定
 2 (2)  A           仮定
  3(3)    ~B        仮定
 23(4)  A&~B        23&導入
123(5)~(A&~B)&(A&~B)12&導入
12 (6)   ~~B        35背理法
12 (7)     B        6二重否定
1  (8)  A→ B        27条件法
従って、
(036)(037)により、
(038)
③   A→ B =AならばBである。
④ ~(A&~B)=AであってBでない、といふことはない
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(039)
④ AであってBでない、といふことはない
といふのであれば、
④ AであってBでない
ならば、そのときにだけ、「ウソ」である。
従って、
(038)(039)により、
(040)
③ Aならば、Bである=
④ AであってBでない、といふことはない
といふ「仮言命題」は、
③ AであってBでない
ならば、そのときにだけ、「ウソ」である。
然るに、
(041)
③ AならばBである=
③ 日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
であるとする。
然るに、
(040)(041)により、
(042)
③ 日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
といふのであれば、
⑤ 月曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 火曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 水曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 木曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 金曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 土曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
としても、
③ 日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
とふ「仮言命題」は、「ウソにはならず
⑤ 日曜日晴れたのに、私は釣りに行かない
のであれば、
③ 日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
とふ「仮言命題」は、「ウソ」になる。
従って、
(042)により、
(043)
⑤(日曜日以外ある所の)土曜日晴れたのに、私は釣りに行かない(としてもウソではない)。
④(日曜日以外ない所の)日曜日晴れたのに、私は釣りに行かない(としたらウソある)。
然るに、
(044)
④ 私はウソを言はない
従って、
(043)(044)により、
(045)
⑤(日曜日以外ある所の)土曜日晴れたのに、私は釣りに行かない(といふことはアル)。
④(日曜日以外ない所の)日曜日晴れたのに、私は釣りに行かない(といふことはナイ)。
然るに、
(038)により、
(046)
④ AであってBでない、といふことはない
③ AならばBである。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(045)(046)により、
(047)
③(日曜日以外ない所の)日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
④(日曜日以外ない所の)日曜日晴れたのに、私は釣りに行かない(といふことはナイ)。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(048)
③(日曜日以外ない所の)日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
といふことは、
③(なら)日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
といふことに、他ならない。
従って、
(036)~(048)により、
(049)
③ 日曜日晴れならば、私は釣りに行く=(なら)日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
でなければ、ならない。
従って、
(027)(032)(049)により、
(050)
② 藤井総太婚約           =(なら)藤井総太婚約。
③  日曜日晴れならば、私は釣りに行く=(なら) 日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
に於いて、
② は、「連体形としての排他的命題」であって、
③ も、「連体形としての排他的命題」である。
従って、
(050)により、
(051)
② 藤井総太( )指原莉乃と婚約! 
③  日曜日( )晴れならば、私は釣りに行く。
に於ける、
②     ( )には、「」が入り、
③     ( )にも、「」が入る「理由」は、
② 藤井総太()指原莉乃と婚約! 
③  日曜日()晴れならば、私は釣りに行く。
に於いて、それぞれが、
②「連体形としての排他的命題」であって、
③「連体形としての排他的命題」であるからである。
(証明終了)
従って、
(051)により、
(052)
②   x( )象ならば、yはxの鼻である。
③ 日曜日( )晴れならば、私は釣りに行く。
に於ける、
②    ( )には、「」が入り、
③    ( )にも、「」が入る「理由」は、
②   x( )ならば、yはxの鼻である。
③ 日曜日( )晴れならば、私は釣りに行く。
に於いて、それぞれが、
②「連体形としての排他的命題」であるからである。
従って、
(036)(052)により、
(053)
② x象ならば、
のやうな、「仮言命題の前件」としての、
②   は、 
②「連体形としての排他的命題」に於ける「」である。
然るに、
(054)
そこでたとえば「象は鼻が長い」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのかはっきりしないから、このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。しかしこの文の論理構造をはっきり文章にあらわして
「すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」といえばいいかもしれない。しかし日常の言語によるコミニュケーションでは、たとえば動物園で象をはじめて見た小学生が、父親にむかってこのような文章で話しかけたとすれば、その子供は論理的であるといって感心されるまえに社会人としての常識をうたがわれるにきまっている(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)。
然るに、
(055)
しょゆうかく-いう-[2]【所有格】〔possessive case〕
英文法などで,主格・目的格と並ぶ格の一つ。所有・所属の関係を表すもの。my, your, its などの類(Weblio辞書)。
従って、
(055)により、
(056)
① yは鼻であって、xはyを所有してゐる。
といふことは、
① yは、x鼻である。
といふ「意味」である。
従って、
(055)(056)により、
(057)
① すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い。
といふことは、
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはx鼻であって、yは長い。
といふことである。
然るに、
(032)により、
(058)
① 鼻が長い=鼻は長く(鼻以外は長くない)。
② 鼻が長い=(他)鼻が長い。
といふ「二通り」が有る。
(059)
② 鼻長い=(なら)鼻長い。
といふのであれば、
② 鼻長い。
といふ「それ」であっても、
② 藤井総太婚約!⇒ビックリした。大変だ。
といふやうな「意味合ひ」が、「いくらか」は、無ければならない。
然るに、
(060)
三上章先生がいふ所の、
① 象は鼻が長い。
に於いて、
① 鼻長い。
といふことに、
② 藤井総太が婚約!⇒ビックリした。大変だ。
といふやうな、『特別な意味』が有るとは、思へない。
従って、
(057)(060)により、
(061)
① 象は鼻長い。
といふ「日本語」は、
① 象は鼻長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
然るに、
(062)
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない。
と言ふのであれば、
① 象が存在するならば、鼻の長い象が存在する。
然るに、
(063)
1    (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1    (2)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  1UE
 3   (3)∃x(象x)                         A
  4  (4)   象a                          A
1 4  (5)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  24MPP   
1 4  (6)      ∃y(鼻yx&長y)               5&E
13   (7)      ∃y(鼻yx&長y)               346EE
1 4  (8)                 ∀z(~鼻zx→~長z)  5&E 
13   (9)                 ∀z(~鼻zx→~長z)  348EE
13   (ア)                    ~鼻bx→~長b   9UE
   イ (イ)                          長b   A
    ウ(ウ)                    ~鼻bx       A
13  ウ(エ)                         ~長b   アウMPP
13 イウ(オ)                    ~長b&長b     イエ&I
13 イ (カ)                   ~~鼻bx       ウオRAA
13 イ (キ)                     鼻bx       カDN
13   (ク)                     長b→鼻bx    イキCP
13   (ケ)                  ∃z(長z→鼻zx)   クEI
13   (コ)      ∃y(鼻yx&長y)& ∃z(長z→鼻zx)   7ケ&I
13   (サ)∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx)   3コ&I
1    (シ)∃x(象x)ならば、あるxは象であって、あるyはxの鼻であって、yは長く、あるzが長いならば、zはxの鼻である。
1    (ス)象が存在するならば、ある象は象であって、あるyは象の鼻であって、yは長く、あるzが長いならば、zは象の鼻である。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
然るに、
(064)
全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふことは、
全ての象の鼻は長い。そして、全ての象の鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふことに、他ならない。
然るに、
(065)
(a)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  1UE
 3(3)   象a                          A
13(4)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  23MPP
13(5)      ∃y(鼻yx&長y)               4&E
1 (6)   象a→∃y(鼻yx&長y)               35CP
1 (7)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}              6UI
13(8)      ∀z(~鼻zx→~長z)             4&E
1 (9)   象a→∀z(~鼻zx→~長z)             38CP
1 (ア)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            9UI
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
     ∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            7ア&I
(b)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
     ∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            A
1 (2)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}              1&E
1 (3)   象a→∃y(鼻yx&長y)               2UE
1 (4)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            1&E
1 (5)   象a→∀z(~鼻zx→~長z)             4UE
 6(6)   象a                          A
16(7)      ∃y(鼻yx&長y)               63CP
16(8)      ∀z(~鼻zx→~長z)             65CP
16(9)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  78&I
1 (ア)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  69CP
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} アUI
従って、
(065)により、
(066)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
であるとき、そのときに限って、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
である。
従って、
(054)~(066)により、
(067)
① 象は鼻長い。
といふ「日本語」に対する、
① 象は鼻長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「翻訳」は、「正しい」。
然るに、
(068)
② ソクラテスは人間である。
といふ「日本語」は、
② ソクラテスといふ人間がゐる=
② ∃x(ソクラテスx&人間x)=
② あるxはソクラテスであって、そのxは人間である。
といふ「述語論」に、「翻訳」される。
然るに、
(069)
そこで私たちは主語を示す変項を文字通りに解釈して、「或るもの」(英語で表現するならば something)とか、「他の或るもの」というような不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といふ一つの文は、
 (はソクラテスである)(は人間である)
という、もっとも基本的な 主語-述語 からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち、
 である。
という一般的な 主語-述語文は、
 F G
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、F はもとの文の主語に対応し、G述語に対応していることがわかる。
(沢田充茂、現代論理学入門、1962年、119頁)
従って、
(068)(069)により、
(070)
② ソクラテスは人間である=
② ∃x(ソクラテスx&人間x)=
② あるxはソクラテスであって、そのxは人間である。
といふ「述語論理」には、
② ソクラテスx=ソクラテスといふ
②        人間x=人間である
といふ、「二つ主語」が、有ることになる。
然るに、
(071)
⑦ すべての哲学者は独身である。
といふ「日本語」は、
⑦ ∀x(哲学者x→独身x)=
⑦ 全てのxについて、xが哲学者ならば、xは独身である。
といふ「述語論」に、「翻訳」される。
然るに、
(072)
ところで先にも述べたが、「すべての哲学者は独身だ」における「すべての哲学者」は、文法でいうような主語ではない。述語論理では「哲学者」は述語であり、「すべてのものは哲学者である」あるいは「哲学者であるすべてのものは」と読みかえられる(飯田賢一・中才敏郎・中谷隆雄、論理学の基礎、1994年、121・122頁)。
といふ、ことになる。
従って、
(071)(072)により、
(073)
⑦ すべての哲学者は独身である=
⑦ ∀x(哲学者x→独身x) =
⑦ 全てのxについて、xが哲学者ならば、xは独身である。
といふ「述語論理」には、
⑦ 哲学者x=哲学者である
⑦  独身x=独身である
といふ、「二つ主語」が、有ることになる。
従って、
(067)(070)(073)により、
(074)
① 象は鼻長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」には、少なくとも
① 象x =象である
① 鼻yx=象であるxの鼻である
といふ、「二つ主語」が、有ることになる。
然るに、
(075)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(074)(075)により、
(076)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いて、
① ∀x といふ「演算子の働き」は、
①   {象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
といふ「全体」に及んでゐて、
①       ∃y(鼻yx&長y)
に於いて、
①       ∃x といふ「演算子の働き」は、
①         (鼻yx&長y)
といふ「部分」に及んでゐる。
従って、
(074)(075)(076)により、
(077)
① 象は鼻長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」には、
① 象x=象である
といふ「主語」は、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「全体」に対する「主語」であって、
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
といふ「主語」は、
①       ∃y(鼻yx&長y)
といふ「部分」に対する「主語」である。
然るに、
(078)
日本語「象は鼻が長い」のようないわゆる「総主文」が存在する。このような日本語表現を二重主語と解釈するかどうかは議論があるが、中国語においてはこのような表現は「主謂謂語句」、すなわち「主語+謂語(述語)」の組み合わせが副文として述語になっていると解釈する(ウィキペディア)。
従って、
(077)(078)により、
(079)
① 象は鼻長い。
といふ「日本語」に、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「論理構造」が有る。
といふことを、認めるならば、
① 象は鼻長い。
といふ「日本語」には、少なくとも
① 象
① 鼻
といふ「二つ主語」が有って、尚且つ、
① 象
は「総主語」である。
然るに、
(080)
① An elephant has a long nose and any other part of it is not long.
といふ「英語」は、
① 象=Elephant
① 鼻=Nose
① 長=long
であるとして、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① As for all x, if x is an elephant then there is y such that y is a nose of x, and y is long. and as for all z, if z is not a nose of x then z is not long.
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
然るに、
(081)
① An elephant has a long nose and any other part of it is not long.
といふ「英語」だけを見て、
nose
が「主語」であると、思ふ人は、一人もゐないはずである
従って、
(082)
主・二重主語)」といふ「発想」は、
① 象は鼻長い。
のやうな「國語」に特有なのであって、
主(二重主語)」といふ「発想」は、
① An elephant has a long nose and any other part of it is not long.
といふ「英語」には、有り得ない
然るに、
(083)
然ルニ國語ノ法則トシテ日本ノ文法ニ之ヲ編入スル者ナキハ何故ゾ。西洋ノ言語ニ類似ノ語法ナク、西洋ノ文典ニ類似ノ記載ナキガ故ニ非ザルカ(草野清淸、國語特有セル語法― 總主、明治三十二年)。
従って、
(082)(083)により、
(084)
主(二重主語)」といふ「発想」は、
① 象は鼻長い。
といふ「國語」に「特有セル語法」なのであって、「西洋ノ言語ニ類似ノ語法ナク、西洋ノ文典ニ類似ノ記載ナシ」である。
然るに、
(085)
大辞林 第三版の解説
しゅじ【主辞
主語」に同じ。[形式論理学と文法]
 そもそも主語・述語とは,形式論理学における命題〈AはBである〉のA(それについて語るところのもの)およびB(Aについて語る事がら)に当たるものを,アリストテレスがそれぞれギリシア語でhypokeimenon,katēgoroumenonと表現したことにさかのぼるという。これが,その後ラテン語でそれぞれsubjectum,praedictumと表現され,論理学および文法の用語としてしだいに定着,今日のヨーロッパ諸言語でも継承され(たとえば英語subject,predicate),また他の言語でも用いられるようになり,日本でも主語述語と訳してきたものである(形式論理学では主辞賓辞とも,文法では主部・述部とも訳す)。当初のヨーロッパでは論理学と文法は密接な(元来は未分化ともいえる)関係にあり,共通の用語となったのだが,しかし,両者は目標も対象も異なる学問である(文法は今日では言語学の一部として位置づけられている)。
従って、
(084)(085)により、
(086)
ある人が、
① 象は鼻長い。
といふ「日本語」は、
① 象は
だけが「主語(主辞)」であって、
①   鼻
  は「主語(主辞)」でない
とするならば、その人こそが、「西洋文法に巻かれていることを語る以外の何物でもない」。
然るに、
(087)
「象は鼻長い」はどれが主辞がわからないから、このままでは非論理的な構造の文である、と言う人がもしあった(沢田『入門』二九ペ)とすれば、その人は旧『論理学』を知らない人であろう、これはこのままで、
 象は 長い。 
 主辞 賓辞
とはっきりしている。速水式に簡単明リョウである。意味も、主辞賓辞の関係も小学生にもわかるはずの文である。これに文句をつけたり、それを取り次いだりするのは、人々が西洋文法に巻かれていることを語る以外の何物でもない。このまま定理扱いしてもよろしい。そしてこの定理の逆は真でないとして、鼻の長いもの例に、鞍馬山の天狗だの、池の尾の禅珍内供だのを上げるのも一興だろう。それでおしまいである。
(三上章、日本語の論理、1963年、13・14頁)。
従って、
(086)(087)により、
(088)
草野清淸先生や、沢田充茂先生ではなく、三上章先生の方こそが、「西洋文法に巻かれていることを語る以外の何物でもない」。
加へて、
(089)
① 象ならば鼻が長い(順)。
② 鼻が長いならば象である(逆)。
③ 天狗は鼻が長いが象ではない(反例)。
といふことと、
 象は 鼻が長い
 主辞 賓辞
とはっきりしている。速水式に簡単明リョウである。意味も、主辞賓辞の関係も小学生にもわかるはずの文である。
といふことが、「どうして結びつくのか」が「不明」である。
(090)
伝統論理学を速水滉『論理学』(016)で代表させよう。わたしのもっているのが四十三年の第十九冊一万部中の一冊で、なお引続き刊行だろうから、前後かなり多くの読者をもつ論理学書と考えられる。新興の記号論理学の方は、沢田充茂『現代論理学入門』(062)を参照することとする(三上章、日本語の論理、1963年、4頁)。
然るに、
(091)
The best to way to find out what logic is to do some(E.J.Lemmon,Beginning Logic).
論理学とは何であるかを知る最善の方法は、実際に幾らかやってみることである(E.J.レモン、竹尾治一郎・浅野楢英訳、論理学初歩、1973年、3頁)。 
然るに、
(092)
沢田充茂『現代論理学入門』は、「解説書(岩波新書)」なので、「沢田充茂、現代論理学入門、1962年」を読んだだけでは、「論理学を、実際に幾らかやってみた」ことには、ならない。
然るに、
(093)
 捨てる神があれば、拾う神がある。
「xノ」消去もある。xは、しっぽをもつ任意の動物。
 頭が西を向けば、尾が東を向く。
ただし、これは「雨の降る日は、天気が悪い」に似て笑いを誘うためだから、その効果のために犬を代入して、
 犬が西向きゃ、尾が東向く。
「何々の」というものを重視したいものである。
 すべての馬が動物であれば、馬の頭はすべて動物の頭である。(ド・モルガンの例)
というようなものに備えて、「何々の」に対しても敏感であることが望ましい。以上のように、条件文で道理を表わすことわざで了解事項となるものは、ガノニヲの範囲である。
(三上章、日本語の論理、1963年、37・38頁)。
然るに、
(094)
「何々の」というものを重視したいものである。かどうかは、ともかく、
1  (1)   ∀x(馬x→動物x)                A
1  (2)      馬b→動物b                 1UE
 3 (3)   ∃y(馬y&頭ay)                A
  4(4)      馬b&頭ab                 A
  4(5)      馬b                     4&E
  4(6)      頭ab                    4&E
1 4(7)      動物b                    26MPP
1 4(8)      動物b&頭ab                56&I
1 4(9)   ∃y(動物y&頭ay)               8EI
13 (ア)   ∃y(動物y&頭ay)               349EE
1  (イ)   ∃y(馬y &頭ay)→∃y(動物y&頭ay)  3アCP
1  (ウ)∀x{∃y(馬y &頭xy)→∃y(動物y&頭xy)} イUI
   (エ)「全てのxについてxが馬ならば、xは動物である。」ならば「全てのxについて、或るyが馬であって、xがその馬yの頭であるならば、或るyは動物であって、xはその動物yの頭である。」
といふことであるならば、私にも、「理解」出来る。
然るに、
(095)
日本文法界でかつて流行した見解、げんに流行しているらしい見解は次のものです。どちらもわれわれにはもはや用のないものです。
象ハ  鼻ガ 長イ。
総主語 主語
私ハ 腹ガ  痛イ。 
主語 対象語
(三上章、象は鼻が長い、1982年、第13版、66頁)
然るに、
(032)により、
(096)
① 腹は痛い=腹は痛い。 
② 腹痛い=腹は痛く(腹以外は痛くない)。
従って、
(096)により、
(097)
② 腹痛い=腹は痛く(腹以外は痛くない)。
と、言はずに、
① 腹痛い=腹は痛い。 
と、言ふのであれば、
① 腹以外(例へば、頭)、痛いのか?
といふ風に、「尋きたく」なる。
従って、
(096)(097)により、
(098)
② あなた好きです。
と、言はずに、
① あなたは好きです。
と、言ふのであれば、
他にも、好きな人がゐるのか。
といふ風に、「尋きたく」なる。
従って、
(097)(098)により、
(099)
② 腹以外は痛くない
② あなた以外は好きではない
と、言ひたいのであれば、
② 腹痛い。
② あなた好きです。
といふ風に、言ふべきである。
然るに、
(100)
 主語と述語
 何がなんだ。
 何がどんなだ。
 何がどうした。
この「何が」にあたる所を主語といい、「なんだ」「どんなだ」「どうした」にあたる所を述語という。
これは私の記憶にまちがいがなければ、私が中学1年のときにならった国文法の第1課の最初に書いてあった文章です。
(竹内外史、集合とはなにか、2001年、13・14頁)
然るに、
(101)
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。 明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『文には主語が必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『は』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)。
(102)
多くの印欧語において、主語は客観的に観察できる構文的概念である。以下に重要と思われるものを四つほど列挙しよう。マルチネにとっては(あ)が唯一の主語の条件」であるが、特に英仏語の様子を勘案しながら、さらに3点を加えてみる。
(あ)基本文に不可欠な要素である。
(い)語順的にはほとんどの場合、文頭に現れる。
(う)動詞に人称変化(つまり)活用を起こさせる。
(え)一定の格(主格)を持って現れる。
ここで重要なのは、(い)から(え)までの3点を加えるのは(あ)の結論をさらに強めるためだという点である。
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、62頁)
然るに、
(103)
2 主語を補うテクニック
古文が読みにくい原因の一つは、主体(主語)、客体(目的語・補語)が省略されている文が多いことです。主語がわかれば文はずいぶんと読みやすくなります。
(荻野文子、古文マドンナ解法、1993年、11頁)
従って、
(102)(103)により、
(104)
(Ⅰ)「主語」は、基本文に不可欠な要素である。
(Ⅱ)古文が読みにくい原因の一つは、主体(主語)、客体(目的語・補語)が省略されている文が多いことです。
従って、
(104)により、
(105)
(Ⅰ)「省略できる」ならば、「主語」ではない。
(Ⅱ)「古文」では「主語」が「省略」されている文が多い。
(106)
主語や目的語や補語、これだけは自分で考えるクセを付けて下さい。学校の先生がこれまた、考えなくとも、どんどん入れて訳してくれるんです。古文はよく、省かれているんですね。誰が、誰を、誰に、みたいなものが、日本語はよく省略されているんですけど、先生がどんどん補って下さる。で皆さんは何でその主語になるのかよくわかんないまま、またノートに、訳のところに、一生懸命、書いて覚えて、テストを受けてる。さっきも言いました。自力です。自力で補足するんです。
(東進ハイスクール 荻野文子先生 - YouTube)
従って、
(105)(106)により、
(107)
(Ⅰ)「省略できる」ならば、「主語」ではない。
とするならば、 荻野文子先生の「授業」は、成立しない

(108)
「日本語」には、「英語のやうな「主語」はない。といふのであれば、確かに、その通りである。
然るに、
(109)
② こんにゃく太らない。
もちろん、この文が問題となるのは、「太らない」のが「こんにゃく」ではなく、それを食べる人間様の場合である
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、84頁改)。
従って、
(109)により、
(110)
② こんにゃく太らない。
といふのであれば、
② こんにゃくが存在するならば、ある人が存在して、その人はこんにゃくを食べ、その人は太らない。
然るに、
(111)
1  (1)∀x{蒟蒻x→ ∃y(人y&食yx&~太y)} A
1  (2)   蒟蒻a→ ∃y(人y&食yx&~太y)} 1UE
 3 (3)∃x(蒟蒻x)                 A
  4(4)   蒟蒻a                  A
1 4(5)        ∃y(人y&食yx&~太y)  24MPP
13 (6)        ∃y(人y&食yx&~太y)  345EE
1  (7)∃x(蒟蒻x)→∃y(人y&食yx&~太y)  36CP
1  (8)あるxが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
1  (9)こんにゃくが存在するならば、ある人が存在して、その人はこんにゃくを食べ、その人は太らない。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
従って、
(110)(111)により、
(112)
② こんにゃく太らない。
といふ「日本語」は、
② こんにゃくは太らない=
② ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}=
全てのxについて、xがこんにゃくならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
従って、
(061)(112)により、
(113)
① 象鼻が長い。
② こんにゃく太らない。
といふ「日本語」は、
全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
全てのxについて、xがこんにゃくならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
然るに、
(114)
① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xがこんにゃくであるならば、
といふことから、すれば、
① 象鼻が長い。
② こんにゃく太らない。
といふ「日本語」は、「確実に」、
①「象」を「話題」にし、
②「こんにゃく」を「話題」にしてゐる。
cf.
とは、「何々について言へば」という意味合いのものです(山崎紀美子、日本語基礎講座 ― 三上文法入門、2003年、18頁)。
従って、
(079)(114)により、
(115)
① 象鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「日本語・述語論理」に於いて、
①「象」=「∀x{象x→」
は「総主」であって、「話題」である。
平成30年03月21日、毛利太。

2018年3月14日水曜日

(a)「は」と「が」に関する「記事」は、

(01)
(a)「は」と「が」に関する「記事」は、『日本語の「は」と「が」について(https://blog.goo.ne.jp/onomameus3037)』に書くことにしました。
(b)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(c)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』をお読み下さい。
(02)
『日本語の「は」と「が」について(https://blog.goo.ne.jp/onomameus3037)』は、今日で開設してから、まだ5日しかたって、ゐないのですが、次のやうになってゐます。




                 (「総合564位/2812814ブログ」は、今朝の7時03分の時点の順位です。)
(03)
「漢文」と「返り点」と「括弧」に関する「記事」他を、「このブログ(Blogger)」に掲載し続けるので、これからも、宜しく、お願い致します。
平成30年03月14日、毛利太。

2018年3月7日水曜日

鰻我所欲也=∀x{鰻x→∃y(我y&欲yx)}。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』をお読み下さい。
(c)『AがBならば』の『Aが』については、『01月29日の記事(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_29.html)』を読み下さい。
(d)『「象は鼻が長い。」の「述語論理」的表現。』については、『03月03日の記事(https://kannbunn.blogspot.com/2018/03/blog-post_3.html)』を読み下さい。

(01)
① 鰻為〔我所(捌)〕。
に於いて、
① 為〔 〕⇒〔 〕為
① 所( )⇒( )所
といふ「移動」を行ふと、
① 鰻為〔我所(捌)〕⇒
① 鰻〔我(捌)〕所為=
① 鰻〔我が(捌く)〕所と為る=
① 鰻は、私に捌かれた。
然るに、
(02)
① 私に捌かれたのは「ある鰻」である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 鰻為〔我所(捌)〕=
① 鰻は〔我が(捌く)〕所と為る。
を「述語論理」で表すならば、
① ∃x∃y(鰻x&我y&捌yx)=
① あるxは鰻であって、あるyは我であって、yはxを捌く。
といふ、ことになる。
然るに、
(04)
1  (1)∃x∃y(鰻x&我y&捌yx) A
 2 (2)  ∃y(鰻a&我y&捌ya) A
  3(3)     鰻a&我b&捌ba  A
  3(4)     鰻a         3&E
  3(5)        我b      3&E
  3(6)           捌ba  3&E
  3(7)     我b&鰻a      45&I
  3(8)     我b&鰻a&捌ba  67&I
  3(9)  ∃x(我y&鰻x&捌bx) 8EI
  3(ア)∃y∃x(我y&鰻x&捌yx) 9EI
 2 (イ)∃y∃x(我y&鰻x&捌yx) 23アEE
1  (ウ)∃y∃x(我y&鰻x&捌yx) 12イEE
然るに、
(05)
② ∃y∃x(我y&鰻x&捌yx)=
② あるyは我であって、あるxは鰻であって、yはxを捌く。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① ∃x∃y(鰻x&我y&捌yx)=あるxは鰻であって、あるyは我であって、yはxを捌く。
∃y∃x(我y&鰻x&捌yx)=あるyは我であって、あるxは鰻であって、yはxを捌く。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(07)
② あるyは我であって、あるxは鰻であって、yはxを捌く。
といふことは、
② 我捌鰻=私は鰻を捌いた。
といふことである。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
① 鰻為〔我所(捌)〕=鰻〔我が(捌く)〕所と為る=鰻は私に捌かれた(受動態)。
② 我捌(鰻)    =我(鰻を)捌く       =私は鰻を捌いた (能動態)。
に於いて、
①=② である。
(09)
③ 鰻我所(欲)也。
に於いて、
③ 所( )⇒( )所
といふ「移動」を行ふと、
③ 鰻我所(欲)也⇒
③ 鰻我(欲)所也⇒
③ 鰻は我が(欲する)所なり=
③ 鰻は私の好物である。
然るに、
(10)
③ 鰻は私の好物である。
といふ場合の、
③ 鰻 は、「特定の鰻」ではない「鰻一般」である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
③ 鰻我所(欲)也=鰻は我が(欲する)所なり=鰻は私の好物である。
を「述語論理」で表すならば、
③ ∀x{鰻x→∃y(我y&欲yx)}=
③ 全てのxについて、xが鰻ならば、あるyは我であって、yはxを欲す。
といふ、ことになる。
然るに、
(12)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(08)(11)(12)により、
(13)
① 鰻為〔我所(捌)〕=鰻〔我が(捌く)〕所と為る。
② 我捌(鰻)    =我(鰻を)捌く。
③ 鰻我所(欲)也  =鰻は我が(欲する)所なり。
に於いて、
「左辺」は、「漢文の補足構造」であって、
「右辺」は、「国語の補足構造」である。
然るに、
(14)
① ∃x∃y(鰻x&我y&捌yx)  =あるxは鰻であって、あるyは我であって、yはxを捌く。
∃y∃x(我y&鰻x&捌yx)  =あるyは我であって、あるxは鰻であって、yはxを捌く。
③ ∀x{鰻x→∃y(我y&欲yx)}=全てのxについて、xが鰻ならば、あるyは我であって、yはxを欲す。
の場合は、
① 鰻為〔我所(捌)〕=鰻〔我が(捌く)〕所と為る。
② 我捌(鰻)    =我(鰻を)捌く。
③ 鰻我所(欲)也  =鰻は我が(欲する)所なり。
に於ける、「論理構造(深層構造?)」である。
cf.
《deep structure》チョムスキーによって設定された変形生成文法理論の基本概念の一。現実の発話の基底にあって文の意味を規定すると想定され、表層構造よりいっそう抽象的な構造。変形規則を適用することによって表層構造が導き出され、異形同義文や同形異義文の関係を説明するのに役立つ(デジタル大辞泉)。
従って、

(14)により、
(15)
例へば、
③ 鰻我所(欲)也 =鰻は我が(欲する)所なり。
といふ「漢文訓読」の「補足構造」と、
③ ∀x{鰻x→∃y(我y&欲yx)}=全てのxについて、xが鰻ならば、あるyは我であって、yはxを欲す。
といふ「論理構造(深層構造?)」とは、「両立」する。
平成30年03月07日、毛利太。

2018年3月5日月曜日

「(三上章の)象は鼻が長い」の「述語論理」と「主語と主題」と「古典文法」。

(01)
1,304,803 回視聴 2021/03/23 ゆる言語学ラジオ全部(順番通り)
象は鼻が長い」の主語、分かりますか?象?鼻?
実は「日本語学者も文法的にどうなってるのか分からない」のです。
100年にわたって日本語学者たちが繰り広げてきた戦いの歴史を、お楽しみください。
然るに、
(02)
① 象鼻長(ザウビチャウ)。
という「漢文(音読)」は、
② 象の鼻は長い(象之鼻長)。
という「意味」でなければ、
③ 象は鼻は長い(象其鼻長)。
という「意味」である。
従って、
(03)
① 象鼻長(象は鼻長し)。
という「漢文(訓読)」は、
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}
② すべてのxについて{xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって、長い)}。
という「述語論理式」に、「相当」する。
然るに、
(04)
そこでたとえば「象は鼻長い」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのかはっきりしないから、このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。しかしこの文の論理構造をはっきり文章にあらわして、「すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」といえばいいかもしれない。しかし日常の言語によるコミニュケーションでは、たとえば動物園で象をはじめて見た小学生が、父親にむかってこのような文章で話しかけたとすれば、その子供は論理的であるといって感心されるまえに社会人としての常識をうたがわれるにきまっている(田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)。
従って、
(04)により、
(05)
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}
という「述語論理式」は、「論理的(Logical)」である。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① 象鼻長(象は鼻は長い)。
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}
に於いて、
①=② であって、尚且つ、
② は、「論理的(Logical)」であるが故に、
① も、「論理的(Logical)」である。
然るに、
(07)
1      (1) ∀x{象x→∃y(鼻yx& 長y)&動物x} A
 2     (2) ∀x{兎x→∃y(鼻yx&~長y)&動物x} A
1      (3)    象a→∃y(鼻ya& 長y)&動物a  1UE
 2     (4)    兎a→∃y(鼻ya&~長y)&動物a  2UE
  5    (5) ∃x(象x&兎x)              A
   6   (6)    象a&兎a               A
   6   (7)    兎a                  6&E
   6   (8)       兎a               6&E
1  6   (9)       ∃y(鼻ya& 長y)&動物a  37MPP
1  6   (ア)       ∃y(鼻ya& 長y)      9&E
    イ  (イ)          鼻ba& 長b       A
    イ  (ウ)               長b       イ&E
 2 6   (エ)       ∃y(鼻ya&~長y)&動物a  48MPP
 2 6   (オ)       ∃y(鼻ya&~長y)      エ&E
     カ (カ)          鼻ba&~長b       A
     カ (キ)              ~長b       カ&E
    イカ (ク)           長b&~長b       ウカ&I
1  6 カ (ケ)           長b&~長b       アイクEE
12 6   (コ)           長b&~長b       オカケEE
125    (サ)           長b&~長b       56コEE
12     (シ)~∃x(象x&兎x)              5サRAA
      ス(ス)    象a&兎a               A
      ス(セ) ∃x(象x&兎x)              スEI
12    ス(ソ)~∃x(象x&兎x)&∃x(象x&兎x)    シセ&I
12     (タ)  ~(象a&兎a)              スソRAA
12     (チ)  ~象a∨~兎a               タ、ド・モルガンの法則
12     (ツ)   象a→~兎a               チ含意の定義
12     (テ)∀x(象x→~兎x)              ツUI
従って、
(07)により、
(08)
(ⅰ)∀x{象x→∃y(鼻yx& 長y)&動物x}。然るに、
(ⅱ)∀x{兎x→∃y(鼻yx&~長y)&動物x}。従って、
(ⅲ)∀x(象x→~兎x)。
という『推論』、すなわち、
(ⅰ)すべてのxについて{xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって、長く   )、xは動物である}。然るに、
(ⅱ)すべてのxについて{xが兎であるならば、あるyは(xの鼻であって、長くはなく)、xは動物である}。従って、
(ⅲ)すべてのxについて{xが象であるならば、xは兎ではない}。
という『推論』、すなわち、
(ⅰ)象は鼻の(が)長い動物である。  然るに、
(ⅱ)兎は鼻の(が)長くない動物である。従って、
(ⅲ)象は兎ではない。
という『推論』は、「妥当」である。
然るに、
(09)
生成AI(コパイロット)」によると、
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 象は鼻の(が)長い動物である。
② Elephants are animals whose noses are long.
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&動物x}.
④ For all x{if x is an elephant, then y is(x's nose and long)& x is an animal}.
⑤ すべてのxについて{xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって、長く)、xは動物である}。
に於いて、
①=②=③=④=⑤ である。
cf.
①「私の国・鼻の長い動物」の「の」は「連体助詞(格助詞)」であって、
①「我が国・鼻が長い動物」の「が」も「連体助詞(格助詞)」である。
従って、
(10)により、
(11)
① 象は鼻の(が)長い動物である。⇔
② Elephants are animals whose noses are long.⇔
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&動物x}.⇔
④ For all x{if x is an elephant, then y is(x's nose and long)& x is an animal}.⇔
⑤ すべてのxについて{xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって、長く)、xは動物である}。
に於いて、
②「Elephants」が「主語(Subject)」であるならば、
①   「象は」も「主語(Subject)」であるし、
②「Elephants」が「主題(Topic)」 であるならば、
①   「象は」も「主題(Topic)」 である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
① 象は鼻の(が)長い動物である。⇔
② Elephants are animals whose noses are long.⇔
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&動物x}.⇔
④ For all x{if x is an elephant, then y is(x's nose and long)& x is an animal}.
に於ける、
①「象は(Elephants)」が、「主題(Topic)」 であるとしても、
①「象は(Elephants)」が、「主語(Subject)」ではない。
ということには、ならない。
従って、
(12)により、
(13)
よく「日本語には主語が2つある」と言われます。簡単に言ってしまうと、主語を表す形には「は」と「が」あるということです。こう言うと反論を述べる人が必ず出ると思います。日本語では「は」は主題といい、「が」を主格というので、主語はないのです(倉本幸彦、なぜ、日本人は日本語を説明でいないのか、2017年、38頁)。
ということには、ならない。
然るに、
(14)
D={象、兎、馬}
であるならば、
① 象は動物であり、
② 兎も動物であり、
③ 馬も動物である。
という「理由」により、
① 象動物である。
とは、言えない
然るに、
(15)
D={象、兎、馬}
ではなく、
D={象、机、本}
であるならば、
① 象は動物であるが、
② 机は動物ではなく
③ 本も動物ではない
という「理由」により、
① 象動物である。
従って、
(14)(15)により、
(16)
① 象動物である。
ということは、
D={象、机、本}
という場合がそうであるように、
① 象は動物である(が、象以外(机と本)は動物ではない)。
ということに、他ならない。
従って、
(16)により、
17
① 象は鼻長い。
ということは、
① 象は鼻は長く(鼻以外(である耳)は長くない)。
ということに、他ならない。
然るに、
(18)
   ― 当初から、繰り返し、書いているものの、―
1       (1) ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
 2      (2) ∀x{兎x→∃z(耳zx&~鼻zx&長z)}         A
  3     (3) ∃x(象x&兎x)                      A
1       (4)    象a→∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z)  1UE
 2      (5)    兎a→∃z(耳za&~鼻za&長z)          2UE
   6    (6)    象a&兎a                       A
   6    (7)    象a                          6&E
   6    (8)       兎a                       6&E
1  6    (9)                  ∀z(~鼻za→~長z)  47MPP
1  6    (ア)                     ~鼻ba→~長b   9UI
 2 6    (イ)       ∃z(耳za&~鼻za&長z)          58MPP
    ウ   (ウ)          耳ba&~鼻ba&長b           A
    ウ   (エ)              ~鼻ba              ウ&E
    ウ   (オ)                   長b           ウ&E
1  6ウ   (カ)                          ~長b   アエMPP
1  6ウ   (キ)                   長b&~長b       オカ&I
12 6    (ク)                   長b&~長b       イウキEE
123     (ケ)                   長b&~長b       36クEE
12      (コ)~∃x(象x&兎x)                      3ケRAA
12      (サ)∀x~(象x&兎x)                      コ量化子の関係
12      (シ)  ~(象a&兎a)                      サUE
     ス  (ス)    象a                          A
      セ (セ)       兎a                       A
     スセ (ソ)    象a&兎a                       スセ&I
12   スセ (タ)  ~(象a&兎a)&(象a&兎a)              シソ&I
12   ス  (チ)      ~兎a                       セタRAA
12      (ツ)   象a→~兎a                       スチCP
       テ(テ)       兎a                       A
       テ(ト)     ~~兎a                       テDN
12     テ(ナ)  ~象a                           ツトMTT
12      (ニ)   兎a→~象a                       テナCP
12      (ヌ)∀x(兎x→~象x)                      ニUI
という「推論(計算)」は、「妥当」である。
従って、
(18)により、
(19)
「記号」で書くと、
(ⅰ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。然るに、
(ⅱ)∀x{兎x→∃z(耳zx&~鼻zx&長z)}。従って、
(ⅲ)∀x(兎x→~象x)。
という『推論』は「妥当」である。
従って、
(19)により、
(20)
「日本語」で書くと、
(ⅰ)すべてのxについて{xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって、長く)、すべてのzについて(zがxの鼻ではないならば、zは長くない)}。然るに、
(ⅱ)すべてのxについて{xが兎であるならば、あるzは(xの耳であって、xの鼻ではないが、zは長い)}。従って、
(ⅲ)すべてのxについて(xが兎であるならば、xは象ではない)。
という『推論』は「妥当」である。
従って、
17)(20)により、
(21)
「(普通の)日本語」で書くと、
(ⅰ)象は鼻長い。           然るに、
(ⅱ)兎の耳は長いが、兎の耳は鼻ではない。従って、
(ⅲ)兎は象ではない。
という『推論』は「妥当」である。
然るに、
(22)
1  (1)∀x{象x → 動物x} A
 2 (2)∀x{動物x→~植物x} A
1  (3)   象a → 動物a  1UE
 2 (4)   動物a→~植物a  2UE
  5(5)   象a        A
1 5(6)        動物a  35MPP
125(7)       ~植物a  46MPP
12 (8)   象a→ ~植物a  27CP
12 (9)∀x{象x→  ~動物x} 8UI
従って、
(22)により、
(23)
(ⅰ)∀x{象x → 動物x}。然るに、
(ⅱ)∀x{動物x→~植物x}。従って、
(ⅲ)∀x{象x →~植物x}。
という『推論』、従って、
(ⅰ)すべてのxについて{xが象 であるならば、xは動物である}。 然るに、
(ⅱ)すべてのxについて{xが動物であるならば、xは植物ではない}。従って、
(ⅲ)すべてのxについて{xが象 であるならば、xは植物ではない}。
という『推論』、従って、
(ⅰ)象は、動物である。 然るに、
(ⅱ)動物は植物ではない。従って、
(ⅲ)象は、植物ではない。
という『推論』は、「妥当」である。
従って、
(21)(22)(23)により、
(24)
① 象は鼻長い。
② 象は動物である。
に於いて、
① 象は と、
② 象は は、両方とも、
① ∀x{象x→
② ∀x{象x→
であって、従って、
① すべてのxについて{xが象であるならば、
② すべてのxについて{xが象であるならば、
であって、従って、
① For all x{if x is an elephant,
② For all x{if x is an elephant,
である。
然るに、
(25)
② 象は動物である。
① 象は鼻長い。
に対して、
② ∀x{象x→動物x}。
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
であるということは、
② 動物x が「述語」であるならば、
① ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) も「述語」である。
ということを、「意味」している。
従って、
(25)により、
(26)
 二重主語とは、大きな枠組みとして主語と述語が構成されている文の中に、さらに主語と述語の構成が含まれている文を指します。たとえば「象は鼻長い」という文は、大きな枠組みとして「象は」が主語、「長い」が述語ですが、「鼻長い」の部分は「鼻」と「長い」という主語と述語の構成になっています。
という「(橋本進吉の)直観」は、「論理的」に、「正しい」し、
Elephants are animals whose noses are long.
という「英語」にも、「主語(Elephantsnoses)」は、「2つ有る」。
然るに、
(27)
主語や目的語や補語、これだけは自分で考えるクセを付けて下さい。学校の先生がこれまた、考えなくとも、どんどん入れて訳してくれるんです。古文はよく、省かれているんですね。誰が、誰を、誰に、みたいなものが、日本語はよく省略されているんですけど、先生がどんどん補って下さる。で皆さんは何でその主語になるのかよくわかんないまま、またノートに、訳のところに、一生懸命、書いて覚えて、テストを受けてる。さっきも言いました。自力です。「自力で補足するです。」入試のときそばで誰も助けてくれないからですね。で実は、これが皆さんを古文嫌いにさせている、つまり、せっかく、訳ができた。単語を覚えて、Aさんがしてることを、Bさんがしたと勘違いして、変え~んな、文章にしちゃったことないですかあ。ワタシは模擬試験の時にですねえ、よく、ストーリーは、ある程度わかったのに、「やったひととやられた人を勘違い」して、もう途中で「大混乱」してですね。七行目ぐらいまで頑張って読んだのに、もう「まんなか辺」で、プチッと切れて、もうええいいや、ワケわかんなくなっちゃたといって、「放り出し」ことがよくありますけども、これ(主語・目的語・補語)を自分で意識すると、「こうやって考えながらやるんだな」って意識すると、かなり読みやすくなるんです(東進ハイスクール 荻野文子先生 - YouTube)。
従って、
(28)
「三上章先生は、日本語に、主語は無い」と言うものの、「(古文という)日本語」は、「主語・目的語・補語」を「意識せず」には、「理解」出来ない。
令和6年11月16日、毛利太。