(01)
Aといふ人物が、
真なる文の否定は必ず偽、偽なる文の否定は必ず真。これが成り立つよう、
否定は文全体にかかるものとして理解するのが論理学の鉄則です。
(三浦俊彦、論理学がわかる辞典、2004年、111頁)
といふことを知ってゐて、尚且つ、
「漢文」についても、さうのであると、考へたとする。
だとすると、
(02)
Aは、
不(読漢文)。
といふ風に思ふ。ことになる。
然るに、
(03)
不(読漢文)。
といふ「文」は、明らかに、「漢文」といふ「語」を、含んでいる。
従って、
(02)(03)により、
(04)
Aは、
不読漢文。
といふ「漢文」を見て、
不(読(漢文))。
といふ風に、思ふことになる。
然るに、
(05)
Aは、
「漢文の語順」は、「英語の語順」と、基本的に同じであるが、
「主語」に関しては、日本語と同じく、しばしば「省略」される。
といふことを、知ってゐたとする。
だとすれば、
(04)(05)により、
(06)
Aは、
不読漢文=
不(読(漢文))。
といふ「漢文」を見て、
不(読(漢文))⇒
((漢文)読)不。
((漢文を)読ま)ず。
といふ風に、読むことになる。
従って、
(07)
真なる文の否定は必ず偽、偽なる文の否定は必ず真。これが成り立つよう、
否定は文全体にかかるものとして理解するのが論理学の鉄則であって、尚且つ、「漢文の鉄則」である。
ならば、その時に限って、
不読漢文=不(読(漢文))。
であって、尚且つ、
不読漢文=漢文を読まず。
といふ「漢文訓読」は、「正しい」。
然るに、
(08)
不読漢文=漢文を読まず。
といふ「漢文訓読」は、実際に、「正しい」。
加えて、
(09)
明治以前の日本人は論理的な思考を身につけるために漢文を学んだ。なぜなら、漢文は論理的な構文をたくさん含んでいるからである(山下正男、論理的に考えること、1985年、はじめに)。
従って、
(10)
真なる文の否定は必ず偽、偽なる文の否定は必ず真。これが成り立つよう、
否定は文全体にかかるものとして理解するのが論理学の鉄則であって、尚且つ、「漢文の鉄則」である。
といふことを、疑ふべき「理由」は、見当たらない。
従って、
(07)~(10)により、
(11)
不読漢文=不(読(漢文))。
であるといふことを、疑ふべき「理由」は、見当たらない。
従って、
(01)~(11)により、
(12)
不読漢文=不(読(漢文))。
といふ「括弧」について、「括弧は、有ります!」。
平成26年06月27日、毛利太。
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