(01)
漢文は「ヲ・ニ・ト・ヨリ・ヨリモ」の送りかなを付ける場合が多いが、これにもかかわらず、訓読の際に下から必ず返って読む特別の文字がある。これを「返読文字」という。
[如・若・無・莫・有・不・弗・勿・毋・多・少・鮮・寡・易・難・可・自・従・理・使・令・欲・与・比・雖・被・見・所・所以・非・匪・為・不能・足]
(鳥羽田重直、漢文の基礎、1985年、22頁)
然るに、
(02)
実際には、「返って読まない」場合も有るため、以下では、さうした「例外」を示し、それらに対する「私見」を述べることにする。
(03)
* 鮮矣仁(仁が少ない、意)の倒置文で、鮮矣を強調し、そうい状況を慨嘆したことを示す。したがって、「鮮いかな仁」と読む。
[研究]
二「鮮矣仁」を平叙文に直せばどうなるか。
(解答)
二「仁鮮矣」
(明解古典学習シリーズ16 論語・孟子、1973年、5頁)
従って、
(04)
「仁鮮矣」の倒置が、
「鮮矣仁」であるため、
「仁鮮矣」の「鮮」は、「返読文字」ではない。
(05)
我有兄弟=I have brothers.
であるため、
我有兄弟=SVO(第三文型)。
である。
然るに、
(06)
「多い」 といふことは、
「多く有る」といふことである。
従って、
(05)(06)により、
(07)
有兄弟=兄弟有り。
多兄弟=兄弟多し。
といふ「語順」であること、すなはち、「有・多」が、「辺読文字」であることは、不思議ではない。
然るに、
(08)
金多=金多し(十八史略、蘇秦・張儀)。
からすると、
金多=主語+述語。
に於いて、「多(形容詞)」は、「辺読文字」ではない。
(09)
学難成=学成り難し(朱子)。
であるため、「難」は、「辺読文字」である。
然るに、
(10)
破心中賊難=心中の賊を破るは難し(王陽明)。
からすれば、
成学難=学を成すは難し。
といふ場合も有り得る、はずである。
然るに、
(11)
学難成=学成り難し。
に対して、
成学難=学を成すは難し。
に於ける「難」は、「辺読文字」ではない。
(12)
漢王不遣書=
漢王 does not give a book.
であるため、
漢王不遣書=
漢王に、書を遣らず=
Someone does not give 漢王 a book.
ではない。
然るに、
(13)
瓜田不納履=
瓜田に、履を納れず。
と、することは、
漢王不遣書=
漢王 does not give a book.
を、
漢王不遣書=
Someone does not give 漢王 a book.
とすることに、等しい。
従って、
(13)により、
(14)
瓜田不納履=
瓜田に、履を納れず。
といふ「語順」は、かなり、ヲカシイ。
加へて、
(15)
先生不知何許人=
先生は何許可の人なるかを知らず。
にしても、「普通」に考へれば、
先生=主語
である。
然るに、
(16)
意味内容からすれば、「我不知先生何許人」ということだが、この文のように表現するから注意を要する。
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、60頁)
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
「漢文」を勉強してゐる以上、誰でも、
瓜田不納履=
瓜田に、履を納れず。
並びに、
先生不知何許人=
先生は何許可の人なるかを知らず。
といふ「語順」は、ヲカシイと、思ふべきである。
然るに、
(18)
三軍可奪師也=
三軍も師を奪ふべきなり。
といふ「語順」に関して、
三軍・・・匹夫・・・ 提示語で、「たとえ三軍でも~」の意で「(雖)三軍・・・(雖)匹夫・・・」という意味になる。
(明解古典学習シリーズ16 論語・孟子、1973年、115頁)
との、ことである。
従って、
(19)
三軍可奪師也。
のやうに、
主語 が、置かれるべき「位置」に、
補語 が、置かれる場合の、
補語 を、提示語 とする。
ならば、
瓜田不納履。の、
瓜田 は、提示語であって、
先生不知何許人。の、
先生 も、提示語である。
然るに、
(20)
hyoukahoutaruさん
2014/5/1911:15:21
漢文の質問です。
千里馬常有、而伯楽不常有。
有は返読文字だと習ったのですが、この例文では返読されていませんでした。何故ですか?
閲覧数: 432 回答数: 3
従って、
(19)(20)により、
(21)
千里の馬は常に有り。
に於ける、
千里馬常有。の、
千里馬 も、提示語である。
然るに、
(22)
私の場合は、
我読書。
を、
我書を読む。
と「訓読」して、逆に、
我書を読む。
を、
ガドクショ。
と「音読」することがあって、
我書を読む=ガドクショ。
を以て、「復文」としてゐる。
然るに、
(23)
世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。
千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
故に名馬有りと雖も、ただ奴隷人の手に辱められ、
槽櫪の間に駢死して、千里を以て称せられざるなり。
といふ「書き下し文」を、「復文」してゐる時に、すなはち、
セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ。
センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ。
コスイイウメイバ、ギジョクオドレイジンシシュ、
ベンシオサウレキシカン、フツイセンリショウヤ。
といふ風に、「音読」をして、感じたことは、
千里馬常有。の、
常有 は、
常設 がさうであるやうに、「名詞」なのでは?
といふ、ことである。
cf.
大辞林 第三版の解説
じょうせつ【常設】
( 名 ) スル
いつも設けてあること。常置。 「市議会に-されている委員会」
然るに、
(24)
常設=名詞
と同様に、
常有=名詞
であるならば、
孔子聖人=主語(名詞)+述語(名詞)。
と同じく、
千里馬常有=主語(名詞)+述語(名詞)。
となるため、
千里馬常有=千里馬は常有である。
といふことになる。
(25)
如雪=雪の如し。
の「如」は、「辺読文字」である。
然るに、
(26)
「排他的命題」を主張する目的が、「強調」につながり、「強調」しようとする意志が、「疑問詞の前置」をプロモートすることを、「WH移動」とする。
従って、
(25)(26)により、
(27)
如雪=雪のやうだ。
に対して、
何如=何のやうであるか。
は、蓋し、「WH移動」である。
(28)
如之何=之をいかんせん。
の場合は、
如之何=述語+補語+補語。
である。
然るに、
(29)
古代では「如何」と「何如」を区別したが後世(宋以後)区別しないこともあるので注意。
(多久弘一、多久の漢文公式110、1988年、71頁)
との、ことである。
(30)
English, which when the Anglo-Saxons first conquered England in the fifth and sixth centuries was almost a 'pure' or unmixed language.
英語は、5・6世紀に、アングロサクソンたちが、最初にイングランドを征服した時には、ほとんど、純粋で、混りの無い言語であった。
There are some other outstanding qualities of English : its simplicity of inflexion, its relatively fixed word-order.
英語には他にもいくつかの際立った特徴がある。語形変化が単純であり、語順が比較的、固定してゐることである。
(C.L.Wrenn : The English Language)
然るに、
(31)
children を、
childs と書けば、「マチガイ」であり、
You(単数)と、
Ye (複数)を区別するのも、「マチガイ」である。
加へて、
(32)
古英語の語順は比較的柔軟性があり、名詞や形容詞、動詞の活用によって文における関係性を示した。文中の句が位置を変えることはよくあり、また句中においてその要素の位置がかわることすらあった。
(ウィキペディア:古英語の文法)
従って、
(30)(31)(32)により、
(33)
5・6世紀の英語に対して、現代の英語は、
語形変化が単純であり、語順が比較的、固定してゐる。
といふことは、「マチガイ」が蓄積された「結果」として、現代の英語がある。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(34)
古代では「如何」と「何如」を区別したが後世(宋以後)区別しないこともあるので注意。といふ言ひかたは、
本当は、「如何」と「何如」を区別するのが、正しいものの、後世(宋以後)は、間違ってゐることがあるので、注意する。
とした方が、分りやすい。
(35)
ポチは犬と雖も免れず。
の場合は、
ポチ雖犬不免。
と書くはずである。
然るに、
(36)
ポチ雖犬不免。
から、
ポチ
を除くと、
雖犬不免=
犬と雖も免れず。
然るに、
(37)
雖犬 だけを見れば、
雖 は、「辺読文字」である。
(38)
千里馬常有=主語(名詞)+述語(名詞)。
ではない。のかも知れないし、
何如=何のやうであるか。
は「WH移動」ではない。のかも知れない。
しかしながら、
(39)
「漢文の語順」に、注意を向けてゐるからこそ、そのやうに、思ふのであって、尚且つ、兎にも角にも、そのやうに思った「結果」として、
何如。
如之何。
千里馬常有。
といふ「語順」が、記憶される。
従って、
(40)
仮に、「間違ふ」ことに、なるとしても、
何如。
千里馬常有。
瓜田不納履。
のやうな、「カワッタ語順」に接した場合は、自分自身で、「ああだかうだ」と考へてみることを、勧めたい。
平成28年01月25日、毛利太。
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