2016年1月30日土曜日

「復文、音読、漢作文」について。

―「1月29の記事」を書き直します。―
(01)


従って、
(01)により、
(02)
① 乙 下 二 レ 一 上レ 甲
② 地 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
③ 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天
④ 十 八 四 二 一 三 六 五 七 九
に於いて、
① は、② に「置き換へ」ることが、出来、
② は、③ に「置き換へ」ることが、出来、
③ は、④ に「置き換へ」ることが、出来る。
然るに、
(03)
④ 十{八[四〔二(一)三〕六(五)七]九}
に於いて、
④ 二( )⇒( )二
④ 四〔 〕⇒〔 〕四
④ 六( )⇒( )六
④ 八[ ]⇒[ ]八
④ 九{ }⇒{ }九
といふ「倒置」を行ふと、
④ 十{八[四〔二(一)三〕六(五)七]九}⇒
④{[〔(一)二三〕四(五)六七]八九} 十=
④ 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十
従って、
(01)~(03)により、
(04)
① 乙 下 二 レ 一 上レ 甲
② 地 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
③ 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天
といふ「返り点」は、
③{ [ 〔 (  ) 〕(  ) ] }
といふ「括弧」に、「置き換へ」ることが、出来る。
然るに、
(05)
③ 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天
といふ「返り点」は、基本的に、
といふ「順番」を表してゐるのに対して、
③{ [ 〔 (  ) 〕(  ) ] }
といふ「括弧」は、「構造」を表してゐる。
従って、
(05)により、
(06)
③ 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天
③{ [ 〔 (  ) 〕(  ) ] }
は、似てはゐるが、「同じ」ではない。
(07)


然るに、
(08)
私の場合は、以前にも書いた通り、BASICで書いた「古文学習用の自作のソフト」を、「漢文学習用のソフト」に転用したことが「きっかけ」となって、例へば、
 世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。
 千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
 故に名馬有りと雖も、ただ奴隷人の手に辱められ、
 槽櫪の間に駢死して、千里を以て称せられるなり。
といふ「書き下し文」を、
 セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ。
 センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ。
 コスイイウメイバ、ギジョクオドレイジンシシュ、
 ベンシオサウレキシカン、フツイセンリショウヤ。
 といふ風に、「口頭」で、「復文(音読)」してゐたことが、有ります。
cf.
1790 *TATE
1800 LNGT=(LEN(AA$)/2)-1
1810 FOR II=2 TO LNGT
1820 BB=ASC(MID$(AA$,II*2-1,1))*256
1830 CC=ASC(MID$(AA$,II*2 ,1)):DD=AA+BB
1840 Y=Y+20
1850 IF DD=9008 THEN Y=-20 :X=X+2 :GOTO 1910
1860 IF DD=8567 THEN Y=-20: X=X+1 :GOTO 1910
1870 IF DD=8482 THEN Y=Y-16 :GOTO 1910
1880 IF DD=8483 THEN 1910
1890 IF Y+16>(400-16*0) THEN Y=0 :X=X+1
1900 PUT@(16*(XX-X),Y),KANJI(DD)
1910 NEXT II
1920 RETURN
すなはち、
(09)
 世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。
 千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
 故に名馬有りと雖も、ただ奴隷人の手に辱められ、
 槽櫪の間に駢死して、千里を以て称せられるなり。
といふ「日本語」を、「頭の中」で、
 世有白楽、然後有千里馬。
 千里馬常有、而伯楽不常有。
 故雖有名馬、祇辱於奴隷人之手。
 駢死於槽櫪、不以千里称也。
といふ「漢文」に直して、その、
 世有白楽、然後有千里馬。
 千里馬常有、而伯楽不常有。
 故雖有名馬、祇辱於奴隷人之手。
 駢死於槽櫪、不以千里称也。
といふ「漢文」を、
 セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ。
 センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ。
 コスイイウメイバ、ギジョクオドレイジンシシュ、
 ベンシオサウレキシカン、フツイセンリショウヤ。
 といふ風に、「発音」してゐたことが、有ります。
それ故、
(10)
 セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ。
 センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ。
 コスイイウメイバ、ギジョクオドレイジンシシュ、
 ベンシオサウレキシカン、フツイセンリショウヤ。
といふ「発音」を、何度か繰り返す内に、
 世有白楽、然後有千里馬。
 千里馬常有、而伯楽不常有。
 故雖有名馬、祇辱於奴隷人之手。
 駢死於槽櫪、不以千里称也。
といふ「原文」を、「暗誦」出来るやうになる。
そのため、
(11)
結果として、例へば、
⑤ 古の君に千金を以て涓人をして千里の馬を求め使むる者有り。
といふ「日本語」を、直ちに、
⑤ 古之君有以千金使涓人求千里馬者=
⑤ コシクンイウイセンキンシケンジンキウセンリバシャ。
といふ風に、「音読(復文)」することが、可能となる。
然るに、
(12)
⑤ 古の君に千金を以て涓人をして千里の馬を求め使むる者有り。
⑤ 古_君千金以涓人千里馬求使者有。
⑥ 古之君有以千金使涓人求千里馬者。
に於いて、
⑤ の中の「漢字」は、
⑥ 之 を除いて、
⑥ の中の「漢字」に、等しい。
従って、
(12)により、
(13)
⑤ 古の を、
⑤ 古之 と書くとして、
⑤ 古之君に千金を以て涓人をして千里の馬を求め使むる者有り。
といふ「日本語」を読んで、
⑤ 古之君有以千金使涓人求千里馬者。
といふ風に「復文」する。といふことは、
⑤ 古之君に千金を以て涓人をして千里の馬を求め使むる者有り。
の中の、
⑤ 古之君千金以涓人千里馬求使者有。
といふ「漢字の順番」を、
⑤ 古之君有以千金使涓人求千里馬者。
といふ「順番」に変へてゐる。
といふことに、過ぎない。
然るに、
(14)
デジタル大辞泉の解説
ふく‐ぶん【復文】
1 漢字仮名まじりに書き下した漢文を原文に戻すこと。
従って、
(13)(14)により、
(15)
「復文」とは、「訓読」から「平仮名」を除き、その結果として「残った漢字」を、必要に応じて、「並び替へ」ることである。
然るに、
(16)
⑦ 昔々、王は彼の使用人に多くのお金で駿馬を買いに行かせました。
といふ「日本語」を、
⑧ 昔々、王は せました 彼の使用人を 買いに行か 駿馬を で 多くのお金。
といふ「順番」に「並び替へ」ても、
⑥ Once upon a time, a king let his servant go and buy a swift horse for a lot of money.
とは、ならない。
従って、
(17)
⑥ 昔々、王は彼の使用人に多くのお金で駿馬を買いに行かせました。
といふ「日本語」を、
⑥ 昔々、王は せました 彼の使用人を 買いに行か 駿馬を で 多くのお金。
といふ「順番」に「並び替へ」、その上で、
⑥ 昔々、王は せました 彼の使用人を 買いに行か 駿馬を で 多くのお金。
といふ「日本語」を、
⑥ Once upon a time, a king let his servant go and buy a swift horse for a lot of money.
といふ「英語」に「置き換」へなければ、
⑥「英訳」は、成立しない。
従って、
(17)により、
(18)
「英訳」とは、必要に応じて、「日本語の語順」を「並び替へ」た上で、その「日本語」を、「英語」に「置き換へ」ることである。
然るに、
(19)
中国語の文法が英語同様「SVO」を基本としていることはすでに述べた。英語を日本語に訳すと、各文の前後がバタリバタリとひっくり返った形を取らざるをえないのだが、中国語に翻訳する場合には、文法構造が似通っているために、ほぼそのままの語順でいける。

(新井一二三、中国語はおもしろい、2004年、154頁)
従って、
(18)(19)により、
(20)
「中国語訳」とは、必要に応じて、「日本語の語順」を「並び替へ」た上で、その「日本語」を、「中国語」に「置き換へ」ることである。
従って、
(18)(20)により、
(21)
「翻訳」とは、必要に応じて、「ある言語」の「語順」を「並び替へ」た上で、「その言語」を、「他の言語」に「置き換へ」ることである。
従って、
(15)(21)により、
(22)
「翻訳」に関しては、そのやうなことは無い。ものの、その一方で、
「復文」に関しては、「ある言語の漢字の語彙」と、「漢文の漢字の語彙」は、「一致してゐる」必要が有る。
然るに、
(23)
国語漢語と現代中国語のくちがいを示すひとつのパターンは、国語漢語は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用しているが、本場の中国においては、その言葉が死語になっていて、現在では別のいいかたがふつうになっているという場合である。

(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、206・7頁)
従って、
(22)(23)により、
(24)
「復文」に関しては、「ある言語の漢字の語彙」と、「漢文の漢字の語彙」は、「一致してゐる」必要が有る。一方で、本場の中国においては、その言葉が死語になっていて、現在では別のいいかたがふつうになっている。
従って、
(21)(24)により、
(25)
「中国語」の、「漢文」への「翻訳」は可能であるが、
「中国語」の、「漢文」への「復文」は可能ではない。
従って、
(26)
「中国語」を、「漢文」に訳す場合は、「翻訳」を行ふことになる。
然るに、
(27)
吾、書を読む ⇒ 吾読書。
とするためには、「英語の語彙」は、不要であるが、
吾、書を読む ⇒ I read a book.
とするためには、「英語の語彙」を、必要とするため、
「翻訳」の方が、「復文」よりも、難しい。
従って、
(14)(26)(27)により、
(28)
「日本語」の場合は、「復文」によって、「漢文」を書くことが出来るものの、
「中国語」の場合は、「翻訳」でしか、 「漢文」を書くことが出来ず、尚且つ、
「翻訳」の方が、「復文」よりも、難しい。
然るに、
(23)により、
(29)
国語漢語は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用しているが、本場の中国においては、その言葉が死語になっていて、現在では別のいいかたがふつうになっている。
といふのであれば、「漢文の読解」に於いても、「日本語の語彙」の方が、「中国語の語彙」に対して、アドバンテージを持ってゐる。といふことは、言ふまでもない。
ところで、
(30)
「白話文」に付く「返り点」であるが、


といった具合に、
下 二 上 一
二 五 三 一 四
のやうな、「返り点」としては「有り得ないそれ」を、「返り点の代用」として、用ゐることになる。
然るに、
(31)
下 二 上 一
二 五 三 一 四
のやうな、「返り点」としては「有り得ないそれ」を、「返り点の代用」として用ゐる。
といふことは、「訓読」を介して、「漢文の構造」と、「白話文の構造」が、「同じではない」といふことを、意味してゐる。
(32)
⑤ 古之君有以千金使涓人求千里馬者=
⑤ 古之君有[以(千金)使〔涓人求(千里馬)〕者]。
に於いて、
⑤ 以( )⇒ ( )以
⑤ 求( )⇒ ( )求
⑤ 使〔 〕⇒ 〔 〕使
⑤ 有 [ ] ⇒ [ ]有
といふ「倒置」を行ひ、尚且つ、「平仮名」を加へると、
⑤ 古之君有[以(千金)使〔涓人求(千里馬)〕者]⇒
⑤ 古之君[(千金)以〔涓人(千里馬)求〕使者]有=
⑤ 古之君に千金を以て涓人をして千の里馬を求め使むる者有り。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(33)
逆に言ふと、
⑥ 古之君に千金を以て涓人をして千の里馬を求め使むる者有り=
⑥ 古之君[(千金)以〔涓人(千里馬)求〕使者]有。
に於いて、
⑥ ( )以 ⇒ 以( )
⑥ ( )求 ⇒ 求( )
⑥ 〔 〕使 ⇒ 使〔 〕
⑥  [ ] 有 ⇒ 有[ ]
といふ「倒置」を行ふと、
⑥ 古之君[(千金)以〔涓人(千里馬)求〕使者]有⇒
⑥ 古之君有[以(千金)使〔涓人求(千里馬)〕者]
⑥ 古之君有以千金使涓人求千里馬者。
といふ「復文(漢作文)」が、成立する。
然るに、
(34)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。

(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(32)(33)(34)により、
(35)
⑥ 古之君千金以涓人千里馬求使者有=
⑥ 古之君有[以(千金)使〔涓人求(千里馬)〕者]。
といふ「漢文」と、
⑥ 古之君[(千金)以〔涓人(千里馬)求〕使者]有=
⑥ 古之君に千金を以て涓人をして千の里馬を求め使むる者有り。
といふ「訓読」に於いて、「補足構造」である所の、
⑥ [( )〔( )〕]
⑤ [( )〔( )〕]
に、「変はり」はない。
従って、
(35)により、
(36)
⑤ 古之君千金以涓人千里馬求使者有。
といふ「漢文」と、
⑥ 古之君に千金を以て涓人をして千の里馬を求め使むる者有り。
といふ「訓読」に於いて、「語順」こそ、異なるものの、「補足構造」自体は等しい。
従って、
(23)(36)により、
(37)
(1)国語漢語は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用している。
(2)国語(訓読)と漢文の、「補足構造」は、等しい。
(3)国語(訓読)と漢文の、「語順」は、等しくない。
従って、
(38)
(3)国語(訓読)と漢文の、「語順」は、等しくない。
といふことに、言及する一方で、
(1)国語漢語は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用している。
(2)国語(訓読)と漢文の、「補足構造」は、等しい。
といふことに、言及しないのであれば、「片手落ち」であって、「正しく」はない。
然るに、
(39)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである。

(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)
然るに、
(40)
(1)「返り点」をたよりに読むのは、「上がるとき」であるため、「上がったり下がったり」といふ言ひかたは、マチガイである。
(2)国語と漢文の「補足構造」は等しい。といふことに、気づいてゐないし、国語漢語は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用している。といふことついても、考へが及んでゐない。
(3)「訓読法の限界は、白話文、つまり口語の文章には適用できないことだといわれます(Webサイト:日本漢文の世界)。」とあるため、「白話文」に対しては、初めから、「苦肉の知恵」自体が通用しない。
然るに、
(41)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる。

(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
(42)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様ものである。

(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)
(43)
さすがに、現在においては、「漢文訓読法」でなければ、日本人だけでなく、中国人も中国古典は理解できない、などという倒錯した主張をなす者はいなくなった。今から考えてみれば「漢文訓読法」派は単に現代中国語ができなかっただけのことではなかったか、そのようにさえ思えてくる。

(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、2頁)
(44)
ともかく筆者が言いたいのは、大学でも漢文の授業の方はしっかりと訓読だけを教えればよいということである。以前このようなことをある講演の際に述べたら、他の大学に勤めている先輩から、自分のところでは音読も取り入れて学生もみな読めるようになっていると力まれて困った。それならばその大学出身の若手が中国学会をリードしているはずである。

(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性)
然るに、
(45)
① 很古以前王让去给他的雇工用许多的钱买骏马了。
① Hěn gǔ yǐqián wáng ràng qù gěi tā de gùgōng yòng xǔduō de qián mǎi jùnmǎle.
② Once upon a time, a king let his servant go and buy a swift horse for a lot of money.
を見る限り、
① 很古以前王让去给他的雇工用许多的钱买骏马了。
① Hěn gǔ yǐqián wáng ràng qù gěi tā de gùgōng yòng xǔduō de qián mǎi jùnmǎle.
が、「漢文」でないことは、
② Once upon a time, a king let his servant go and buy a swift horse for a lot of money.
が、「漢文」でないことと、「同じこと」である。
従って、
(46)
「漢文」を学ぶ前に、「中国語」を学ぶことは、「ラテン語」を学ぶ前に、「フランス語」を学ぶことと、変はりが無い。ものの、
「ラテン語」を学ぶには、その前に「フランス語」を学ばなければならない。といふことなど、有るはずが無い。
(47)
研究を職業とされてゐる方たちであれば、中国語で書かれた文献を読んだり、中国語で論文を書く必要があることは、当然である。
しかしながら、
(48)
私自身は、これまでは必要を感じて来なかったせいもあって、英語さへ、ロクに読むことが出来ないので、中国語の文献よりも、ネット上に在る、英語の文献を読めるやうになりたい。
そのため、
(49)
我与其学習中国語不如学習英語=
ガヨキガクシュウチュウゴウゴフツジョガクシュウエイゴ=
我与〔其学‐習(中国語)〕不[如〔学‐習(英語)〕]⇒
我〔其(中国語)学‐習〕与[〔(英語)学‐習〕如]不=
我〔其の(中国語を)学‐習する〕与は[〔(英語を)学‐習するに〕如か]不=
私は、中国語を学習するのであれば、むしろ英語を学びたい。
平成28年01月30日、毛利太。

2016年1月25日月曜日

「返読文字」の例外。

(01)
漢文は「ヲ・ニ・ト・ヨリ・ヨリモ」の送りかなを付ける場合が多いが、これにもかかわらず、訓読の際に下から必ず返って読む特別の文字がある。これを「返読文字」という。
[如・若・無・莫・有・不・弗・勿・毋・多・少・鮮・寡・易・難・可・自・従・理・使・令・欲・与・比・雖・被・見・所・所以・非・匪・為・不能・足]
(鳥羽田重直、漢文の基礎、1985年、22頁)
然るに、
(02)
実際には、「返って読まない」場合も有るため、以下では、さうした「例外」を示し、それらに対する「私見」を述べることにする。
(03)
* 鮮矣仁(仁が少ない、意)の倒置文で、鮮矣を強調し、そうい状況を慨嘆したことを示す。したがって、「鮮いかな仁」と読む。
[研究]
二「鮮矣仁」を平叙文に直せばどうなるか。
(解答)
二「仁鮮矣」
(明解古典学習シリーズ16 論語・孟子、1973年、5頁)
従って、
(04)
「仁鮮矣」の倒置が、
「鮮矣仁」であるため、
「仁鮮矣」の「鮮」は、「返読文字」ではない。
(05)
我有兄弟=I have brothers.
であるため、
我有兄弟=SVO(第三文型)。
である。
然るに、
(06)
「多い」  といふことは、
「多く有る」といふことである。
従って、
(05)(06)により、
(07)
有兄弟=兄弟有り。
多兄弟=兄弟多し。
といふ「語順」であること、すなはち、「有・多」が、「辺読文字」であることは、不思議ではない。
然るに、
(08)
金多=金多し(十八史略、蘇秦・張儀)。
からすると、
金多=主語+述語。
に於いて、「多(形容詞)」は、「辺読文字」ではない。
(09)
学難成=学成り難し(朱子)。
であるため、「難」は、「辺読文字」である。
然るに、
(10)
破心中賊難=心中の賊を破るは難し(王陽明)。
からすれば、
成学難=学を成すは難し。
といふ場合も有り得る、はずである。
然るに、
(11)
学難成=学成り難し。
に対して、
成学難=学を成すは難し。
に於ける「難」は、「辺読文字」ではない。
(12)
漢王不遣書=
漢王 does not give a book.
であるため、
漢王不遣書=
漢王に、書を遣らず=
Someone does not give 漢王 a book.
ではない。
然るに、
(13)
瓜田不納履=
瓜田に、履を納れず。
と、することは、
漢王不遣書=
漢王 does not give a book.
を、
漢王不遣書=
Someone does not give 漢王 a book.
とすることに、等しい。
従って、
(13)により、
(14)
瓜田不納履=
瓜田に、履を納れず。
といふ「語順」は、かなり、ヲカシイ。
加へて、
(15)
先生不知何許人=
先生は何許可の人なるかを知らず。
にしても、「普通」に考へれば、
先生=主語
である。
然るに、
(16)
意味内容からすれば、「我不知先生何許人」ということだが、この文のように表現するから注意を要する。
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、60頁)
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
「漢文」を勉強してゐる以上、誰でも、
瓜田不納履=
瓜田に、履を納れず。
並びに、
先生不知何許人=
先生は何許可の人なるかを知らず。
といふ「語順」は、ヲカシイと、思ふべきである。
然るに、
(18)
三軍可奪師也=
三軍も師を奪ふべきなり。
といふ「語順」に関して、
三軍・・・匹夫・・・ 提示語で、「たとえ三軍でも~」の意で「(雖)三軍・・・(雖)匹夫・・・」という意味になる。
(明解古典学習シリーズ16 論語・孟子、1973年、115頁)
との、ことである。
従って、
(19)
三軍可奪師也。
のやうに、
主語 が、置かれるべき「位置」に、
補語 が、置かれる場合の、
補語 を、提示語 とする。
ならば、
瓜田不納履。の、
瓜田 は、提示語であって、
先生不知何許人。の、
先生 も、提示語である。
然るに、
(20)
hyoukahoutaruさん
2014/5/1911:15:21
漢文の質問です。
千里馬常有、而伯楽不常有。
有は返読文字だと習ったのですが、この例文では返読されていませんでした。何故ですか?
閲覧数: 432 回答数: 3
従って、
(19)(20)により、
(21)
千里の馬は常に有り。
に於ける、
千里馬常有。の、
千里馬 も、提示語である。
然るに、
(22)
私の場合は、
我読書。
を、
我書を読む。
と「訓読」して、逆に、
我書を読む。
を、
ガドクショ。
と「音読」することがあって、
我書を読む=ガドクショ。
を以て、「復文」としてゐる。
然るに、
(23)
世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。
千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
故に名馬有りと雖も、ただ奴隷人の手に辱められ、
槽櫪の間に駢死して、千里を以て称せられざるなり。
といふ「書き下し文」を、「復文」してゐる時に、すなはち、
セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ。
センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ。
コスイイウメイバ、ギジョクオドレイジンシシュ、
ベンシオサウレキシカン、フツイセンリショウヤ。
といふ風に、「音読」をして、感じたことは、
千里馬常有。の、
常有 は、
常設 がさうであるやうに、「名詞」なのでは?
といふ、ことである。
cf.
大辞林 第三版の解説
じょうせつ【常設】
( 名 ) スル
いつも設けてあること。常置。 「市議会に-されている委員会」
然るに、
(24)
常設=名詞
と同様に、
常有=名詞
であるならば、
 孔子聖人=主語(名詞)+述語(名詞)。
と同じく、
千里馬常有=主語(名詞)+述語(名詞)。
となるため、
千里馬常有=千里馬は常有である。
といふことになる。
(25)
如雪=雪の如し。
の「如」は、「辺読文字」である。
然るに、
(26)
「排他的命題」を主張する目的が、「強調」につながり、「強調」しようとする意志が、「疑問詞の前置」をプロモートすることを、「WH移動」とする。
従って、
(25)(26)により、
(27)
如雪=雪のやうだ。
に対して、
何如=何のやうであるか。
は、蓋し、「WH移動」である。
(28)
如之何=之をいかんせん。
の場合は、
如之何=述語+補語+補語。
である。
然るに、
(29)
古代では「如何」と「何如」を区別したが後世(宋以後)区別しないこともあるので注意。
(多久弘一、多久の漢文公式110、1988年、71頁)
との、ことである。
(30)
English, which when the Anglo-Saxons first conquered England in the fifth and sixth centuries was almost a 'pure' or unmixed language.
英語は、5・6世紀に、アングロサクソンたちが、最初にイングランドを征服した時には、ほとんど、純粋で、混りの無い言語であった。
There are some other outstanding qualities of English : its simplicity of inflexion, its relatively fixed word-order.
英語には他にもいくつかの際立った特徴がある。語形変化が単純であり、語順が比較的、固定してゐることである。
(C.L.Wrenn : The English Language)
然るに、
(31)
children を、
childs   と書けば、「マチガイ」であり、

You(単数)と、
Ye (複数)を区別するのも、「マチガイ」である。
加へて、
(32)
古英語の語順は比較的柔軟性があり、名詞や形容詞、動詞の活用によって文における関係性を示した。文中の句が位置を変えることはよくあり、また句中においてその要素の位置がかわることすらあった。
(ウィキペディア:古英語の文法)
従って、
(30)(31)(32)により、
(33)
5・6世紀の英語に対して、現代の英語は、
語形変化が単純であり、語順が比較的、固定してゐる。
といふことは、「マチガイ」が蓄積された「結果」として、現代の英語がある。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(34)
古代では「如何」と「何如」を区別したが後世(宋以後)区別しないこともあるので注意。といふ言ひかたは、
本当は、「如何」と「何如」を区別するのが、正しいものの、後世(宋以後)は、間違ってゐることがあるので、注意する。
とした方が、分りやすい。
(35)
ポチは犬と雖も免れず。
の場合は、
ポチ雖犬不免。
と書くはずである。
然るに、
(36)
ポチ雖犬不免。
から、
ポチ
を除くと、
雖犬不免=
犬と雖も免れず。
然るに、
(37)
雖犬 だけを見れば、
雖  は、「辺読文字」である。
(38)
千里馬常有=主語(名詞)+述語(名詞)。
ではない。のかも知れないし、
何如=何のやうであるか。
は「WH移動」ではない。のかも知れない。
しかしながら、
(39)
「漢文の語順」に、注意を向けてゐるからこそ、そのやうに、思ふのであって、尚且つ、兎にも角にも、そのやうに思った「結果」として、
何如。

如之何。
千里馬常有。
といふ「語順」が、記憶される。
従って、
(40)
仮に、「間違ふ」ことに、なるとしても、
何如。

千里馬常有。
瓜田不納履。
のやうな、「カワッタ語順」に接した場合は、自分自身で、「ああだかうだ」と考へてみることを、勧めたい。
平成28年01月25日、毛利太。

2016年1月21日木曜日

「白文」を「訓読」するには、

―「昨日の記事」を補足します。―
(01)
lilyannuさん曰く、
漢文が白文だけしか書いていないと読めず、返り点や送り仮名をつけられません。
(02)
taishomaron0706_0104さん曰く、
なぜ読みも書いていないのに白文だけ読んで返り点が打てるのか不思議です。
(03)
chielien_0b16833b5ee236845e34296さん曰く、
漢文の白文から書き下し文にするやりかたがよくわかりません。コツや勉強法があれば教えてください。
(04)
kiebine2007さん曰く、
大学の国文科の先生でも、返り点がなかったら読めないという人が大変多いのです。白文を読むのと漢文を読むのとは次元が違います。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
我欲読白文=
ガヨクドクハクブン。
といふ風に「音読」出来ない高校生は、皆無であるが、
我欲読白文=
我、白文を読まんと欲す。
といふ風に「訓読」できない高校生は、さうではない。
従って、
(05)により、
(06)
我欲読白文。
を読むことは、
I want to read hakubun.
を読むことと、同じではない。
然るに、
(07)
漢語文法の基礎となっている文法的な関係として、次の四つの関係をあげることができる。
(一)主述関係  主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足関係
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281~283頁改)
(08)
目的語と補語とは、それほど区別する必要がないので、両方併せて、補足語と呼んだり補語と呼んだりしている。
(数研出版、基礎からの漢文、1982年、26頁)
(09)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
「返り点」が付くのは「述語+補語」であって、
「述語+補語」以外に、「返り点」は付かない。
然るに、
(11)
例へば、
① 悪=アク(名詞)
② 悪=ニクム(他動詞)
③ 悪=ワルイ(形容詞)
④ 悪=イヅクンゾ(副詞)
に於いて、
② 悪=ニクム(他動詞)
であれば、「述語」であるが、他の三つは、「述語」ではない。
従って、
(12)
「ある漢字」が、「述語」であるか否かの「判別」は、必ずしも、カンタンではない。
(13)
② 一以貫之 「以一貫之」と同じであるが「一」を前に出して強調した。
(明解古典学習シリーズ16 論語・孟子、1973年、54頁)
従って、
(13)により、
(14)
以一=述語+補語
であっても、
一以 は、「倒置」であるため、
一以=補語+述語
となって、「返り点」は、付かない。
(15)
畏人=述語+補語
であるため、
畏人=人を畏る。
には、「返り点」が付く。
従って、
(15)により、
(16)
後世畏る可し。
は、
可畏後世。
となるはずであるものの、「論語、子罕」では、
後世可畏。
となってゐる。
然るに、
(17)
三軍可奪師也=
三軍も師を奪ふべきなり。
に関して、
三軍・・・匹夫・・・ 提示語で、「たとえ三軍でも~」の意で「(雖)三軍・・・(雖)匹夫・・・」という意味になる。
(明解古典学習シリーズ16 論語・孟子、1973年、115頁)
とあるため、
後世可畏。
の、
後世=後世(若輩)と雖も、
は、「提示語」であると、思はれる。
(18)
以五十歩不可笑百歩=
五十歩を以て百歩を笑ふべからず。
といふ意味で、
不可=
不可なり。
とする場合は、
不可
の下に、
笑百歩
といふ「述語」が、「省略」されてゐる。
従って、
(10)~(18)により、
(19)
Ⅰ「述語+補語」以外に、「返り点」は付かない。
Ⅱ「述語」の判別は、カンタンではない。
Ⅲ「述語」であっても、「前置」 である場合は、「返り点」は付かない。
Ⅳ「述語」であっても、「提示語」である場合は、「返り点」は付かない。
Ⅴ「述語」であっても、「補語」が「省略」されてゐる場合は、「返り点」は付かない。
然るに、
(20)
我不常読英文。
の場合は、
我=名詞
不=助動詞
常=副詞
読=他動詞
英=形容詞
文=名詞
である。
然るに、
(21)
「助動詞、他動詞」は「述語」であるが、「名詞、形容詞、副詞」等は「述語」ではない。
従って、
(20)(21)により、
(22)
我不常読英文。
の場合は、
不=述語
読=述語
である。
然るに、
(23)
我不常読英文。
に於いて、
不=述語
読=述語
であると思ふのであれば、取りあへず、
不(
読(
とすることによって、
我不(常読(英文。
とする。
その次に、
(24)
不(
読(
に対する、
 )
 )
を、考へる。
然るに、
(25)
述語=読
に対する「補語」は、明らかに、
補語=英文
である。
従って、
(23)(24)(25)により、
(26)
述語=読
に対する「補語」である、
補語=英文
を、( )で括り、
我不(常読(英文)。
とする。
然るに、
(27)
我不(常読(英文)。
に於いて、
述語=不
は、
常読英文
を、「否定」してゐる。
従って、
(27)により、
(28)
述語=不
に対する「補語」である、
補語=常読英文
を、( )で括ると、
我不(常読(英文))。
然るに、
(29)
(((( ))))
では、読みにくいため、
{[〔( )〕]}
とする。
従って、
(28)(29)により、
(30)
我不(常読(英文))=
我不〔常読(英文)〕。
とする。
然るに、
(09)により、
(31)
述語+補語
といふ「漢文の語順」は、「国語」では、
補語+述語
でなければ、ならない。
従って、
(20)~(31)により、
(32)
我不常読英文=
我不〔常読(英文)〕。
に於いて、
読( )⇒( )読
不〔 〕⇒〔 〕不
といふ「倒置」を行へば、
我〔常(英文)読〕不。
といふ「語順」は、「国語(訓読)の語順」となる。
然るに、
(33)
我〔常(英文)読〕不。
といふ「語順」は、
我〔常には(英文を)読ま〕ず。
といふ風に、「訓読」出来る。
(34)
中野区有求以解中国語法解漢文者。
に於いて、
中野区=名詞+名詞
中国語=名詞+名詞
法  =名詞
漢文 =形容詞+名詞
者  =名詞
以外は、全て「述語」であると、思ふのであれば、
取りあへず、
中野有(求(以(解(中国語法解(漢文者。
とする。
その上で、
(35)
有(
求(
以(
解(
解(
に対する、それぞれの、
 )
 )
 )
 )
 )
を、考へる。
その結果として、
(36)
中野区有(求(以(解(中国語)法)解(漢文))者)=
中野区有{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}。
であるとする。
然るに、
(37)
(32)と「同じ理由」により、
中野区有求以解中国語法解漢文者=
中野区有{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}。
に於いて、
解( )⇒( )解
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
求[ ]⇒[ ]求
有{ }⇒{ }有
といふ「倒置」を行へば、
中野区{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求者}有。
といふ「語順」は、「国語(訓読)の語順」となる。
然るに、
(38)
中野区{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求者}有。
といふ「語順」は、
中野区に{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者}有り。
といふ風に、「訓読」出来る。
然るに、
(34)(35)により、
(39)
中野区有求以解中国語法解漢文者。
に於いて、
有=述語
求=述語
以=述語
解=述語
解=述語
であることが、分ってゐなければ、
有(
求(
以(
解(
解(
に対する、
 )
 )
 )
 )
 )
を、考へることは、出来ない。
従って、
(39)により、
(40)
例へば、
中野区有求以解中国語法解漢文者。
といふ「白文」を「訓読」するには、
有(
求(
以(
解(
解(
に対する、それぞれの、
 )
 )
 )
 )
 )
を、考へるために、取りあへず、
有=述語
求=述語
以=述語
解=述語
解=述語
といふことを、自分自身で、判断できなければ、ならない。
従って、
(41)
「白文」を「訓読」出来るやうになるためには、「どのやうな場合」に、「どのやうな漢字」が、「述語」になるのか。
といふことに、気を付けながら、「漢文」を学んで行く、必要が有る。
然るに、
(42)
① 中野区有{求[以〔解(  語)法〕解( 文)]者}。
② 中野区有{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}。
に於いて、①と②の「補足構造(シンタックス)」は等しい。
然るに、
(43)
「返り点」は、それぞれ、
① 乙 下 二 レ 一 上レ 甲
② 地 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
である。
cf.


従って、
(42)(43)により、
(44)
「括弧」とは異なり、「返り点」は、必ずしも「補足構造(シンタックス)」を表してゐない。
といふことに、注意する、必要がある。
平成28年01月21日、毛利太。
(45)
② 中野区有{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文 )]者}。
ではなく、
③ 中野区有{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)囗]者}。
に於いて。
③ 囗 が、「読むべき漢字」である場合、「返り点」と「括弧」は、
③ 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天
③{ [ 〔 (  ) 〕(  ) ] }
である。
然るに、
(46)
② 地 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
③ 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天
は、本質的に、「順番」を表してゐて、
②{ [ 〔 (  ) 〕(  ) ] }
③{ [ 〔 (  ) 〕(  ) ] }
は、「構造」を表してゐる。
従って、
(45)(46)により、
(47)
③ 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天  と、
③{ [ 〔 (  ) 〕(  ) ] } は、「同じ」ではない。
平成28年01月23日、毛利太。

2016年1月20日水曜日

「(H28年のセンター試験の)白文」を解説します。

―「1月18日の記事」を書き直します。―
(01)
漢語文法の基礎となっている文法的な関係として、次の四つの関係をあげることができる。
(一)主述関係  主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足関係
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281~283頁改)
(02)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(03)
目的語と補語とは、それほど区別する必要がないので、両方併せて、補足語と呼んだり補語と呼んだりしている。
(数研出版、基礎からの漢文、1982年、26頁)
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
「返り点」が付くのは「述語+補語」であって、「述語+補語」以外に、「返り点」は付かない。
(05)
問4 傍線部A「哀其身不能一日事乎母也」の返り点の付け方と書き下し文の組み合わせとして最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は[33]。
(06)
其書 であれば、
其は、 修飾語 であって、
書は、被修飾語 である。
(07)
其書在机上=THE BOOK IS ON DESK.
であれば、
其書=THE BOOK
は、「主語」である。
(08)
我見其書=I SEE THE BOOK.
であれば、
其書=THE BOOK
は、「補語」である。
従って、
(07)(08)により、
(09)
我見其書在机上=我其の書の机上に在るを見る。
であれば、
我 =主語
其書=主語
である。
従って、
(10)
我見其書在机上=我其の書の机上に在るを見る。
に対して、
_見其書在机上=_其の書の机上に在るを見る。
であれば、
主語=其書
は、そのままであるが、
主語=私
は、省略されてゐる。
然るに、
(11)
「文脈」からすらば、
荷字哀其身不能一日事乎母也。
であるため、
哀其身不能一日事乎母也。
に於いて、
哀 の主語(荷字)は、省略されてゐる。
(12)
I OFTEN READ THE BOOK.
であれば、
READ(他動詞)
だけが、「述語」である。
(13)
哀其身不能一日事乎母也。
であれば、
哀(他動詞)
不(否定詞)
能(助動詞)
事(他動詞)
といふ四つが、「述語」である。
従って、
(13)により、
(14)
哀其身不能一日事乎母也。
に於いて、
其身=主語
一日=修飾語(副詞)
乎 =前置詞(格助詞・に)
母 =名詞
也 =断定
は、「述語」ではない。
然るに、
(15)
事乎母=母に事へる。
であるため、
事 =他動詞 の「補語」は、明らかに、「乎母」である。
(16)
一日=修飾語(副詞)
であるため、
能 =助動詞 の「補語」は、明らかに、「一日事乎母」である。
(17)
不 =否定 の「補語」は、明らかに、「能一日事乎母」である。
然るに、
(18)
其身 は、「能一日事乎母」の、主語 であるため、
哀 =動詞 の「補語」は、明らかに、「其身不能一日事乎母」である。
従って、
(15)~(18)により、
(19)
哀(他動詞)
不(否定詞)
能(助動詞)
事(他動詞)
に対する、「補足語」は、
其身不能一日事乎母
  不能一日事乎母
    一日事乎母
       乎母
である。
従って、
(19)により、
(20)
哀{其身不能一日事乎母}
    不[能一日事乎母]
      能〔一日事乎母〕
          事(乎母)
とすれば、これらの四つは、
哀其身不能一日事乎母也。
といふ「漢文」に於ける、「補足構造」を、表してゐる。
従って、
(20)により、
(21)
哀其身不能一日事乎母也。
に於ける、「補足構造」は、
哀{其身不[能〔一日事(乎母)〕]}也。
である。
然るに、
(02)により、
(22)
漢文と、国語では、「補足構造」に於ける「語順が逆」になる。
従って、
(21)(22)により、
(23)
哀其身不能一日事乎母也=
哀{其身不[能〔一日事(乎母)〕]}也。
に於いて、
哀{ }⇒{ }哀
不[ ]⇒〔 〕不
能〔 〕⇒〔 〕能
事( )⇒( )事
といふ「倒置」を行ふと、
哀{其身不[能〔一日事(乎母)〕]}也⇒
{其身[〔一日(乎母)事〕能]不}哀也=
{其の身の[〔一日として(母に)事ふる〕能は]不るを}哀しむなり。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(24)


といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(25)
「一字だけ上の漢字」に返る場合は、「レ点」を用ゐ、
「二字より上の漢字」に返る場合は、「一二点」等を用ゐる。
従って、
(24)(25)により、
(26)



従って、
(26)により、
(27)

従って、 
(27)により、
(28)
問4 傍線部A「哀其身不能一日事乎母也」の返り点の付け方と書き下し文の組み合わせとして最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。解答番号は[33]。
の「答へ」は、④であり、「新聞の答へ」も、④である。
従って、
(01)~(28)により、
(29)
哀其身不能一日事乎母也。
といふ「白文」を「訓読」したいのであれば、少なくとも、
哀 は、「述語」であるか?
其 は、「述語」であるか?
身 は、「述語」であるか?
不 は、「述語」であるか?
能 は、「述語」であるか?
一 は、「述語」であるか?
日 は、「述語」であるか?
事 は、「述語」であるか?
乎 は、「述語」であるか?
母 は、「述語」であるか?
也 は、「述語」であるか?
といふ「質問」に、答へられなければ、ならない。
(30)
哀=動詞
不=否定
能=助動詞
事=動詞
といふ四つが、「述語」である。と思ふのであれば、
哀其身不能一日事乎母也。
に対して、
哀(其身不(能(一日事(乎母也。
といふ風に、( を加へて欲しい。
(31)
その次に、
哀(其身不(能(一日事(乎母也。
に於ける、
( ( ( (
に対する、
 ) ) ) )
を考へて欲しい。
(32)
考へた「結果」として、
哀(其身不(能(一日事(乎母))))也=
哀{其身不[能〔一日事(乎母)〕]}也。
といふ「括弧」を、得ることが出来たのであれば、その人は、
哀其身不能一日事乎母也。
といふ「白文」を、
{其の身の[〔一日として(母に)事ふる〕能は]不るを}哀しむなり。
といふ風に、「訓読」出来ても、不思議ではない。
(33)
米国有求以解英文法解漢文者。
といふ「白文」の、「述語」に対して、アンダーラインを引いて欲しい。
(34)
アンダーラインが、
米国有求以解英文法漢文者。
といふ風に、ならなかったとしたら、すなはち、

有 求 以 解 解
に対して、アンダーラインが引かれなかったとしたら、その人は、
米国有求以解英文法解漢文者。
といふ「白文」を、
米国有{求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]者}⇒
米国{[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求者}有=
米国に{[〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求る者}有り。
といふ風に、「訓読」することを、諦めなければならない。
然るに、
(35)
taishomaron0706_0104さん2015/12/3010:00:41
返り点を打つコツを教えてください。
学校で漢文をほとんど教えて貰わなかったので独学で勉強しています。
ですが返り点を付けられません。
何回も解き直しますが答えの通りになりません。
なぜ読みも書いていないのに白文だけ読んで返り点が打てるのか不思議です。
私には白文だけをみて返り点を打つことができません。
どうしたら打てますか?
漢文を早く上達させるにはどうしたら良いですか?
閲覧数:56 回答数:1
従って、
(34)(35)により、
(36)
taishomaron0706_0104さんのやうな方には、、
取りあへず、「白文」の「述語」に対して、アンダーラインを引けるやうに、なってもらいたい。
平成28年01月20日、毛利太。

2016年1月17日日曜日

荻生徂徠に賛成。

―「昨日(1月16日)書いた「二つの記事」の内の、二番目のそれ」を書き換へます。―
(01)
① 不読書=書を読まず。
に於いて、
① レ レ
は、
② 三 二 一
に、置き換へることが、可能である。
従って、
(02)
① 不読書=書を読まず。
に於いて、
三=レ
二=レ
一=
である。
(03)
囗=黙字
とすれば、
② 三 二 一
は、
③ 下 二 一 囗上
に、置き換へることが、可能である。
(04)
囗=黙字
を、書かなければ、
③ 下 二 一 囗上
は、
④ 下 二 一 上
に、置き換へることが、可能である。
然るに、
(05)
④ 下 二 一 上
は、
⑤ 〔  (  ) 〕
に、置き換へることが、可能である。
従って、
(01)(03)(05)により、
(06)
① レ レ
② 三 二 一
④ 下 二 一 上
は、
⑤ 〔  (  ) 〕
に、置き換へることが、可能である。
cf.


然るに、
(07)
一=01
二=02
上=11
下=12
甲=21
乙=22
天=31
地=32
であるとして、
01<02<11<12<21<22<31<32
といふ「順番」が、「括弧」には無い。
従って、
(08)
「括弧」は、「返り点」に似てゐるが、「同じ」ではない。
(09)
「惡(悪)」といふ「漢字」には、
① アク(名詞)

② アク(形容詞)
③ ニクム(動詞)
④ イヅクンゾ(副詞)
といふ三つの「意味」が有る。
然るに、
(10)
惡遇之命也=イヅクンゾ之の命に遇ふや。
に対して、
惡稱人之惡者=イヅクンゾ人を称する之悪は、
では、「意味」をなさない。
然るに、
(11)
惡稱人之惡者。
の、
人之惡
に「注目」し、
惡稱(人之惡)者。
とすると、
惡稱(人之惡)者。
は、
惡〔稱(人之惡)者〕。
であることに、気が付く、ことになる。
cf.


然るに、
(12)
惡稱人之惡者。
といふ「漢文」を、
ヲショウジンシアクシャ。
といふ風に、何回「発音」したところで、
人の惡を稱する者を惡む。
といふ「意味」は、分らない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
「漢文」は、「音読」しても「理解できない」ものの、
「漢文」は、「観察」すれば「理解できる」ことになる。
従って、
(14)
音読漢文不如観察漢文=
音‐読(漢文)不[如〔観‐察(漢文)〕]⇒
(漢文)音‐読[〔(漢文)観‐察〕如]不=
(漢文を)音読するは[〔(漢文を)観察するに〕如]不=
漢文を音読することは、漢文を観察することに、及ばない。
といふ、ことになる。
然るに、
(15)
徂徠は「題言十則」のなかで以下のように述べている。
中華の人多く言へり、「読書、読書」と。予は便ち謂へり、書を読むは書を看るに如かず、と。此れ中華と此の方との語言同じからざるに縁りて、故に此の方は耳口の二者、皆な力を得ず、唯だ一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、総て殊なること有ること莫し。
ここでの「読書」は、文脈からして音読であろう。
(勉誠出版、「訓読」論、2008年、27・244頁)
従って、
(15)により、
(16)
徂徠は「題言十則」のなかで、
読書不如看書=
読(書)不[如〔看(書)〕]⇒
(書)読[〔(書)看〕如]不=
(書を)読むは[〔(書を)看る〕如か]不=
書を音読することは、書を看ることに、及ばない。
といふ風に、述べてゐる。
従って、
(16)により、
(17)
荻生徂徠も、
漢文を「音読」することは、漢文を「観察」することに、及ばない。
といふ風に、述べてゐる。
従って、
(18)
ソシュールが言ふやうに、「音声」だけが「言語の本質」であるとすると、荻生徂徠の主張は、マチガイである。
平成28年01月17日、毛利太。

2016年1月16日土曜日

SVAVaC(仮題)。

(01)
「修飾語」とは、「副詞(連用修飾語)」と「形容詞(連体修飾語)」のことをいふ。
然るに、
(02)
「副詞・形容詞」は、「Adverb・Adjective」である。
そのため、
(03)
「副詞」については、「ADVERB」の「A」を借りて、Aとし、「形容詞」について、「adjective」の「a」を借りて、aとする。
(04)
目的語と補語を区別する必要はないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(数研出版、基礎からの漢文、1982年、26頁)。
然るに、
(05)
「補語」は、「Complement」である。
そのため、
(06)
「Complement」の「C」を借りて、「補語」を、Cとする。
(07)
S=主語 とし、
V=述語 とする。
従って、
(03)(06)(07)により、
(08)
① 我不常読英文 ⇒
① 我、常には英文を読まず。
に於いて、
我=S
不=V
常=A
読=V
英=a
文=C 
である。
従って、
(08)により、
(09)
① 我不常読英文 ⇒
① 我、常には英文を読まず。
に於いて、
我=S=1
不=V=6
常=A=2
読=V=5
英=a=3
文=C=4
とすれば、この場合の「162534」は、「訓読の順番」である。
然るに、
(10)

従って、
(09)(10)により、
(11)
① 我不常読英文 ⇒
① 我、常には英文を読まず。
に於いて、
我=S=1
不=V=6=三
常=A=2
読=V=5=二
英=a=3
文=C=4=一
とすれば、この場合の「三 二 一」は、「返り点」である。
然るに、
(12)
漢語文法の基礎となっている文法的な関係として、次の四つの関係をあげることができる。
(一)主述関係  主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足関係
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281~283頁改)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
(13)
(一)の主述関係、(二)の修飾関係、(三)補足関係においては、その前置のものと後置のものとは、それぞれ、全く違った機能のもの
なの
あって、その語順を変えることは、許されない。もしも、その語順を変えるならば、全く違った意味のものとなるか、意味をなし難いものと
なる。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、284頁)
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
我=S=1
不=V=6=三
常=A=2
読=V=5=二
英=a=3
文=C=4=一
といふ「語順」を、
我=S=1
常=A=2
読=V=5=二
英=a=3
不=V=6=三
文=C=4=一
といふ「語順」に
、変へるならば、「SVAVaC」が、「SVAaVC」に変はるため、「全く違った意味のものとなるか、意味をなし難いものとなる」。
従って、
(14)により、
(15)

我=S=1
常=A=2
読=V=5=二
英=A=3
不=V=6=三
文=C=4=一
といふ「語順」と「返り点」は、実際には、有り得ないし、固より、「返り点」といふ「言ひ方」からしても、
読=V=5=二
英=a=3
不=V=6=三
のやうに、「返らない、返り点」は、有り得ないし、
我=S
常=A
読=V=二
英=A
不=V
文=C=一
であれば、
我=1
常=2
読=6=二
英=3
不=4
文=5=一
であるため、
我=1
常=2
読=5
英=3
不=6
文=4
ではない。
然るに、
(16)
① 162534=
① 16{25(34)}。
に於いて、
① 5( )⇒( )5
① 6{ }⇒{ }6
とすると、
① 162534=
① 16{25(34)}⇒
① 1〔2(34)5〕6=
① 1 2 3 4 5 6。
(17)
② 125364=
② 125(36{4)}。
に於いて、
② 5( )⇒( )5
② 6{ }⇒{ }6
とすると、
② 125364=
② 125(36{4)}⇒
② 12(3{4)5}6=
② 1 2 3 4 5 6。
然るに、
(18)
「数学」の場合が、さうであるやうに、
① {( )}
に対して、
② ({ )}
は、「括弧」ではない。
然るに、
(19)
② 二 三 一
であれば、
② 二<三>一 & 二=一+一
といふ「不等式」が、成立する。
従って、
(14)(19)により、
(20)
② 125364
といふ「順番」は、
② 二<三>一 & 二=一+一
に対応して、
② 5<6>4 & 5=4+1
といふ「順番」を含んでゐる。
従って、
(20)により、
(21)
② 125364
といふ「順番」は、
② B<C>A & B=A+1
といふ「順番」を含んでゐる。
然るに、
(22)
① 162534
といふ「順番」は、
① B<C>A & B=A+1
といふ「順番」を含んでゐない。
従って、
(14)(15)(18)(21)(22)により、
(23)
① B<C>A & B=A+1
といふ「順番」を含んでゐない「順番」を、
② B<C>A & B=A+1
といふ「順番」を含む「順番」に変へるならば、その「語順」に対して、「返り点・括弧」を付けることは、出来ない。
従って、
(12)(13)(23)により、
(24)
「返り点・括弧」を用ゐて、
② B<C>A & B=A+1
といふ「順番」を含む、「英語」なり、「中国語(白話文)」を、「訓読」することは、出来ない。
cf.
訓読法の限界は、白話文、つまり口語の文章には適用できないことだといわれます。つまり、文語(文言)の文章だけしか訓読法で読むことができないのです(Webサイト:日本漢文の世界)。
平成28年01月16日、毛利太。

2016年1月14日木曜日

β<γ>α & β=α+1

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onomameusさん 2015/6/1521:19:12
(01)
漢文非中華人民共和国語也。以是、
中国語直読法雖盛而中国語不可以読中夏之書審矣。
如日本之学生有欲能読白文者則宜以括弧学其管到。
(02)
漢文は中華人民共和国語に非ざるなり。是を以て、
中国語直読法は盛んなりと雖も、中国語は以て中華の書を読む可から不ること審かなり。
如し日本の学生に能く白文を読まんと欲する者有らば則ち、宜しく括弧を以て其の管到を学ぶべし。
(03)
(a)漢文の補足構造は、「括弧」で表すことが出来る。
(b)補足構造を除くと、漢文と訓読の「語順」は、等しい。
(c)漢文の補足構造を「集合数」で表した時、訓読の語順は、「順序数」である。
といふ「三つの条件」の下で、例へば、
人有喜与不如己者為友之心=
人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉=
1C〈9{6[4〔3(2)〕5]8(7)}AB〉⇒
1〈{[〔(2)3〕45]6(7)8}9AB〉C=
人〈{[〔(己)如〕不者]与(友)為}喜之心〉有=
人に〈{[〔(己に)如か〕不る者]と(友と)為るを}喜ぶの心〉有り。
人には、自分よりも劣った者と(気楽な)友達になるのを喜ぶ心がある(金沢大学入試問題)。
といふ「括弧による、ソート(漢文訓読)」が、成立する。
― 「知恵袋」はここ迄。回答者(onomameus)は、私(毛利太)です。―
(04)


(05)
A B C は、「十六進数」なので、
A=10
B=11
C=12
である。
然るに、
(06)
「与へられた順番」が、「β<γ>α & β=α+1」といふ「順番」を含んでゐないのであれば、その時に限って、「返り点・括弧」を付けることが出来る。といふ風に、「仮定」する。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
例へば、
① C〈9{6[4〔3(2)〕5]8(7)}AB〉
② 9{6[4〔3(2)〕5]8(7)}
③ 6[4〔3(2)〕5]
④ 4〔3(2)〕
⑤ 3(2)
⑥ 8(7)
に於いて、
① C と B の間に、Cよりも「大きい数」は、無い。
② 9 と 8 の間に、9よりも「大きい数」は、無い。
③ 6 と 5 の間に、6よりも「大きい数」は、無い。
④ 4 と 3 の間に、4よりも「大きい数」は、無い。
⑤ 3 と 2 の間に、3よりも「大きい数」は、無い。
⑥ 8 と 7 の間に、8よりも「大きい数」は、無い。
然るに、
(07)により、
(08)
確かに、
① に於いて、「一番大きい数」は、Cである。
② に於いて、「一番大きい数」は、9である。
③ に於いて、「一番大きい数」は、6である。
④ に於いて、「一番大きい数」は、4である。
⑤ に於いて、「一番大きい数」は、3である。
⑥ に於いて、「一番大きい数」は、8である。
然るに、
(09)
人有喜与不如己者為友之心。
1C96432587AB。
に於いて、
不=4 と、
友=7 を、「入れ換へ」ると、
人有喜与友如己者為不之心。
1C96732584AB。
となる。
然るに、
(10)
1C96732584AB。
は、
67325
を含んでゐて、
67325 
は、
6<7>5 & 6=5+1
を含んでゐる。
然るに、
(11)
1C《9〈6〔7[3(2)5(8{4)〕]}〉AB》。
に於いて、
3( )⇒( )3
5( )⇒( )5
6〔 〕⇒〔 〕6
7[ ]⇒[ ]7
8{ }⇒{ }8
9〈 〉⇒〈 〉9
C《 》⇒《 》C
とするならば、
1C《9〈6〔7[3(2)5(8{4)〕]}〉AB》⇒
1《〈〔[(2)3({4)5〕6]7}8〉9AB》C=
1 2 3 4 5 6 7 8 9 A B C。
然るに、
(12)
《〈〔[( )({ )〕]}〉》
に於いて、
〔[( )({ )〕]}
のやうな「それ」は、「括弧」では、有り得ない。
加へて、
(13)


従って、
(13)により、
(14)
人有喜与友如己者為不之心。
といふ「12個の漢字」を、
人に己に如か不る者と友と為るを喜ぶの心有り。
と読む場合の「それ」は、
乙 中 三 四 レ 二 上 一 下 甲
である。
然るに、
(15)
一・二点をはさんで返るときは上・中・下点。上・中・下点をはさんで返る時は甲・乙点。甲・乙点をはさんで返る時は天・地(天・地・人)である(志村和久、漢文早わかり、1982年、20頁)。
従って、
(14)(15)により、
(16)
乙 中 三 四 レ 二 上 一 下 甲

もしくは、
地 中 丙 丁 二 一 乙 上 甲 下 天
といふ「それ」は、「返り点」では、あり得ない。
従って、
(04)~(16)により、
(17)
人有喜与不如己者為友之心=
人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉=
1C〈9{6[4〔3(2)〕5]8(7)}AB〉⇒
1〈{[〔(2)3〕45]6(7)8}9AB〉C=
人〈{[〔(己)如〕不者]与(友)為}喜之心〉有=
人に〈{[〔(己に)如か〕不る者]と(友と)為るを}喜ぶの心〉有り。
といふ「漢文訓読」に於いて、
「与へられた順番」が、「β<γ>α & β=α+1」といふ「順番」を含んでゐないのであれば、その時に限って、「返り点・括弧」を付けることが出来る。といふ「仮定」は、「誤り」ではない。
平成28年01月14日、毛利太(onomameus)。

2016年1月13日水曜日

返り点、括弧=弧+弧。

―「01月08日の記事」を書き直します。―
(01)
                                 

従って、
(01)により、
(02)
「一組の括弧(パーレン)」は、「左右、二つの弧(アーク)」から成る、「円周の一部」である。
然るに、
(03)


                                                                   

は、アウディ。
従って、
(04)
 ○ ○
を重ねると、「括弧」は、
(())
となる。
従って、
(05)
( )( )
を重ねると、「括弧」は、
(( ))
となる。
然るに、
(06)
(( ))は、
({ )}であるのか、
{( )}であるのか、区別できない。
そのため、
(07)
「重なり具合」が分るやうに、
( )( )( )( )( )
ではなく、
( )〔 〕[ ]{ }〈 〉
を、用ゐることにする。
然るに、
(08)
「数学」であれば、
{( )}に対して、
({ )}といふ「括弧」は、有り得ない。
従って、
(08)により、
(09)
   〔( )〕
〈{[〔( )〕]}〉等は、「括弧」であるが、
   (〔 )〕
〈{[〔( ]〉}〕)等は、「括弧」ではない。とする。
然るに、
(10)
「数学」に於いて、
{( )( )}等は、「括弧」であるため、
「漢文」に於いて、
〔( )( )〕等も、「括弧」である。とする。
然るに、
(11)
① 有〔揮(快刀)断(乱麻)者〕。
に於いて、
① 揮( )⇒( )揮
① 断( )⇒( )断
① 有〔 〕⇒〔 〕有
とするならば、
① 有揮快刀断乱麻者 =
① 有〔揮(快刀)断(乱麻)者〕⇒
① 〔(快刀)揮(乱麻)断者〕有=
① 〔(快刀を)揮って(乱麻を)断つ者〕有り。
然るに、
(12)
有=8=下
揮=3=二
快=1
刀=2=一
断=6=二
乱=4
麻=5=一
者=7=上
である。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① 有揮快刀断乱麻者 ⇒
① 快刀を揮って乱麻を断つ者有り。
といふ「漢文訓読」に付く、「順番・返り点・括弧」は、
① 8 3 1 2 6 4 5 7 
① 下 二 一 二 一 上
① 〔 (   )(   ) 〕
である。
cf.

従って、

(12)(13)により、
(14)
① 8 3 1 2 6 4 5 7 ⇒
① 1 2 3 4 5 6 7 8。
といふ「ソート(並び替へ)」に付く、「返り点・括弧」は、
① 下 二 一 二 一 上
① 〔 (   )(   ) 〕
である。
cf.






然るに、
(15)
① 有 揮 快 刀 断 乱 麻 者。
① 8 3  2 6  5 7。
に於いて、
① 快= と、
① 乱= を、「入れ替へる」と、
② 有 揮 乱 刀 断 快 麻 者。
② 8 3  2 6  5 7。
然るに、
(16)
② 8 3 4 2 6 1 5 7=
② 8〈3〔4[2(6{1)〕]5}7〉。
に於いて、
② 2( )⇒( )2
② 3〔 〕⇒〔 〕3
② 4[ ]⇒[ ]4
② 6{ }⇒{ }6
② 8〈 〉⇒〈 〉8
とするならば、
② 8 3 4 2 6 1 5 7=
② 8〈3〔4[2(6{1)〕]5}7〉⇒
② 〈〔[({1)2〕3]45}67〉8=
② 1 2 3 4 5 6 7 8。
である。
然るに、
(09)(10)により、
(17)
① 〔( )(  )〕
は、「括弧」であるが、
② 〈〔[({ )〕]}〉
は、「括弧」ではない。
然るに、
(18)
② 有 揮 乱 刀 断 快 麻 者。
② 8 3 4 2 6 1 5 7。
に付く「返り点」は、
② 八 三 四 二 六 一 五 七
である。
cf.



然るに、
(19)
「返り点」は、「縦書き」であれば、「下から、上へ、返る、点」であって、それ故、
「返り点」は、「横書き」であれば、「右から、左へ、返る、点」である。
従って、
(18)(19)により、
(20)
② 三 → 四 → 五
といふ「順番」を含む、
② 八 三 四 二 六 一 五 七
といふ「それ」は、実際には、「返り点」ではない。
従って、
(15)(17)(18)(20)により、
(21)
② 有 揮 乱 刀 断 快 麻 者。
② 8 3 4 2 6 1 5 7。
に対しては、「返り点・括弧」を、付けることが、出来ない。
然るに、
(22)
① 有揮快刀断乱麻者 ⇒
① 快刀を揮って乱麻を断つ者有り。
である以上、
② 有揮乱刀断快麻者 ⇒
② 乱刀を揮って快麻を断つ者有り。
でなければ、ならない。
cf.

従って、

(21)(22)により、
(23)
② 有揮乱刀断快麻者 ⇒
② 快刀を揮って乱麻を断つ者有り。
に対しては、「返り点・括弧」を、付けることが、出来ないものの、固より、
② 有揮乱刀断快麻者 ⇒
② 快刀を揮って乱麻を断つ者有り。
といふ「漢文訓読」自体が、有り得ない。
然るに、
(24)
① 8 3  2 6  5 7。
の場合は、
① B<C>A & B=A+1
といふ「順番」を含んでゐないものの、
 と、
 を、「入れ替へ」た「結果」として、
② 8 3  2 6  5 7。
の場合は、
② 3<>2 & 3=2+1
といふ「形」で、
② B<C>A & B=A+1
といふ「順番」を、含んでゐる。
然るに、
(25)
② B<C>A & B=A+1
である以上、
② B(CA)⇒
② (CA)B=
② C A B
とした上で、
② B(C〔A)〕⇒
② (〔A)B〕C=
② A B C
と、せざるを得ず、尚且つ、
② (〔 )〕は、
② ({ )}と同様に、「括弧」ではない。
従って、
(21)(23)(25)により、
(26)
② 有揮乱刀断快麻者 ⇒
② 乱刀を揮って快麻を断つ者有り。
の場合は、固より、「漢文訓読」ではなく、尚且つ、
② B<C>A & B=A+1
といふ「順番」を含むが故に、「返り点・括弧」を、付けることが、出来ない。
従って、
(26)により、
(27)
③ 4 2<3>1   & 2=1+1
④ 2<5 3>1 4 & 2=2+1
といふ「順番」に対しては、「返り点・括弧」を、付けることが、出来ない。
従って、
(28)
③ 只管要[纏(擾〔我)〕]⇒
③ 只管[(〔我)纏〕擾]要。
④ 端的看(不[出〔這婆子的本事)〕来]⇒
④ 端的([〔這婆子的本事)看〕出来]不。
といふ「括弧」と、
③ 下 二 上 一
④ 二 五 三 一 四
といふ「返り点」は、「漢文訓読」といふ「観点」からすれば、デタラメである。
cf.

(29)

幼稚園児から見たら、
ROOMAJI DE KAKARE TA NIHONGO HA EIGO TO KAWRANAI YOUNI MIERU HAZU DEARU.
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③ 只管要纏擾我。
④ 端的看不這婆子的本事来。
といふ「白話文(中国語)」が、「漢文」でないのは、
ROOMAJI が、「英語」でないことと、同じことである。
cf.
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、
訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア:漢文)。
平成28年01月13日、毛利太。