(01)
(一)主述関係 主語 ― 述語。
(二)修飾関係 修飾語 ―
被修飾語。
(三)補足構造 叙述語 ― 補足語。
(四)並列関係 並列語 ― 並列語。
右の四つの文法関係は、漢語文法の基礎となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、284頁改)。
然るに、
(02)
例へば、
人之悪=人の悪。
の場合は、
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語。
であるが、
称人之悪=人の悪を称す。
は、全体としては、
(三)補足構造 叙述語 ― 補足語。
である。
然るに、
(03)
彼称人之悪=彼人の悪を称す。
は、
SVO=主語+動詞+目的語。
である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
彼称人之悪=彼人の悪を称す。
といふ「漢文訓読」は、
(三)補足構造 叙述語
― 補足語。
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語。
(一)主述関係 主語 ― 述語。
の、「組み合はせ」で、出来てゐる。
然るに、
(05)
F ⅹ に於いて、
F ⅹ が、『補足関係』に在る時、そのやうな、
F ⅹ を、
F(ⅹ) と、記すことにする。
従って、
(06)
G(ⅹ)
といふ、『補足関係』に於いて、
ⅹ=F(ⅹ) ならば、
G(ⅹ)=G〔F(ⅹ)〕。
従って、
(07)
H(ⅹ)
といふ、『補足関係』に於いて、
ⅹ=G〔F(ⅹ)〕 ならば、
H(ⅹ)=H[G〔F(ⅹ)〕]。
従って、
(08)
H =非
G =不
F =悪
ⅹ=寒
ならば、
H[G〔F(ⅹ)〕]=
非[不〔悪(寒)〕]。
は、『補足構造』を、表してゐる。
従って、
(09)
非不悪寒=寒きを悪ま不るに非ず。
といふ「漢文訓読」は、
(三)補足構造 叙述語 ― 補足語。
だけの、「組み合はせ(合成)」で、出来てゐる。
然るに、
(10)
非[不〔悪(ⅹ)者〕]也。
に於いて、
ⅹ=称(人之悪)而道(己之長)。
といふ、「代入」を行ふ。
従って、
(08)(10)により、
(11)
非{不[悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也。
は、
非不悪称人之悪而道己之長者也。
といふ「漢文」の、『補足構造』を、表してゐる。
然るに、
(12)
非不悪称人之悪而道己之長者也。
といふ「漢文」の、『補足構造』が、
非{不[悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也。
といふ「括弧」で表せることは、純粋に、「漢文の文法」に属してゐるのであって、直接には、「訓読」の問題ではない。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳案主人、漢文法基礎、1984年、339頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
非{不[悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也 ⇔{[〔(人の悪を)称して(己の長を)道ふ者を〕悪ま]不るに}非ざるなり。
に於いて、
左辺=『漢文の、補足構造』。
右辺=『国語の、補足構造』。
であるが、「左(右)の語が、右(左)のことばのどこまでかかるか」といふ、「管到」の立場からすれば、
非{不[悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也 ={[〔(人の悪を)称して(己の長を)道ふ者を〕悪ま]不るに}非ざるなり。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(12)(14)により、
(15)
非不悪称人之悪而道己之長者也。
といふ「漢文」を、
人の悪を称して己の長を道ふ者を悪ま不るに非ざるなり。
といふ風に、「訓読」することは、
非不悪称人之悪而道己之長者也。
といふ『漢文の、捕捉構造』を、
非{[不〔悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也。
といふ風に、捉へてゐることに、他ならない。
然るに、
(16)
例へば、
非不悪 ・ ・ ・ ・ ・
也。 は、
悪(にく)まないのではないのである。
とは、決して、読まないため、
悪ま不るに非ざるなり。
といふ「言ひ方」は、実質的に、他には、「読みやう」が無い。
従って、
(12)(15)(16) により、
(17)
「訓読」は、「原文(漢文)」の「捕捉構造(管到)」に即した、「定型的な訳読」である。
然るに、
(18)
非不悪称人之悪而道己之長者也=
人の悪を称して己の長を道ふ者を悪ま不るに非ざるなり。
に対する、「返り点」は、
レ レ 下 二 一 二 一 上。
従って、
(18)により、
(19)
非不悪称人之悪而道己之長者也 ⇒
非{[不〔悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也。
に於ける、
{[〔( )( )〕]}。
といふ「括弧」は、
レ レ 下 二 一 二 一 上。
といふ「返り点」に、「対応」する。
cf.
従って、
(17)(19)により、
(20)
「返り点」が有るからこそ、例へば、
「新釈漢文大系 全120巻(別巻1) - 明治書院」は、
「原文(漢文)」の「補足構造(管到)」に即した、「定型的な訳読」である。といふ、ことになる。
然るに、
(21)
満洲人の努力は無駄ではなかった。「世界の言語ガイドブック」⑯という本によれば、現代に満洲語を習得するメリットは支那の古典を満洲語に翻訳されたものから理解できることである、というのだ。つまり漢文は誰にとっても難しいが、通常の言語体系である満洲語によって古典を習得できるというのだ。満洲語により支那の古典を理解することは、ルネッサンスの時代にヨーロッパ人がアラビア語からラテン語の古典を理解したのに似ている(Webサイト:漢民族滅亡論2)。
然るに、
(20)により、
(22)
日本語を習得すれば、「原文(漢文)」の「捕捉構造(管到)」が分かるだけでなく、「通釈」により、支那の古典を「現代日本語」に翻訳されたものから理解できることになる。
加へて、
(23)
北京語は満洲語がルーツである(Webサイト:漢民族滅亡論2)。
満州語は類型論的に膠着語に分類され、語順は日本語と同じく「主語―補語―述語 (SOV)」の順である。修飾語は被修飾語の前に置かれる。
また、関係代名詞がなく代わりに動詞が連体形を取って名詞を修飾するのも日本語と同様である。
さらに、日本語同様、動詞を活用する(動詞語幹に接尾辞を付ける)ことで、日本語で言う過去形や連用形と同じ働きを、動詞に持たせることができる(ウィキペディア)。
従って、
(22)(23)により、
(24)
例へば、
学而時習之。
を、北京語(≒満州語)で読んで、北京語(≒満州語)で理解しなければ、支那の古典が、理解できない。とは、私には、思へない。
平成26年09月29日、毛利太。
2014年9月29日月曜日
2014年9月27日土曜日
「括弧(管到)は有ります!!」(Ⅳ)。
(01)
「直読」か「訓読」かは、日本の中国研究者にとって長年の課題であり、たえず蒸し返された問題であった(勉誠出版、「訓読論」、2008年、2頁:中村春作)。大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。専門家と称する人たちの大部分、99.9パーセントは(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである。これは厳たる事実である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、62頁)。
従って、
(01)により、
(02)
① 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求むる者 ={直読派}。
② 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者=〈訓読派〉。
然るに、
(03)
漢文よみを止めて中国語(その当時は支那語でしたが)でもってよまなければならない。 それは徳川時代にも荻生徂徠がいっぺんやったことだが、今はもっとやりよい時代だから大いにやらなければならない。
(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、21頁)
従って、
(02)(03)により、
(04)
③ 倉石先生非〈訓読派〉=
③ 倉石先生は〈訓読派〉に非ず=
③ 倉石先生は〈訓読派〉ではない。
といふ「命題」は、「真(本当)」である。
然るに、
(05)
② 不求以解中国語法解漢文者=
② 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者⇒
② {[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者=
② {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者=
② 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者=〈訓読派〉。
従って、
(04)(05)により、
(06)
② を、
③ に、「代入」すると、
③ 倉石先生非〈訓読派〉=
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
③ 倉石先生〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非=
③ 倉石先生は〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ず=
③ 倉石先生は、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ず=
③ 倉石先生は、〈訓読派〉ではない。
といふ「命題」は、「真(本当)」である。
然るに、
(07)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。 管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
③ 倉石先生 が、
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「命題」を、「真(本当)」であるとするならば、
③ 倉石先生 は、
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「漢文」に対して、
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
③ 倉石先生〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非=
③ 倉石先生〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ず。
といふ「管到(捕捉構造)」を、認めざるを、得ない。
然るに、
(09)
③ 倉石先生 が、
③ 倉石先生は〈訓読派〉ではない=
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「命題」を、「偽(ウソ)」であるとすることは、有り得ない。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 倉石先生 は、
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者=
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「管到(補足構造)」を、認めざるを、得ない。
加へて、
(11)
とっくに結論が出ている。清朝における北京官話とは満洲語である。そして英和辞典のmandarinとは北京官話と同時に北京語ともある。北京語は満洲語であるという結論が論理的に導かれる。北京語は満洲語がルーツである(Webサイト:漢民族滅亡論2)。
従って、
(12)
もっとも手近に考へれば、日本人が日本のことを研究する方法だって、つまり、この順序を踏んでゐるので、小学校で現代の日本語を学び、今の文章を読み、次第に、古い書物を研究して行くのである。支那のことだけが例外でなければならないと云ふ筈はない(勉誠出版、「訓読論」、2008年、58頁:陶徳民)。
といふ「(倉石先生の)主張」は、この場合には、成立しない。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「漢字の列」を、「日本漢字音」や「北京語(満州語)の音」で、「音読」したからと言って、それだけでは、
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「管到(補足構造)」を、「把握」した上で、読んでゐることには、ならない。
然るに、
(14)
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
に対する、
③ 〈{[〔( )( )〕]}〉。
といふ「括弧」は、
③ 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天。
といふ「返り点」に、「対応」する。
cf.
従って、
(14)により、
(15)
③ 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天。
といふ「返り点」に頼って、それを読んでゐる場合であっても、
③ 倉石先生は、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ず。
といふ「訓読」は、
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「管到(補足構造)」に即した「形」で、読んでゐる。ことになる。
従って、
(15)により、
(16)
「訓読」は、「原文(漢文)」の「補足構造(管到)」に即した、「定型的な訳読」である。
従って、
(13)(16)により、
(17)
私自身は、「訓読」が、「(北京語による)直読」よりも劣った「読み方」である。とする意見には、与しない。
平成26年09月27・28日、毛利太。
(18)
ドイツ語は、欧州の言葉である。といふ意味で、ドイツ語は、欧州語である。
ラテン語も、欧州の言葉である。といふ意味で、ラテン語は、欧州語である。
然るに、
(19)
「ラテン語」を学ぶ際に、「欧州語(ドイツ語)」の学習は、不要であって、それ故、
「漢文」 を学ぶ際に、「中国語(北京語)」 の学習が、不要であっても、オカシクは、ない。
(20)
日本の支那学者は、今日にいたるまで、支那の書物を読むのに、わざわざ発表の順序を顚倒して、日本語の約束になほして見ないと気が済まず、さういう順序に考へなほさないと、頭へ入らない習慣にとらはれてゐる(勉誠出版、「訓読論」、2008年、59頁:陶徳民)。
然るに、
(21)
① 非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇔
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非。
に於いて、「語順」は異なってゐても、「補足構造(管到)」は、変はらない。
従って、
(22)
その「意味」で、
① 非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
と、
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非。
は、
① 〈{[〔( )( )〕]}〉。
を介して、「同じ語順」であると、見做すことが、出来る。
従って、
(23)
① 非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
② 〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ず。
といふ二つは、「論理的」には、「同じ語順」であると、見なすことが、出来る。
平成26年09月28日、毛利太。
「直読」か「訓読」かは、日本の中国研究者にとって長年の課題であり、たえず蒸し返された問題であった(勉誠出版、「訓読論」、2008年、2頁:中村春作)。大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。専門家と称する人たちの大部分、99.9パーセントは(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである。これは厳たる事実である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、62頁)。
従って、
(01)により、
(02)
① 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求むる者 ={直読派}。
② 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者=〈訓読派〉。
然るに、
(03)
漢文よみを止めて中国語(その当時は支那語でしたが)でもってよまなければならない。 それは徳川時代にも荻生徂徠がいっぺんやったことだが、今はもっとやりよい時代だから大いにやらなければならない。
(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、21頁)
従って、
(02)(03)により、
(04)
③ 倉石先生非〈訓読派〉=
③ 倉石先生は〈訓読派〉に非ず=
③ 倉石先生は〈訓読派〉ではない。
といふ「命題」は、「真(本当)」である。
然るに、
(05)
② 不求以解中国語法解漢文者=
② 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者⇒
② {[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者=
② {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者=
② 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者=〈訓読派〉。
従って、
(04)(05)により、
(06)
② を、
③ に、「代入」すると、
③ 倉石先生非〈訓読派〉=
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
③ 倉石先生〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非=
③ 倉石先生は〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ず=
③ 倉石先生は、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ず=
③ 倉石先生は、〈訓読派〉ではない。
といふ「命題」は、「真(本当)」である。
然るに、
(07)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。 管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
③ 倉石先生 が、
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「命題」を、「真(本当)」であるとするならば、
③ 倉石先生 は、
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「漢文」に対して、
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
③ 倉石先生〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非=
③ 倉石先生〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ず。
といふ「管到(捕捉構造)」を、認めざるを、得ない。
然るに、
(09)
③ 倉石先生 が、
③ 倉石先生は〈訓読派〉ではない=
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「命題」を、「偽(ウソ)」であるとすることは、有り得ない。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 倉石先生 は、
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者=
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「管到(補足構造)」を、認めざるを、得ない。
加へて、
(11)
とっくに結論が出ている。清朝における北京官話とは満洲語である。そして英和辞典のmandarinとは北京官話と同時に北京語ともある。北京語は満洲語であるという結論が論理的に導かれる。北京語は満洲語がルーツである(Webサイト:漢民族滅亡論2)。
従って、
(12)
もっとも手近に考へれば、日本人が日本のことを研究する方法だって、つまり、この順序を踏んでゐるので、小学校で現代の日本語を学び、今の文章を読み、次第に、古い書物を研究して行くのである。支那のことだけが例外でなければならないと云ふ筈はない(勉誠出版、「訓読論」、2008年、58頁:陶徳民)。
といふ「(倉石先生の)主張」は、この場合には、成立しない。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「漢字の列」を、「日本漢字音」や「北京語(満州語)の音」で、「音読」したからと言って、それだけでは、
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「管到(補足構造)」を、「把握」した上で、読んでゐることには、ならない。
然るに、
(14)
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
に対する、
③ 〈{[〔( )( )〕]}〉。
といふ「括弧」は、
③ 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天。
といふ「返り点」に、「対応」する。
cf.
従って、
(14)により、
(15)
③ 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天。
といふ「返り点」に頼って、それを読んでゐる場合であっても、
③ 倉石先生は、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ず。
といふ「訓読」は、
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「管到(補足構造)」に即した「形」で、読んでゐる。ことになる。
従って、
(15)により、
(16)
「訓読」は、「原文(漢文)」の「補足構造(管到)」に即した、「定型的な訳読」である。
従って、
(13)(16)により、
(17)
私自身は、「訓読」が、「(北京語による)直読」よりも劣った「読み方」である。とする意見には、与しない。
平成26年09月27・28日、毛利太。
(18)
ドイツ語は、欧州の言葉である。といふ意味で、ドイツ語は、欧州語である。
ラテン語も、欧州の言葉である。といふ意味で、ラテン語は、欧州語である。
然るに、
(19)
「ラテン語」を学ぶ際に、「欧州語(ドイツ語)」の学習は、不要であって、それ故、
「漢文」 を学ぶ際に、「中国語(北京語)」 の学習が、不要であっても、オカシクは、ない。
(20)
日本の支那学者は、今日にいたるまで、支那の書物を読むのに、わざわざ発表の順序を顚倒して、日本語の約束になほして見ないと気が済まず、さういう順序に考へなほさないと、頭へ入らない習慣にとらはれてゐる(勉誠出版、「訓読論」、2008年、59頁:陶徳民)。
然るに、
(21)
① 非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇔
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非。
に於いて、「語順」は異なってゐても、「補足構造(管到)」は、変はらない。
従って、
(22)
その「意味」で、
① 非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
と、
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非。
は、
① 〈{[〔( )( )〕]}〉。
を介して、「同じ語順」であると、見做すことが、出来る。
従って、
(23)
① 非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
② 〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ず。
といふ二つは、「論理的」には、「同じ語順」であると、見なすことが、出来る。
平成26年09月28日、毛利太。
2014年9月11日木曜日
「返り点の基礎」&「括弧(管到)は有ります!」。
(01)
① 不〔読(文)〕⇒
① 〔(文)読〕不=
① 〔(文を)読ま〕不
の「返り点」は、
① レ レ 。
である。に対して、
② 不〔常読(漢文)〕⇒
② 〔常(漢文)読〕不=
② 〔常には(漢文を)読ま〕不。
の「返り点」は、
② 三 二 一。
である。
従って、
(01)により、
(02)
① レ レ 。
① 文を読まず。
といふ「レ点」が有るからこそ、
② 三 二 一。
② 漢文を常には読ま不。
といふ「一二点」が有る。ことになる。
然るに、
(03)
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
③ 四 二 一 三。
に対する「レ点」は、「どうか」といふと、そのやうな「レ点」は、もちろん、有り得ない。
従って、
(02)(03)により、
(04)
②「対応する、レ点が無い」が故に、
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
③ 四 二 一 三。
といふ「一二点」は、有り得ない
然るに、
(05)
③ 四〔二(一)三〕⇒
③ 〔(一)二三〕四=
③ 一 二 三 四。
従って、
(05)により、
(06)
)= 一
( = 二
〕= 上
〕= 下
であるが故に、
③ 四 二 一 三。
は、
③ 下 二 一 上。
に、「対応」する。
従って、
(04)(06)により、
(07)
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
③ 四 二 一 三。
といふ「一二点」は、有り得ないが、
③ 四 二 一 三。
の「順番」は、
③ 下 二 一 上。
といふ「返り点」で、表すことが、出来る。
然るに、
(08)
③ 下 二 一 上。
に対して、
② 二 上 一 。
② 二 下 一 上。
といふ「返り点」は、無いため、
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
といふ「順番」を、「返り点」で、表すことは、出来ない。
従って、
(01)~(08)により、
(09)
① レ点。
② 一二点。
③ 上下点。
④ 甲乙点。
⑤ 天地点。
に於いて、
① は、「一字だけ、上へ返る」場合に用ゐる。
② は、「二字以上、上へ返る」場合に用ゐる(が、②は①に対応する)。
③ は、「②を挟んで返る」場合に用ゐるが、「逆」は無い。
④ は、「③を挟んで返る」場合に用ゐるが、「逆」は無い。
⑤ は、「④を挟んで返る」場合に用ゐるが、「逆」は無い。
といふことが、「返り点の基本(09)」である。
然るに、
(10)
「括弧」の場合は、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
にあって、
⑤の中に、一つ以上の、④が有って、
④の中に、一つ以上の、③が有って、
③の中に、一つ以上の、②が有って、
②の中に、一つ以上の、①が有る。
といふ「形」になる。ものの、以上を、「括弧の形(10)」と呼ぶことにする。
然るに、
(08)により、
(11)
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
といふ「返り点」は有り得ないものの、「括弧」の場合も、
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
といふ「順番」を、表すことが、出来ない。
例へば、
(12)
② 二 三 一。
であれば、
② 二(三〔一)〕⇒
②(〔一) 二〕三=
② 一 二 三。
であるため、「括弧」は、
②( 〔 )〕。
である。
従って、
(13)
② 二 四 一 三。
であれば、
② 二(四〔一)三〕⇒
② (〔一)二三〕四=
② 一 二 三 四。
であるため、「括弧」は、
②( 〔 ) 〕。
である。
然るに、
(14)
②( 〔 )〕。
②( 〔 ) 〕。
は、「括弧の形(10)」を、満たしてゐない。
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
例へば、
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
といふ「順番」は、「返り点・括弧」で、表すことが、出来ない。
然るに、
(16)
十〈八{七[四〔二(中国一)三〕六(漢五)]}九〉⇒
〈{[〔(中国一)二三〕四(漢五)六]七}八九〉十=
〈{[〔(中国一を)二する三を〕四て(漢五を)六せんことを]七め}八る九〉十し。
に於いて、
十=無
八=不
七=求
四=以
二=解
=中
=国
一=語
三=法
六=解
=漢
五=文
九=者
といふ「代入」を行ふと、
十〈八{七[四〔二(中国一)三〕六(漢五)]}九〉=
無〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉無=
〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉無し。
然るに、
(09)(16)により、
(17)
「返り点の基本(09)」を用ゐて、併せて、「括弧」を示すと、
十=地=無=〈
八=レ=不={
七=丙=求=[
四=下=以=〔
二=二=解=(
= =中=
= =国=
一=一=語= )
三=上=法= 〕
六=乙=解=(
= =漢=
五=甲=文= )
= = = ]
= = = }
九=天=者= 〉
といふ「形」になる。
然るに、
(18)
「横書き」に於いて、
①「(漢文の)管到」=「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということ。
②「(訓読の)管到」=「右の語が、左のことばのどこまでかかるか」ということ。
従って、
(19)
① 無〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉無=
② 〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉無し。
に於いて、
①「(漢文の)管到」と、
②「(訓読の)管到」は、「等しい」。
従って、
(09)(10)(17)(19)により、
(20)
①
十=地=無=〈
八=レ=不={
七=丙=求=[
四=下=以=〔
二=二=解=(
= =中=
= =国=
一=一=語= )
三=上=法= 〕
六=乙=解=(
= =漢=
五=甲=文= )
= = = ]
= = = }
九=天=者= 〉
① 無〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉無=
② 〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉無し。
に於いて、
(a)「括弧の形(10)」を満たしてゐて、
(b)「返り点の基本(09)」を満たしてゐて、
(c)「(漢文の)管到」と「(訓読の)管到」は「等しい」。
然るに、
(21)
この場合に、
① 十 八 七 四 二 一 三 六 五 九。を、例へば、
④ 九 十 八 七 五 四 二 一 三 六。に、
「置き換へ」るならば、その場合は、
(a)「括弧の形(10)」を満たしてゐない。
(b)「返り点の基本(09)」を満たしてゐない。
(c)「(漢文の)管到」と「(訓読の)管到」は「等しくない」。
といふことは、言ふまでも、ない。
すなはち、
(22)
④
九=天=者= 〉
十=地=無=〈
八=レ=不={
= =漢=
七=丙=求=[
五=甲=文= )
四=下=以=〔
二=二=解=(
= =中=
= =国=
一=一=語= )
三=上=法= 〕
六=乙=解=(
= = = ]
= = = }
の場合は、
(a)「括弧の形(10)」を満たしてゐないし、
(b)「返り点の基本(09)」を満たしてゐないし
(c)「(漢文の)管到」と「(訓読の)管到」は「等しくない」。
然るに、
(23)
① 十 八 七 四 二 一 三 六 五 九。
② 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天。
③〈 { [ 〔 ( ) 〕( )]} 〉。
に対して、
④ 九 十 八 七 五 四 二 一 三 六。
⑤ 天 地 レ 甲 丙 下 二 一 上 乙。
⑥ 〉〈 { )[ 〔 ( )〕( ]}。
であっても、すなはち、
(a)「括弧の形(10)」を満たしてゐないし、
(b)「返り点の基本(09)」を満たしてゐないし
(c)「(漢文の)管到」と「(訓読の)管到」は「等しくない」。にせよ、
⑦ 者無不漢文求以解中国語法解(デタラメ)。
は、
④ 九 十 八 七 五 四 二 一 三 六。
といふ「番号の順番」に従って、
⑦ 者無不漢文求以解中国語法解(デタラメ)⇒
⑧ 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者無し。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(24)
白話文訓読するとどうなるか、玉里本の中から、白和文特有の構造を持つ訓読例を見てみよう。
第二回 二十三葉ウラ
端的看2不5出3這婆-子的本事1来4。
(端的に這の婆子の本書を看出し来たらず)
(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、330頁:川島優子)
従って、
(24)により、
(25)
端的看2(不5[出3〔這婆-子的本事1)〕来4]⇒
端的([〔這婆-子的本事1)看2〕出3来4]不5=
端的に([〔這の婆-子の本事1を)看2〕出し3来たら4]不5。
であるが故に、すなはち、
⑨ 二 五 三 一 四=
⑨ 二(五[三〔一)〕四]⇒
⑨ ([〔一)二〕三四]五=
⑨ 一 二 三 四 五。
であるが故に、
「端的看2不5出3這婆-子的本事1来4。 」
のやうな、「漢文訓読」ならぬ、「白文訓読」の場合は、
(a)「括弧の形(10)」を満たしてゐないし、
(b)「返り点の基本(09)」を満たしてゐないし
(c)「(漢文の)管到」と「(訓読の)管到」は「等しくない」。
然るに、
(26)
⑦ 者9無10不8漢文5求7以4解2中国語1法3解6(デタラメ)⇒
⑧ 中国語を1解する2法を3以て4漢文5を解せんことを6求め7不る8者9無し10。
のやうな「例」は、「漢文訓読」には、有り得ない。
従って、
(26)により、
(27)
「漢文訓読」であれば、
① 無不求以解中国語法解漢文者=
① 無〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉無=
② 〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉無し。
② 今之学者、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者無きは、皆悲しむ可きなり。
② 今の学者、訓読を用ゐずに、漢文を理解しようとする者しかゐないことは、悲しむべきことである。
のやうに、
(a)「括弧の形(10)」を満たしてゐて、
(b)「返り点の基本(09)」を満たしてゐて、
(c)「(漢文の)管到」と「(訓読の)管到」は「等しい」。
場合が、全てである。はずである。
従って、
(25)(27)により、
(28)
「白文訓読」ではなく、「漢文訓読」である限り、「管到(括弧)は有ります!」。
平成26年09月11日、毛利太。
(29)
① 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求むる者 =音読派。
② 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者=訓読派。
従って、
(30)
③ 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者無し=訓読派がゐない。
といふことは、
④ 音読派しかゐない=皆が音読派である。
といふことに、他ならない。
従って、
(31)
⑤ 今之学者、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者無きは、皆悲しむ可きなり。
といふのは、
⑥ 大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)」
ことが「悲しい」といふ、ことである。
平成26年09月12日、毛利太。
① 不〔読(文)〕⇒
① 〔(文)読〕不=
① 〔(文を)読ま〕不
の「返り点」は、
① レ レ 。
である。に対して、
② 不〔常読(漢文)〕⇒
② 〔常(漢文)読〕不=
② 〔常には(漢文を)読ま〕不。
の「返り点」は、
② 三 二 一。
である。
従って、
(01)により、
(02)
① レ レ 。
① 文を読まず。
といふ「レ点」が有るからこそ、
② 三 二 一。
② 漢文を常には読ま不。
といふ「一二点」が有る。ことになる。
然るに、
(03)
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
③ 四 二 一 三。
に対する「レ点」は、「どうか」といふと、そのやうな「レ点」は、もちろん、有り得ない。
従って、
(02)(03)により、
(04)
②「対応する、レ点が無い」が故に、
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
③ 四 二 一 三。
といふ「一二点」は、有り得ない
然るに、
(05)
③ 四〔二(一)三〕⇒
③ 〔(一)二三〕四=
③ 一 二 三 四。
従って、
(05)により、
(06)
)= 一
( = 二
〕= 上
〕= 下
であるが故に、
③ 四 二 一 三。
は、
③ 下 二 一 上。
に、「対応」する。
従って、
(04)(06)により、
(07)
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
③ 四 二 一 三。
といふ「一二点」は、有り得ないが、
③ 四 二 一 三。
の「順番」は、
③ 下 二 一 上。
といふ「返り点」で、表すことが、出来る。
然るに、
(08)
③ 下 二 一 上。
に対して、
② 二 上 一 。
② 二 下 一 上。
といふ「返り点」は、無いため、
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
といふ「順番」を、「返り点」で、表すことは、出来ない。
従って、
(01)~(08)により、
(09)
① レ点。
② 一二点。
③ 上下点。
④ 甲乙点。
⑤ 天地点。
に於いて、
① は、「一字だけ、上へ返る」場合に用ゐる。
② は、「二字以上、上へ返る」場合に用ゐる(が、②は①に対応する)。
③ は、「②を挟んで返る」場合に用ゐるが、「逆」は無い。
④ は、「③を挟んで返る」場合に用ゐるが、「逆」は無い。
⑤ は、「④を挟んで返る」場合に用ゐるが、「逆」は無い。
といふことが、「返り点の基本(09)」である。
然るに、
(10)
「括弧」の場合は、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
にあって、
⑤の中に、一つ以上の、④が有って、
④の中に、一つ以上の、③が有って、
③の中に、一つ以上の、②が有って、
②の中に、一つ以上の、①が有る。
といふ「形」になる。ものの、以上を、「括弧の形(10)」と呼ぶことにする。
然るに、
(08)により、
(11)
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
といふ「返り点」は有り得ないものの、「括弧」の場合も、
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
といふ「順番」を、表すことが、出来ない。
例へば、
(12)
② 二 三 一。
であれば、
② 二(三〔一)〕⇒
②(〔一) 二〕三=
② 一 二 三。
であるため、「括弧」は、
②( 〔 )〕。
である。
従って、
(13)
② 二 四 一 三。
であれば、
② 二(四〔一)三〕⇒
② (〔一)二三〕四=
② 一 二 三 四。
であるため、「括弧」は、
②( 〔 ) 〕。
である。
然るに、
(14)
②( 〔 )〕。
②( 〔 ) 〕。
は、「括弧の形(10)」を、満たしてゐない。
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
例へば、
② 二 三 一。
② 二 四 一 三。
といふ「順番」は、「返り点・括弧」で、表すことが、出来ない。
然るに、
(16)
十〈八{七[四〔二(中国一)三〕六(漢五)]}九〉⇒
〈{[〔(中国一)二三〕四(漢五)六]七}八九〉十=
〈{[〔(中国一を)二する三を〕四て(漢五を)六せんことを]七め}八る九〉十し。
に於いて、
十=無
八=不
七=求
四=以
二=解
=中
=国
一=語
三=法
六=解
=漢
五=文
九=者
といふ「代入」を行ふと、
十〈八{七[四〔二(中国一)三〕六(漢五)]}九〉=
無〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉無=
〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉無し。
然るに、
(09)(16)により、
(17)
「返り点の基本(09)」を用ゐて、併せて、「括弧」を示すと、
十=地=無=〈
八=レ=不={
七=丙=求=[
四=下=以=〔
二=二=解=(
= =中=
= =国=
一=一=語= )
三=上=法= 〕
六=乙=解=(
= =漢=
五=甲=文= )
= = = ]
= = = }
九=天=者= 〉
といふ「形」になる。
然るに、
(18)
「横書き」に於いて、
①「(漢文の)管到」=「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということ。
②「(訓読の)管到」=「右の語が、左のことばのどこまでかかるか」ということ。
従って、
(19)
① 無〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉無=
② 〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉無し。
に於いて、
①「(漢文の)管到」と、
②「(訓読の)管到」は、「等しい」。
従って、
(09)(10)(17)(19)により、
(20)
①
十=地=無=〈
八=レ=不={
七=丙=求=[
四=下=以=〔
二=二=解=(
= =中=
= =国=
一=一=語= )
三=上=法= 〕
六=乙=解=(
= =漢=
五=甲=文= )
= = = ]
= = = }
九=天=者= 〉
① 無〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉無=
② 〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉無し。
に於いて、
(a)「括弧の形(10)」を満たしてゐて、
(b)「返り点の基本(09)」を満たしてゐて、
(c)「(漢文の)管到」と「(訓読の)管到」は「等しい」。
然るに、
(21)
この場合に、
① 十 八 七 四 二 一 三 六 五 九。を、例へば、
④ 九 十 八 七 五 四 二 一 三 六。に、
「置き換へ」るならば、その場合は、
(a)「括弧の形(10)」を満たしてゐない。
(b)「返り点の基本(09)」を満たしてゐない。
(c)「(漢文の)管到」と「(訓読の)管到」は「等しくない」。
といふことは、言ふまでも、ない。
すなはち、
(22)
④
九=天=者= 〉
十=地=無=〈
八=レ=不={
= =漢=
七=丙=求=[
五=甲=文= )
四=下=以=〔
二=二=解=(
= =中=
= =国=
一=一=語= )
三=上=法= 〕
六=乙=解=(
= = = ]
= = = }
の場合は、
(a)「括弧の形(10)」を満たしてゐないし、
(b)「返り点の基本(09)」を満たしてゐないし
(c)「(漢文の)管到」と「(訓読の)管到」は「等しくない」。
然るに、
(23)
① 十 八 七 四 二 一 三 六 五 九。
② 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天。
③〈 { [ 〔 ( ) 〕( )]} 〉。
に対して、
④ 九 十 八 七 五 四 二 一 三 六。
⑤ 天 地 レ 甲 丙 下 二 一 上 乙。
⑥ 〉〈 { )[ 〔 ( )〕( ]}。
であっても、すなはち、
(a)「括弧の形(10)」を満たしてゐないし、
(b)「返り点の基本(09)」を満たしてゐないし
(c)「(漢文の)管到」と「(訓読の)管到」は「等しくない」。にせよ、
⑦ 者無不漢文求以解中国語法解(デタラメ)。
は、
④ 九 十 八 七 五 四 二 一 三 六。
といふ「番号の順番」に従って、
⑦ 者無不漢文求以解中国語法解(デタラメ)⇒
⑧ 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者無し。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(24)
白話文訓読するとどうなるか、玉里本の中から、白和文特有の構造を持つ訓読例を見てみよう。
第二回 二十三葉ウラ
端的看2不5出3這婆-子的本事1来4。
(端的に這の婆子の本書を看出し来たらず)
(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、330頁:川島優子)
従って、
(24)により、
(25)
端的看2(不5[出3〔這婆-子的本事1)〕来4]⇒
端的([〔這婆-子的本事1)看2〕出3来4]不5=
端的に([〔這の婆-子の本事1を)看2〕出し3来たら4]不5。
であるが故に、すなはち、
⑨ 二 五 三 一 四=
⑨ 二(五[三〔一)〕四]⇒
⑨ ([〔一)二〕三四]五=
⑨ 一 二 三 四 五。
であるが故に、
「端的看2不5出3這婆-子的本事1来4。 」
のやうな、「漢文訓読」ならぬ、「白文訓読」の場合は、
(a)「括弧の形(10)」を満たしてゐないし、
(b)「返り点の基本(09)」を満たしてゐないし
(c)「(漢文の)管到」と「(訓読の)管到」は「等しくない」。
然るに、
(26)
⑦ 者9無10不8漢文5求7以4解2中国語1法3解6(デタラメ)⇒
⑧ 中国語を1解する2法を3以て4漢文5を解せんことを6求め7不る8者9無し10。
のやうな「例」は、「漢文訓読」には、有り得ない。
従って、
(26)により、
(27)
「漢文訓読」であれば、
① 無不求以解中国語法解漢文者=
① 無〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉無=
② 〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉無し。
② 今之学者、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者無きは、皆悲しむ可きなり。
② 今の学者、訓読を用ゐずに、漢文を理解しようとする者しかゐないことは、悲しむべきことである。
のやうに、
(a)「括弧の形(10)」を満たしてゐて、
(b)「返り点の基本(09)」を満たしてゐて、
(c)「(漢文の)管到」と「(訓読の)管到」は「等しい」。
場合が、全てである。はずである。
従って、
(25)(27)により、
(28)
「白文訓読」ではなく、「漢文訓読」である限り、「管到(括弧)は有ります!」。
平成26年09月11日、毛利太。
(29)
① 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求むる者 =音読派。
② 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者=訓読派。
従って、
(30)
③ 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者無し=訓読派がゐない。
といふことは、
④ 音読派しかゐない=皆が音読派である。
といふことに、他ならない。
従って、
(31)
⑤ 今之学者、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者無きは、皆悲しむ可きなり。
といふのは、
⑥ 大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)」
ことが「悲しい」といふ、ことである。
平成26年09月12日、毛利太。
2014年9月8日月曜日
「管到(括弧)は有ります!」
(01)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
加へて、
(02)
日本語の、「ず(助動詞)」は、「付属語」であるため、
不(漢文)=ず(訓読)。
と訳すとき、
不~。は、
不~。⇒ ~・ず。
といふ風に、「後置」される。
加へて、
(03)
「に(格助詞)」は、
こうちし [3] 【後置詞】 〔postposition〕(Weblio辞書)。
であるため、
非(漢文)=に・あらず(訓読)。
と訳すとき、
非A。は、
非A。⇒ Aに・非ず。
といふ風に、「後置」される。
然るに
(04)
悪寒。
は、「捕捉構造」である。
従って、
(01)(04)により、
(05)
悪寒=寒きを悪(にく)む。
となる。
従って、
(02)(05)により、
(06)
不悪寒=寒きを悪まず。
となる。
従って、
(03)(06)により、
(07)
非不悪寒=寒きを悪まずに非ず。
となる。
然るに、
(08)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(08)により、
(09)
「横書きの漢文」であれば、
「管到」=「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということ。
である。
従って、
(07)(09)により、
(10)
「横書きの訓読」であれば、
「管到」=「右の語が、左のことばのどこまでかかるか」ということ。
である。
然るに、
(11)
悪寒=寒きを悪む。
に於いて、
「悪む」のは=「寒さ」。
であるため、
「悪む」は、
「寒さ」に、「かかってゐる」。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
「括弧」を用ゐれば、
悪(寒)⇒(寒き)を悪む。
といふ風に、「管到」を、表すことが、出来る。
然るに、
(13)
不悪(寒)=(寒き)を悪まず。
に於いて、
「不」は、
「悪(寒)」=「(寒き)を悪む」。
を「否定」してゐる。といふ意味で、
「不」は、
「悪(寒)」=「(寒き)を悪む」。に、「かかってゐる」。
従って、
(09)(10)(13)により、
(14)
「括弧」を用ゐれば、
不〔悪(寒)〕⇒〔(寒き)を悪ま〕ず。
といふ風に、「管到」を、表すことが、出来る。
従って、
(09)(10)(14)により、
(15)
非不〔悪(寒)〕=〔(寒き)を悪ま〕ずに非ず。
であっても、
「括弧」を用ゐれば、
非[不〔悪(寒)〕⇒[〔(寒き)を悪ま〕ざるに]非ず。
といふ風に、「管到」を、表すことが、出来る。
従って、
(15)により、
(16)
不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ場合も、「管到」を表してゐる。と、すべきである。
然るに、
(17)
不求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」には、少なくとも、「目に見える形」では、「括弧」が無いため、その意味に於いて、
不求以解中国語法解漢文也。
不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ「形」をしてゐる。といふのは、「譬へ」に、過ぎない。
然るに、
(18)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんのことはない。諸君たちが古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかる」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
とするならば、「管到」自体は、「実在」する。
然るに、
(19)
①「不」が、「求以解中国語法解漢文」に「かかってゐて」、
②「求」が、「以解中国語法解漢文」に「かかってゐて」、
③「以」が、「解中国語法」に「かかってゐて」、
④「解」が、「中国語」に「かかってゐて」、
⑤「解」が、「漢文」に「かかってゐて」、
といふことを、表す上で、
⑥ 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
以上に、「適切な譬へ」は、無いはずである。
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
不求以解中国語法解漢文。
には、「管到」が、備はってゐて、「括弧」以上に、「管到」を表す「適切な譬へ」が無い以上、
不求以解中国語法解漢文。
には、
不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ「括弧」が備はってゐる。とすることは、可能な、はずである。
従って、
(21)
「管到」が、「漢文」に実在する以上、「管到(の譬へ)」としての「括弧」は、存在する。
従って、
(22)
「管到(括弧)」は、有ります!
平成26年09月08日、毛利太。
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
加へて、
(02)
日本語の、「ず(助動詞)」は、「付属語」であるため、
不(漢文)=ず(訓読)。
と訳すとき、
不~。は、
不~。⇒ ~・ず。
といふ風に、「後置」される。
加へて、
(03)
「に(格助詞)」は、
こうちし [3] 【後置詞】 〔postposition〕(Weblio辞書)。
であるため、
非(漢文)=に・あらず(訓読)。
と訳すとき、
非A。は、
非A。⇒ Aに・非ず。
といふ風に、「後置」される。
然るに
(04)
悪寒。
は、「捕捉構造」である。
従って、
(01)(04)により、
(05)
悪寒=寒きを悪(にく)む。
となる。
従って、
(02)(05)により、
(06)
不悪寒=寒きを悪まず。
となる。
従って、
(03)(06)により、
(07)
非不悪寒=寒きを悪まずに非ず。
となる。
然るに、
(08)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(08)により、
(09)
「横書きの漢文」であれば、
「管到」=「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということ。
である。
従って、
(07)(09)により、
(10)
「横書きの訓読」であれば、
「管到」=「右の語が、左のことばのどこまでかかるか」ということ。
である。
然るに、
(11)
悪寒=寒きを悪む。
に於いて、
「悪む」のは=「寒さ」。
であるため、
「悪む」は、
「寒さ」に、「かかってゐる」。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
「括弧」を用ゐれば、
悪(寒)⇒(寒き)を悪む。
といふ風に、「管到」を、表すことが、出来る。
然るに、
(13)
不悪(寒)=(寒き)を悪まず。
に於いて、
「不」は、
「悪(寒)」=「(寒き)を悪む」。
を「否定」してゐる。といふ意味で、
「不」は、
「悪(寒)」=「(寒き)を悪む」。に、「かかってゐる」。
従って、
(09)(10)(13)により、
(14)
「括弧」を用ゐれば、
不〔悪(寒)〕⇒〔(寒き)を悪ま〕ず。
といふ風に、「管到」を、表すことが、出来る。
従って、
(09)(10)(14)により、
(15)
非不〔悪(寒)〕=〔(寒き)を悪ま〕ずに非ず。
であっても、
「括弧」を用ゐれば、
非[不〔悪(寒)〕⇒[〔(寒き)を悪ま〕ざるに]非ず。
といふ風に、「管到」を、表すことが、出来る。
従って、
(15)により、
(16)
不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ場合も、「管到」を表してゐる。と、すべきである。
然るに、
(17)
不求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」には、少なくとも、「目に見える形」では、「括弧」が無いため、その意味に於いて、
不求以解中国語法解漢文也。
不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ「形」をしてゐる。といふのは、「譬へ」に、過ぎない。
然るに、
(18)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんのことはない。諸君たちが古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかる」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
とするならば、「管到」自体は、「実在」する。
然るに、
(19)
①「不」が、「求以解中国語法解漢文」に「かかってゐて」、
②「求」が、「以解中国語法解漢文」に「かかってゐて」、
③「以」が、「解中国語法」に「かかってゐて」、
④「解」が、「中国語」に「かかってゐて」、
⑤「解」が、「漢文」に「かかってゐて」、
といふことを、表す上で、
⑥ 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
以上に、「適切な譬へ」は、無いはずである。
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
不求以解中国語法解漢文。
には、「管到」が、備はってゐて、「括弧」以上に、「管到」を表す「適切な譬へ」が無い以上、
不求以解中国語法解漢文。
には、
不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ「括弧」が備はってゐる。とすることは、可能な、はずである。
従って、
(21)
「管到」が、「漢文」に実在する以上、「管到(の譬へ)」としての「括弧」は、存在する。
従って、
(22)
「管到(括弧)」は、有ります!
平成26年09月08日、毛利太。
2014年9月6日土曜日
「括弧(管到)は有ります!!」(Ⅲ)。
(01)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
管到とは、ある語がその下方の語句のどこまでを支配するか。ということだ(古田島洋介、日本近代史を学ぶための文語文入門、2013年、18頁)。
然るに、
(02)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 「上の語が、下のことばのどこまでかかる(支配する・補足する)か」。
② 「下の語が、上のことばのどこまでかかる(支配する・補足する)か」。
に於いて、
① が、「漢文の管到」であるならば、
② は、「訓読の管到」である。
然るに、
(04)
例へば、
① 不求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文の管到」は、
( )
〔 〕
[ ]
{ }
といふ「括弧」を用ゐて、
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ風に、表すことが、出来る。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
② {[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不。
に於いて、
① が、「漢語の管到」であるならば、
② は、「国語の管到」である。
然るに、
(06)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
② {[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
であるものの、これらの「括弧」は、三つとも、
① {[〔( )〕( )]}。
② {[〔( )〕( )]}。
③ {[〔( )〕( )]}。
である。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
② {[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
は、「管到」としては、三つとも、等しい。
従って、
(07)により、
(08)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
に於いて、
① 「漢文の管到」と、
③ 「訓読の管到」は、等しい。
然るに、
(09)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
に於いて、それぞれの、「11個の漢字」は、「過不足なく」、「共通」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
に於いて、「語順」こそ、異なるが、その一方で、「管到と漢字」は、「共通」である。
然るに、
(11)
③ 中国語を理解する方法を用いて、漢文を理解しようとする。
を、グーグルで、翻訳すると、
④ 通過使用該方法來了解中國,並試圖了解中國的經典之作。
となる。
(12)
私の場合、「中国語(中華人民共和国語)」は、全く分からないものの、
① 不求以解中国語法解漢文。
④ 通過使用該方法來了解中國,並試圖了解中國的經典之作。
に於いて、「漢字」が、「全く異なる」ことは、「一目瞭然」である。
それ故、
(13)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
④ 通過使用該方法來了解中國,並試圖了解中國的經典之作。
とでは、「漢字」は、「確実に」、「管到」も、「おそらく」、異なってゐるものと、思はれる。
従って、
(14)
少なくとも、
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
② {[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
④ 通過使用該方法來了解中國,並試圖了解中國的經典之作。
といふ「例文」で、判断する限り、「漢文を学ぶ上で、有利な言語」は、「日本語(訓読)」であって、「中国語」ではない。
従って、
(15)
漢文よみを止めて中国語(その当時は支那語でしたが)でもってよまなければならない。 それは徳川時代にも荻生徂徠がいっぺんやったことだが、今はもっとやりよい時代だから 大いにやらなければならない(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、21頁)。
といふ「見解」は、おそらく、「錯覚」に、過ぎない。
(16)
およそ、「漢文訓読」を、否定する「主張」は、
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
等に於いて、「語順」こそ「異なる」が、「管到」は「等しい」といふ「観点」が、欠落してゐる。と、言はざるを得ない。
平成26年09月06日、毛利太。
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
管到とは、ある語がその下方の語句のどこまでを支配するか。ということだ(古田島洋介、日本近代史を学ぶための文語文入門、2013年、18頁)。
然るに、
(02)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 「上の語が、下のことばのどこまでかかる(支配する・補足する)か」。
② 「下の語が、上のことばのどこまでかかる(支配する・補足する)か」。
に於いて、
① が、「漢文の管到」であるならば、
② は、「訓読の管到」である。
然るに、
(04)
例へば、
① 不求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文の管到」は、
( )
〔 〕
[ ]
{ }
といふ「括弧」を用ゐて、
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ風に、表すことが、出来る。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
② {[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不。
に於いて、
① が、「漢語の管到」であるならば、
② は、「国語の管到」である。
然るに、
(06)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
② {[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
であるものの、これらの「括弧」は、三つとも、
① {[〔( )〕( )]}。
② {[〔( )〕( )]}。
③ {[〔( )〕( )]}。
である。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
② {[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
は、「管到」としては、三つとも、等しい。
従って、
(07)により、
(08)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
に於いて、
① 「漢文の管到」と、
③ 「訓読の管到」は、等しい。
然るに、
(09)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
に於いて、それぞれの、「11個の漢字」は、「過不足なく」、「共通」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
に於いて、「語順」こそ、異なるが、その一方で、「管到と漢字」は、「共通」である。
然るに、
(11)
③ 中国語を理解する方法を用いて、漢文を理解しようとする。
を、グーグルで、翻訳すると、
④ 通過使用該方法來了解中國,並試圖了解中國的經典之作。
となる。
(12)
私の場合、「中国語(中華人民共和国語)」は、全く分からないものの、
① 不求以解中国語法解漢文。
④ 通過使用該方法來了解中國,並試圖了解中國的經典之作。
に於いて、「漢字」が、「全く異なる」ことは、「一目瞭然」である。
それ故、
(13)
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
④ 通過使用該方法來了解中國,並試圖了解中國的經典之作。
とでは、「漢字」は、「確実に」、「管到」も、「おそらく」、異なってゐるものと、思はれる。
従って、
(14)
少なくとも、
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
② {[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
④ 通過使用該方法來了解中國,並試圖了解中國的經典之作。
といふ「例文」で、判断する限り、「漢文を学ぶ上で、有利な言語」は、「日本語(訓読)」であって、「中国語」ではない。
従って、
(15)
漢文よみを止めて中国語(その当時は支那語でしたが)でもってよまなければならない。 それは徳川時代にも荻生徂徠がいっぺんやったことだが、今はもっとやりよい時代だから 大いにやらなければならない(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、21頁)。
といふ「見解」は、おそらく、「錯覚」に、過ぎない。
(16)
およそ、「漢文訓読」を、否定する「主張」は、
① 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
③ {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
等に於いて、「語順」こそ「異なる」が、「管到」は「等しい」といふ「観点」が、欠落してゐる。と、言はざるを得ない。
平成26年09月06日、毛利太。
2014年9月3日水曜日
「括弧(管到)は有ります!!」
(01)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁)。
然るに、
(02)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(01)(02)より、
(03)
どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。
といふことは、「訓読」に於ける、「管到」の、「正確な把握」に感心していた。といふことに、他ならない。
然るに、
(04)
① 読漢文=漢文を読む。
であれば、
① 読 の「目的語」は、 漢文 である。
従って、
(05)
① 読漢文=漢文を読む。
の「管到(上の語が、下のことばのどこまでかかるか)」を、「括弧」で表すならば、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
といふ、ことになる。
従って、
(06)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
に於いて、
① 読(といふ上の語)は、漢文(といふ下の語)を、「管到」してゐる。
然るに、
(07)
漢文は論理的な構文をたくさん含んでいる(山下正男)。
否定は文全体にかかるものとして理解するのが論理学の鉄則です(三浦俊彦)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
に於いて、
② 不(といふ上の語)は、読漢文(といふ下の語)を、「管到」してゐる。
然るに、
(09)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
の「返り点」は、
① 二 一。
② レ 二 一。
である。
従って、
(05)~(09)により、
(10)
① 読漢文。
② 不読漢文。
の「「管到(上の語が、下のことばのどこまでかかるか)」は、
① ( )
②〔( )〕
で、表すことが出来、尚且つ、
① 二 一。
② レ 二 一。
で、表すことが、出来る。
従って、
(11)
与えられた「漢文」の「管到」を、「括弧」 で表した場合が、『括弧』 であり、
与えられた「漢文」の「管到」を、「返り点」で表した場合が、『返り点』である。
従って、
(11)により、
(12)
『括弧』 は、「管到」に従って、付けられてゐる。
『返り点』も、「管到」に従って、付けられてゐる。
然るに、
(13)
① 不〔読(文)〕=〔(文を)読ま〕ず。
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
③ 不〔常読(文)〕=〔常には(文を)読ま〕ず。
④ 不〔常読(漢文)〕=〔常には(漢文を)読ま〕ず。
に対する「返り点」は、
① レ レ。
② レ 二 一。
③ 二 一レ 。
④ 三 二 一。
であって、四つとも、全て、「同じ」ではないし、
⑤ 不〔訓‐読(文)〕=〔(文を)訓読せ〕ず。
⑥ 不〔訓‐読(漢文)〕=〔(漢文を)訓読せ〕ず。
のやうに、「ハイフン」が付く場合もあるため、実際には、六通りが、「同じ」ではない。
従って、
(13)により、
(14)
『返り点』の場合は、「同じ管到」を、「異なる返り点」が、表すものの、『括弧』の場合は、そのやうなことが無い。
従って、
(11)(14)により、
(15)
「管到」=「返り点」 ではないが、
「括弧」=「管到」 である。
従って、
(15)により、
(16)
「漢文」に「括弧」が無いといふことは、「漢文」に「管到」が無い。といふことに、等しい。
然るに、
(01)により、
(17)
(中国の某君は)日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならないと、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。
従って、
(16)(17)により、
(18)
「管到」は「括弧」であり、「括弧」は「管到」であって、「漢文」には、「管到」が存在する。
従って、
(18)により、
(19)
「漢文」に、「管到」が存在し、「管到」とは「括弧」である以上、「括弧(管到)は有ります!!」と、せざるを得い。
(20)
「漢文」に、「括弧」が存在しない。といふためには、
(a)固より、「漢文」には「管到」が存在しない。
(b)存在したとしても、「括弧」は「管到」ではない。
といふことの、少なくとも、どちらか一方を、「証明」する必要がある。
平成26年09月03日、毛利太。
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁)。
然るに、
(02)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(01)(02)より、
(03)
どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。
といふことは、「訓読」に於ける、「管到」の、「正確な把握」に感心していた。といふことに、他ならない。
然るに、
(04)
① 読漢文=漢文を読む。
であれば、
① 読 の「目的語」は、 漢文 である。
従って、
(05)
① 読漢文=漢文を読む。
の「管到(上の語が、下のことばのどこまでかかるか)」を、「括弧」で表すならば、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
といふ、ことになる。
従って、
(06)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
に於いて、
① 読(といふ上の語)は、漢文(といふ下の語)を、「管到」してゐる。
然るに、
(07)
漢文は論理的な構文をたくさん含んでいる(山下正男)。
否定は文全体にかかるものとして理解するのが論理学の鉄則です(三浦俊彦)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
に於いて、
② 不(といふ上の語)は、読漢文(といふ下の語)を、「管到」してゐる。
然るに、
(09)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
の「返り点」は、
① 二 一。
② レ 二 一。
である。
従って、
(05)~(09)により、
(10)
① 読漢文。
② 不読漢文。
の「「管到(上の語が、下のことばのどこまでかかるか)」は、
① ( )
②〔( )〕
で、表すことが出来、尚且つ、
① 二 一。
② レ 二 一。
で、表すことが、出来る。
従って、
(11)
与えられた「漢文」の「管到」を、「括弧」 で表した場合が、『括弧』 であり、
与えられた「漢文」の「管到」を、「返り点」で表した場合が、『返り点』である。
従って、
(11)により、
(12)
『括弧』 は、「管到」に従って、付けられてゐる。
『返り点』も、「管到」に従って、付けられてゐる。
然るに、
(13)
① 不〔読(文)〕=〔(文を)読ま〕ず。
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
③ 不〔常読(文)〕=〔常には(文を)読ま〕ず。
④ 不〔常読(漢文)〕=〔常には(漢文を)読ま〕ず。
に対する「返り点」は、
① レ レ。
② レ 二 一。
③ 二 一レ 。
④ 三 二 一。
であって、四つとも、全て、「同じ」ではないし、
⑤ 不〔訓‐読(文)〕=〔(文を)訓読せ〕ず。
⑥ 不〔訓‐読(漢文)〕=〔(漢文を)訓読せ〕ず。
のやうに、「ハイフン」が付く場合もあるため、実際には、六通りが、「同じ」ではない。
従って、
(13)により、
(14)
『返り点』の場合は、「同じ管到」を、「異なる返り点」が、表すものの、『括弧』の場合は、そのやうなことが無い。
従って、
(11)(14)により、
(15)
「管到」=「返り点」 ではないが、
「括弧」=「管到」 である。
従って、
(15)により、
(16)
「漢文」に「括弧」が無いといふことは、「漢文」に「管到」が無い。といふことに、等しい。
然るに、
(01)により、
(17)
(中国の某君は)日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならないと、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。
従って、
(16)(17)により、
(18)
「管到」は「括弧」であり、「括弧」は「管到」であって、「漢文」には、「管到」が存在する。
従って、
(18)により、
(19)
「漢文」に、「管到」が存在し、「管到」とは「括弧」である以上、「括弧(管到)は有ります!!」と、せざるを得い。
(20)
「漢文」に、「括弧」が存在しない。といふためには、
(a)固より、「漢文」には「管到」が存在しない。
(b)存在したとしても、「括弧」は「管到」ではない。
といふことの、少なくとも、どちらか一方を、「証明」する必要がある。
平成26年09月03日、毛利太。
2014年9月2日火曜日
「交換律」
(01)
次のように下から返ってよんでみるとよい(原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁)。
とあるやうに、
① 伯楽不(常有)⇒
① 伯楽(常有)不=
① 伯楽は(常には有ら)不。
の場合であれば、
② 伯楽不〔常(有)〕⇒
② 伯楽〔(有)常〕不=
② 伯楽は〔(有ること)常なら〕不。
と読んでも、「意味」は、変はらない。
(02)
③ 無〔人不(死)〕⇒
③ 〔人(死)不〕無=
③ 〔人として(死せ)不る〕無し。
の場合も、
④ 無[人〔不(死)〕]⇒
④ [〔(死)不〕人]無=
④ [〔(死せ)不る〕人は]無し=
④ 死なない人間は存在しない。
と読んでも、「意味」は、変はらない。
然るに、
(03)
④ 無[人〔不(死)〕]⇒
④ [〔(死)不〕人]無=
④ [〔(死せ)不る〕人は]無し=
④ 死なない人間は存在しない。
は、
④ 無〔不(死)人〕⇒
④ 〔(死)不人〕無=
④ 〔(死せ)不る人は〕無し=
④ 死なない人間は存在しない。
に、等しい。
従って、
(02)(03)により、
(04)
③ 無〔人不(死)〕=
④ 無〔不(死)人〕。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(05)
「交換律」により、
⑤ Mⅹ&~(Dⅹ)=
⑥ ~(Dⅹ)&Mⅹ
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(05)により、
(06)
⑤ ~(∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ))⇒
⑤(Mⅹ&(Dⅹ)~) ~(∃ⅹ)=
⑤(人であって&(死な)ない者は)存在しない。
といふ「命題」と、
⑥ ~(∃ⅹ)(~(Dⅹ)&Mⅹ)⇒
⑥((Dⅹ)~&Mⅹ) ~(∃ⅹ)=
⑥((死な)ない&人間は)存在しない。
といふ「命題」は、「等しい」。
従って、
(04)(06)により、
(07)
③ 無〔人不(死)〕= ③ 人として死せ不るは無し。
④ 無〔不(死)人〕= ④ 死せ不る人は無し。
⑤ ~(∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ))= ⑤(人であって&(死な)ない者は)存在しない。
⑥ ~(∃ⅹ)(~(Dⅹ)&Mⅹ)= ⑥((死な)ない&人間は)存在しない。
に於いて、
③=④=⑤=⑥
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(07)により、
(08)
③ 無〔人不(死)〕=
③ 人として死せ不るは無し。
といふ「漢文」と、
⑤ ~(∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ))=
⑤(人であって&(死な)ない者は)存在しない。
といふ「述語論理」は、「交換律」が成り立つといふ点も、含めて、「完全に等しい」。
平成26年09月02日、毛利太。
(31)
人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天。
といふ「返り点」は、
① 一 二 三。
② 上 中 下。
③ 甲 乙 丙。
④ 天 地 人。
に於いて、
① を挟んで返る場合に、
② を用ゐ、
② を挟んで返る場合に、
③ を用ゐ、
③ を挟んで返る場合に、
④ を用ゐる。
といふ「規則(19)」を、満たしてゐる。
従って、
(32)
人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天 =
十三 八 五 二 一 四 三 七 六 十 九 十二 十一。
とするならば、
十三 八 五 二 一 四 三 七 六 十 九 十二 十一。
と書いても、「順番」としては、「規則(19)」を、満たしてゐる。
従って、
(33)
その意味で、
人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天。
は、「読みにくくても良い」のであれば、
十三 八 五 二 一 四 三 七 六 十 九 十二 十一。
としても、良いことに、なる。
然るに、
(34)
十三{八[五〔二(一)四(三)〕七(六)]十(九)十二(十一)} ⇒
{[〔(一)二(三)四〕五(六)七]八(九)十(十一)十二}十三 =
一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三。
然るに、
(35)
十三 八 五 二 一 四 三 七 六 十 九 十二 十一。
から、
五 二 一 四 三。
を取り出して、
五 二 一 四 三。
を、更に、例へば、
五 二 四 一 三。
に変へると、
五 二 四 一 三。
に対しては、「括弧」を加へることは、出来ない。
(36)
二 を、 一 の右へ、移動させるためには、
五 二(四 一)三。
とする、必要がある。
次に、
(37)
四 を、 三 の右へ、移動させるためには、
五 二(四〔一)三〕。
とする、必要が有るものの、
(〔 )〕
は、「括弧」とは、言へない。
(38)
五 二 四 一 三。
ではなく、
五 二 三 一 四。
の場合も、
二 を、 一 の右へ、移動させるためには、
五 二(三 一)四。
とする、必要がある。
次に、
(39)
三 を、 移動し終えた、二 の右へ、移動させるためには、
五 二(三〔一)〕四。
とする、必要があるものの、
(〔 )〕
は、「括弧」とは、言へない。
平成26年10月10日、毛利太。
次のように下から返ってよんでみるとよい(原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁)。
とあるやうに、
① 伯楽不(常有)⇒
① 伯楽(常有)不=
① 伯楽は(常には有ら)不。
の場合であれば、
② 伯楽不〔常(有)〕⇒
② 伯楽〔(有)常〕不=
② 伯楽は〔(有ること)常なら〕不。
と読んでも、「意味」は、変はらない。
(02)
③ 無〔人不(死)〕⇒
③ 〔人(死)不〕無=
③ 〔人として(死せ)不る〕無し。
の場合も、
④ 無[人〔不(死)〕]⇒
④ [〔(死)不〕人]無=
④ [〔(死せ)不る〕人は]無し=
④ 死なない人間は存在しない。
と読んでも、「意味」は、変はらない。
然るに、
(03)
④ 無[人〔不(死)〕]⇒
④ [〔(死)不〕人]無=
④ [〔(死せ)不る〕人は]無し=
④ 死なない人間は存在しない。
は、
④ 無〔不(死)人〕⇒
④ 〔(死)不人〕無=
④ 〔(死せ)不る人は〕無し=
④ 死なない人間は存在しない。
に、等しい。
従って、
(02)(03)により、
(04)
③ 無〔人不(死)〕=
④ 無〔不(死)人〕。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(05)
「交換律」により、
⑤ Mⅹ&~(Dⅹ)=
⑥ ~(Dⅹ)&Mⅹ
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(05)により、
(06)
⑤ ~(∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ))⇒
⑤(Mⅹ&(Dⅹ)~) ~(∃ⅹ)=
⑤(人であって&(死な)ない者は)存在しない。
といふ「命題」と、
⑥ ~(∃ⅹ)(~(Dⅹ)&Mⅹ)⇒
⑥((Dⅹ)~&Mⅹ) ~(∃ⅹ)=
⑥((死な)ない&人間は)存在しない。
といふ「命題」は、「等しい」。
従って、
(04)(06)により、
(07)
③ 無〔人不(死)〕= ③ 人として死せ不るは無し。
④ 無〔不(死)人〕= ④ 死せ不る人は無し。
⑤ ~(∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ))= ⑤(人であって&(死な)ない者は)存在しない。
⑥ ~(∃ⅹ)(~(Dⅹ)&Mⅹ)= ⑥((死な)ない&人間は)存在しない。
に於いて、
③=④=⑤=⑥
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(07)により、
(08)
③ 無〔人不(死)〕=
③ 人として死せ不るは無し。
といふ「漢文」と、
⑤ ~(∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ))=
⑤(人であって&(死な)ない者は)存在しない。
といふ「述語論理」は、「交換律」が成り立つといふ点も、含めて、「完全に等しい」。
平成26年09月02日、毛利太。
(31)
人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天。
といふ「返り点」は、
① 一 二 三。
② 上 中 下。
③ 甲 乙 丙。
④ 天 地 人。
に於いて、
① を挟んで返る場合に、
② を用ゐ、
② を挟んで返る場合に、
③ を用ゐ、
③ を挟んで返る場合に、
④ を用ゐる。
といふ「規則(19)」を、満たしてゐる。
従って、
(32)
人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天 =
十三 八 五 二 一 四 三 七 六 十 九 十二 十一。
とするならば、
十三 八 五 二 一 四 三 七 六 十 九 十二 十一。
と書いても、「順番」としては、「規則(19)」を、満たしてゐる。
従って、
(33)
その意味で、
人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天。
は、「読みにくくても良い」のであれば、
十三 八 五 二 一 四 三 七 六 十 九 十二 十一。
としても、良いことに、なる。
然るに、
(34)
十三{八[五〔二(一)四(三)〕七(六)]十(九)十二(十一)} ⇒
{[〔(一)二(三)四〕五(六)七]八(九)十(十一)十二}十三 =
一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三。
然るに、
(35)
十三 八 五 二 一 四 三 七 六 十 九 十二 十一。
から、
五 二 一 四 三。
を取り出して、
五 二 一 四 三。
を、更に、例へば、
五 二 四 一 三。
に変へると、
五 二 四 一 三。
に対しては、「括弧」を加へることは、出来ない。
(36)
二 を、 一 の右へ、移動させるためには、
五 二(四 一)三。
とする、必要がある。
次に、
(37)
四 を、 三 の右へ、移動させるためには、
五 二(四〔一)三〕。
とする、必要が有るものの、
(〔 )〕
は、「括弧」とは、言へない。
(38)
五 二 四 一 三。
ではなく、
五 二 三 一 四。
の場合も、
二 を、 一 の右へ、移動させるためには、
五 二(三 一)四。
とする、必要がある。
次に、
(39)
三 を、 移動し終えた、二 の右へ、移動させるためには、
五 二(三〔一)〕四。
とする、必要があるものの、
(〔 )〕
は、「括弧」とは、言へない。
平成26年10月10日、毛利太。
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