2016年1月30日土曜日

「復文、音読、漢作文」について。

―「1月29の記事」を書き直します。―
(01)


従って、
(01)により、
(02)
① 乙 下 二 レ 一 上レ 甲
② 地 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
③ 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天
④ 十 八 四 二 一 三 六 五 七 九
に於いて、
① は、② に「置き換へ」ることが、出来、
② は、③ に「置き換へ」ることが、出来、
③ は、④ に「置き換へ」ることが、出来る。
然るに、
(03)
④ 十{八[四〔二(一)三〕六(五)七]九}
に於いて、
④ 二( )⇒( )二
④ 四〔 〕⇒〔 〕四
④ 六( )⇒( )六
④ 八[ ]⇒[ ]八
④ 九{ }⇒{ }九
といふ「倒置」を行ふと、
④ 十{八[四〔二(一)三〕六(五)七]九}⇒
④{[〔(一)二三〕四(五)六七]八九} 十=
④ 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十
従って、
(01)~(03)により、
(04)
① 乙 下 二 レ 一 上レ 甲
② 地 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
③ 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天
といふ「返り点」は、
③{ [ 〔 (  ) 〕(  ) ] }
といふ「括弧」に、「置き換へ」ることが、出来る。
然るに、
(05)
③ 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天
といふ「返り点」は、基本的に、
といふ「順番」を表してゐるのに対して、
③{ [ 〔 (  ) 〕(  ) ] }
といふ「括弧」は、「構造」を表してゐる。
従って、
(05)により、
(06)
③ 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天
③{ [ 〔 (  ) 〕(  ) ] }
は、似てはゐるが、「同じ」ではない。
(07)


然るに、
(08)
私の場合は、以前にも書いた通り、BASICで書いた「古文学習用の自作のソフト」を、「漢文学習用のソフト」に転用したことが「きっかけ」となって、例へば、
 世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。
 千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
 故に名馬有りと雖も、ただ奴隷人の手に辱められ、
 槽櫪の間に駢死して、千里を以て称せられるなり。
といふ「書き下し文」を、
 セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ。
 センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ。
 コスイイウメイバ、ギジョクオドレイジンシシュ、
 ベンシオサウレキシカン、フツイセンリショウヤ。
 といふ風に、「口頭」で、「復文(音読)」してゐたことが、有ります。
cf.
1790 *TATE
1800 LNGT=(LEN(AA$)/2)-1
1810 FOR II=2 TO LNGT
1820 BB=ASC(MID$(AA$,II*2-1,1))*256
1830 CC=ASC(MID$(AA$,II*2 ,1)):DD=AA+BB
1840 Y=Y+20
1850 IF DD=9008 THEN Y=-20 :X=X+2 :GOTO 1910
1860 IF DD=8567 THEN Y=-20: X=X+1 :GOTO 1910
1870 IF DD=8482 THEN Y=Y-16 :GOTO 1910
1880 IF DD=8483 THEN 1910
1890 IF Y+16>(400-16*0) THEN Y=0 :X=X+1
1900 PUT@(16*(XX-X),Y),KANJI(DD)
1910 NEXT II
1920 RETURN
すなはち、
(09)
 世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。
 千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
 故に名馬有りと雖も、ただ奴隷人の手に辱められ、
 槽櫪の間に駢死して、千里を以て称せられるなり。
といふ「日本語」を、「頭の中」で、
 世有白楽、然後有千里馬。
 千里馬常有、而伯楽不常有。
 故雖有名馬、祇辱於奴隷人之手。
 駢死於槽櫪、不以千里称也。
といふ「漢文」に直して、その、
 世有白楽、然後有千里馬。
 千里馬常有、而伯楽不常有。
 故雖有名馬、祇辱於奴隷人之手。
 駢死於槽櫪、不以千里称也。
といふ「漢文」を、
 セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ。
 センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ。
 コスイイウメイバ、ギジョクオドレイジンシシュ、
 ベンシオサウレキシカン、フツイセンリショウヤ。
 といふ風に、「発音」してゐたことが、有ります。
それ故、
(10)
 セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ。
 センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ。
 コスイイウメイバ、ギジョクオドレイジンシシュ、
 ベンシオサウレキシカン、フツイセンリショウヤ。
といふ「発音」を、何度か繰り返す内に、
 世有白楽、然後有千里馬。
 千里馬常有、而伯楽不常有。
 故雖有名馬、祇辱於奴隷人之手。
 駢死於槽櫪、不以千里称也。
といふ「原文」を、「暗誦」出来るやうになる。
そのため、
(11)
結果として、例へば、
⑤ 古の君に千金を以て涓人をして千里の馬を求め使むる者有り。
といふ「日本語」を、直ちに、
⑤ 古之君有以千金使涓人求千里馬者=
⑤ コシクンイウイセンキンシケンジンキウセンリバシャ。
といふ風に、「音読(復文)」することが、可能となる。
然るに、
(12)
⑤ 古の君に千金を以て涓人をして千里の馬を求め使むる者有り。
⑤ 古_君千金以涓人千里馬求使者有。
⑥ 古之君有以千金使涓人求千里馬者。
に於いて、
⑤ の中の「漢字」は、
⑥ 之 を除いて、
⑥ の中の「漢字」に、等しい。
従って、
(12)により、
(13)
⑤ 古の を、
⑤ 古之 と書くとして、
⑤ 古之君に千金を以て涓人をして千里の馬を求め使むる者有り。
といふ「日本語」を読んで、
⑤ 古之君有以千金使涓人求千里馬者。
といふ風に「復文」する。といふことは、
⑤ 古之君に千金を以て涓人をして千里の馬を求め使むる者有り。
の中の、
⑤ 古之君千金以涓人千里馬求使者有。
といふ「漢字の順番」を、
⑤ 古之君有以千金使涓人求千里馬者。
といふ「順番」に変へてゐる。
といふことに、過ぎない。
然るに、
(14)
デジタル大辞泉の解説
ふく‐ぶん【復文】
1 漢字仮名まじりに書き下した漢文を原文に戻すこと。
従って、
(13)(14)により、
(15)
「復文」とは、「訓読」から「平仮名」を除き、その結果として「残った漢字」を、必要に応じて、「並び替へ」ることである。
然るに、
(16)
⑦ 昔々、王は彼の使用人に多くのお金で駿馬を買いに行かせました。
といふ「日本語」を、
⑧ 昔々、王は せました 彼の使用人を 買いに行か 駿馬を で 多くのお金。
といふ「順番」に「並び替へ」ても、
⑥ Once upon a time, a king let his servant go and buy a swift horse for a lot of money.
とは、ならない。
従って、
(17)
⑥ 昔々、王は彼の使用人に多くのお金で駿馬を買いに行かせました。
といふ「日本語」を、
⑥ 昔々、王は せました 彼の使用人を 買いに行か 駿馬を で 多くのお金。
といふ「順番」に「並び替へ」、その上で、
⑥ 昔々、王は せました 彼の使用人を 買いに行か 駿馬を で 多くのお金。
といふ「日本語」を、
⑥ Once upon a time, a king let his servant go and buy a swift horse for a lot of money.
といふ「英語」に「置き換」へなければ、
⑥「英訳」は、成立しない。
従って、
(17)により、
(18)
「英訳」とは、必要に応じて、「日本語の語順」を「並び替へ」た上で、その「日本語」を、「英語」に「置き換へ」ることである。
然るに、
(19)
中国語の文法が英語同様「SVO」を基本としていることはすでに述べた。英語を日本語に訳すと、各文の前後がバタリバタリとひっくり返った形を取らざるをえないのだが、中国語に翻訳する場合には、文法構造が似通っているために、ほぼそのままの語順でいける。

(新井一二三、中国語はおもしろい、2004年、154頁)
従って、
(18)(19)により、
(20)
「中国語訳」とは、必要に応じて、「日本語の語順」を「並び替へ」た上で、その「日本語」を、「中国語」に「置き換へ」ることである。
従って、
(18)(20)により、
(21)
「翻訳」とは、必要に応じて、「ある言語」の「語順」を「並び替へ」た上で、「その言語」を、「他の言語」に「置き換へ」ることである。
従って、
(15)(21)により、
(22)
「翻訳」に関しては、そのやうなことは無い。ものの、その一方で、
「復文」に関しては、「ある言語の漢字の語彙」と、「漢文の漢字の語彙」は、「一致してゐる」必要が有る。
然るに、
(23)
国語漢語と現代中国語のくちがいを示すひとつのパターンは、国語漢語は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用しているが、本場の中国においては、その言葉が死語になっていて、現在では別のいいかたがふつうになっているという場合である。

(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、206・7頁)
従って、
(22)(23)により、
(24)
「復文」に関しては、「ある言語の漢字の語彙」と、「漢文の漢字の語彙」は、「一致してゐる」必要が有る。一方で、本場の中国においては、その言葉が死語になっていて、現在では別のいいかたがふつうになっている。
従って、
(21)(24)により、
(25)
「中国語」の、「漢文」への「翻訳」は可能であるが、
「中国語」の、「漢文」への「復文」は可能ではない。
従って、
(26)
「中国語」を、「漢文」に訳す場合は、「翻訳」を行ふことになる。
然るに、
(27)
吾、書を読む ⇒ 吾読書。
とするためには、「英語の語彙」は、不要であるが、
吾、書を読む ⇒ I read a book.
とするためには、「英語の語彙」を、必要とするため、
「翻訳」の方が、「復文」よりも、難しい。
従って、
(14)(26)(27)により、
(28)
「日本語」の場合は、「復文」によって、「漢文」を書くことが出来るものの、
「中国語」の場合は、「翻訳」でしか、 「漢文」を書くことが出来ず、尚且つ、
「翻訳」の方が、「復文」よりも、難しい。
然るに、
(23)により、
(29)
国語漢語は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用しているが、本場の中国においては、その言葉が死語になっていて、現在では別のいいかたがふつうになっている。
といふのであれば、「漢文の読解」に於いても、「日本語の語彙」の方が、「中国語の語彙」に対して、アドバンテージを持ってゐる。といふことは、言ふまでもない。
ところで、
(30)
「白話文」に付く「返り点」であるが、


といった具合に、
下 二 上 一
二 五 三 一 四
のやうな、「返り点」としては「有り得ないそれ」を、「返り点の代用」として、用ゐることになる。
然るに、
(31)
下 二 上 一
二 五 三 一 四
のやうな、「返り点」としては「有り得ないそれ」を、「返り点の代用」として用ゐる。
といふことは、「訓読」を介して、「漢文の構造」と、「白話文の構造」が、「同じではない」といふことを、意味してゐる。
(32)
⑤ 古之君有以千金使涓人求千里馬者=
⑤ 古之君有[以(千金)使〔涓人求(千里馬)〕者]。
に於いて、
⑤ 以( )⇒ ( )以
⑤ 求( )⇒ ( )求
⑤ 使〔 〕⇒ 〔 〕使
⑤ 有 [ ] ⇒ [ ]有
といふ「倒置」を行ひ、尚且つ、「平仮名」を加へると、
⑤ 古之君有[以(千金)使〔涓人求(千里馬)〕者]⇒
⑤ 古之君[(千金)以〔涓人(千里馬)求〕使者]有=
⑤ 古之君に千金を以て涓人をして千の里馬を求め使むる者有り。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(33)
逆に言ふと、
⑥ 古之君に千金を以て涓人をして千の里馬を求め使むる者有り=
⑥ 古之君[(千金)以〔涓人(千里馬)求〕使者]有。
に於いて、
⑥ ( )以 ⇒ 以( )
⑥ ( )求 ⇒ 求( )
⑥ 〔 〕使 ⇒ 使〔 〕
⑥  [ ] 有 ⇒ 有[ ]
といふ「倒置」を行ふと、
⑥ 古之君[(千金)以〔涓人(千里馬)求〕使者]有⇒
⑥ 古之君有[以(千金)使〔涓人求(千里馬)〕者]
⑥ 古之君有以千金使涓人求千里馬者。
といふ「復文(漢作文)」が、成立する。
然るに、
(34)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。

(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(32)(33)(34)により、
(35)
⑥ 古之君千金以涓人千里馬求使者有=
⑥ 古之君有[以(千金)使〔涓人求(千里馬)〕者]。
といふ「漢文」と、
⑥ 古之君[(千金)以〔涓人(千里馬)求〕使者]有=
⑥ 古之君に千金を以て涓人をして千の里馬を求め使むる者有り。
といふ「訓読」に於いて、「補足構造」である所の、
⑥ [( )〔( )〕]
⑤ [( )〔( )〕]
に、「変はり」はない。
従って、
(35)により、
(36)
⑤ 古之君千金以涓人千里馬求使者有。
といふ「漢文」と、
⑥ 古之君に千金を以て涓人をして千の里馬を求め使むる者有り。
といふ「訓読」に於いて、「語順」こそ、異なるものの、「補足構造」自体は等しい。
従って、
(23)(36)により、
(37)
(1)国語漢語は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用している。
(2)国語(訓読)と漢文の、「補足構造」は、等しい。
(3)国語(訓読)と漢文の、「語順」は、等しくない。
従って、
(38)
(3)国語(訓読)と漢文の、「語順」は、等しくない。
といふことに、言及する一方で、
(1)国語漢語は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用している。
(2)国語(訓読)と漢文の、「補足構造」は、等しい。
といふことに、言及しないのであれば、「片手落ち」であって、「正しく」はない。
然るに、
(39)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである。

(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)
然るに、
(40)
(1)「返り点」をたよりに読むのは、「上がるとき」であるため、「上がったり下がったり」といふ言ひかたは、マチガイである。
(2)国語と漢文の「補足構造」は等しい。といふことに、気づいてゐないし、国語漢語は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用している。といふことついても、考へが及んでゐない。
(3)「訓読法の限界は、白話文、つまり口語の文章には適用できないことだといわれます(Webサイト:日本漢文の世界)。」とあるため、「白話文」に対しては、初めから、「苦肉の知恵」自体が通用しない。
然るに、
(41)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる。

(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
(42)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様ものである。

(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)
(43)
さすがに、現在においては、「漢文訓読法」でなければ、日本人だけでなく、中国人も中国古典は理解できない、などという倒錯した主張をなす者はいなくなった。今から考えてみれば「漢文訓読法」派は単に現代中国語ができなかっただけのことではなかったか、そのようにさえ思えてくる。

(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、2頁)
(44)
ともかく筆者が言いたいのは、大学でも漢文の授業の方はしっかりと訓読だけを教えればよいということである。以前このようなことをある講演の際に述べたら、他の大学に勤めている先輩から、自分のところでは音読も取り入れて学生もみな読めるようになっていると力まれて困った。それならばその大学出身の若手が中国学会をリードしているはずである。

(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性)
然るに、
(45)
① 很古以前王让去给他的雇工用许多的钱买骏马了。
① Hěn gǔ yǐqián wáng ràng qù gěi tā de gùgōng yòng xǔduō de qián mǎi jùnmǎle.
② Once upon a time, a king let his servant go and buy a swift horse for a lot of money.
を見る限り、
① 很古以前王让去给他的雇工用许多的钱买骏马了。
① Hěn gǔ yǐqián wáng ràng qù gěi tā de gùgōng yòng xǔduō de qián mǎi jùnmǎle.
が、「漢文」でないことは、
② Once upon a time, a king let his servant go and buy a swift horse for a lot of money.
が、「漢文」でないことと、「同じこと」である。
従って、
(46)
「漢文」を学ぶ前に、「中国語」を学ぶことは、「ラテン語」を学ぶ前に、「フランス語」を学ぶことと、変はりが無い。ものの、
「ラテン語」を学ぶには、その前に「フランス語」を学ばなければならない。といふことなど、有るはずが無い。
(47)
研究を職業とされてゐる方たちであれば、中国語で書かれた文献を読んだり、中国語で論文を書く必要があることは、当然である。
しかしながら、
(48)
私自身は、これまでは必要を感じて来なかったせいもあって、英語さへ、ロクに読むことが出来ないので、中国語の文献よりも、ネット上に在る、英語の文献を読めるやうになりたい。
そのため、
(49)
我与其学習中国語不如学習英語=
ガヨキガクシュウチュウゴウゴフツジョガクシュウエイゴ=
我与〔其学‐習(中国語)〕不[如〔学‐習(英語)〕]⇒
我〔其(中国語)学‐習〕与[〔(英語)学‐習〕如]不=
我〔其の(中国語を)学‐習する〕与は[〔(英語を)学‐習するに〕如か]不=
私は、中国語を学習するのであれば、むしろ英語を学びたい。
平成28年01月30日、毛利太。

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