(01)
① Y=-1ⅹ+1(一次関数)
② Y= 0ⅹ+0(ⅹ軸)
を「連立」すると、
(1,0)=グラフとⅹ軸との交点の座標。
然るに、
(02)
F(ⅹ)=人間(ⅹ)
であるとき、
F(チャールズ)=1
F(スヌーピー)=0
従って、
(03)
Y=aⅹ+b
のやうな「関数」の他に、
F(ⅹ)=人間(ⅹ)
のやうな「関数」が有って、
人間(チャールズ)=真
人間(スヌーピー)=偽
である。
然るに、
(04)
F(ⅹ)=人間(ⅹ)
に於いて、
F=人間 は、
名詞(オノマ) であって、
動詞(レーマ) ではない。
cf.
ρημα,ατοσ,το,
Ⅱ.in Gramm.,a verb, opp.to ονομα(a noun)
(LIDDELL&SCOTT,希英中辞典)
然るに、
(05)
レーマとはいくつかの空白的部分をもつ文のことである。ところでこのレーマ は現在の論理学の言葉で言えば明らかに命題関数である。つまりf(x),f(x,y),f(x, y,z)といったものである。さてこうしたレーマあるいは命題関数はそれ自身において は真でも偽でもなく、不定である(山田正、論理学史、1983年、95頁)。
従って、
(06)
F(ⅹ)=人間(ⅹ)
に於いて、
F=人間 は、
名詞(オノマ) であって、
動詞(レーマ) ではない。が故に、
F(チャールズ)=1
F(スヌーピー)=0
のやうな「命題関数」を、「関数(オノマ)」とする。
(07)
F は「名詞」ではない。
ⅹ は「名詞等」である。
といふ場合に於ける、
F(ⅹ)。
を、「関数(レーマ)」とする。
(08)
_F(ⅹ)。
が「関数(レーマ)」であるとき、
_ は「主語」であるが、「漢文や日本語」では、「主語」がしばしば「省略」されるため、以下では、
F(ⅹ)。
と書いて、
_F(ⅹ)。
であると、する。
然るに、
(09)
読書=書を読む。
に於いて、
読 は、動詞 であって、
書 は、名詞 である。
従って、
(07)(09)により、
(10)
読(書)。
は、「レーマ」であるが、
読(書)。
のやうに、
「変数ⅹ」を含まない場合は、
場合は、「命題(レーマ)」とする。
従って、
(08)(10)により、
(11)
F(ⅹ)。
は、「関数(レーマ)」であって、
読(書)。
は、「命題(レーマ)」である。
然るに、
(12)
読(ⅹ)。
の、
ⅹに、
ⅹ=書
を代入した「結果」が、
読(書)。
である。とするならば、
読( )。
が、「関数(レーマ)」であって、
ⅹ=書
は、「(レーマの)変数」である。
加へて、
(13)
不〔ⅹ〕
の、
ⅹに、
ⅹ=読(書)。
を代入した「結果」が、
不〔読(書)〕。
である。とするならば、
不〔 〕。
が、「関数(レーマ)」であって、
読(書)
は、「(レーマの)変数」である。
従って、
(12)(13)により、
(14)
読(書)。
は、「関数(レーマ)」であり、
不〔読(書)〕。
非[不〔読(書)〕]。
無{人不[言〔見(花)帰〕]}。
等は、「合成関数(レーマ)」である。
従って、
(15)
見(が主要部である際)の(補部)=(花)
言(が主要部である際)の〔補部〕=〔見(花)帰〕
不(が主要部である際)の[補部]=[言〔見(花)帰〕]
無(が主要部である際)の{補部}={人不[言〔見(花)帰〕]}
であるとき、
① 無人不言見花帰=
① 無{人不[言〔見(花)帰〕]}⇒
② {人[〔(花)見帰〕言]不}無=
② {人として[〔(花を)見て帰ると〕言は]不るは}無し。
といふ「漢文訓読」は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。
といふ「説明」は、
(16)
見(が関数である際)の(変数)=(花)
言(が関数である際)の〔変数〕=〔見(花)帰〕
不(が関数である際)の[変数]=[言〔見(花)帰〕]
無(が関数である際)の{変数}={人不[言〔見(花)帰〕]}
であるとき、
① 無人不言見花帰=
① 無{人不[言〔見(花)帰〕]}⇒
② {人[〔(花)見帰〕言]不}無=
② {人として[〔(花を)見て帰ると〕言は]不るは}無し。
といふ「漢文訓読」は、
①「関数先行型」⇒
②「関数後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。といふ風に、改めることが出来る。
― Nobody don’t like me. ―
(17)
我 は「名詞」であるため、
我(知)
といふ「レーマ」は、有り得ないし、
我 は「動作・状態」ではないため、
不(我)
といふ「レーマ」も、有り得ない。
cf.
不ず《動作や状態を否定する》(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、293頁)。
従って、
(18)
思ふに、「強調」を目的として、
否定文で、目的語が代名詞の場合、VとOの語順が逆になって、「否定詞+O+V」となる(三省堂、明解古典学習シリーズ16、論語 孟子、1973年、14頁)。
従って、
(18)により、
(19)
① 無人不我好=
① 無〔人不(我好)〕⇒
② 〔人(我好)不〕無=
② 〔人として(我を好ま)不るは〕無し=
③ 全ての人が、私を好んでゐる(私は全ての人から好かれてゐる)。
従って、
(19)により、
(20)
① 無人不我好=
① No{one[doesn’t〔like(me)〕]}⇒
② {[〔(me)like〕doesn’t]one}No=
② {[〔(私を)好きで〕ない]人は}ゐない=
③ 全ての人が、私を好んでゐる(私は全ての人から好かれてゐる)。
従って、
(20)により、
(21)
子どもが言ふ、
① No one does’t like me=
① Nobody don’t like me=
② Everybody likes me=
③ 全ての人が、私を好んでいる(私は全ての人から好かれている)。
然るに、
(22)
(12)
子ども:Nobody don’t like me.
母親 :No,say ”Nobody likes me.”
子ども:Nobody don’t like me.
(同じやりとりが8回繰り返される)
母親 :No,now listen carefully;say ”Nobody likes me.”
子ども:Oh! Nobody don’t like me.
従って、
(19)~(22)により、
(23)
子ども:Everybody likes me.
と、自分のことを、言ってゐるのに、
母親は:Nobody likes me.
と、その子に、言はせようとしてゐることになる。
従って、
(24)
me=Tom ならば、
Tom:Everybody likes Tom.
と、Tom自身のことを、言ってゐるのに、
母親は:Nobody likes Tom.
と、Tomに、言はせようとしてゐることになる。
従って、
(25)
① Nobody don’t like me =
① No{one[doesn’t〔like(me)〕]}⇒
② {[〔(me)like〕doesn’t]one}No=
② {[〔(私を)好きで〕ない]人は}ゐない=
③ 全ての人が、私を好んでいる(私は全ての人から好かれている)。
といふ「普遍言語(UG)」を知らないのは、母親と、アメリカ人一般である。
といふことになる。
従って、
(26)
(12)の例(McNeil(1966),p.69より)から意図的に模倣させようとしても不可能であることがわかる(大修館書店、生成言語学入門、1999年、76頁)。
とするのは、「誤解」である。
(26)
この場合は、
Tom:Everybody likes Tom.
と、Tom自身が、Tomのことを、言ってゐるのに、
母親が:Nobody likes Tom.
といふ風に、Tom自身に、無理矢理、言はせようとしてゐるに、過ぎない。
(27)
① Nobody likes me=
① No one like me.
の場合は、
① No[one〔like(me)〕]⇒
② [〔(me)like〕one]No=
② [〔(私を)好きな〕人は]ゐない。
である。
(28)
自動詞は、「主語の関数」である。
他動詞は、「主語と目的語の関数」である。
授与動詞は、「主語と間接目的語と直接目的語の関数」である。
使役動詞は、「使役動詞の主語と、・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ の関数」である。
「オノマ」は、「主語とbe動詞と補語の関数」である。
平成26年06月18・19日、毛利太。
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