2018年12月24日月曜日

「前置(倒置)」と「強調形」と「Wh移動」。

(a)『返り点と括弧』については、『「返り点」と「括弧」(略8)(https://kannbunn.blogspot.com/2018/09/blog-post_17.html)』他もお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
―「前回の記事(12月19日)」の「続き」を書きます。―
然るに、
(29)
① 誰加 (誰をか加ふる)。
② 誰加衣(誰か衣を加ふる)。
③ 誰敬 (誰をか敬せん)。
に於いて、
① 誰 は「目的語」であって、
② 誰 は 「主語」 である。
③ 誰 は「目的語」である。
(30)
その意味では、
① 誰加 (誰をか加ふる)。
② 誰加衣(誰か衣を加ふる)。
③ 誰敬 (誰をか敬せん)。
であるならば、「」が「主語」であるか「目的語であるか区別できないではないか(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁改)。
といふ、ことになる。
然るに、
(31)
③ You respect him(あなたは彼を尊敬します).
③ Who respect him(誰が、彼を尊敬しますか).
といふ「語順」からすれば、
③ Do you respect whom(あなたは誰を尊敬しますか)?
ではなく、
Whom do you respect(あなたは誰を尊敬しますか)?
であるのは、ヲカシイ。
然るに、
(32)
③ Do you respect whom(あなたは誰を尊敬しますか)?
Whom do you respect(あなたは誰を尊敬しますか)?
に於ける、
Whom の「位置」への「移動」を、「Wh移動」といふ。
従って、
(30)(32)により、
(33)
敬(誰をか敬せん)。
Whom do you respect(あなたは誰を尊敬しますか)?
に於ける、
③ 誰
④ Whom
は、両方とも、「Wh移動」である。
然るに、
(34)
賓語(目的語)が疑問代名詞の場合、上古漢語では倒置して、動詞の前に置く(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁改)。
(35)
倒置(前置)とは、言語において通常の語順を変更させることである。表現上の効果を狙ってなされる修辞技法の1つで、強調的修辞技法の一つである(ウィキペディア改)。
(36)
前置による強調
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語も、その介詞の後に置かれるのが、通則であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語が疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前におかれている。このように、漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置することは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、334・5頁)。
従って、
(30)(34)(35)(36)により、
(37)
例へば、
敬(孟子、告子上)。
の場合も、「誰」が「倒置(前置)」されるのは、「目的語としての、誰を、強調したいがためである。」といふことが、「了解」されてゐる限りは、
敬(誰うやまふか)。
といふ「意味」になり、
敬(誰うやまふか)。
といふ「意味」にはならない。
従って、
(38)
逆に言へば、「誰」が「倒置(前置)」されるのは、「目的語としての、誰を、強調したいがためである。」といふことが、「了解」されてゐないのであれば
敬(誰うやまふか)。
といふ「意味」になり、
敬(誰うやまふか)。
といふ「意味」には、ならない
然るに、
(39)
『孟子』の原文と趙岐のを比較すると上古の語順は後漢時代に、すでに変化して現代語式なっていたことがわかる。すなわち『孟子』では「誰敬」「誰先」と賓語の誰が動詞の前に来ている(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁)。
従って、
(38)(39)により、
(40)
後漢時代には、「」が「倒置(前置)」されるのは、「目的語としての、誰を、強調したいがためである。」といふことが、「了解」されなくなってしまったが故に、
『孟子』の原文では、「敬(誰をうやまふか)。」といふ「語順」であるにも拘はらず、
『趙岐』の注釈では、「敬(誰をうやまふか)。」といふ「現代式の語順」になってゐる。
然るに、
(41)
学而遺(小をば学んで、大をば忘る:韓愈、師説)。
の場合も、
② 学而遺(小を学んで、大を忘る)。
の、「倒置(前置)」である。
従って、
(40)(41)により、
(42)
学而遺(小を学んで、大を忘る:韓愈、師説)。
の場合も、「小と大」が「倒置(前置)」されるのは、「目的語としての、小・大を、強調したいがためである。」といふことが、「了解」されてゐるが故に、
学而遺(小は学んで、大は忘れる)。
といふ「意味」には、ならない
然るに、
(43)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
然るに、
(44)
を- 格助詞「を」強調し、動作・作用の対象を強く示す意を表す(旺文社、全訳学習古語辞典、2006年、934頁)。
従って、
(41)~(44)等により、
(45)
① 誰(濁音)好きか。
② 大を(濁音)遺る。
に於いて、
① は、「音による強調形」であって、
② も、「音による強調形」である。
平成30年12月24日、毛利太。

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