(01)
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))⇒
② ((人而(死)不)有)不=
② ((人にし而(死せ)不るは)有ら)不。
といふ「漢文」を、「述語論理」に直訳すると、
① ¬((∃x)(Mx&¬(Dx)))=(((死ぬ)ない人xは)存在し)ない。
然るに、
(02)
Human being can not stand very much proliferation of brackets(E.J.Lemmon).
従って、
(03)
人間は、括弧が多過ぎることに我慢できないので(E.J.レモン)ので、
① ¬(∃x)(Mx&¬(Dx))=((死ぬ)ない人xは)存在しない。
然るに、
(04)
¬(∃x)=存在しない=無である。
であって、尚且つ、「漢文」では、「而=&」は、不要である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(05)
① 無(人不(死))=人として死せざるは無し。
① ¬(∃x)(Mx&¬(Dx))=((死ぬ)ない人xは)存在しない。
従って、
(05)により、
(06)
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕⇒
② 〔人(死)不〕無=
② 〔人として(死せ)不るは〕無し。
といふ「漢文訓読(倒置)」は、「論理学的」に「正しい」。
然るに、
(07)
5.2.7 語順と主要部パラメータ
日本語と英語の語順は違うが、この違いは文法組織のどこから導かれるものであろうか。― 中略 ―、仮に普遍文法は主要部と補部について二つの選択肢を許すと考えてみよう。すなわち主要が補部に先行する「主要部先行型」と主要部が補部に後続する「主要部後行型」の二つである。― 中略 ―、このようにすべての句において日本語では主要部後続型、英語では主要部先行型となっていることがわかる。一つのパラメータの値の設定が多くの構造の違いに反映されている好例である(大修館書店、生成言語学入門、1999年、223~225頁)。
従って、
(08)
不(が主要部である際)の(補部)=(死)
無(が主要部である際)の〔補部〕=〔人不(死)〕
であるとき、
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕⇒
② 〔人(死)不〕無=
② 〔人として(死せ)不るは〕無し。
といふ「漢文訓読」は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。
従って、
(08)により、
(09)
見(が主要部である際)の(補部)=(花)
言(が主要部である際)の〔補部〕=〔見(花)帰〕
不(が主要部である際)の[補部]=[言〔見(花)帰〕]
無(が主要部である際)の{補部}={人不[言〔見(花)帰〕]}
であるとき、
① 無人不言見花帰=
① 無{人不[言〔見(花)帰〕]}⇒
② {人[〔(花)見帰〕言]不}無=
② {人として[〔(花を)見て帰ると〕言は]不るは}無し。
といふ「漢文訓読」は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。
cf.
〔用例〕無2人不1ㇾ道2看ㇾ花回1。〈センター〉
(読)人として花を看て回ると道はざるは無し。
(訳)どんな人でも花を見て帰るところだと言わない人はいない。
(仁田峠公人、センター試験対策漢文キーワード200、平成17年、24頁)
従って、
(09)により、
(10)
① 無人不言見花食団子帰=
① 無{人不[言〔見(花)食(団子)帰〕]}⇒
② {人[〔(花)見(団子を)食べて帰〕言]不}無=
② {人として[〔(花を)見て(団子を)食べて帰ると〕言は]不るは}無し。
の場合も、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ、「変換(倒置)」である。が、
このやうな「代入」は、限りがない。
従って、
(10)により、
(11)
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
といふ「順番」で「括弧」が用ゐられ、尚且つ、
④{ }の中に、一つ以上の
③[ ]が入り、
③[ ]の中に、一つ以上の
②〔 〕が入り、
②〔 〕の中に、一つ以上の
①( )が入る。
ならば、その場合に限って、
①「括弧」⇒
②「括弧」。
は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ、「変換(倒置)」である。
従って、
(12)
① 主要部〔主要部(補部)〕⇒
② 〔(補部)主要部〕主要文。
③ 三 二 一。
① 主要部〔主要部(補部)主要部(補部)〕⇒
② 〔(補部)主要部(補部)主要部〕主要文。
③ 下 二 一 中 上。
は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。一方で、
① 主要部(主要部〔補部)〕⇒
② (〔補部)主要部〕主要部。
③ 二 三 一。
① 主要部(主要部〔補部)補部〕⇒
② (〔補部)主要部補部〕主要部。
③ 二 下 一 上。
等は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」ではない。
従って、
(13)
③ 三 二 一。
③ 下 二 一 中 上。
といふ「返り点」に対して、
③ 二 三 一。
③ 二 下 一 上。
といふ「返り点」を必要とする場合は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」ではない。
従って、
(14)
逆に言へば、
「漢文訓読」に於いて、
③ 二 三 一。
③ 二 下 一 上。
のやうな『ありえない、「返り点」』が、「不要」であるといふことは、
「漢文訓読」は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。といふことを、意味してゐる。
然るに、
(15)
「漢文」ではなく、
「白話」に於いて、
以為=思ふ。
我的話=私の話。
靠不住=あてにならない。
cf.
「田中秀、漢文から中国語への道、1981年、111頁」。
従って、
(16)
① 以為我的話靠不住=
① 以為(我的話靠不住)⇒
② (我的話靠不住)以為=
② (私の話をあてにならないと)思ふ。
といふ「白話訓読」は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。
然るに、
(17)
「虎の威を仮る(戦国策)」の「原文」は、
① 以我為不信。
であって、
① 以為我不信。
ではない。
従って、
(18)
私=私の話=私的話。
不信=あてにならない=靠不住。
とするとき、
① 以為我的話靠不住。
の「語順」は、「漢文」では、
① 以我為不信=
① 以我的話為靠不住。
であることに、なる。
従って、
(19)
① 以我為不信 =
① 以我(為)不信 ⇒
② 以(為)我不信 =
② 以為(我的話靠不住)⇒
② (私の話をあてにならないと)思ふ。
然るに、
(20)
① 以我(為)不信。
のやうに、
① 我(為)
であるといふことは、
① 我(為)=
① 主要部(補部)。
といふことに、他ならない。
従って、
(21)
① 我(為)=
① I (am)=
① 主要部(補部)。
であるものの、
① 代名詞が、(動詞)の「主要部」である。
といふことは、有り得ない。
従って、
(19)(21)により、
(22)
① 以我為不信 =
① 以我(為)不信 ⇒
② 以(為)我不信 =
② 以為(我的話靠不住)⇒
② (私の話をあてにならないと)思ふ。
は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」では、有り得ない。
従って、
(23)
「漢文訓読」では、
① 以我為不信。
① 以(我)為〔不(信)〕⇒
② (我)以〔(信)不〕為=
②(我を)以て〔(信なら)不と〕為す。
であるものの、この場合は、
① 以(我)為〔不(信)〕⇒
②(我)以〔(信)不〕為 。
明らかに、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
である。
従って、
(22)(23)により、
(24)
① 以我為不信 ⇒
② 以為(我的話靠不住)⇒
② (私の話をあてにならないと)思ふ。
といふ、「漢文白話訳」は、
① 以(我)為〔不(信)〕。
といふ「漢文のシンタックス」を、
① 以為(我不信)。
といふ「白話のシンタックス」に「置き換へた上」で、
① 以為(我不信)=
② 以為(我的話靠不住)。
といふに、訳してゐる。ことになる。
従って、
(23)(24)により、
(25)
「漢文訓読」では、
①( )〔( )〕⇒
②( )〔( )〕。
であるのに対して、
「漢文白話訳」では、
①( )〔( )〕⇒
②( )。
である、ことになる。
加へて、
(26)
① 以我為不信 ⇒
② 以為我的話靠不住。
の場合は、
以(前置詞)≠以為(動詞)
私(対格) ≠私的(属格)
であるため、
① 以我為不信 ⇒
② 以為我的話靠不住。
にあって「等しい漢字」は、
① 不。
② 不。
だけである。
従って、
(27)
① 以我為不信 ⇒
② 以為我的話靠不住。
といふ「漢文白話訳」は、
(イ) シンタックス。
(ロ) 語順。
(ハ) 漢字。
の全てが、「原文」とは、甚だ、異なってゐる。
然るに、
(28)
① 以我為不信 ⇒
② 我を以て信なら不と為す。
のやうな「漢文訓読」は、
① 以(我)為〔不(信)〕⇒
②(我)以〔(信)不〕為 =
②(我を)以て〔(信なら)不と〕為す。
であるため、「漢字」は、完全に「等しい」。
加へて、
(29)
「語順」に関しては、
① 以我為不信 ⇒
① 以為我不信 ⇒
① 以為我的話靠不住。
であるため、「漢文白話」であっても、「異なってゐる」。
従って、
(24)~(29)により、
(30)
(イ) シンタックス。
(ロ) 漢字。
(ハ) 語順。
に関して、
① 以我為不信 ⇒
②(我を)以て〔(信なら)不と〕為す。
に於いて、異なってゐるのは、
(ハ) 語順
だけであるのに対して、
① 以我為不信 ⇒
① 以為我的話靠不住。
に於いて、異なってゐるのは、
(イ) シンタックス。
(ロ) 漢字。
(ハ) 語順。
の、三つとも、全てである。
従って、
(31)
① 以我為不信。
② 我を以て信なら不と為す。
だけ見てゐると、「語順が違ふ!」といふことになるものの、
① 以(我)為〔不(信)〕。
② (我)以〔(信)不〕為。
に注目すれば、
①( )〔( )〕。
②( )〔( )〕。
すなはち、「シンタックス(構造)が等しい!」といふことになるし、
① 以(我)爲〔不(信)〕⇒
② (我)以〔(信)不〕爲=
②(我を)以て〔(信なら)不と〕爲す。
と読む以上、「原文と同じ漢字」を読んでゐることになる。
従って、
(32)
「漢文訓読法」でなければ。日本人だけではなく、中国人も中国の古典は理解できない、 などという倒錯した主張(勉誠出版、「訓読」論、2008年、2頁)は、必ずしも、「倒錯 した主張」とは、言へない。
従って、
(33)
漢文よみを止めて中国語(その当時は支那語でしたが)でもってよまなければならない。 それは徳川時代にも荻生徂徠がいっぺんやったことだが、今はもっとやりよい時代だから 大いにやらなければならない(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、21頁)。
とすることは、「短絡的」である。
平成26年06月12日、毛利太。
(34)
漢文訓読と、中国語について、質問させて下さい。
倉石武四郎博士に師事され...師事された、牛島徳次博士は、「1977年初版、中国古典の学び方」の中で、伝統的な「漢文訓読法」の一切を否定して、「現代中国語の学習」を「基礎」とした「中国古典の学習」を、提唱されています。
e.g. これは...解決済み - 更新日時:2014/05/29 18:11:43 -
回答数:2 - 閲覧数:153
平成26年06月09日、ONOMAMEUS。
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