―「昨日(1月16日)書いた「二つの記事」の内の、二番目のそれ」を書き換へます。―
(01)
① 不読書=書を読まず。
に於いて、
① レ レ
は、
② 三 二 一
に、置き換へることが、可能である。
従って、
(02)
① 不読書=書を読まず。
に於いて、
三=レ
二=レ
一=
である。
(03)
囗=黙字
とすれば、
② 三 二 一
は、
③ 下 二 一 囗上
に、置き換へることが、可能である。
(04)
囗=黙字
を、書かなければ、
③ 下 二 一 囗上
は、
④ 下 二 一 上
に、置き換へることが、可能である。
然るに、
(05)
④ 下 二 一 上
は、
⑤ 〔 ( ) 〕
に、置き換へることが、可能である。
従って、
(01)(03)(05)により、
(06)
① レ レ
② 三 二 一
④ 下 二 一 上
は、
⑤ 〔 ( ) 〕
に、置き換へることが、可能である。
cf.
然るに、
(07)
一=01
二=02
上=11
下=12
甲=21
乙=22
天=31
地=32
であるとして、
01<02<11<12<21<22<31<32
といふ「順番」が、「括弧」には無い。
従って、
(08)
「括弧」は、「返り点」に似てゐるが、「同じ」ではない。
(09)
「惡(悪)」といふ「漢字」には、
① アク(名詞)
② アク(形容詞)
③ ニクム(動詞)
④ イヅクンゾ(副詞)
といふ三つの「意味」が有る。
然るに、
(10)
惡遇之命也=イヅクンゾ之の命に遇ふや。
に対して、
惡稱人之惡者=イヅクンゾ人を称する之悪は、
では、「意味」をなさない。
然るに、
(11)
惡稱人之惡者。
の、
人之惡
に「注目」し、
惡稱(人之惡)者。
とすると、
惡稱(人之惡)者。
は、
惡〔稱(人之惡)者〕。
であることに、気が付く、ことになる。
cf.
然るに、
(12)
惡稱人之惡者。
といふ「漢文」を、
ヲショウジンシアクシャ。
といふ風に、何回「発音」したところで、
人の惡を稱する者を惡む。
といふ「意味」は、分らない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
「漢文」は、「音読」しても「理解できない」ものの、
「漢文」は、「観察」すれば「理解できる」ことになる。
従って、
(14)
音読漢文不如観察漢文=
音‐読(漢文)不[如〔観‐察(漢文)〕]⇒
(漢文)音‐読[〔(漢文)観‐察〕如]不=
(漢文を)音読するは[〔(漢文を)観察するに〕如]不=
漢文を音読することは、漢文を観察することに、及ばない。
といふ、ことになる。
然るに、
(15)
徂徠は「題言十則」のなかで以下のように述べている。
中華の人多く言へり、「読書、読書」と。予は便ち謂へり、書を読むは書を看るに如かず、と。此れ中華と此の方との語言同じからざるに縁りて、故に此の方は耳口の二者、皆な力を得ず、唯だ一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、総て殊なること有ること莫し。
ここでの「読書」は、文脈からして音読であろう。
(勉誠出版、「訓読」論、2008年、27・244頁)
従って、
(15)により、
(16)
徂徠は「題言十則」のなかで、
読書不如看書=
読(書)不[如〔看(書)〕]⇒
(書)読[〔(書)看〕如]不=
(書を)読むは[〔(書を)看る〕如か]不=
書を音読することは、書を看ることに、及ばない。
といふ風に、述べてゐる。
従って、
(16)により、
(17)
荻生徂徠も、
漢文を「音読」することは、漢文を「観察」することに、及ばない。
といふ風に、述べてゐる。
従って、
(18)
ソシュールが言ふやうに、「音声」だけが「言語の本質」であるとすると、荻生徂徠の主張は、マチガイである。
平成28年01月17日、毛利太。
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