(01)
人而不仁、如礼何。
人にして仁ならずんば礼を如何せん。
人として人間らしさ(仁)がないならば、礼があっても何になろう。
(明解古典学習シリーズ16、1973年、40頁)
(02)
人之性悪。其善者偽也。
人の性は悪なり。その善なる者は偽りなり。
人の天性は悪である。人間の善を作り上げているのは(後天的な)人為なのである。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、349頁)
従って、
(01)(02)により、
(02)
人の性は悪なり。
に対するアンチテーゼとして、
① 不有人而不善=人にして善なら不るは有らず。
とする。
然るに、
(04)
① ~∃ⅹ(人ⅹ&~(善ⅹ))=
① ~[∃ⅹ〔人ⅹ&~(善ⅹ)〕]⇒
① [〔人ⅹ&(善ⅹ)~〕∃ⅹ]~=
① [〔人であって(善で)ないといった〕そのやうなⅹは存在し]ない。
といふ「述語論理」は、
① 不有人而不善=
① 不[有〔人而不(善)〕]⇒
① [〔人而(善)不〕有]不=
① [〔人にして(善なら)不るは〕有ら]不。
といふ「漢文」の、「直訳」である。
然るに、
(05)
言ふまでもなく、
① 不有人而不善(人にして善なら不るは有らず)。
といふ「漢文」は、
① 無人不善(人にして善なら不るは無し)。
といふ風に、書くことが出来る。
然るに、
(06)
① 無人不善(人にして善ならざるは無し)。
を、「英語」に置き換へると、
① No man is not good.
といふ、ことになる。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① 無人不善(人にして善ならざるは無し)=
① No man is not good=
① ~∃ⅹ(MANⅹ&~(GOODⅹ))=
① ∀ⅹ(MANⅹ → GOODⅹ)=Every man is good.
である、はずである?
然るに、
(08)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(08)により、
(09)
① No man is not good.
の「否定」は、
② ~(No man is not good).
であるが、
② ~(No man is not good).
といふ「英語」はない。
然るに、
(10)
「・・・・・でない。」ではない=
「・・・・・でない。」といふこと、それは、ウソである=
「・・・・・でない。」といふこと、それは、本当ではない。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① No man is not good.
の「否定」、すなはち、
② ~(No man is not good).
は、例へば、
② It is not true that no man is not good.
である。
然るに、
(12)
どの言語をみても、一般に否定文は肯定文にはないなんらかの要素(日本語のナイ、英語のnot、仏語の
ne・・・pasなど)をもち、その逆ではない(大修館、『言語』セレクション、第一巻、2012年、321頁)。
といふ場合の、
ナイ
not
ne・・・pas
といふ「否定詞」に対して、
It is not true that
は、「否定詞」とは、言ひにくい。
然るに、
(13)
① ~∃ⅹ(人ⅹ&~(善ⅹ)).
① 無人不善(人にして善ならざるは無し)。
① 不有人而不善(人にして善なら不るは有らず)。
といふ「二重否定」の「否定(三重否定)」は、
② ~(~∃ⅹ(人ⅹ&~(善ⅹ)))
② 非無人不善(人にして善ならざるは無きに非ず)。
② 非不有人而不善(人にして善なら不るは有らずんば非ず)。
であって、つまりは、
② 人であって善でない者は、ゐないわけではない。⇔
② 善でない人もゐる=∃ⅹ(人ⅹ&~(善ⅹ))。
といふ、ことである。
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
① ~∃ⅹ(人ⅹ&~(善ⅹ)).
① 無人不善(人にして善ならざるは無し)。
① 不有人而不善(人にして善なら不るは有らず)。
① No man is not good.
といふ「二重否定」にあって、
① No man is not good.
だけは、「否定詞」を用ゐて、「三重否定」にすることが、出来ない。
然るに、
(15)
よくスラム街などを舞台にした映画で、
I don't know nothing! とか I didn't say nothing!
などと言っている人を見かけますが、
文にnotとnothingという2つの否定詞が入ってしまっていますから、
文法的にはとんでもない×。
ではなぜネイティブが使っているのでしょう?
それは「この人はちゃんとした教育を受けていませんよ」
ということを脚本で表そうとしているから。こわいですね~。
ネイティブだからって、真似すればいいってもんじゃないんですね。
「私は何も知らない」と言いたいときの正しい文法は、
I don't know anything または I know nothing。
それぞれ否定詞を1つずつしか使っていませんね。
あ、「おらー何も知っちゃいねーよ!」と言いたいときには
I don't know nothingで良いかもしれません。
いや、やめましょう(笑)。
(Webサイト: ジョルダンスクール)
従って、
(14)(15)により、
(16)
① ~∃ⅹ(人ⅹ&~(善ⅹ)).
といふ「意味」で、
① No man is not good.
といふ風に、言はんとすると、
① No man is good.
① Man is not good.
といふ風に、英語の先生によって、直されてしまふ。
従って、
(16)により、
(17)
① ~∃ⅹ(人ⅹ&~(善ⅹ)).
① 無人不善(人にして善ならざるは無し)。
① 不有人而不善(人にして善なら不るは有らず)。
といふ「述語論理・漢文」に対応する、「英語」は、存在しない。
加へて、
(14)により、
(18)
① No man is not good.
といふ「英語」が存在したとしても、
① No man is not good.
といふ「英語」を、「否定詞」を用ゐて、「否定」することは、出来ない。
従って、
(17)(18)により、
(19)
「英語」は、「二重否定」や「三重否定」が、得意ではないが故に、「漢文・訓読」に比べて、「非論理(学)的」である。
平成27年01月31日、毛利太。
2015年1月31日土曜日
2015年1月24日土曜日
「所」について(Ⅱc)。
(01)
① 我汝所生也=我は汝の生みし所なり。
に於いて、「の」は、
a.「主語」を示す。
(02)
② 我汝所生之子也=我は汝の生みし所の子なり(私はあなたが生んだ子供である)。
に於いて、「の、の」は、順番に、
a.「主語」を示す。
b.「同格(同一)」を示す。
(03)
③ 我汝所生之太郎友也=我は汝の生みし所の太郎の友なり(私はあなたが生んだ太郎の友人である)。
に於いて、「の、の、の」は、順番に、
a.「主語」を示す。
b.「同格(同一)」を示す。
c.「連体修飾語」を作る。
従って、
(02)により、
(04)
② 我汝所生之子也=我は汝の生みし所の子なり。
に於いて、
② 我=所生。
② 所生=子。
といふ「等式」が、成立する。
(03)により、
(05)
③ 我汝所生之太郎友也=我は汝の生みし所の太郎の友なり。
に於いて、
③ 我=太郎の友。
③ 所生=太郎。
といふ「等式」が、成立する。
である。
然るに、
(06)
③ 我汝所生之太郎友也。
に於いて、
③ 所生=太郎。
であるならば、
③ 我汝所生之太郎友也。
は、
④ 我汝所生之友也=我は汝の生みし所の友なり(私はあなたが生んだ太郎の友人である)。
に、等しい。
然るに、
(07)
③ 我汝所生之太郎友也=
④ 我汝所生之友也=我は汝の生みし所の友なり(私はあなたが生んだ子供の、すなはち、太郎の、友人である)。
である以上、
④ 我汝所生之友也。
に於いて、
④ 我=友。
④ 所生=太郎。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(04)(07)により、
(08)
② 我は汝の生みし所の子なり(私はあなたが生んだ子供である)。
の場合は、
② 所生=子。
であって、尚且つ、
④ 我は汝の生みし所の友なり(私はあなたが生んだ太郎の友人である)。
の場合は、
④ 所生 ≠ 友。
である。
従って、
(08)により、
(09)
② 我汝所生之子也。
④ 我汝所生之友也。
に於いて、
② 所生=子。
④ 所生 ≠ 友。
である。
従って、
(09)により、
(10)
A所B之C。
に於いて、
所B は、Cと「同一である」ことも、
所B は、Cと「同一でない」ことも、両方とも、「可能」である。
cf.
16「所当過之橋」17「韓非所著之書」では「所当過」と橋、「所著」と書とは同一のものであるが、28「所崇」と子孫、29「所愛」と肉とは別のものであることに注意(西田太一郎、漢文の語法、1980年、152頁)。
従って、
(11)
⑤ 其所愛之肉。
の場合も、
⑤ 所愛=肉。
であることも、
⑥ 所愛 ≠ 肉。
であることも、両方とも、「可能」である。
(12)
⑤ 所愛=肉。
であるならば、
⑤ 肉=好物。
であるため、
⑤ 食其所愛之肉=好物の肉を食べる(普通である)。
となり、
⑥ 所愛 ≠ 肉。
⑥ 所愛=妻や妾。
であるならば、
⑥ 食其所愛之肉=妻や妾を殺してその肉を食べる(異常である)。
といふ、ことになる。
従って、
(13)
⑤ 食其所愛之肉(肉食)。
⑥ 食其所愛之肉(カニバリズム)。
は、「文脈」に、依存する。
然るに、
(14)
さらに「所」についての応用問題を出してみよう。次の漢文を訳してみよ。
食其所愛之肉、以与敵抗=其の愛する所の肉を食ひ、以て敵と抗す。
おそらく「一番好きな肉、たとえば牛肉を食って、スタミナをつけ、それで敵とわたりあった」という解答が圧倒的だろうと思う。もちろん牛肉が豚肉であろうと鶏肉であろうとそれはかまわない。要するに「所愛」は、肉に対する好みというわけである。しかし、右のような解釈は残念ながら、この場合ぴったりしない。どこがアウトなのかわかるか。これが分かる人は、漢文の力は高度である。
まず、原因から考えて行こう。以前に説明したように、「所」というのは、あくまでも対象化する働きを持つ語なのである。だから、くり返していえば、「所愛」というのは、愛する行為の対象者であり、愛する相手のことなのである。すると、前記の文の場合、愛する対称とはなにか、肉か。否、肉ではない。「所愛」の二字自体が、愛する相手なのである。それを仮にⅹとしよう。すると次のようになる。
ⅹの肉を食らひ、以て敵と抗す。
それではⅹとは何か。ごくすなおに考えてみよう。ⅹの内容は、「愛するところ」すなわち「愛する人」である。「愛する人」って誰のこと?決まってるじゃないか、愛人だよ。ま、一般的にいえば、妻や第二夫人、つまり妻妾である。すると次のようになる。
食2其妻妾之肉1、以与ㇾ敵抗 : 二 一 レ。
其の妻妾の肉を食らひ、以て敵に抗す。
と、こういうわけだ(漢文法基礎、二畳庵主人、1984年、151頁)。
従って、
(14)により、
(15)
二畳庵主人の「説明」を読む限り、
⑤ 食其所愛之肉(肉食)。
⑥ 食其所愛之肉(カニバリズム)。
とはならず、常に、
⑥ 食其所愛之肉(カニバリズム)。
といふ「解釈」しか、成り立たない。
従って、
(10)~(15)により、
(16)
A所B之C。
に於いて、
所B は、Cと「同一である」ことも、
所B は、Cと「同一でない」ことも、両方とも、「可能」である。
といふ「解釈」は、「二畳庵主人の説」に従ふ限り、
⑤ 食其所愛之肉。
に関しては、成り立たない。
平成27年01月24日、毛利太。
① 我汝所生也=我は汝の生みし所なり。
に於いて、「の」は、
a.「主語」を示す。
(02)
② 我汝所生之子也=我は汝の生みし所の子なり(私はあなたが生んだ子供である)。
に於いて、「の、の」は、順番に、
a.「主語」を示す。
b.「同格(同一)」を示す。
(03)
③ 我汝所生之太郎友也=我は汝の生みし所の太郎の友なり(私はあなたが生んだ太郎の友人である)。
に於いて、「の、の、の」は、順番に、
a.「主語」を示す。
b.「同格(同一)」を示す。
c.「連体修飾語」を作る。
従って、
(02)により、
(04)
② 我汝所生之子也=我は汝の生みし所の子なり。
に於いて、
② 我=所生。
② 所生=子。
といふ「等式」が、成立する。
(03)により、
(05)
③ 我汝所生之太郎友也=我は汝の生みし所の太郎の友なり。
に於いて、
③ 我=太郎の友。
③ 所生=太郎。
といふ「等式」が、成立する。
である。
然るに、
(06)
③ 我汝所生之太郎友也。
に於いて、
③ 所生=太郎。
であるならば、
③ 我汝所生之太郎友也。
は、
④ 我汝所生之友也=我は汝の生みし所の友なり(私はあなたが生んだ太郎の友人である)。
に、等しい。
然るに、
(07)
③ 我汝所生之太郎友也=
④ 我汝所生之友也=我は汝の生みし所の友なり(私はあなたが生んだ子供の、すなはち、太郎の、友人である)。
である以上、
④ 我汝所生之友也。
に於いて、
④ 我=友。
④ 所生=太郎。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(04)(07)により、
(08)
② 我は汝の生みし所の子なり(私はあなたが生んだ子供である)。
の場合は、
② 所生=子。
であって、尚且つ、
④ 我は汝の生みし所の友なり(私はあなたが生んだ太郎の友人である)。
の場合は、
④ 所生 ≠ 友。
である。
従って、
(08)により、
(09)
② 我汝所生之子也。
④ 我汝所生之友也。
に於いて、
② 所生=子。
④ 所生 ≠ 友。
である。
従って、
(09)により、
(10)
A所B之C。
に於いて、
所B は、Cと「同一である」ことも、
所B は、Cと「同一でない」ことも、両方とも、「可能」である。
cf.
16「所当過之橋」17「韓非所著之書」では「所当過」と橋、「所著」と書とは同一のものであるが、28「所崇」と子孫、29「所愛」と肉とは別のものであることに注意(西田太一郎、漢文の語法、1980年、152頁)。
従って、
(11)
⑤ 其所愛之肉。
の場合も、
⑤ 所愛=肉。
であることも、
⑥ 所愛 ≠ 肉。
であることも、両方とも、「可能」である。
(12)
⑤ 所愛=肉。
であるならば、
⑤ 肉=好物。
であるため、
⑤ 食其所愛之肉=好物の肉を食べる(普通である)。
となり、
⑥ 所愛 ≠ 肉。
⑥ 所愛=妻や妾。
であるならば、
⑥ 食其所愛之肉=妻や妾を殺してその肉を食べる(異常である)。
といふ、ことになる。
従って、
(13)
⑤ 食其所愛之肉(肉食)。
⑥ 食其所愛之肉(カニバリズム)。
は、「文脈」に、依存する。
然るに、
(14)
さらに「所」についての応用問題を出してみよう。次の漢文を訳してみよ。
食其所愛之肉、以与敵抗=其の愛する所の肉を食ひ、以て敵と抗す。
おそらく「一番好きな肉、たとえば牛肉を食って、スタミナをつけ、それで敵とわたりあった」という解答が圧倒的だろうと思う。もちろん牛肉が豚肉であろうと鶏肉であろうとそれはかまわない。要するに「所愛」は、肉に対する好みというわけである。しかし、右のような解釈は残念ながら、この場合ぴったりしない。どこがアウトなのかわかるか。これが分かる人は、漢文の力は高度である。
まず、原因から考えて行こう。以前に説明したように、「所」というのは、あくまでも対象化する働きを持つ語なのである。だから、くり返していえば、「所愛」というのは、愛する行為の対象者であり、愛する相手のことなのである。すると、前記の文の場合、愛する対称とはなにか、肉か。否、肉ではない。「所愛」の二字自体が、愛する相手なのである。それを仮にⅹとしよう。すると次のようになる。
ⅹの肉を食らひ、以て敵と抗す。
それではⅹとは何か。ごくすなおに考えてみよう。ⅹの内容は、「愛するところ」すなわち「愛する人」である。「愛する人」って誰のこと?決まってるじゃないか、愛人だよ。ま、一般的にいえば、妻や第二夫人、つまり妻妾である。すると次のようになる。
食2其妻妾之肉1、以与ㇾ敵抗 : 二 一 レ。
其の妻妾の肉を食らひ、以て敵に抗す。
と、こういうわけだ(漢文法基礎、二畳庵主人、1984年、151頁)。
従って、
(14)により、
(15)
二畳庵主人の「説明」を読む限り、
⑤ 食其所愛之肉(肉食)。
⑥ 食其所愛之肉(カニバリズム)。
とはならず、常に、
⑥ 食其所愛之肉(カニバリズム)。
といふ「解釈」しか、成り立たない。
従って、
(10)~(15)により、
(16)
A所B之C。
に於いて、
所B は、Cと「同一である」ことも、
所B は、Cと「同一でない」ことも、両方とも、「可能」である。
といふ「解釈」は、「二畳庵主人の説」に従ふ限り、
⑤ 食其所愛之肉。
に関しては、成り立たない。
平成27年01月24日、毛利太。
2015年1月16日金曜日
不敢不勉。
(01)
(02)~(08)に於いて、
① 敢不走乎。 は、「反語」である。
② 敢不走乎。 は、不敢不走。に、等しい。
③ 不敢不走。 は、「必ず逃げる。」といふ意味である。
といふ三点を、説明します。
(02)
敢不走乎 「敢不~乎」は「あへテ~ざランや」と読む反語形。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、40頁)。
従って、
(02)により、
(03)
① 敢不走乎。は、「反語」である。
然るに、
(04)
反語とは、表現されている内容と反対のことを意味する言い方で、多くは疑問形と同じ形であり、日本語でも、「そんなこと誰が知ろうか」と言う場合、「誰が知っているか」とたずねているのではなく、逆に「誰も知ってはいない」ということを言っているのである。けっきょく、肯定している場合は否定に、否定している場合は肯定の内容になる。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、45頁)。
然るに、
(05)
① 敢不走乎。 の「否定」は、
② 不敢不走。 である。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① 敢不走乎。 は、「反語」であるが故に、
① 敢不走乎。 は、「その否定」である、
② 不敢不走。 に、等しい。
然るに、
(07)
敢不走乎。
敢へて走らざらんや。
どうして逃げないでしょうか(いや、必ず逃げるのです)。
(数研出版、基礎からの漢文、1982年、95頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 敢不走乎=
② 不敢不走=必ず逃げる。
(09)
(10)~(14)に於いて、
② 必ず逃げる=逃げないことを、決してしない。
であることを、説明します。
(10)
② 逃げないことを、しない。
といふことは、要するに、
② 逃げる。
といふ、ことである。
然るに、
(11)
② 逃げる。
といふ「意味(意志)」を、「強める」と、
② 必ず、逃げる。
(12)
② 逃げないことを、しない。
の「意味(意志)」を、「強める」と、
② 逃げないことを、決して、しない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
② 必ず、逃げる=
② 逃げないことを、決して、しない。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(08)(13)により、
(14)
② 不敢不走=
② 逃げないことを、決して、しない。
従って、
(14)により、
(15)
③ 不敢不勉=
③ 勉めないことを、決して、しない。
cf.
24囗否定形10 不敢不 ―
(読)アエテ ―ズンバアラズ
(意)どうしても(進んで)―しないではいられない。―しないということは決してしない。〔二重否定〕
敢へて勉めずんばあらず。
どうしても努力しないではいられない、できるだけ努力する。
(多久高弘一、多久の漢文公式110、1988年、24頁)
然るに、
(16)
③ 不敢不勉=
③ 勉めないことを、決して、しない。
であるならば、
④ 不敢視=
④ 視ることを、決して、しない。
cf.
23囗否定形9 不敢 ―
(読)アエテ ―(セ)ズ
(意)決して ―しない。進んで―しない。
昆弟妻嫂、目を側めて敢へて視不。
兄弟、妻、兄嫁は目をそらして、進んでまともに蘇秦を視ようとしなかった(蘇秦の威光を恐れたので)。
(多久高弘一、多久の漢文公式110、1988年、23頁)
従って、
(15)(16)により、
(17)
不敢 ― =決して ―しない。
不敢不 ― =決して ―しないことを、しない。
従って、
(18)
1 市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、81頁)。
としても、特に、「不都合」は無い。
平成26年01月16日、毛利太。
(19)
① 背きたい気持ち。
② 背きたくない気持ち。
が、有って、
①>② = 敢背。
①<② = 敢不背。
~(①>②)= 不敢背。
~(①<②)= 不敢不背。
然るに、
(20)
~(①>②)={①≦②}≒①<②
従って、
(17)(19)(20)により、
(24)
言沛公不敢背項王=沛公敢へて項王に背かずと、言はん。
に於ける、
~(①>②)=
不敢背=敢へて背かず。 は、
①<② =
敢不背=敢へて背かず。
といふ「意志」を、強調した、言ひ方である。
平成26年01月17日、毛利太。
(02)~(08)に於いて、
① 敢不走乎。 は、「反語」である。
② 敢不走乎。 は、不敢不走。に、等しい。
③ 不敢不走。 は、「必ず逃げる。」といふ意味である。
といふ三点を、説明します。
(02)
敢不走乎 「敢不~乎」は「あへテ~ざランや」と読む反語形。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、40頁)。
従って、
(02)により、
(03)
① 敢不走乎。は、「反語」である。
然るに、
(04)
反語とは、表現されている内容と反対のことを意味する言い方で、多くは疑問形と同じ形であり、日本語でも、「そんなこと誰が知ろうか」と言う場合、「誰が知っているか」とたずねているのではなく、逆に「誰も知ってはいない」ということを言っているのである。けっきょく、肯定している場合は否定に、否定している場合は肯定の内容になる。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、45頁)。
然るに、
(05)
① 敢不走乎。 の「否定」は、
② 不敢不走。 である。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① 敢不走乎。 は、「反語」であるが故に、
① 敢不走乎。 は、「その否定」である、
② 不敢不走。 に、等しい。
然るに、
(07)
敢不走乎。
敢へて走らざらんや。
どうして逃げないでしょうか(いや、必ず逃げるのです)。
(数研出版、基礎からの漢文、1982年、95頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 敢不走乎=
② 不敢不走=必ず逃げる。
(09)
(10)~(14)に於いて、
② 必ず逃げる=逃げないことを、決してしない。
であることを、説明します。
(10)
② 逃げないことを、しない。
といふことは、要するに、
② 逃げる。
といふ、ことである。
然るに、
(11)
② 逃げる。
といふ「意味(意志)」を、「強める」と、
② 必ず、逃げる。
(12)
② 逃げないことを、しない。
の「意味(意志)」を、「強める」と、
② 逃げないことを、決して、しない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
② 必ず、逃げる=
② 逃げないことを、決して、しない。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(08)(13)により、
(14)
② 不敢不走=
② 逃げないことを、決して、しない。
従って、
(14)により、
(15)
③ 不敢不勉=
③ 勉めないことを、決して、しない。
cf.
24囗否定形10 不敢不 ―
(読)アエテ ―ズンバアラズ
(意)どうしても(進んで)―しないではいられない。―しないということは決してしない。〔二重否定〕
敢へて勉めずんばあらず。
どうしても努力しないではいられない、できるだけ努力する。
(多久高弘一、多久の漢文公式110、1988年、24頁)
然るに、
(16)
③ 不敢不勉=
③ 勉めないことを、決して、しない。
であるならば、
④ 不敢視=
④ 視ることを、決して、しない。
cf.
23囗否定形9 不敢 ―
(読)アエテ ―(セ)ズ
(意)決して ―しない。進んで―しない。
昆弟妻嫂、目を側めて敢へて視不。
兄弟、妻、兄嫁は目をそらして、進んでまともに蘇秦を視ようとしなかった(蘇秦の威光を恐れたので)。
(多久高弘一、多久の漢文公式110、1988年、23頁)
従って、
(15)(16)により、
(17)
不敢 ― =決して ―しない。
不敢不 ― =決して ―しないことを、しない。
従って、
(18)
1 市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、81頁)。
としても、特に、「不都合」は無い。
平成26年01月16日、毛利太。
(19)
① 背きたい気持ち。
② 背きたくない気持ち。
が、有って、
①>② = 敢背。
①<② = 敢不背。
~(①>②)= 不敢背。
~(①<②)= 不敢不背。
然るに、
(20)
~(①>②)={①≦②}≒①<②
従って、
(17)(19)(20)により、
(24)
言沛公不敢背項王=沛公敢へて項王に背かずと、言はん。
に於ける、
~(①>②)=
不敢背=敢へて背かず。 は、
①<② =
敢不背=敢へて背かず。
といふ「意志」を、強調した、言ひ方である。
平成26年01月17日、毛利太。
2015年1月13日火曜日
漢文の基本構造(Ⅲ)。
(01)
「漢文の基本構造」、すなはち、
(一)主述関係 主語―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
(四)並列関係 並列語―並列語
(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、281~3頁、抜粋)
を、
(一)主―述
(二)修―被
(三)叙―補
(四)並―並
とする。
(02)
(一)主―述
(二)修―被
(三)叙―補
(四)並―並
を、
(一)囗―囗
(二)囗―囗
(三)囗―囗
(四)囗―囗
とする。
(03)
(一)囗―囗
(二)囗―囗
(三)囗―囗
(四)囗―囗
を、
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗(囗)
(四)囗・囗
とする。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
(一)主述関係 主語―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
(四)並列関係 並列語―並列語
を、
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗(囗)
(四)囗・囗
とする。
然るに、
(05)
① He>always+reads(many+books).
に於いて、
① He は、主語。
① reads は、述語。
① many(形容詞) は、連体修飾語。
① always(副詞) は、連用修飾語。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① He>always+reads(many+books).
は、「漢文」ではないものの、
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗(囗)
を満たしてゐる。
然るに、
(07)
① He>always+reads(many+books)⇒
② He>always+(many+books)reads=
② 彼>常+(多く+本)読む=
② 彼は常に、多くの本を読む。
従って、
(07)により、
(08)
>=は
+=に
+=の
)=を
である。
加へて、
(04)により、
(09)
父 ・母=
父と母。
従って、
(08)(09)により、
(10)
>=は
+=に
+=の
)=を
・=と
である。
然るに、
(11)
日本語においては、単語に付加し自立語同士の関係を表したり、対象を表したりする語句の総称。付属語。活用しない。俗に「てにをは」(弖爾乎波・天爾遠波)か「てにはを」(弖爾波乎)と呼ばれるが、これは漢文の読み下しの補助として漢字の四隅につけられたヲコト点を左下から右回りに読んだ時に「てにはを」となることに因るものである(ウィキペディア:助詞)。
従って、
(04)(10)(11)により、
(12)
(一)>
(二)+
(三)( )
(四)・
は、所謂、「ヲコト点」に、相当する。
然るに、
(13)
古くは乎古止点(をことてん、旧:をことてむ)によって、漢文に「を」や「こと」などを補うのに興り、返り点(かえりてん、旧:かへりてむ)で読む順番を示したり、送り仮名や句読点、片仮名などで日本語の訓で読む助けにしたりして発展した。ヲコト点・返り点・送り仮名・振り仮名などを総称して訓点という(ウィキペディア:訓読)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
(一)>
(二)+
(三)( )
(四)・
は、「訓点」に、相当する。
それ故、
(15)
(一)>
(二)+
(三){[〔( )〕]}
(四)・
を、『訓点』とする。
然るに、
(16)
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗{囗[囗〔囗(囗)〕]}
(四)囗・囗
だけでは、少なくとも、
(五)囗‐囗:熟語等(固有名詞を含む)。
が、不足する。
従って、
(15)(16)により、
(17)
(一)>
(二)+
(三){[〔( )〕]}
(四)・
(五)‐
を、『訓点』とする。
従って、
(18)
例へば、
(一)囗>囗 主述関係 主語―述語
は、
(一)囗は囗
(一)囗が囗
である。
然るに、
(19)
ところで、古文では、この「が」「は」「を」が、当然のことのように省略されている場合が、ずいぶんと多い(中村菊一、基礎から分かる古典文法、1978年、7頁)。
従って、
(19)により、
(20)
彼>読(書)。
は、
彼、書を読む。
であって、
彼は書を読む。
ではない。
加へて、
(21)
【1】[が][の]
① 主語を示す。〈・・・・・ガ〉
日の暮るるとき。
汝が去りし日。
(中村菊一、基礎から分かる古典文法、1978年、154頁)
従って、
(04)(21)により、
(22)
日>暮+時=日の暮るる時。
汝>去+日=汝が去りし日。
である。
従って、
(18)(20)(21)により、
(22)
(一)囗>囗
は、
(一)囗は囗
(一)囗が囗
(一)囗、 囗
(一)囗の囗
であるため、
(一)囗>囗
の「読み方」は、「一通り」ではないし、
(二)+
(三){[〔( )〕]}
(四)・
(五)‐
に関しても、「一通り」である「必要」は、無い。
(23)
③ 我>不{必+求[以〔解(中‐国+語)+法〕解(漢‐文)]}。
に於いて、
③ 中‐国 は、
③「熟語等(固有名詞を含む)」である。
従って、
(24)
③ 中‐国+語 は、
③ 中華人民共和国の語 といふ意味である。
(25)
③ 解(中‐国+語)+法 は、
③ 中華人民共和国の語を解する方法 といふ意味である。
従って、
(26)
③ +法 の「+」は、
③ 解する の「する(連体形)」に、対応する。
(27)
③ 以〔解(中‐国+語)+法〕 は、
③ 中華人民共和国の語を解する方法を用ゐて といふ意味である。
(28)
③ 求[以〔解(中‐国+語)+法〕解(漢‐文)] は、
③ 中華人民共和国の語を解する方法を用ゐて漢文をすることを求む といふ意味である。
従って、
(29)
③ 我>不{必+求[以〔解(中‐国+語)+法〕解(漢‐文)]}。
に於ける、
③ > { + [ 〔 ( ‐ + )+ 〕 ( ‐ )]}
といふ『訓点』は、
③ 我不必求以解中国語法解漢文=
③ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
③ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
③ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ「漢文」に対する、「私自身の解釈」に、なってゐる。
従って、
(29)により、
(30)
③ 我不必求以解中国語法解漢文⇒
③ 我、必ずしも、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求めず。
といふ「漢文訓読」が、「誤り」であるならば、
③ 我>不{必+求[以〔解(中‐国+語)+法〕解(漢‐文)]}。
に於ける、『訓点』が、「誤り」である。
然るに、
(01)(04)(16)により、
(31)
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗{囗[囗〔囗(囗)〕]}
(四)囗・囗
(五)囗‐囗:熟語等(固有名詞を含む)。
といふ『訓点』は、「漢文の基本構造(シンタックス)」を、表してゐる。
従って、
(30)(31)により、
(32)
③ 我>不{必+求[以〔解(中‐国+語)+法〕解(漢‐文)]}。
に於ける、『訓点』が、「誤り」である。ならば、
③ 我不必求以解中国語法解漢文。
に対する、『シンタックスの把握』が、「誤り」である。
といふ、ことになる。
従って、
(32)により、
(33)
③ 我>不{必+求[以〔解(中‐国+語)+法〕解(漢‐文)]}。
に於ける、『訓点』は、
③ 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」の、『シンタックス』を、表してゐるて、尚且つ、それは、「正しいか、正しくないか」の、いづれかである。
平成27年01月13日、毛利太。
「漢文の基本構造」、すなはち、
(一)主述関係 主語―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
(四)並列関係 並列語―並列語
(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、281~3頁、抜粋)
を、
(一)主―述
(二)修―被
(三)叙―補
(四)並―並
とする。
(02)
(一)主―述
(二)修―被
(三)叙―補
(四)並―並
を、
(一)囗―囗
(二)囗―囗
(三)囗―囗
(四)囗―囗
とする。
(03)
(一)囗―囗
(二)囗―囗
(三)囗―囗
(四)囗―囗
を、
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗(囗)
(四)囗・囗
とする。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
(一)主述関係 主語―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
(四)並列関係 並列語―並列語
を、
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗(囗)
(四)囗・囗
とする。
然るに、
(05)
① He>always+reads(many+books).
に於いて、
① He は、主語。
① reads は、述語。
① many(形容詞) は、連体修飾語。
① always(副詞) は、連用修飾語。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① He>always+reads(many+books).
は、「漢文」ではないものの、
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗(囗)
を満たしてゐる。
然るに、
(07)
① He>always+reads(many+books)⇒
② He>always+(many+books)reads=
② 彼>常+(多く+本)読む=
② 彼は常に、多くの本を読む。
従って、
(07)により、
(08)
>=は
+=に
+=の
)=を
である。
加へて、
(04)により、
(09)
父 ・母=
父と母。
従って、
(08)(09)により、
(10)
>=は
+=に
+=の
)=を
・=と
である。
然るに、
(11)
日本語においては、単語に付加し自立語同士の関係を表したり、対象を表したりする語句の総称。付属語。活用しない。俗に「てにをは」(弖爾乎波・天爾遠波)か「てにはを」(弖爾波乎)と呼ばれるが、これは漢文の読み下しの補助として漢字の四隅につけられたヲコト点を左下から右回りに読んだ時に「てにはを」となることに因るものである(ウィキペディア:助詞)。
従って、
(04)(10)(11)により、
(12)
(一)>
(二)+
(三)( )
(四)・
は、所謂、「ヲコト点」に、相当する。
然るに、
(13)
古くは乎古止点(をことてん、旧:をことてむ)によって、漢文に「を」や「こと」などを補うのに興り、返り点(かえりてん、旧:かへりてむ)で読む順番を示したり、送り仮名や句読点、片仮名などで日本語の訓で読む助けにしたりして発展した。ヲコト点・返り点・送り仮名・振り仮名などを総称して訓点という(ウィキペディア:訓読)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
(一)>
(二)+
(三)( )
(四)・
は、「訓点」に、相当する。
それ故、
(15)
(一)>
(二)+
(三){[〔( )〕]}
(四)・
を、『訓点』とする。
然るに、
(16)
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗{囗[囗〔囗(囗)〕]}
(四)囗・囗
だけでは、少なくとも、
(五)囗‐囗:熟語等(固有名詞を含む)。
が、不足する。
従って、
(15)(16)により、
(17)
(一)>
(二)+
(三){[〔( )〕]}
(四)・
(五)‐
を、『訓点』とする。
従って、
(18)
例へば、
(一)囗>囗 主述関係 主語―述語
は、
(一)囗は囗
(一)囗が囗
である。
然るに、
(19)
ところで、古文では、この「が」「は」「を」が、当然のことのように省略されている場合が、ずいぶんと多い(中村菊一、基礎から分かる古典文法、1978年、7頁)。
従って、
(19)により、
(20)
彼>読(書)。
は、
彼、書を読む。
であって、
彼は書を読む。
ではない。
加へて、
(21)
【1】[が][の]
① 主語を示す。〈・・・・・ガ〉
日の暮るるとき。
汝が去りし日。
(中村菊一、基礎から分かる古典文法、1978年、154頁)
従って、
(04)(21)により、
(22)
日>暮+時=日の暮るる時。
汝>去+日=汝が去りし日。
である。
従って、
(18)(20)(21)により、
(22)
(一)囗>囗
は、
(一)囗は囗
(一)囗が囗
(一)囗、 囗
(一)囗の囗
であるため、
(一)囗>囗
の「読み方」は、「一通り」ではないし、
(二)+
(三){[〔( )〕]}
(四)・
(五)‐
に関しても、「一通り」である「必要」は、無い。
(23)
③ 我>不{必+求[以〔解(中‐国+語)+法〕解(漢‐文)]}。
に於いて、
③ 中‐国 は、
③「熟語等(固有名詞を含む)」である。
従って、
(24)
③ 中‐国+語 は、
③ 中華人民共和国の語 といふ意味である。
(25)
③ 解(中‐国+語)+法 は、
③ 中華人民共和国の語を解する方法 といふ意味である。
従って、
(26)
③ +法 の「+」は、
③ 解する の「する(連体形)」に、対応する。
(27)
③ 以〔解(中‐国+語)+法〕 は、
③ 中華人民共和国の語を解する方法を用ゐて といふ意味である。
(28)
③ 求[以〔解(中‐国+語)+法〕解(漢‐文)] は、
③ 中華人民共和国の語を解する方法を用ゐて漢文をすることを求む といふ意味である。
従って、
(29)
③ 我>不{必+求[以〔解(中‐国+語)+法〕解(漢‐文)]}。
に於ける、
③ > { + [ 〔 ( ‐ + )+ 〕 ( ‐ )]}
といふ『訓点』は、
③ 我不必求以解中国語法解漢文=
③ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
③ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
③ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ「漢文」に対する、「私自身の解釈」に、なってゐる。
従って、
(29)により、
(30)
③ 我不必求以解中国語法解漢文⇒
③ 我、必ずしも、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求めず。
といふ「漢文訓読」が、「誤り」であるならば、
③ 我>不{必+求[以〔解(中‐国+語)+法〕解(漢‐文)]}。
に於ける、『訓点』が、「誤り」である。
然るに、
(01)(04)(16)により、
(31)
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗{囗[囗〔囗(囗)〕]}
(四)囗・囗
(五)囗‐囗:熟語等(固有名詞を含む)。
といふ『訓点』は、「漢文の基本構造(シンタックス)」を、表してゐる。
従って、
(30)(31)により、
(32)
③ 我>不{必+求[以〔解(中‐国+語)+法〕解(漢‐文)]}。
に於ける、『訓点』が、「誤り」である。ならば、
③ 我不必求以解中国語法解漢文。
に対する、『シンタックスの把握』が、「誤り」である。
といふ、ことになる。
従って、
(32)により、
(33)
③ 我>不{必+求[以〔解(中‐国+語)+法〕解(漢‐文)]}。
に於ける、『訓点』は、
③ 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」の、『シンタックス』を、表してゐるて、尚且つ、それは、「正しいか、正しくないか」の、いづれかである。
平成27年01月13日、毛利太。
2015年1月12日月曜日
「音読」のリズム。
(01)
「漢文の基本構造」、すなはち、
(一)主述関係 主語―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
(四)並列関係 並列語―並列語
に対して、
(五)熟語等(固有名詞を含む)
を加へて、
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗(囗)
(四)囗・囗
(五)囗‐囗
とすることは、「妥当」です。
然るに、
(02)
(六)囗,:接続詞(而や故、他)
とすることには、「問題」があります。
加へて、
(03)
世>有(伯‐楽)、然‐後>有(千‐里‐馬)。
千‐里‐馬>常‐有、而,伯‐楽>不‐常‐有。
故,雖〔有(名‐馬)〕、祇+辱〔於(奴‐隷‐人+之+手)〕、
駢‐死〔於(槽‐櫪+之+間)〕、不〔以(千‐里)称〕也。
に於ける、
奴‐隷‐人+之+手
にしても、
之=の
であることは、明らかであるため、
奴‐隷‐人+之+手
は、
奴‐隷‐人之手
と、書くべきです。
(04)
(六)囗,:接続詞(而や故、他)
が、「妥当」でない。といふのは、
① 虎求百獣而得之得狐。
② 及為令尹未治而国人信之。
③ 千里馬常有而伯楽不常有。
に於いて、これらを「音読み」する際の、「句読点」に、関係します。
(05)
α 白文を、
β 訓読し、
β 訓読を、
γ 復文(音読)する。
際には、
① 虎求百獣而得之_得狐。
② 及為令尹為未治而_国人信之。
③ 千里馬常有_而_伯楽不常有。
といふ風に、「区切る」ため、その「区切り」を反映させるためには、
(六)囗,
だけでなく、「コンマが無い」、
(六)囗
も、必要となり、それ故、
(六)囗,:接続詞(而や故、他)
だけでは、『訓点』としては、「妥当」では、ありません。
すなはち、
(06)
① 虎求百獣而得之、得狐。
② 及為令尹為未治而、国人信之。
③ 千里馬常有、而、伯楽不常有。
である以上、『訓点』は、
① 虎>求(百‐獣)而得(之)、得(狐)。
② >及〔為(令‐尹)〕未(治)而,国+人>信(之)。
③ 千‐里‐馬>常+有、而,伯‐楽>不〔常(有)〕。
であるため、
① 虎>求(百‐獣)而得(之)、得(狐)。
に関しては、
(六)囗,
ではなく、「コンマが無い」、
(六)囗
を、必要とします。
(07)
① 虎求百獣而得之得狐。
② 及為令尹未治而国人信之。
③ 千里馬常有而伯楽不常有。
を「復文(音読み)」する際は、
① 虎求百獣而得之_得狐。
② 及為令尹為未治而_国人信之。
③ 千里馬常有_而_伯楽不常有。
という風に、「区切る」べきである。
といふのは、「誰かが、さう書いてゐる」といふことでは、ありません。
(08)
① 虎百獣を求めて之を食らい、狐を得たり。
② 令尹と為るに及び、国人之を信ず。
③ 千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
を、
① コキュウヒャクジュウジトクシ、トクコ。
② キュウイレイジンビチジ、コクジンシンシ。
③ センリバジョウユウ、ジ、ハクラクフツジョウユウ。
と、「復文(音読み)」してゐたら、自然に、
① 而
② 而、
③ 、而、
となって行った。といふのが、本当です。
従って、
(09)
「意味を理解しつつ、自分にとって、読みやすいやうに音読してゐたら、自然にさうなってゐた。」
といふことに、なるのですが、或る人曰く、
① コキュウヒャクジュウジトクシ、トクコ。
② キュウイレイジンビチジ、コクジンシンシ。
③ センリバジョウユウ、ジ、ハクラクフツジョウユウ。
といふ、「私が行ふ音読」は、「それなりに、外国語のやうに、聞こえる。」との、ことです。
(10)
「外国語のやうに、聞こえる。」かは、別にしても、今も書いたやうに、
「自分にとって、読みやすいやうに音読してゐたら、自然に、そのやうな、リズムになって行った。」
といふことは、事実です。
(11)
④ 不好犯上而好作乱者未之有也。
であれば、
④ 不好犯上=フツコウハンジョウ
で、一旦、「区切り」、次に、
④ 而好作乱者=ジコウサクランシャ
と読み、最後に、
④ 未之有也=ビシイウヤ。
と読むと、「リズムが良く、その分、暗誦もし易く」なります。
(12)
⑤ 臣不得越官而有功。
であれば、そのまま、
⑤ 臣不得越官而有功=シンフツトクエツカンジイウコウ。
と読むと、「リズムが良く、その分、暗誦もし易く」なります。
ただし、
(13)
だからと言って、もう一度言ふと、
① コキュウヒャクジュウジトクシ_トクコ。
② キュウイレイジンビチジ_コクジンシンシ。
③ センリバジョウユウ_ジ_ハクラクフツジョウユウ。
④ フツコウハンジョウ_ジコウサクランシャ_ビシイウヤ。
⑤ シンフツトクエツカンジイウコウ。
といふ風に「区切る」のが、「正しい」と言ってゐるのではなく、
「自分にとって、読みやすいやうに音読すると、さうなる。」といふことに、過ぎません。
従って、
(14)
逆に言ふと、
① 虎求百獣而得之_得狐。
② 及為令尹為未治而_国人信之。
③ 千里馬常有_而_伯楽不常有。
④ 不好犯上_而好作乱者_未之有也。
⑤ 臣不得越官而有功。
としなければ、「リズムが悪く、その分、暗誦も、し難く」なります。
従って、
(15)
α 白文を、
β 訓読し、
β 訓読を、
γ 復文(音読)する。
際の、
γ「音読」は、「単なる棒読み」ではない。
といふことに関しては、分って貰へた。ものと、思ひます。
平成26年01月12日、毛利太。
「漢文の基本構造」、すなはち、
(一)主述関係 主語―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
(四)並列関係 並列語―並列語
に対して、
(五)熟語等(固有名詞を含む)
を加へて、
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗(囗)
(四)囗・囗
(五)囗‐囗
とすることは、「妥当」です。
然るに、
(02)
(六)囗,:接続詞(而や故、他)
とすることには、「問題」があります。
加へて、
(03)
世>有(伯‐楽)、然‐後>有(千‐里‐馬)。
千‐里‐馬>常‐有、而,伯‐楽>不‐常‐有。
故,雖〔有(名‐馬)〕、祇+辱〔於(奴‐隷‐人+之+手)〕、
駢‐死〔於(槽‐櫪+之+間)〕、不〔以(千‐里)称〕也。
に於ける、
奴‐隷‐人+之+手
にしても、
之=の
であることは、明らかであるため、
奴‐隷‐人+之+手
は、
奴‐隷‐人之手
と、書くべきです。
(04)
(六)囗,:接続詞(而や故、他)
が、「妥当」でない。といふのは、
① 虎求百獣而得之得狐。
② 及為令尹未治而国人信之。
③ 千里馬常有而伯楽不常有。
に於いて、これらを「音読み」する際の、「句読点」に、関係します。
(05)
α 白文を、
β 訓読し、
β 訓読を、
γ 復文(音読)する。
際には、
① 虎求百獣而得之_得狐。
② 及為令尹為未治而_国人信之。
③ 千里馬常有_而_伯楽不常有。
といふ風に、「区切る」ため、その「区切り」を反映させるためには、
(六)囗,
だけでなく、「コンマが無い」、
(六)囗
も、必要となり、それ故、
(六)囗,:接続詞(而や故、他)
だけでは、『訓点』としては、「妥当」では、ありません。
すなはち、
(06)
① 虎求百獣而得之、得狐。
② 及為令尹為未治而、国人信之。
③ 千里馬常有、而、伯楽不常有。
である以上、『訓点』は、
① 虎>求(百‐獣)而得(之)、得(狐)。
② >及〔為(令‐尹)〕未(治)而,国+人>信(之)。
③ 千‐里‐馬>常+有、而,伯‐楽>不〔常(有)〕。
であるため、
① 虎>求(百‐獣)而得(之)、得(狐)。
に関しては、
(六)囗,
ではなく、「コンマが無い」、
(六)囗
を、必要とします。
(07)
① 虎求百獣而得之得狐。
② 及為令尹未治而国人信之。
③ 千里馬常有而伯楽不常有。
を「復文(音読み)」する際は、
① 虎求百獣而得之_得狐。
② 及為令尹為未治而_国人信之。
③ 千里馬常有_而_伯楽不常有。
という風に、「区切る」べきである。
といふのは、「誰かが、さう書いてゐる」といふことでは、ありません。
(08)
① 虎百獣を求めて之を食らい、狐を得たり。
② 令尹と為るに及び、国人之を信ず。
③ 千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
を、
① コキュウヒャクジュウジトクシ、トクコ。
② キュウイレイジンビチジ、コクジンシンシ。
③ センリバジョウユウ、ジ、ハクラクフツジョウユウ。
と、「復文(音読み)」してゐたら、自然に、
① 而
② 而、
③ 、而、
となって行った。といふのが、本当です。
従って、
(09)
「意味を理解しつつ、自分にとって、読みやすいやうに音読してゐたら、自然にさうなってゐた。」
といふことに、なるのですが、或る人曰く、
① コキュウヒャクジュウジトクシ、トクコ。
② キュウイレイジンビチジ、コクジンシンシ。
③ センリバジョウユウ、ジ、ハクラクフツジョウユウ。
といふ、「私が行ふ音読」は、「それなりに、外国語のやうに、聞こえる。」との、ことです。
(10)
「外国語のやうに、聞こえる。」かは、別にしても、今も書いたやうに、
「自分にとって、読みやすいやうに音読してゐたら、自然に、そのやうな、リズムになって行った。」
といふことは、事実です。
(11)
④ 不好犯上而好作乱者未之有也。
であれば、
④ 不好犯上=フツコウハンジョウ
で、一旦、「区切り」、次に、
④ 而好作乱者=ジコウサクランシャ
と読み、最後に、
④ 未之有也=ビシイウヤ。
と読むと、「リズムが良く、その分、暗誦もし易く」なります。
(12)
⑤ 臣不得越官而有功。
であれば、そのまま、
⑤ 臣不得越官而有功=シンフツトクエツカンジイウコウ。
と読むと、「リズムが良く、その分、暗誦もし易く」なります。
ただし、
(13)
だからと言って、もう一度言ふと、
① コキュウヒャクジュウジトクシ_トクコ。
② キュウイレイジンビチジ_コクジンシンシ。
③ センリバジョウユウ_ジ_ハクラクフツジョウユウ。
④ フツコウハンジョウ_ジコウサクランシャ_ビシイウヤ。
⑤ シンフツトクエツカンジイウコウ。
といふ風に「区切る」のが、「正しい」と言ってゐるのではなく、
「自分にとって、読みやすいやうに音読すると、さうなる。」といふことに、過ぎません。
従って、
(14)
逆に言ふと、
① 虎求百獣而得之_得狐。
② 及為令尹為未治而_国人信之。
③ 千里馬常有_而_伯楽不常有。
④ 不好犯上_而好作乱者_未之有也。
⑤ 臣不得越官而有功。
としなければ、「リズムが悪く、その分、暗誦も、し難く」なります。
従って、
(15)
α 白文を、
β 訓読し、
β 訓読を、
γ 復文(音読)する。
際の、
γ「音読」は、「単なる棒読み」ではない。
といふことに関しては、分って貰へた。ものと、思ひます。
平成26年01月12日、毛利太。
2015年1月11日日曜日
訓読・音読・『訓点』。
(01)
・右のページの日本文を見て、左の英文が言えるようになるまで、繰り返し練習しましょう(シグマ新総合英語、暗誦文例413選、1998年)。
右のページ=1囗 私たちはインターネットの時代に生きている。
左のページ=1囗 We live in the Internet age.
(02)
・右の頁の訓読を見て、左の白文が言へるやうになるまで、繰り返し練習しませう。
右の頁=1囗 世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は
常には有らず。
左の頁=1囗 世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。
従って、
(01)(02)により、
(03)
1囗 世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
を見て、
1囗 セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ、センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ。
と「復文(音読み)」する。ことは、
右のページ=1囗 私たちはインターネットの時代に生きている。
を見て、
左のページ=1囗 ウィ リブ イン ジ インターネット エイジ.
と言ふこと(英作文)に、相当する。
従って、
(04)
「記事(2013/05/15)」にも、書いた通り、私のそれは、結果として、荻生徂徠とは、「アベコベ」であるものの、やってゐること自体は、
左のページ=1囗 We live in the Internet age.
を見て、
右のページ=1囗 私たちはインターネットの時代に生きている。
と「和訳」し、
右のページ=1囗 私たちはインターネットの時代に生きている。
を見て、
左のページ=1囗 We live in the Internet age.
と「英訳」することと、「同じ」である。
然るに、
(05)
かうしたやり方で、
世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。
を、読んでゐると、当然のこととして、
次のやうな疑問が、生じざるを、得ない。
hyoukahoutaruさん
2014/5/1911:15:21
漢文の質問です。
千里馬常有、而伯楽不常有。
有は返読文字だと習ったのですが、この例文では返読されていませんでした。何故ですか?
すなはち、
(06)
① 千里馬常有。
の「有」が、「返読文字」であるならば、
② 常有千里馬。
でなければ、ならないのに、一体何故、
① 千里馬常有。
なのか、といふことが、疑問となる。
然るに、
(07)
動詞や形容詞が、そのままの形で、一種の抽象名詞のようにも用いられることは、現代漢語においても、その通常の用法であって、動詞・形容詞の「名物化」・「事物化」などと呼ばれている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、289頁)。
従って、
(07)により、
(08)
① 千里馬+常有 =名詞+名詞。
② 常+有+千里馬=副詞+動詞+名詞。
従って、
(09)
onomameusとしては、すなはち、毛利太としては、
A=千里馬(名詞)
B=常有(名詞)
C=伯楽(名詞)
D=不常有(名詞)
であるとき、
ABCD=千里馬は「常有」である。伯楽は「不常有」である。
という風に、理解することが、可能に、なります。
といふ風に、回答したものの、このことは、『訓点』を用ゐると、
② >常+有(千‐里‐馬)、
② >不〔常+有(伯‐楽)〕。
に対する、
① 千‐里‐馬>常‐有、
① 伯‐楽>不‐常‐有。
の「違ひ」として、「説明」出来る。
すなはち、
(10)
(一)囗>囗 :主語―述語
(二)囗+囗 :修飾語―被修飾語
(三)囗(囗):叙述語―補足語
(四)囗・囗 :並列語―並列語
(五)囗‐囗 :熟語等(固有名詞を含む)
(六)囗, :接続詞(而や故、他)
といふ『訓点』の、
(一)囗>囗 :主語―述語
(五)囗‐囗 :熟語等(固有名詞を含む)
といふ、二つによって、
① 千‐里‐馬>常‐有。
① 伯‐楽>不‐常‐有。
は、
① 主語(名詞)>述語(名詞)。
① 主語(名詞)>述語(名詞)。
であるため、
① 千‐里‐馬>常‐有=千里馬は、常有である。
① 伯‐楽>不‐常‐有=伯楽は、不常有である。
といふ風に、読むことが、出来る。
cf.
世>有(伯‐楽)、然‐後>有(千‐里‐馬)。
千‐里‐馬>常‐有、而,伯‐楽>不‐常‐有。
故,雖〔有(名‐馬)〕、祇+辱〔於(奴‐隷‐人+之+手)〕、
駢‐死〔於(槽‐櫪+之+間)〕、不〔以(千‐里)称〕也。
たとへば、
(11)
① 社長は、不誠実である。
であれば、
① 社‐長>不‐誠‐実=社長は、不誠実である。
であるため、
① 伯‐楽>不‐常‐有=伯楽は、不常有である。
① 社‐長>不‐誠‐実=社長は、不誠実である。
は、『訓点』としては、「同じ」である。
然るに、
(12)
「不誠実」といふ「漢語」や、
「不注意」といふ「漢語」や、
「不摂生」といふ「漢語」や、、
「不条理」といふ「漢語」が、
有る以上、
「不常有」といふ「漢語」も、
有り得ない、はずがない。
従って、
(12)
① 社‐長>不‐誠‐実=社長は、不誠実である。
に対して、
① 伯‐楽>不‐常‐有=伯楽は、不常有である。
といふ「訓読」が、オカシイとしたら、
① 不‐誠‐実
に対して、
① 不‐常‐有
といふ「三文字熟語」は、「日本語」には、定着してゐない。
といふことに、過ぎない。
cf.
辞書検索結果
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従って、
(13)
② 千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
は、「正しくは」、
① 千里の馬は常有なれど、而して、伯楽は不常有なり。
であるものの、
① 千‐里‐馬>常‐有、而,伯‐楽>不‐常‐有。
といふ風に、「心の中」で思ひつつ、
② 千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
と、「訓読」する分には、それでも、構はない。はずである。
(14)
① 白文を、
② 訓読し、
② 訓読を、
③ 復文(音読)する。
以上、出来れば、「正しい音」で、
③ 復文(音読)したいものの、
只厄介なのは標準音を何れの地方にとるかの問題である。まず北京音に拠る可しと云うことが常識的に考えられるが、併し北京音は入声が無くなっているから古書を読むには音韻上遺憾無き能はず。寧ろ南方の田舎の音で古音に近い地方の音を採用するか、最も理想的としては、古音の研究をどしどし進めて古音を復活することだ、併しそれは云う可くして容易に行われまい。兎に角、支那でも目下読音の統一と云う事が識者間の問題となっていて、頻りに研究されつつあるから、将来何等の適当な標準音を見出すことが出来よう。過渡時代に於ける第二案としては従来の漢音呉音何れかに拠る外はあるまい(『支那学』第1巻第5号、1921年、p.12~14:牛島徳次、中国語の学び方、1977年、13・14頁)。
従って、
(14)により、
(15)
(1)北京語は、入声が無いため、不適格である。
(2)北京語よりは、南方の田舎の音を採用すべきである。
(3)理想的には、古音を復活できれば、一番よい。
(4)取りあえずは、漢音か、呉音で読むしか、外は無い。
しかしながら、
(16)
(4)漢音呉音何れかに拠る外はあるまい。
とは言ってみても、例へば、
「言語学」も、正しく漢音でとおして読めば「ゲンギョガク」、正しく呉音でとおして読めば「ゴンゴガク」。「げんごがく」という一般のいい方は、漢音・呉音の「ごちゃまぜ読み」なのである。日本語における漢音・呉音の問題は、りくつどおりにはまったくゆかぬものなのだ。つねにことばとして定着することの方が優先し、ことばとして定着したものは、それがたとえ「ごちゃまぜ読み」であっても、国語の語彙として堂々と通用するのである(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、107頁)。
(17)
有名なのは、「未曾有」であるが、漢音では、「ビシャウイウ」が、「正しい」のであって、だからと言って、「未曾有(ビシャウイウ)」と読めば、小学生に、笑はれる。
従って、
(15)(16)(17)により、
(18)
① 白文を、
② 訓読し、
② 訓読を、
③ 復文(音読)する。
以上、出来れば、「正しい古音」で、
③ 復文(音読)したいものの、実際には、、
③ 思い付くままの、「日本漢字音(漢音・呉音・唐宋音・慣用音)」
で以て、
③ 復文(音読)せざるを、得ない。
そのため、
(19)
漢音や呉音で直読するというのは、現代中国語の学習とはまったく離れてしまうので、問題外とするが、この青木氏の主張が、当時のいわゆる支那語の学習成果を、一直線に中国古典の読み方に結び付け、これによって古典をいかに速く、多く、正確に解読するか、といふことを提唱したことは、きわめて斬新であり、示唆的である(牛島徳次、中国語の学び方、1977年、13・14頁)。
との、ことであっても、「漢文の独習」に於いて、「現代中国語」の学習が「必要」であるとは、私には、思へない。
平成27年01月11日、毛利太。
・右のページの日本文を見て、左の英文が言えるようになるまで、繰り返し練習しましょう(シグマ新総合英語、暗誦文例413選、1998年)。
右のページ=1囗 私たちはインターネットの時代に生きている。
左のページ=1囗 We live in the Internet age.
(02)
・右の頁の訓読を見て、左の白文が言へるやうになるまで、繰り返し練習しませう。
右の頁=1囗 世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は
常には有らず。
左の頁=1囗 世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。
従って、
(01)(02)により、
(03)
1囗 世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
を見て、
1囗 セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ、センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ。
と「復文(音読み)」する。ことは、
右のページ=1囗 私たちはインターネットの時代に生きている。
を見て、
左のページ=1囗 ウィ リブ イン ジ インターネット エイジ.
と言ふこと(英作文)に、相当する。
従って、
(04)
「記事(2013/05/15)」にも、書いた通り、私のそれは、結果として、荻生徂徠とは、「アベコベ」であるものの、やってゐること自体は、
左のページ=1囗 We live in the Internet age.
を見て、
右のページ=1囗 私たちはインターネットの時代に生きている。
と「和訳」し、
右のページ=1囗 私たちはインターネットの時代に生きている。
を見て、
左のページ=1囗 We live in the Internet age.
と「英訳」することと、「同じ」である。
然るに、
(05)
かうしたやり方で、
世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。
を、読んでゐると、当然のこととして、
次のやうな疑問が、生じざるを、得ない。
hyoukahoutaruさん
2014/5/1911:15:21
漢文の質問です。
千里馬常有、而伯楽不常有。
有は返読文字だと習ったのですが、この例文では返読されていませんでした。何故ですか?
すなはち、
(06)
① 千里馬常有。
の「有」が、「返読文字」であるならば、
② 常有千里馬。
でなければ、ならないのに、一体何故、
① 千里馬常有。
なのか、といふことが、疑問となる。
然るに、
(07)
動詞や形容詞が、そのままの形で、一種の抽象名詞のようにも用いられることは、現代漢語においても、その通常の用法であって、動詞・形容詞の「名物化」・「事物化」などと呼ばれている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、289頁)。
従って、
(07)により、
(08)
① 千里馬+常有 =名詞+名詞。
② 常+有+千里馬=副詞+動詞+名詞。
従って、
(09)
onomameusとしては、すなはち、毛利太としては、
A=千里馬(名詞)
B=常有(名詞)
C=伯楽(名詞)
D=不常有(名詞)
であるとき、
ABCD=千里馬は「常有」である。伯楽は「不常有」である。
という風に、理解することが、可能に、なります。
といふ風に、回答したものの、このことは、『訓点』を用ゐると、
② >常+有(千‐里‐馬)、
② >不〔常+有(伯‐楽)〕。
に対する、
① 千‐里‐馬>常‐有、
① 伯‐楽>不‐常‐有。
の「違ひ」として、「説明」出来る。
すなはち、
(10)
(一)囗>囗 :主語―述語
(二)囗+囗 :修飾語―被修飾語
(三)囗(囗):叙述語―補足語
(四)囗・囗 :並列語―並列語
(五)囗‐囗 :熟語等(固有名詞を含む)
(六)囗, :接続詞(而や故、他)
といふ『訓点』の、
(一)囗>囗 :主語―述語
(五)囗‐囗 :熟語等(固有名詞を含む)
といふ、二つによって、
① 千‐里‐馬>常‐有。
① 伯‐楽>不‐常‐有。
は、
① 主語(名詞)>述語(名詞)。
① 主語(名詞)>述語(名詞)。
であるため、
① 千‐里‐馬>常‐有=千里馬は、常有である。
① 伯‐楽>不‐常‐有=伯楽は、不常有である。
といふ風に、読むことが、出来る。
cf.
世>有(伯‐楽)、然‐後>有(千‐里‐馬)。
千‐里‐馬>常‐有、而,伯‐楽>不‐常‐有。
故,雖〔有(名‐馬)〕、祇+辱〔於(奴‐隷‐人+之+手)〕、
駢‐死〔於(槽‐櫪+之+間)〕、不〔以(千‐里)称〕也。
たとへば、
(11)
① 社長は、不誠実である。
であれば、
① 社‐長>不‐誠‐実=社長は、不誠実である。
であるため、
① 伯‐楽>不‐常‐有=伯楽は、不常有である。
① 社‐長>不‐誠‐実=社長は、不誠実である。
は、『訓点』としては、「同じ」である。
然るに、
(12)
「不誠実」といふ「漢語」や、
「不注意」といふ「漢語」や、
「不摂生」といふ「漢語」や、、
「不条理」といふ「漢語」が、
有る以上、
「不常有」といふ「漢語」も、
有り得ない、はずがない。
従って、
(12)
① 社‐長>不‐誠‐実=社長は、不誠実である。
に対して、
① 伯‐楽>不‐常‐有=伯楽は、不常有である。
といふ「訓読」が、オカシイとしたら、
① 不‐誠‐実
に対して、
① 不‐常‐有
といふ「三文字熟語」は、「日本語」には、定着してゐない。
といふことに、過ぎない。
cf.
辞書検索結果
不常有に一致する情報は見つかりませんでした。
再検索のヒント: 指定した条件を変えてみてください。
指定した条件を変えてみてください。
誤字・脱字がないかを確認してみてください。
言葉の区切り方を変えてみてください。
従って、
(13)
② 千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
は、「正しくは」、
① 千里の馬は常有なれど、而して、伯楽は不常有なり。
であるものの、
① 千‐里‐馬>常‐有、而,伯‐楽>不‐常‐有。
といふ風に、「心の中」で思ひつつ、
② 千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
と、「訓読」する分には、それでも、構はない。はずである。
(14)
① 白文を、
② 訓読し、
② 訓読を、
③ 復文(音読)する。
以上、出来れば、「正しい音」で、
③ 復文(音読)したいものの、
只厄介なのは標準音を何れの地方にとるかの問題である。まず北京音に拠る可しと云うことが常識的に考えられるが、併し北京音は入声が無くなっているから古書を読むには音韻上遺憾無き能はず。寧ろ南方の田舎の音で古音に近い地方の音を採用するか、最も理想的としては、古音の研究をどしどし進めて古音を復活することだ、併しそれは云う可くして容易に行われまい。兎に角、支那でも目下読音の統一と云う事が識者間の問題となっていて、頻りに研究されつつあるから、将来何等の適当な標準音を見出すことが出来よう。過渡時代に於ける第二案としては従来の漢音呉音何れかに拠る外はあるまい(『支那学』第1巻第5号、1921年、p.12~14:牛島徳次、中国語の学び方、1977年、13・14頁)。
従って、
(14)により、
(15)
(1)北京語は、入声が無いため、不適格である。
(2)北京語よりは、南方の田舎の音を採用すべきである。
(3)理想的には、古音を復活できれば、一番よい。
(4)取りあえずは、漢音か、呉音で読むしか、外は無い。
しかしながら、
(16)
(4)漢音呉音何れかに拠る外はあるまい。
とは言ってみても、例へば、
「言語学」も、正しく漢音でとおして読めば「ゲンギョガク」、正しく呉音でとおして読めば「ゴンゴガク」。「げんごがく」という一般のいい方は、漢音・呉音の「ごちゃまぜ読み」なのである。日本語における漢音・呉音の問題は、りくつどおりにはまったくゆかぬものなのだ。つねにことばとして定着することの方が優先し、ことばとして定着したものは、それがたとえ「ごちゃまぜ読み」であっても、国語の語彙として堂々と通用するのである(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、107頁)。
(17)
有名なのは、「未曾有」であるが、漢音では、「ビシャウイウ」が、「正しい」のであって、だからと言って、「未曾有(ビシャウイウ)」と読めば、小学生に、笑はれる。
従って、
(15)(16)(17)により、
(18)
① 白文を、
② 訓読し、
② 訓読を、
③ 復文(音読)する。
以上、出来れば、「正しい古音」で、
③ 復文(音読)したいものの、実際には、、
③ 思い付くままの、「日本漢字音(漢音・呉音・唐宋音・慣用音)」
で以て、
③ 復文(音読)せざるを、得ない。
そのため、
(19)
漢音や呉音で直読するというのは、現代中国語の学習とはまったく離れてしまうので、問題外とするが、この青木氏の主張が、当時のいわゆる支那語の学習成果を、一直線に中国古典の読み方に結び付け、これによって古典をいかに速く、多く、正確に解読するか、といふことを提唱したことは、きわめて斬新であり、示唆的である(牛島徳次、中国語の学び方、1977年、13・14頁)。
との、ことであっても、「漢文の独習」に於いて、「現代中国語」の学習が「必要」であるとは、私には、思へない。
平成27年01月11日、毛利太。
2015年1月8日木曜日
漢文の基本構造(Ⅱc)。
(01)
(一)主述関係 主語―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
(四)並列関係 並列語―並列語
漢語の文法は、上述の基本構造における語順が、その重要な基礎になっているのであって、その実詞は、単に語順による結合によって、連語を構成していることが多い。それで、この点からいえば、漢語の文法は、比較的簡単であるともいうことができる(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、281~5頁、抜粋)。
しかしながら、
(02)
古代漢語のにおける実詞については、きわめて注意しておかなければならないことがある(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、285頁)。
といふのは、例へば、
人善=人はよし。
人悪=人はわるし。
善人=よき人。
悪人=わるき人。
善人=人をよくす。
悪人=人をにくむ。
悪悪人=いづくんぞ人をにくまん。
といふ風に、読めてしまふ、ことである。
然るに、
(03)
(一)主語―述語
(二)修飾語―被修飾語
(三)叙述語―補足語
(四)並列語―並列語
といふ、四つを、
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗(囗)
(四)囗・囗
とし、囗を、「任意の漢字」とするならば、
① 人>悪=人はわるし(人は悪なり)。
② 悪+人=わるき人。
③ 悪(人)=人をにくむ。
④ 悪+愛(父・母)=いづくんぞ父母を愛せざらん。
といふ風に、表すことが、可能になる。
然るに、
(04)
(一)主語―述語
(二)修飾語―被修飾語
(三)叙述語―補足語
(四)並列語―並列語
では、足りないため、
(五)熟語等(固有名詞を含む)
を加へ、
(五)囗‐囗(文字数は、二文字以上)
とする。
従って、
(03)(04)により、
(05)
例へば、
⑤ 西山 が、
② Western Mountain
であるならば、
② 西+山
とし、
⑤ 西山 が、
⑤ Nishiyamaさん
のやうな、「人名」の場合は、
⑤ 西‐山
とし、「(五)熟語等」とする。
従って、
(03)~(05)により、
(06)
⑤ 西‐山‐緑=西山緑さん。
に対して、
② 西+山>緑
であるならば、
② 西+山 は、「修飾語+被修飾語」であって、尚且つ、
② 西+山>は、「主語」であるため、
② 西+山>緑=Western Mountain is Green.
である。
(07)
しかし、すこし問題がある。「楚大夫」を一つの熟語とみなすのは少し苦しい(二畳庵主人、1984年、82頁)。
とのことであるが、「楚の大夫」のやうな場合は、
⑤ 楚+大‐夫
とする。
(08)
① 我>長(百+獣)=我、百獣に長たり。
であれば、
① 我> は、「主語」であり、
① 長( は、「述語」であり、
① 百+獣)は、「補足語」であって、尚且つ、
① 百+獣 は、「修飾語+被修飾語」である。
(09)
① 天+帝>使(我>長(百+獣))。
のやうな場合は、すなはち、
① (( ))
のような場合は、
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
とし、この場合は、
① 我> は、「主語」であり、
① 天+帝> も、「主語」である。
然るに、
(10)
天帝使我長百獣「(A)使BC」の使役形。「(A)BヲシテCしむ」と訓読し、「(A)はBにCさせる」「(A)がBをCにする」の意を表す。主語の(A)は省略されることが多い(旺文社、漢文の基礎、1973年、40頁)。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① >使〔我>長(百+獣)〕。
の場合は、
① 天+帝 といふ「主語」が、「省略」されてゐる。
従って、
(12)
② >載(西‐伯+木‐主)以(是)行= 西伯の木主を載せて、是を以て、行く。
の場合も、
②「主語」が、「省略」されてゐる。
然るに、
(13)
[接続詞]もつテ《前置詞の目的語が省略されたものと考えられる。「而」の順接の用法と同じである》[訳]そして
[例]載西伯木主以行。[西伯の木主を載せて以て行く。]
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、13頁)。
従って、
(13)により、
(14)
② >載(西‐伯+木‐主)以(是)行。
ではなく、
② >載(西‐伯+木‐主)以( )行。
である場合は、
② 是=西伯の木主を
すなはち、「補足語」が、「省略」されてゐる。
(15)
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
の「訓読」は、
③ 天帝、常には我をして百獣に長たら使め不。⇒「部分否定」。
④ 天帝、常に、 我をして百獣に長たら使め不。⇒「全部否定」。
であるが、
③ 否定語+副詞
④ 副詞+否定語
の「違ひ」により、
「否定語+副詞」のときはその副詞をふくめた内容が否定されるので、否定されることがらが副詞によって修飾されて部分的に限定されることになる。逆に「副詞+否定語」のときは、副詞が否定語を修飾することになるので、否定されることがらは否定語の下におかれた全般にわたることになる(旺文社、漢文の基礎、1973年、37頁)。
(16)
⑤ >未〔読(書)〕=未だ書を読まず。
に於いて、
⑤ 未 は「再読文字」であるが、
⑤ 未=未+不
とする。
従って、
(16)により、
(17)
⑤ 兄弟未嘗不嘆息痛恨於桓霊也=
⑤ 兄弟、未だ嘗て、桓霊に、嘆息痛恨せずんば、あらざるなり。
であれば、
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ、ことになり、尚且つ、
⑤ 於(桓‐霊) の、
⑤ 於 は、「前置詞」であって、「国語」であれば、「格助詞(に)」である。
然るに、
(18)
名詞句の前に置く接置詞を前置詞(ぜんちし)、後に置く接置詞を後置詞(こうちし)と呼ぶ。前置詞は、SVO型言語やVSO型言語など、動詞が目的語に先行する言語にしばしば見られる。ヨーロッパの諸言語やアラビア語などセム系言語が前置詞を持つ言語としてよく知られる。後置詞は、SOV型など、目的語が動詞に先行する言語にしばしば見られる。日本語の後置詞は格助詞、中国語の前置詞は介詞と呼ばれる(ウィキペディア:後置詞)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
⑤ 於(桓‐霊) の、「語順」は、「国語」では、
⑤ (桓‐霊)於 である。
然るに、
(20)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(03)(04)(17)~(20)により、
(21)
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ「語順」は、「国語」では、
⑤ 兄・弟>未+{嘗+[〔(桓‐霊)於〕嘆‐息‐痛‐恨]不}不也。
といふ「語順」になる。
従って、
(01)~(21)により、
(22)
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
② >載(西‐伯+木‐主)以( )行。
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ「語順」は、「国語」では、
① 天+帝>〔我>(百+獣)長〕使。
② >(西‐伯+木+主)載( )以行。
③ 天+帝>[常+〔我>(百+獣)長〕使]不。
④ 天+帝>常+[〔我>(百+獣)長〕使]不。
⑤ 兄・弟>未+{嘗+[〔(桓‐霊)於〕嘆‐息‐痛‐恨]不}不也。
である。
従って、
(22)により、
(23)
① 天帝使我長百獣。
② 載西伯木主以行。
③ 天帝不常使我長百獣。
④ 天帝常不使我長百獣。
⑤ 兄弟未不嘗不嘆息痛恨於桓霊也。
といふ「漢文」の「訓読」は、
① 天帝、我をして百獣に長たら使む。
② 西伯の木主を載せて、以て、行く。
③ 天帝、常には我をして百獣に長たら使めず。
④ 天帝、常に、我をして百獣に長たら使めず。
⑤ 兄弟、未だ嘗て、桓霊に嘆息痛恨せずんばあらざるなり。
といふ、ことになる。
従って、
(22)(23)により、
(24)
① 天帝使我長百獣。
② 載西伯木主以行。
③ 天帝不常使我長百獣。
④ 天帝常不使我長百獣。
⑤ 兄弟未不嘗不嘆息痛恨於桓霊也。
といふ「漢文」に、
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
② >載(西‐伯+木+主)以( )行。
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ、「構造(シンタックス)」が無い場合には、
① 天帝、我をして百獣に長たら使む。
② 西伯の木主を載せて、以て、行く。
③ 天帝、常には我をして百獣に長たら使めず。
④ 天帝、常に、我をして百獣に長たら使めず。
⑤ 兄弟、未だ嘗て、桓霊に嘆息痛恨せずんばあらざるなり。
といふ「訓読」は、成立しない。
例へば、
(25)
③ 天帝不常使我長百獣。
といふ「漢文(白文)」に於ける、
③ 天帝 が、
③ 天・帝
であるならば、
③ 天と帝が、「主語」となるため、「英語やギリシャ語」であれば、「複数」であるが、
③ 天+帝 は、「単数」である。
cf.
デジタル大辞泉の解説
てん‐てい【天帝】
1 古代中国の思想で、天地・万物を支配する神。造物主。
2 キリスト教で、ヤーウェ。
3 仏教で、帝釈天(たいしゃくてん)。
(26)
③ 天‐帝
とすれば、「固有名詞」であれば、
③ 天帝不常使我長百獣。の、
③ 天帝=天の帝(テオス・ウーラヌウ)
は、「固有名詞」ではない。はずである。
(27)
③ 天+帝>
でないならば、
③ 天+帝 は、「主語」ではないものの、そのやうなことは、有り得ない。
(28)
③ 天+帝>不[常+ ・ ・ ・ ・ ・ ]
でないならば
③「否定語+副詞」のときはその副詞をふくめた内容が否定されるので、否定されることがらが副詞によって修飾されて部分的に限定されることになる。
といふ「説明」が、ウソになる。
(29)
③ 天+帝>不[常+使〔
でないならば、
③ 使 は、「動詞」ではないものの、のやうなことは、有り得ない。
(30)
③ 天+帝>不[常+使〔我>長
でないならば、
③ 我 は、『「長たり」の「主語」』ではない。ものの、そのやうなことは、有り得ない。
(31)
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
に於いて、
③ 百獣=修飾語―被修飾語
であって、尚且つ、
③ 百獣=補足語
でないことは、有り得ない。
従って、
(25)~(31)により、
(32)
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
でないことは、有り得ないし、
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
② >載(西‐伯+木‐主)以( )行。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
についても、さうでないことは、有り得ない。
然るに、
(33)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様ものである(勉誠出版、訓読論、2008年、60頁)。
従って、
(34)
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
② >載(西‐伯+木‐主)以( )行。
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ「訓点」を「発明」してはみたものの、倉石武四郎先生、他には、認めて貰えるべくも、無い。
平成27年01月08日、毛利太。
(一)主述関係 主語―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
(四)並列関係 並列語―並列語
漢語の文法は、上述の基本構造における語順が、その重要な基礎になっているのであって、その実詞は、単に語順による結合によって、連語を構成していることが多い。それで、この点からいえば、漢語の文法は、比較的簡単であるともいうことができる(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、281~5頁、抜粋)。
しかしながら、
(02)
古代漢語のにおける実詞については、きわめて注意しておかなければならないことがある(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、285頁)。
といふのは、例へば、
人善=人はよし。
人悪=人はわるし。
善人=よき人。
悪人=わるき人。
善人=人をよくす。
悪人=人をにくむ。
悪悪人=いづくんぞ人をにくまん。
といふ風に、読めてしまふ、ことである。
然るに、
(03)
(一)主語―述語
(二)修飾語―被修飾語
(三)叙述語―補足語
(四)並列語―並列語
といふ、四つを、
(一)囗>囗
(二)囗+囗
(三)囗(囗)
(四)囗・囗
とし、囗を、「任意の漢字」とするならば、
① 人>悪=人はわるし(人は悪なり)。
② 悪+人=わるき人。
③ 悪(人)=人をにくむ。
④ 悪+愛(父・母)=いづくんぞ父母を愛せざらん。
といふ風に、表すことが、可能になる。
然るに、
(04)
(一)主語―述語
(二)修飾語―被修飾語
(三)叙述語―補足語
(四)並列語―並列語
では、足りないため、
(五)熟語等(固有名詞を含む)
を加へ、
(五)囗‐囗(文字数は、二文字以上)
とする。
従って、
(03)(04)により、
(05)
例へば、
⑤ 西山 が、
② Western Mountain
であるならば、
② 西+山
とし、
⑤ 西山 が、
⑤ Nishiyamaさん
のやうな、「人名」の場合は、
⑤ 西‐山
とし、「(五)熟語等」とする。
従って、
(03)~(05)により、
(06)
⑤ 西‐山‐緑=西山緑さん。
に対して、
② 西+山>緑
であるならば、
② 西+山 は、「修飾語+被修飾語」であって、尚且つ、
② 西+山>は、「主語」であるため、
② 西+山>緑=Western Mountain is Green.
である。
(07)
しかし、すこし問題がある。「楚大夫」を一つの熟語とみなすのは少し苦しい(二畳庵主人、1984年、82頁)。
とのことであるが、「楚の大夫」のやうな場合は、
⑤ 楚+大‐夫
とする。
(08)
① 我>長(百+獣)=我、百獣に長たり。
であれば、
① 我> は、「主語」であり、
① 長( は、「述語」であり、
① 百+獣)は、「補足語」であって、尚且つ、
① 百+獣 は、「修飾語+被修飾語」である。
(09)
① 天+帝>使(我>長(百+獣))。
のやうな場合は、すなはち、
① (( ))
のような場合は、
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
とし、この場合は、
① 我> は、「主語」であり、
① 天+帝> も、「主語」である。
然るに、
(10)
天帝使我長百獣「(A)使BC」の使役形。「(A)BヲシテCしむ」と訓読し、「(A)はBにCさせる」「(A)がBをCにする」の意を表す。主語の(A)は省略されることが多い(旺文社、漢文の基礎、1973年、40頁)。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① >使〔我>長(百+獣)〕。
の場合は、
① 天+帝 といふ「主語」が、「省略」されてゐる。
従って、
(12)
② >載(西‐伯+木‐主)以(是)行= 西伯の木主を載せて、是を以て、行く。
の場合も、
②「主語」が、「省略」されてゐる。
然るに、
(13)
[接続詞]もつテ《前置詞の目的語が省略されたものと考えられる。「而」の順接の用法と同じである》[訳]そして
[例]載西伯木主以行。[西伯の木主を載せて以て行く。]
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、13頁)。
従って、
(13)により、
(14)
② >載(西‐伯+木‐主)以(是)行。
ではなく、
② >載(西‐伯+木‐主)以( )行。
である場合は、
② 是=西伯の木主を
すなはち、「補足語」が、「省略」されてゐる。
(15)
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
の「訓読」は、
③ 天帝、常には我をして百獣に長たら使め不。⇒「部分否定」。
④ 天帝、常に、 我をして百獣に長たら使め不。⇒「全部否定」。
であるが、
③ 否定語+副詞
④ 副詞+否定語
の「違ひ」により、
「否定語+副詞」のときはその副詞をふくめた内容が否定されるので、否定されることがらが副詞によって修飾されて部分的に限定されることになる。逆に「副詞+否定語」のときは、副詞が否定語を修飾することになるので、否定されることがらは否定語の下におかれた全般にわたることになる(旺文社、漢文の基礎、1973年、37頁)。
(16)
⑤ >未〔読(書)〕=未だ書を読まず。
に於いて、
⑤ 未 は「再読文字」であるが、
⑤ 未=未+不
とする。
従って、
(16)により、
(17)
⑤ 兄弟未嘗不嘆息痛恨於桓霊也=
⑤ 兄弟、未だ嘗て、桓霊に、嘆息痛恨せずんば、あらざるなり。
であれば、
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ、ことになり、尚且つ、
⑤ 於(桓‐霊) の、
⑤ 於 は、「前置詞」であって、「国語」であれば、「格助詞(に)」である。
然るに、
(18)
名詞句の前に置く接置詞を前置詞(ぜんちし)、後に置く接置詞を後置詞(こうちし)と呼ぶ。前置詞は、SVO型言語やVSO型言語など、動詞が目的語に先行する言語にしばしば見られる。ヨーロッパの諸言語やアラビア語などセム系言語が前置詞を持つ言語としてよく知られる。後置詞は、SOV型など、目的語が動詞に先行する言語にしばしば見られる。日本語の後置詞は格助詞、中国語の前置詞は介詞と呼ばれる(ウィキペディア:後置詞)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
⑤ 於(桓‐霊) の、「語順」は、「国語」では、
⑤ (桓‐霊)於 である。
然るに、
(20)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(03)(04)(17)~(20)により、
(21)
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ「語順」は、「国語」では、
⑤ 兄・弟>未+{嘗+[〔(桓‐霊)於〕嘆‐息‐痛‐恨]不}不也。
といふ「語順」になる。
従って、
(01)~(21)により、
(22)
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
② >載(西‐伯+木‐主)以( )行。
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ「語順」は、「国語」では、
① 天+帝>〔我>(百+獣)長〕使。
② >(西‐伯+木+主)載( )以行。
③ 天+帝>[常+〔我>(百+獣)長〕使]不。
④ 天+帝>常+[〔我>(百+獣)長〕使]不。
⑤ 兄・弟>未+{嘗+[〔(桓‐霊)於〕嘆‐息‐痛‐恨]不}不也。
である。
従って、
(22)により、
(23)
① 天帝使我長百獣。
② 載西伯木主以行。
③ 天帝不常使我長百獣。
④ 天帝常不使我長百獣。
⑤ 兄弟未不嘗不嘆息痛恨於桓霊也。
といふ「漢文」の「訓読」は、
① 天帝、我をして百獣に長たら使む。
② 西伯の木主を載せて、以て、行く。
③ 天帝、常には我をして百獣に長たら使めず。
④ 天帝、常に、我をして百獣に長たら使めず。
⑤ 兄弟、未だ嘗て、桓霊に嘆息痛恨せずんばあらざるなり。
といふ、ことになる。
従って、
(22)(23)により、
(24)
① 天帝使我長百獣。
② 載西伯木主以行。
③ 天帝不常使我長百獣。
④ 天帝常不使我長百獣。
⑤ 兄弟未不嘗不嘆息痛恨於桓霊也。
といふ「漢文」に、
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
② >載(西‐伯+木+主)以( )行。
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ、「構造(シンタックス)」が無い場合には、
① 天帝、我をして百獣に長たら使む。
② 西伯の木主を載せて、以て、行く。
③ 天帝、常には我をして百獣に長たら使めず。
④ 天帝、常に、我をして百獣に長たら使めず。
⑤ 兄弟、未だ嘗て、桓霊に嘆息痛恨せずんばあらざるなり。
といふ「訓読」は、成立しない。
例へば、
(25)
③ 天帝不常使我長百獣。
といふ「漢文(白文)」に於ける、
③ 天帝 が、
③ 天・帝
であるならば、
③ 天と帝が、「主語」となるため、「英語やギリシャ語」であれば、「複数」であるが、
③ 天+帝 は、「単数」である。
cf.
デジタル大辞泉の解説
てん‐てい【天帝】
1 古代中国の思想で、天地・万物を支配する神。造物主。
2 キリスト教で、ヤーウェ。
3 仏教で、帝釈天(たいしゃくてん)。
(26)
③ 天‐帝
とすれば、「固有名詞」であれば、
③ 天帝不常使我長百獣。の、
③ 天帝=天の帝(テオス・ウーラヌウ)
は、「固有名詞」ではない。はずである。
(27)
③ 天+帝>
でないならば、
③ 天+帝 は、「主語」ではないものの、そのやうなことは、有り得ない。
(28)
③ 天+帝>不[常+ ・ ・ ・ ・ ・ ]
でないならば
③「否定語+副詞」のときはその副詞をふくめた内容が否定されるので、否定されることがらが副詞によって修飾されて部分的に限定されることになる。
といふ「説明」が、ウソになる。
(29)
③ 天+帝>不[常+使〔
でないならば、
③ 使 は、「動詞」ではないものの、のやうなことは、有り得ない。
(30)
③ 天+帝>不[常+使〔我>長
でないならば、
③ 我 は、『「長たり」の「主語」』ではない。ものの、そのやうなことは、有り得ない。
(31)
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
に於いて、
③ 百獣=修飾語―被修飾語
であって、尚且つ、
③ 百獣=補足語
でないことは、有り得ない。
従って、
(25)~(31)により、
(32)
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
でないことは、有り得ないし、
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
② >載(西‐伯+木‐主)以( )行。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
についても、さうでないことは、有り得ない。
然るに、
(33)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様ものである(勉誠出版、訓読論、2008年、60頁)。
従って、
(34)
① 天+帝>使〔我>長(百+獣)〕。
② >載(西‐伯+木‐主)以( )行。
③ 天+帝>不[常+使〔我>長(百+獣)〕]。
④ 天+帝>常+不[使〔我>長(百+獣)〕]。
⑤ 兄・弟>未+不{嘗+不[嘆‐息‐痛‐恨〔於(桓‐霊)〕]}也。
といふ「訓点」を「発明」してはみたものの、倉石武四郎先生、他には、認めて貰えるべくも、無い。
平成27年01月08日、毛利太。
2015年1月4日日曜日
漢文の基本構造。
(01)
① I always read many books.
② I always many.
③ I read books.
に於いて、
② I always many.
といふ「英語」は、「学校」では、習はない。
従って、
(01)により、
(02)
① I always read many books.
から、
② always many.
を「除く」ことは、可能であるが、
① I always read many books.
から、
③ read books.
を「除く」ことは、可能ではない。
(03)
① always read
① many books
のやうな、「修飾語+被修飾語」から成る関係を、
① always+read
① many+books
といふ風に、書くことに、する。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① I always+read many+books.
といふ風に、書くことに、する。
然るに、
(05)
① I always+read many+books.
に於いて、
① many+books.
は、
① read
の「目的語(補足語)」であるが、このことを、
① read(many+books).
といふ風に、書くことに、する。
cf.
目的語と補語とは、それほど区別する必要がないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(数研出版、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① I always+read(many+books).
といふ風に、書くことに、する。
(07)
① I
は、
① 主語
であるが、
① I>
といふ風に、書くことに、する。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① I>always+read(many+books).
といふ風に、書くことに、する。
然るに、
(09)
それで、漢語は、この単語の配列のしかたが、その文法の重要な基礎になっているわけである。この漢語文法の基礎となっている文法的な関係として、次の四つの関係をあげることができる。
(一)主述関係 主語―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
(四)並列関係 並列語―並列語
(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、281~3頁改)。
(10)
この場合、
(四)並列関係 並列語+並列語
といふのは、
父母=父と母。
富貴=財力と高い身分。
等を、いふものの、
父母は、「父と母(フボ)」であって、「フボ(父と母)」を、「ボフ(母と父)」と読んだりは、しない。
従って、
(03)~(10)により、
(11)
① I>always+read(many+books).
に於いて、
(一)>
(二)+ +
(三)( )
は、それぞれ、
(一)主語
(二)修飾関係
(三)補足関係
を、表してゐる。
従って、
(11)により、
(12)
② 我>不{必+求[以〔解(中国+語)+法〕解(漢+文)]}。
に於いて、
(一)>
(二)+ + + +
(三){[〔( )〕( )]}
は、
② 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」の、
(一)主語
(二)修飾関係
(三)補足関係
を、表してゐる。
然るに、
(13)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
② 我>不{必+求[以〔解(中国+語)+法〕解(漢+文)]}。
に於いて、
(一)主述関係:「漢語と国語」は「同じ語順」である。
(二)修飾関係:「漢語と国語」は「同じ語順」である。
(三)補足関係:「漢語と国語」は「逆の語順」である。
従って、
(12)(14)により、
(15)
② 我>不{必+求[以〔解(中国+語)+法〕解(漢+文)]}。
から、
② > + + + +
を「除く」と、
② 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
に於ける、
②{[〔( )〕( )]}
といふ「括弧」は、
② 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」に於ける、
(三)補足関係:「漢語と国語」は「逆の語順」である。
を、表してゐる。
従って、
(15)により、
(16)
② 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
③ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不。
にあって、
② は、「漢文の補足構造」を表してゐて、
③ は、「国語の補足構造」を表してゐる。
従って、
(16)により、
(17)
② 我不必求以解中国語法解漢文=
② 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
③ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
③ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、『返り点に対する「括弧」の用法』に於いて、
② は、「漢文の補足構造」を表してゐて、
③ は、「国語の補足構造」を表してゐる。
従って、
(17)により、
(18)
②{[〔( )〕( )]}
といふ「括弧」は、
②「漢文の補足構造」と、
③「国語の補足構造」の、両方を、表してゐる。
平成27年01月04日、毛利太。
① I always read many books.
② I always many.
③ I read books.
に於いて、
② I always many.
といふ「英語」は、「学校」では、習はない。
従って、
(01)により、
(02)
① I always read many books.
から、
② always many.
を「除く」ことは、可能であるが、
① I always read many books.
から、
③ read books.
を「除く」ことは、可能ではない。
(03)
① always read
① many books
のやうな、「修飾語+被修飾語」から成る関係を、
① always+read
① many+books
といふ風に、書くことに、する。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① I always+read many+books.
といふ風に、書くことに、する。
然るに、
(05)
① I always+read many+books.
に於いて、
① many+books.
は、
① read
の「目的語(補足語)」であるが、このことを、
① read(many+books).
といふ風に、書くことに、する。
cf.
目的語と補語とは、それほど区別する必要がないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(数研出版、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① I always+read(many+books).
といふ風に、書くことに、する。
(07)
① I
は、
① 主語
であるが、
① I>
といふ風に、書くことに、する。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① I>always+read(many+books).
といふ風に、書くことに、する。
然るに、
(09)
それで、漢語は、この単語の配列のしかたが、その文法の重要な基礎になっているわけである。この漢語文法の基礎となっている文法的な関係として、次の四つの関係をあげることができる。
(一)主述関係 主語―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
(四)並列関係 並列語―並列語
(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、281~3頁改)。
(10)
この場合、
(四)並列関係 並列語+並列語
といふのは、
父母=父と母。
富貴=財力と高い身分。
等を、いふものの、
父母は、「父と母(フボ)」であって、「フボ(父と母)」を、「ボフ(母と父)」と読んだりは、しない。
従って、
(03)~(10)により、
(11)
① I>always+read(many+books).
に於いて、
(一)>
(二)+ +
(三)( )
は、それぞれ、
(一)主語
(二)修飾関係
(三)補足関係
を、表してゐる。
従って、
(11)により、
(12)
② 我>不{必+求[以〔解(中国+語)+法〕解(漢+文)]}。
に於いて、
(一)>
(二)+ + + +
(三){[〔( )〕( )]}
は、
② 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」の、
(一)主語
(二)修飾関係
(三)補足関係
を、表してゐる。
然るに、
(13)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
② 我>不{必+求[以〔解(中国+語)+法〕解(漢+文)]}。
に於いて、
(一)主述関係:「漢語と国語」は「同じ語順」である。
(二)修飾関係:「漢語と国語」は「同じ語順」である。
(三)補足関係:「漢語と国語」は「逆の語順」である。
従って、
(12)(14)により、
(15)
② 我>不{必+求[以〔解(中国+語)+法〕解(漢+文)]}。
から、
② > + + + +
を「除く」と、
② 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
に於ける、
②{[〔( )〕( )]}
といふ「括弧」は、
② 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」に於ける、
(三)補足関係:「漢語と国語」は「逆の語順」である。
を、表してゐる。
従って、
(15)により、
(16)
② 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
③ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不。
にあって、
② は、「漢文の補足構造」を表してゐて、
③ は、「国語の補足構造」を表してゐる。
従って、
(16)により、
(17)
② 我不必求以解中国語法解漢文=
② 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
③ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
③ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、『返り点に対する「括弧」の用法』に於いて、
② は、「漢文の補足構造」を表してゐて、
③ は、「国語の補足構造」を表してゐる。
従って、
(17)により、
(18)
②{[〔( )〕( )]}
といふ「括弧」は、
②「漢文の補足構造」と、
③「国語の補足構造」の、両方を、表してゐる。
平成27年01月04日、毛利太。
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