(01)
・右のページの日本文を見て、左の英文が言えるようになるまで、繰り返し練習しましょう(シグマ新総合英語、暗誦文例413選、1998年)。
右のページ=1囗 私たちはインターネットの時代に生きている。
左のページ=1囗 We live in the Internet age.
(02)
・右の頁の訓読を見て、左の白文が言へるやうになるまで、繰り返し練習しませう。
右の頁=1囗 世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は
常には有らず。
左の頁=1囗 世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。
従って、
(01)(02)により、
(03)
1囗 世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
を見て、
1囗 セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ、センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ。
と「復文(音読み)」する。ことは、
右のページ=1囗 私たちはインターネットの時代に生きている。
を見て、
左のページ=1囗 ウィ リブ イン ジ インターネット エイジ.
と言ふこと(英作文)に、相当する。
従って、
(04)
「記事(2013/05/15)」にも、書いた通り、私のそれは、結果として、荻生徂徠とは、「アベコベ」であるものの、やってゐること自体は、
左のページ=1囗 We live in the Internet age.
を見て、
右のページ=1囗 私たちはインターネットの時代に生きている。
と「和訳」し、
右のページ=1囗 私たちはインターネットの時代に生きている。
を見て、
左のページ=1囗 We live in the Internet age.
と「英訳」することと、「同じ」である。
然るに、
(05)
かうしたやり方で、
世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。
を、読んでゐると、当然のこととして、
次のやうな疑問が、生じざるを、得ない。
hyoukahoutaruさん
2014/5/1911:15:21
漢文の質問です。
千里馬常有、而伯楽不常有。
有は返読文字だと習ったのですが、この例文では返読されていませんでした。何故ですか?
すなはち、
(06)
① 千里馬常有。
の「有」が、「返読文字」であるならば、
② 常有千里馬。
でなければ、ならないのに、一体何故、
① 千里馬常有。
なのか、といふことが、疑問となる。
然るに、
(07)
動詞や形容詞が、そのままの形で、一種の抽象名詞のようにも用いられることは、現代漢語においても、その通常の用法であって、動詞・形容詞の「名物化」・「事物化」などと呼ばれている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、289頁)。
従って、
(07)により、
(08)
① 千里馬+常有 =名詞+名詞。
② 常+有+千里馬=副詞+動詞+名詞。
従って、
(09)
onomameusとしては、すなはち、毛利太としては、
A=千里馬(名詞)
B=常有(名詞)
C=伯楽(名詞)
D=不常有(名詞)
であるとき、
ABCD=千里馬は「常有」である。伯楽は「不常有」である。
という風に、理解することが、可能に、なります。
といふ風に、回答したものの、このことは、『訓点』を用ゐると、
② >常+有(千‐里‐馬)、
② >不〔常+有(伯‐楽)〕。
に対する、
① 千‐里‐馬>常‐有、
① 伯‐楽>不‐常‐有。
の「違ひ」として、「説明」出来る。
すなはち、
(10)
(一)囗>囗 :主語―述語
(二)囗+囗 :修飾語―被修飾語
(三)囗(囗):叙述語―補足語
(四)囗・囗 :並列語―並列語
(五)囗‐囗 :熟語等(固有名詞を含む)
(六)囗, :接続詞(而や故、他)
といふ『訓点』の、
(一)囗>囗 :主語―述語
(五)囗‐囗 :熟語等(固有名詞を含む)
といふ、二つによって、
① 千‐里‐馬>常‐有。
① 伯‐楽>不‐常‐有。
は、
① 主語(名詞)>述語(名詞)。
① 主語(名詞)>述語(名詞)。
であるため、
① 千‐里‐馬>常‐有=千里馬は、常有である。
① 伯‐楽>不‐常‐有=伯楽は、不常有である。
といふ風に、読むことが、出来る。
cf.
世>有(伯‐楽)、然‐後>有(千‐里‐馬)。
千‐里‐馬>常‐有、而,伯‐楽>不‐常‐有。
故,雖〔有(名‐馬)〕、祇+辱〔於(奴‐隷‐人+之+手)〕、
駢‐死〔於(槽‐櫪+之+間)〕、不〔以(千‐里)称〕也。
たとへば、
(11)
① 社長は、不誠実である。
であれば、
① 社‐長>不‐誠‐実=社長は、不誠実である。
であるため、
① 伯‐楽>不‐常‐有=伯楽は、不常有である。
① 社‐長>不‐誠‐実=社長は、不誠実である。
は、『訓点』としては、「同じ」である。
然るに、
(12)
「不誠実」といふ「漢語」や、
「不注意」といふ「漢語」や、
「不摂生」といふ「漢語」や、、
「不条理」といふ「漢語」が、
有る以上、
「不常有」といふ「漢語」も、
有り得ない、はずがない。
従って、
(12)
① 社‐長>不‐誠‐実=社長は、不誠実である。
に対して、
① 伯‐楽>不‐常‐有=伯楽は、不常有である。
といふ「訓読」が、オカシイとしたら、
① 不‐誠‐実
に対して、
① 不‐常‐有
といふ「三文字熟語」は、「日本語」には、定着してゐない。
といふことに、過ぎない。
cf.
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従って、
(13)
② 千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
は、「正しくは」、
① 千里の馬は常有なれど、而して、伯楽は不常有なり。
であるものの、
① 千‐里‐馬>常‐有、而,伯‐楽>不‐常‐有。
といふ風に、「心の中」で思ひつつ、
② 千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
と、「訓読」する分には、それでも、構はない。はずである。
(14)
① 白文を、
② 訓読し、
② 訓読を、
③ 復文(音読)する。
以上、出来れば、「正しい音」で、
③ 復文(音読)したいものの、
只厄介なのは標準音を何れの地方にとるかの問題である。まず北京音に拠る可しと云うことが常識的に考えられるが、併し北京音は入声が無くなっているから古書を読むには音韻上遺憾無き能はず。寧ろ南方の田舎の音で古音に近い地方の音を採用するか、最も理想的としては、古音の研究をどしどし進めて古音を復活することだ、併しそれは云う可くして容易に行われまい。兎に角、支那でも目下読音の統一と云う事が識者間の問題となっていて、頻りに研究されつつあるから、将来何等の適当な標準音を見出すことが出来よう。過渡時代に於ける第二案としては従来の漢音呉音何れかに拠る外はあるまい(『支那学』第1巻第5号、1921年、p.12~14:牛島徳次、中国語の学び方、1977年、13・14頁)。
従って、
(14)により、
(15)
(1)北京語は、入声が無いため、不適格である。
(2)北京語よりは、南方の田舎の音を採用すべきである。
(3)理想的には、古音を復活できれば、一番よい。
(4)取りあえずは、漢音か、呉音で読むしか、外は無い。
しかしながら、
(16)
(4)漢音呉音何れかに拠る外はあるまい。
とは言ってみても、例へば、
「言語学」も、正しく漢音でとおして読めば「ゲンギョガク」、正しく呉音でとおして読めば「ゴンゴガク」。「げんごがく」という一般のいい方は、漢音・呉音の「ごちゃまぜ読み」なのである。日本語における漢音・呉音の問題は、りくつどおりにはまったくゆかぬものなのだ。つねにことばとして定着することの方が優先し、ことばとして定着したものは、それがたとえ「ごちゃまぜ読み」であっても、国語の語彙として堂々と通用するのである(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、107頁)。
(17)
有名なのは、「未曾有」であるが、漢音では、「ビシャウイウ」が、「正しい」のであって、だからと言って、「未曾有(ビシャウイウ)」と読めば、小学生に、笑はれる。
従って、
(15)(16)(17)により、
(18)
① 白文を、
② 訓読し、
② 訓読を、
③ 復文(音読)する。
以上、出来れば、「正しい古音」で、
③ 復文(音読)したいものの、実際には、、
③ 思い付くままの、「日本漢字音(漢音・呉音・唐宋音・慣用音)」
で以て、
③ 復文(音読)せざるを、得ない。
そのため、
(19)
漢音や呉音で直読するというのは、現代中国語の学習とはまったく離れてしまうので、問題外とするが、この青木氏の主張が、当時のいわゆる支那語の学習成果を、一直線に中国古典の読み方に結び付け、これによって古典をいかに速く、多く、正確に解読するか、といふことを提唱したことは、きわめて斬新であり、示唆的である(牛島徳次、中国語の学び方、1977年、13・14頁)。
との、ことであっても、「漢文の独習」に於いて、「現代中国語」の学習が「必要」であるとは、私には、思へない。
平成27年01月11日、毛利太。
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