2015年1月8日木曜日

漢文の基本構造(Ⅱc)。

(01)
(一)主述関係 主語―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
(四)並列関係 並列語―並列語
漢語の文法は、上述の基本構造における語順が、その重要な基礎になっているのであって、その実詞は、単に語順による結合によって、連語を構成していることが多い。それで、この点からいえば、漢語の文法は、比較的簡単であるともいうことができる(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、281~5頁、抜粋)。
しかしながら、
(02)
古代漢語のにおける実詞については、きわめて注意しておかなければならないことがある(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、285頁)。
といふのは、例へば、
人善=人はよし。
人悪=人はわるし。
善人=よき人。
悪人=わるき人。
善人=人をよくす。
悪人=人をにくむ。
悪悪人=いづくんぞ人をにくまん。
といふ風に、読めてしまふ、ことである。
然るに、
(03)
(一)主語―述語
(二)修飾語―被修飾語
(三)叙述語―補足語
(四)並列語―並列語
といふ、四つを、
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗(囗)
(四)囗・囗
とし、囗を、「任意の漢字」とするならば、
① 人>悪=人はわるし(人は悪なり)。
② 悪+人=わるき人。
③ 悪(人)=人をにくむ。
④ 悪+愛(父・母)=いづくんぞ父母を愛せざらん。
といふ風に、表すことが、可能になる。
然るに、
(04)
(一)主語―述語
(二)修飾語―被修飾語
(三)叙述語―補足語
(四)並列語―並列語
では、足りないため、
(五)熟語等(固有名詞を含む)
を加へ、
(五)囗‐囗(文字数は、二文字以上)
とする。
従って、
(03)(04)により、
(05)
例へば、
⑤ 西山 が、
② Western Mountain
であるならば、
② 西+山
とし、
⑤ 西山 が、
⑤ Nishiyamaさん 
のやうな、「人名」の場合は、
⑤ 西‐山 
とし、「(五)熟語等」とする。
従って、
(03)~(05)により、
(06)
⑤ 西‐山‐緑=西山緑さん。
に対して、
② 西+山>緑
であるならば、
② 西+山 は、「修飾語+被修飾語」であって、尚且つ、
② 西+山>は、「主語」であるため、
② 西+山>緑=Western Mountain is Green.
である。
(07)
しかし、すこし問題がある。「楚大夫」を一つの熟語とみなすのは少し苦しい(二畳庵主人、1984年、82頁)。
とのことであるが、「楚の大夫」のやうな場合は、
⑤ 楚+大‐夫
とする。
(08)
① 我>長(百+獣)=我、百獣に長たり。
であれば、
① 我>   は、「主語」であり、
① 長(  は、「述語」であり、
① 百+獣)は、「補足語」であって、尚且つ、
① 百+獣  は、「修飾語+被修飾語」である。
(09)
① 天+帝>使(我>長(百+獣))。
のやうな場合は、すなはち、
① (( ))
のような場合は、
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
とし、この場合は、
①     我>  は、「主語」であり、
① 天+帝>  も、「主語」である。
然るに、
(10)
天帝使我長百獣「(A)使BC」の使役形。「(A)BヲシテCしむ」と訓読し、「(A)はBにCさせる」「(A)がBをCにする」の意を表す。主語の(A)は省略されることが多い(旺文社、漢文の基礎、1973年、40頁)。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① >使〔我>長(百+獣)〕。
の場合は、
① 天+帝 といふ「主語」が、「省略」されてゐる。
従って、
(12)
② >載(西‐伯+木‐主)以(是)行= 西伯の木主を載せて、是を以て、行く。
の場合も、
②「主語」が、「省略」されてゐる。
然るに、
(13)
[接続詞]もつテ《前置詞の目的語が省略されたものと考えられる。「而」の順接の用法と同じである》[訳]そして
[例]載西伯木主以行。[西伯の木主を載せて以て行く。]
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、13頁)。
従って、
(13)により、
(14)
② >載(西‐伯+木‐主)以(是)行。
ではなく、
② >載(西‐伯+木‐主)以( )行。
である場合は、
② 是=西伯の木主を 
すなはち、「補足語」が、「省略」されてゐる。
(15)
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
の「訓読」は、
③ 天帝、常には我をして百獣に長たら使め不。⇒「部分否定」。
④ 天帝、常に、 我をして百獣に長たら使め不。⇒「全部否定」。
であるが、
③ 否定語+副詞
④ 副詞+否定語
の「違ひ」により、
「否定語+副詞」のときはその副詞をふくめた内容が否定されるので、否定されることがらが副詞によって修飾されて部分的に限定されることになる。逆に「副詞+否定語」のときは、副詞が否定語を修飾することになるので、否定されることがらは否定語の下におかれた全般にわたることになる(旺文社、漢文の基礎、1973年、37頁)。
(16)
⑤ >未〔読(書)〕=未だ書を読まず。
に於いて、
⑤ 未 は「再読文字」であるが、
⑤ 未=未+不
とする。
従って、
(16)により、
(17)
⑤ 兄弟未嘗不嘆息痛恨於桓霊也=
⑤ 兄弟、未だ嘗て、桓霊に、嘆息痛恨せずんば、あらざるなり。
であれば、
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ、ことになり、尚且つ、
⑤ 於(桓‐霊) の、
⑤ 於 は、「前置詞」であって、「国語」であれば、「格助詞(に)」である。
然るに、
(18)
名詞句の前に置く接置詞を前置詞(ぜんちし)、後に置く接置詞を後置詞(こうちし)と呼ぶ。前置詞は、SVO型言語やVSO型言語など、動詞が目的語に先行する言語にしばしば見られる。ヨーロッパの諸言語やアラビア語などセム系言語が前置詞を持つ言語としてよく知られる。後置詞は、SOV型など、目的語が動詞に先行する言語にしばしば見られる。日本語後置詞格助詞、中国語の前置詞は介詞と呼ばれる(ウィキペディア:後置詞)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
(桓‐霊) の、「語順」は、「国語」では、
⑤ (桓‐霊) である。
然るに、
(20)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(03)(04)(17)~(20)により、
(21)
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ「語順」は、「国語」では、
⑤ 兄・弟>未+{嘗+[〔(桓‐霊)於〕嘆‐息‐痛‐恨]不}不也。
といふ「語順」になる。
従って、
(01)~(21)により、
(22)
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
② >載(西‐伯+木‐主)以( )行。
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ「語順」は、「国語」では、
① 天+帝>〔我>(百+獣)長〕使。
② >(西‐伯+木+主)載( )以行。
③ 天+帝>[常+〔我>(百+獣)長〕使]不。
④ 天+帝>常+[〔我>(百+獣)長〕使]不。
⑤ 兄・弟>未+{嘗+[〔(桓‐霊)於〕嘆‐息‐痛‐恨]不}不也。
である。
従って、
(22)により、
(23)
① 天帝使我長百獣。
② 載西伯木主以行。
③ 天帝不常使我長百獣。
④ 天帝常不使我長百獣。
⑤ 兄弟未不嘗不嘆息痛恨於桓霊也。
といふ「漢文」の「訓読」は、
① 天帝、我をして百獣に長たら使む。
② 西伯の木主を載せて、以て、行く。
③ 天帝、常には我をして百獣に長たら使めず。
④ 天帝、常に、我をして百獣に長たら使めず。
⑤ 兄弟、未だ嘗て、桓霊に嘆息痛恨せずんばあらざるなり。
といふ、ことになる。
従って、
(22)(23)により、
(24)
① 天帝使我長百獣。
② 載西伯木主以行。
③ 天帝不常使我長百獣。
④ 天帝常不使我長百獣。
⑤ 兄弟未不嘗不嘆息痛恨於桓霊也。
といふ「漢文」に、
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
② >載(西‐伯+木+主)以( )行。
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ、「構造(シンタックス)」が無い場合には、
① 天帝、我をして百獣に長たら使む。
② 西伯の木主を載せて、以て、行く。
③ 天帝、常には我をして百獣に長たら使めず。
④ 天帝、常に、我をして百獣に長たら使めず。
⑤ 兄弟、未だ嘗て、桓霊に嘆息痛恨せずんばあらざるなり。
といふ「訓読」は、成立しない。
例へば、
(25)
③ 天帝不常使我長百獣。
といふ「漢文(白文)」に於ける、
③ 天帝 が、
③ 天・帝 
であるならば、
③ 天と帝が、「主語」となるため、「英語やギリシャ語」であれば、「複数」であるが、
③ 天+帝 は、「単数」である。
cf.
デジタル大辞泉の解説
てん‐てい【天帝】
1 古代中国の思想で、天地・万物を支配する神。造物主。
2 キリスト教で、ヤーウェ。
3 仏教で、帝釈天(たいしゃくてん)。
(26)
③ 天‐帝
とすれば、「固有名詞」であれば、
③ 天帝不常使我長百獣。の、
③ 天帝=天の帝(テオス・ウーラヌウ)
は、「固有名詞」ではない。はずである。
(27)
③ 天+帝> 
でないならば、
③ 天+帝 は、「主語」ではないものの、そのやうなことは、有り得ない。
(28)
③ 天+帝>不[+ ・ ・ ・ ・ ・ ] 
でないならば
③「否定語+副詞」のときはその副詞をふくめた内容が否定されるので、否定されることがらが副詞によって修飾されて部分的に限定されることになる。
といふ「説明」が、ウソになる。
(29)
③ 天+帝>不[常+使〔 
でないならば、
③ 使 は、「動詞」ではないものの、のやうなことは、有り得ない。
(30)
③ 天+帝>不[常+使〔我>長
でないならば、
③ 我 は、『「長たり」の「主語」』ではない。ものの、そのやうなことは、有り得ない。
(31)
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
に於いて、
③ 百獣=修飾語―被修飾語
であって、尚且つ、
③ 百獣=補足語
でないことは、有り得ない。
従って、
(25)~(31)により、
(32)
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
でないことは、有り得ないし、
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
② >載(西‐伯+木‐主)以( )行。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
についても、さうでないことは、有り得ない。
然るに、
(33)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様ものである(勉誠出版、訓読論、2008年、60頁)。
従って、
(34)
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
② >載(西‐伯+木‐主)以( )行。
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ「訓点」を「発明」してはみたものの、倉石武四郎先生、他には、認めて貰えるべくも、無い。
平成27年01月08日、毛利太。

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