2016年5月28日土曜日

返り点と括弧と補足構造。

―「05月26日の記事」を書き直します。―
(01)

従って、
(01)により、
(02)
① 有備無患。
② 人不学不知道。
③ 聞鳥啼。
④ 聞鳥啼梅樹。
⑤ 聞鳥啼梅樹声。
⑥ 如揮快刀断乱麻。
⑦ 欲得備学徳者友之。
⑧ 求以解英文法解漢文。
⑨ 略定秦地。
⑩ 取捨選択書物。
(日験、漢文の基礎、1985年、11・12頁。旺文社、漢文の基礎、1973年、20・21頁)
に対して、
① レ レ
② レ レ レ
③ 二 一
④ 三 二 一
⑤ 下 二 一 上
⑥ 下 二 一 中 上
⑦ 乙 下 二 一 上 甲レ
⑧ 丙 下 二 一 上 乙 甲
⑨ 二‐ 一
⑩ 二‐ 三‐ 一
といふ「返り点」を与へることは、
① 有備無患。
② 人不学不知道。
③ 聞鳥啼。
④ 聞鳥啼梅樹。
⑤ 聞鳥啼梅樹声。
⑥ 如揮快刀断乱麻。
⑦ 欲得備学徳者友之。
⑧ 求以解英文法解漢文。
⑨ 略‐定秦地。
⑩ 取‐捨‐選‐択書物。
に対して、
① 2143
② 132654
③ 312
④ 51423
⑤ 614235
⑥ 7312645
⑦ 85312476
⑧ 953124867
⑨ 3‐412
⑩ 3‐45‐612
といふ「数字」を与へることに、等しい。
然るに、
(03)
⑨ 略‐定
⑩ 取‐捨‐選‐択
のやうな「熟語」の場合は、
⑨「二字」で「一語」であって、
⑩「四字」で「一語」である。
従って、
(03)により、
(04)
「字(Letter)の数」ではなく、「語(Word)の数」からすれば、、
⑨ 3‐412
⑩ 3‐45‐612
は、両方とも、
⑨ 312
⑩ 312
である。
(05)
123456789
は、「一桁の、九個の数字」であるとする。
従って、
(06)
⑧ 9[5〔3(12)4〕8(67)]。
に於いて、
⑧ 9の右側にあって、9より小さい数は[53124867]である。
⑧ 5の右側にあって、5より小さい数は〔3124〕である。
⑧ 3の右側にあって、3より小さい数は(12)である。
⑥ 8の右側にあって、8より小さい数は(67)である。
従って、
(06)により、
(07)
⑧ 9[5〔3(12)4〕8(67)]。
に於いて、
3( )⇒( )3
5〔 〕⇒〔 〕5
8( )⇒( )8
9[ ]⇒[ ]9
といふ「倒置」を行ふならば、必然的に、
⑧ [〔(12)34〕5(67)8]9=
⑧ 1<2<3<4<5<6<7<8<9。
といふ「ソート(並べ替へ)」が成立する。
従って、
(01)(02)(07)により、
(08)
⑧ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]=
⑧ 9[5〔3(12)4〕8(67)]。
に於いて、
3( )⇒( )3
5〔 〕⇒〔 〕5
8( )⇒( )8
9[ ]⇒[ ]9
といふ「倒置」を行ふならば、
⑧ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]=
⑧ 9[5〔3(12)4〕8(67)]⇒
⑧ [〔(12)34〕5(67)8]9=
⑧ [〔(英文)解法〕以(漢文)解]求=
⑧ [〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求む。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(01)~(08)により、
(09)
① 有(備)無(患)。
② 人不(学)不〔知(道)〕。
③ 聞(鳥啼)。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
⑤ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑥ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑦ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑧ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
⑨ 略‐定(秦地)。
⑩ 取‐捨‐選‐択(書物)。
に対する「ソート(並べ替へ)」として、
① (備へ)有れば(患ひ)無し。
② 人(学ば)不れば〔(道を)知ら〕不。
③ (鳥の啼くを)聞く。
④ 〔鳥の(梅樹に)啼くを〕聞く。
⑤ 〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞く。
⑥ 〔(快刀を)揮って(乱麻を)断つが〕如し。
⑦ [〔(学徳を)備ふる者を〕得て(之を)友とせんと]欲す。
⑧ [〔(英文を)解するを法〕以て(漢文を)解せんことを]求む。
⑨ (秦の地を)略‐定す。
⑩ (書物を)取‐捨‐選‐択す。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(01)(09)により、
(10)
① 有備無患。
② 人不学不知道。
③ 聞鳥啼。
④ 聞鳥啼梅樹。
⑤ 聞鳥啼梅樹声。
⑥ 如揮快刀断乱麻。
⑦ 欲得備学徳者友之。
⑧ 求以解英文法解漢文。
⑨ 略‐定秦地。
⑩ 取‐捨‐選‐択書物。
に対して、
① 2143
② 132654
③ 312
④ 51423
⑤ 614235
⑥ 7312645
⑦ 85312476
⑧ 953124867
⑨ 3‐412
⑩ 3‐45‐612
といふ「数字」を与へることは、
① ( )( )。
② ( )〔( )〕。
③ ( )。
④ 〔( )〕。
⑤ 〔( )〕。
⑥ 〔( )( )〕。
⑦ [〔( )〕( )]。
⑧ [〔( )〕( )]。
といふ「括弧」を与へることに、等しい。
従って、
(02)(10)により、
(11)
① 有備無患。
② 人不学不知道。
③ 聞鳥啼。
④ 聞鳥啼梅樹。
⑤ 聞鳥啼梅樹声。
⑥ 如揮快刀断乱麻。
⑦ 欲得備学徳者友之。
⑧ 求以解英文法解漢文。
⑨ 略‐定秦地。
⑩ 取捨選択。
に対して、
① レ レ
② レ レ レ
③ 二 一
④ 三 二 一
⑤ 下 二 一 上
⑥ 下 二 一 中 上
⑦ 乙 下 二 一 上 甲レ
⑧ 丙 下 二 一 上 乙 甲
⑨ 二‐ 一
⑩ 二- 三‐ 一
といふ「返り点」を与へることは、
① ( )( )。
② ( )〔( )〕。
③ ( )。
④ 〔( )〕。
⑤ 〔( )〕。
⑥ 〔( )( )〕。
⑦ [〔( )〕( )]。
⑧ [〔( )〕( )]。
といふ「括弧」を与へることに、等しい。
然るに、
(12)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、二九六頁)
従って、
(09)(12)により、
(13)
① 有(備)無(患)。
② 人不(学)不〔知(道)〕。
③ 聞(鳥啼)。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
⑤ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑥ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑦ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑧ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
⑨ 略‐定(秦地)。
⑩ 取‐捨‐選‐択(書物)。
に於ける、
①  ( ) ( )
②   ( ) 〔 ( )〕
③  (  )
④  〔  (  )〕
⑤  〔  (  ) 〕
⑥  〔 (  ) (  )〕
⑦  [ 〔 (  ) 〕 ( )]
⑧  [ 〔 (  ) 〕 (  )]
⑨    (  )
⑩        (  )
といふ「括弧」は、
① 有備無患。
② 人不学不知道。
③ 聞鳥啼。
④ 聞鳥啼梅樹。
⑤ 聞鳥啼梅樹声。
⑥ 如揮快刀断乱麻。
⑦ 欲得備学徳者友之。
⑧ 求以解英文法解漢文。
⑨ 略定秦地。
⑩ 取捨選択書物。
といふ「漢文自体」の「補足構造」である。
然るに、
(14)
例へば、
⑦ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
であれば、
⑦「欲す」の「補語(目的語)」は、
⑦[得〔備(学徳)者〕友(之)]の「全体」であって、「一部」ではない。
従って、
(15)
⑦ 欲得備学徳者友之。
に於いて、
⑦ 欲 といふ 語 は、
⑦  得備学徳者友之。に係ってゐる。
然るに、
(16)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である。管到の「管」は「領(おさめる)」の意味とほぼ同じと考えてよい。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、三八九頁)
従って、
(13)~(16)により、
(17)
① 有(備)無(患)。
② 人不(学)不〔知(道)〕。
③ 聞(鳥啼)。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
⑤ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑥ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑦ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑧ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
⑨ 略‐定(秦地)。
⑩ 取‐捨‐選‐択(書物)。
に於ける、
①  ( ) ( )
②   ( ) 〔 ( )〕
③  (  )
④  〔  (  )〕
⑤  〔  (  ) 〕
⑥  〔 (  ) (  )〕
⑦  [ 〔 (  ) 〕 ( )]
⑧  [ 〔 (  ) 〕 (  )]
⑨    (  )
⑩        (  )
といふ「括弧」は、
① 有備無患。
② 人不学不知道。
③ 聞鳥啼。
④ 聞鳥啼梅樹。
⑤ 聞鳥啼梅樹声。
⑥ 如揮快刀断乱麻。
⑦ 欲得備学徳者友之。
⑧ 求以解英文法解漢文。
⑨ 略定秦地。
⑩ 取捨選択書物。
といふ「漢文」の「補足構造」で、尚且つ、「補足構造」とは「管到」である。
然るに、
(18)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁)
従って、
(11)(16)(17)(18)により、
(19)
① Yǒubèiwúhuàn.
② Rén bù xué bù zhīdào.
③ Wén niǎo tí.
④ Wén niǎo tí méi shù.
⑤ Niǎo tí méi shù shēng.
⑥ Rú huī kuàidāo duàn luànmá.
⑦ Yù dé bèi xuédé zhě yǒuzhī.
⑧ Qiú yǐ jiě yīngwén fǎ jiě hànwén.
⑨ È dìng qín de.
⑩ Qǔshě xuǎnzé shūwù.
といふ風に、「中国漢字音」で「音読」するにせよ、
① イウビムカン。
② ジンフツガクフツチトウ。
③ ブンチョウテイ。
④ ブンチョウテイバイジュ。
⑤ ブンチョウテイバイジュセイ。
⑥ ジョキカイタウタンランマ。
⑦ ヨクトクビガクトクシャイウシ。
⑧ キウイカイエイブンハフカイカンブン。
⑨ リャクテイシンチ。
⑩ シュシャセンタクショブツ。
といふ風に、「日本漢字音」で「音読」するにせよ、いづれにせよ、中国の某君がさう述べてゐるやうに、
① 有(備)無(患)。
② 人不(学)不〔知(道)〕。
③ 聞(鳥啼)。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
⑤ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑥ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑦ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑧ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
⑨ 略‐定(秦地)。
⑩ 取‐捨‐選‐択(書物)。
といふ、「括弧(管到・返り点)」に関する「知識」、すなはち、「訓読の知識」は必要である。
然るに、
(20)
① 有備無患。
② 人不学不知道。
③ 聞鳥啼。
④ 聞鳥啼梅樹。
⑤ 聞鳥啼梅樹声。
⑥ 如揮快刀断乱麻。
⑦ 欲得備学徳者友之。
⑧ 求以解英文法解漢文。
⑨ 略定秦地。
⑩ 取捨選択書物。
といふ「漢文」を、「日本漢字音」で「音読」するだけであれば、中学生であっても、可能である。
従って、
(19)(20)により、
(21)
「漢文」を「訓読」ではなく、「音読」で学ぶためには、「訓読」を用ゐずに「漢文の文法(語法)」を説明してゐる「教科書」が、必要である。
然るに、
(22)
わたくしは前著『支那語教育の理論と実践』で、日本がこれまでおこなったてきた漢文教育がやがて終焉をつげ、支那語教育がこれに代わることを予言もし主張もした(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、139頁)とは言ふものの、「漢文訓読」のための「書籍」は、数多くある一方で、「漢文音読」のための「書籍」は、ネット上で探しても見つからないないし、図書館にもない。
従って、
(23)
「訓読」をせずに、「音読」だけで、「漢文を独習」しようとしても、固より、そのやうな「環境」は、日本には無い。
従って、
(24)
いくら中国語の先生が、「漢文」は、「訓読」ではなく、「音読」で学習すべきである。と述べたところで、「独学」である限り、「漢文訓読」以外に、「漢文を学ぶ術」は無い。
平成28年05月28日、毛利太。
 -「関連サイト」-
(A)『括弧』と『返り点』と「白話文」。:http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_34.html
(B)『括弧・返り点』の研究(Ⅱ)。  :http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_24.html
(C)『括弧・返り点』の研究(Ⅲ)。  :http://kannbunn.blogspot.com/2016/05/blog-post_5.html
(D)「返り点」を完璧に説明します。  :http://kannbunn.blogspot.com/2016/03/blog-post_31.html

2016年5月27日金曜日

漢文は中国語である?

(01)
伝統的な文言文とは異なり、白話で書かれた文章は訓読には適さない。たとえば、元代に作られた『孝経』の口語訳を見てみよう。「原文(文言文)」で「曾子曰、敢問聖人之徳、無以加於孝乎(曾子曰く、敢えて問う 聖人の徳、以て孝に加うること無きか)」というところが、当時の口語訳(白話文)では「曾子問、孔子道聖人行的事、莫不更有強如孝道的勾當麽」となり、「孝莫大於厳父、厳父莫大於配天(孝は父を厳ぶより大なるは莫く、父を厳ぶは天に配するよりは大なるは莫し)」というところが、白話訳では、 「孝的勾當都無大似的父親的、敬父親的勾當便似敬天一般」となっている。両者の違いは一目瞭然であろう(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、311・312頁)。
従って、
(01)により、
(02)
① 敢問聖人之徳、  無以加於孝乎。      孝莫大於厳父、      厳父莫大於配天。
② 孔子道聖人行的事、莫不更有強如孝道的勾當麽。孝的勾當都無大似的父親的、敬父親的勾當便似敬天一般。
に於いて、
① は、「訓読」に適した 「文言文( 漢文 )」であり、
② は、「訓読」に適さない「白話文(中国語)」であって、両者の違いは一目瞭然である。
然るに、
(03)
① 孝莫大於厳父。
に於いて、
莫=無し
厳=尊ぶ
従って、
(03)により、
(04)
① 孝莫大於厳父=
① 孝無大於尊父=
① 孝莫{大[於〔尊(父)〕]}⇒
① 孝{[〔(父)尊〕於]大}莫=
① 孝は{[〔(父を)尊ぶ〕より]大なるは}無し=
① 孝行は、父親を尊重することが、一番大切なことである。
然るに、
(05)
原則的にひとつの音節にひとつの漢字でうつしたものが文言であり、それでは目で読めても、耳でききわけにくいため、ひとつの音節に別の音節を付属させたのが白話である(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、165頁)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 孝無大於尊父。
の「音節」に、「別の音節」を付属させたものが、
② 孝的勾當都無大似的父親的。
である。といふことになる。
然るに、
(07)
① 孝    無 大於尊 父。
② 孝的勾當都無 大似的 父親的。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① 孝    無 大於尊 父。
といふ「文言文」では目で読めても、耳でききわけにくいため、
②   的勾當都      親的
という別の音節が付属し、
①               於尊 が、
②               似的 に替はった結果が、
② 孝的勾當都無 大似的 父親的。
といふ「白話文」である。
然るに、
(09)
② 孝的勾當都無 大似的 父親的。
に於ける、
②  的勾當都   似的  親的
といふ「部分」は、「漢文(文言文)」としては、「意味をなさない」。
(10)
ひとつの音節にひとつの漢字でうつしたものが文言であり、それでは目で読めても、耳でききわけにくい。
と言はれても、
ひとつの音節にひとつの漢字では、目で読めても、耳でききわけにくい。
といふ「説明」は、どのやうな場合を想像すれば良いのかが、分らない。
(11)
③ 今は昔、竹取の翁といふものありけり(竹取物語、10世紀)。
④ 今は昔、竹取の翁というものがいたそうだ(現代文)。
⑤ ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず(方丈記、13世紀)。
⑥ ゆく河の流れは絶えることがなく、しかももとの水ではない(現代文)。
であれば、
古文といい現代文といい、それはおなじ日本語であって、元来ひとつのものである。
と言はれても、違和感はない。、
(12)
① 敢問聖人之徳、  無以加於孝乎。      孝莫大於厳父、      厳父莫大於配天。
② 孔子道聖人行的事、莫不更有強如孝道的勾當麽。孝的勾當都無大似的父親的、敬父親的勾當便似敬天一般。
であるにも拘はらず、
文言といい白話といい、それはおなじ中国語であって、元来ひとつのものである(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、165頁)。
といふ言ひ方には、納得が出来ない。
(13)
元代に作られた『孝経』の口語訳を見てみよう。
といふことであれば、
② 孔子道聖人行的事、莫不更有強如孝道的勾當麽。孝的勾當都無大似的父親的、敬父親的勾當便似敬天一般。
といふ「白話」は、むしろ、「漢字で書かれたモンゴル語(のやうな言語)」であっても、ヲカシクは無い。
(14)
ドイツ語といい英語といい、それはおなじゲルマン語であって、元来ひとつのものである。が故に、
ドイツ語を読もうとするならば、英語が読めるやうにならなければならない。といふことには、ならない。
従って、
(15)
文言といい白話といい、それはおなじ中国語であって、元来ひとつのものである。
といふ言ひ方は、詭弁であると、思はれる。
平成28年05月27日、毛利太。
 ―「関連サイト」―
『括弧』と『返り点』と「白話文」。:http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_34.html

2016年5月26日木曜日

返り点と括弧と補足構造。

―「この記事」は書き直します。―
(01)

従って、
(02)
① 有備無患。
② 人不学不知道。
③ 聞鳥啼。
④ 聞鳥啼梅樹。
⑤ 聞鳥啼梅樹声。
⑥ 如揮快刀断乱麻。
⑦ 欲得備学徳者友之。
⑧ 求以解英文法解漢文。
に対して、
① レ レ
② レ レ レ
③ 二 一
④ 三 二 一
⑤ 下 二 一 上
⑥ 下 二 一 中 上
⑦ 乙 下 二 一 上 甲レ
⑧ 丙 下 二 一 上 乙 甲
といふ「返り点」を与へることは、
① 有備無患。
② 人不学不知道。
③ 聞鳥啼。
④ 聞鳥啼梅樹。
⑤ 聞鳥啼梅樹声。
⑥ 如揮快刀断乱麻。
⑦ 欲得備学徳者友之。
⑧ 求以解英文法解漢文。
に対して、
① 2143
② 132654
③ 312
④ 51423
⑤ 614235
⑥ 7312645
⑦ 85312476
⑧ 953124867
といふ「数字」を与へることに、等しい。
然るに、
(03)
⑧ 953124867
といふ「九個の数字」に於いて、
⑧ 9の右側にあって、9より小さい[数字]は[53124867]である。
⑧ 5の右側にあって、5より小さい〔数字〕は〔3124〕である。
⑧ 3の右側にあって、3より小さい(数字)は(12)である。
⑧ 1の右側にあって、1より小さい「数字」は無い。
⑧ 2の右側にあって、2より小さい「数字」は無い。
⑧ 4の右側にあって、4より小さい「数字」は無い。
⑧ 8の右側にあって、8より小さい(数字)は(67)である。
⑧ 6の右側にあって、6より小さい数字は無い。
⑧ 7の右側に、数字はない。
従って、
(03)により、
(04)
⑧ 9[5〔3(12)4〕8(67)]。
である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 2(1)4(3)。
② 13(2)6〔5(4)〕。
③ 3(12)。
④ 5〔14(23)〕。
⑤ 6〔14(23)5〕。
⑥ 7〔3(12)6(45)〕。
⑦ 8[5〔3(12)4〕7(6)]。
⑧ 9[5〔3(12)4〕8(67)]。
である。
然るに、
(03)により、
(06)
⑧ 9[5〔3(12)4〕8(67)]。
に於いて、
3( )⇒( )3
5〔 〕⇒〔 〕5
8( )⇒( )8
9[ ]⇒[ ]9
といふ「倒置」を行ふならば、必然的に、
⑧ [〔(12)34〕5(67)8]9=
⑧ 1<2<3<4<5<6<7<8<9。
といふ「ソート(並べ替へ)」が成立する。
従って、
(01)(02)(06)により、
(07)
⑧ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]=
⑧ 9[5〔3(12)4〕8(67)]。
に於いて、
3( )⇒( )3
5〔 〕⇒〔 〕5
8( )⇒( )8
9[ ]⇒( )9
といふ「倒置」を行ふならば、
⑧ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]=
⑧ 9[5〔3(12)4〕8(67)]⇒
⑧ [〔(12)34〕5(67)8]9=
⑧ [〔(英文)解法〕以(漢文)解]求=
⑧ [〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求む。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① 有(備)無(患)。
② 人不(学)不〔知(道)〕。
③ 聞(鳥啼)。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
⑤ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑥ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑦ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑧ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
に対して、
① (備へ)有れば(患ひ)無し。
② 人(学ば)不れば〔(道を)知ら〕不。
③ (鳥の啼くを)聞く。
④ 〔鳥の(梅樹に)啼くを〕聞く。
⑤ 〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞く。
⑥ 〔(快刀を)揮って(乱麻を)断つが〕如し。
⑦ [〔(学徳を)備ふる者を〕得て(之を)友とせんと]欲す。
⑧ [〔(英文を)解するを法〕以て(漢文を)解せんことを]求む。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(09)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、二九六頁)
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 有(備)無(患)。
② 人不(学)不〔知(道)〕。
③ 聞(鳥啼)。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
⑤ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑥ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑦ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑧ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
に於ける、
①  ( ) ( )
②   ( ) 〔 ( )〕
③  (  )
④  〔  (  )〕
⑤  〔  (  ) 〕
⑥  〔 (  ) (  )〕
⑦  [ 〔 (  ) 〕 ( )]
⑧  [ 〔 (  ) 〕 (  )]
といふ「括弧」は、
① 有備無患。
② 人不学不知道。
③ 聞鳥啼。
④ 聞鳥啼梅樹。
⑤ 聞鳥啼梅樹声。
⑥ 如揮快刀断乱麻。
⑦ 欲得備学徳者友之。
⑧ 求以解英文法解漢文。
といふ「漢文自体」の「補足構造」である。
然るに、
(11)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である。管到の「管」は「領(おさめる)」の意味とほぼ同じと考えてよい。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、三八九頁)
然るに、
(12)
例へば、
⑦ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
であれば、
⑦「欲す」の「目的語(補語)」は、
⑦[得〔備(学徳)者〕友(之)]の「全体」であって、「一部」ではない。
従って、
(13)
⑦ 欲得備学徳者友之。
に於いて、
⑦ 欲 といふ 語 は、
⑦ 得備学徳者友之。に係ってゐる。
従って、
(10)(11)(13)により、
(14)
① 有(備)無(患)。
② 人不(学)不〔知(道)〕。
③ 聞(鳥啼)。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
⑤ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑥ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑦ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑧ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
に於ける、「括弧」は、「補足構造」であって、尚且つ、「補足構造」とは「管到」である。
然るに、
(15)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁)。
従って、
(14)(15)により、
(16)
① 有(備)無(患)。
② 人不(学)不〔知(道)〕。
③ 聞(鳥啼)。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
⑤ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑥ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑦ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑧ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
といふ「管到(補足構造)」を、「把握」出来ない場合は、中国の某君がさうであるやうに、中国人であっても、
① 有備無患。
② 人不学不知道。
③ 聞鳥啼。
④ 聞鳥啼梅樹。
⑤ 聞鳥啼梅樹声。
⑥ 如揮快刀断乱麻。
⑦ 欲得備学徳者友之。
⑧ 求以解英文法解漢文。
といふ「漢文」は読めない。といふことになる。
従って、
(16)により、
(17)
① Yǒubèiwúhuàn.
② Rén bù xué bù zhīdào.
③ Wén niǎo tí.
④ Wén niǎo tí méi shù.
⑤ Niǎo tí méi shù shēng.
⑥ Rú huī kuàidāo duàn luànmá.
⑦ Yù dé bèi xuédé zhě yǒuzhī.
⑧ Qiú yǐ jiě yīngwén fǎ jiě hànwén.
といふ風に、「音読」するにせよ、
① イウビムカン。
② ジンフツガクフツチトウ。
③ ブンチョウテイ。
④ ブンチョウテイバイジュ。
⑤ ブンチョウテイバイジュセイ。
⑥ ジョキカイトウタンランマ。
⑦ ヨクトビガクガクトクシャイウシ。
⑧ キウイカイエイブンハフカイカンブン。
といふ風に、「日本漢字音」で「音読」するにせよ、いづれにせよ、
① 有(備)無(患)。
② 人不(学)不〔知(道)〕。
③ 聞(鳥啼)。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
⑤ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑥ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑦ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑧ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
といふ、「括弧」に関する「知識」、すなはち、「訓読の知識」は必要である。
加へて、
(18)
わたくしは前著『支那語教育の理論と実践』で、日本がこれまでおこなったてきた漢文教育がやがて終焉をつげ、支那語教育がこれに代わることを予言もし主張もした(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、139頁)とは言ふものの、「漢文訓読」のための「書籍」は、数多くある一方で、「漢文音読」のための「書籍」は、ネット上で探しても見つからないないし、図書館にもない。
従って、
(19)
「訓読」をせずに、「音読」だけで、「漢文を独習」しようとしても、固より、そのやうな「環境」は、日本には無い。
従って、
(20)
いくら中国語の先生が、「漢文」は、「訓読」ではなく、「音読」で学習すべきである。と述べたところで、「独学」である限り、「漢文訓読」以外に、「漢文を学ぶ術」は無い。
平成28年05月26日、毛利太。
 ―「関連サイト」―
(A)『括弧』と『返り点』と「白話文」。:http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_34.html
(B)『括弧・返り点』の研究(Ⅱ)。  :http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_24.html
(C)『括弧・返り点』の研究(Ⅲ)。  :http://kannbunn.blogspot.com/2016/05/blog-post_5.html
(D)「返り点」を完璧に説明します。  :http://kannbunn.blogspot.com/2016/03/blog-post_31.html

2016年5月24日火曜日

(完了の助動詞としての)矣。

(01)
① 用此観之、然則人之性悪明矣。
① 此を用て之を観れば、然らば則ち人の性の悪なること明らかなり。
このことから考えてみると、そうだとすれば、人間の本性が悪であることは明らかである。
(教学社、風呂で覚える漢文、平成10年、100頁)
に於いて、
① 人之性悪明矣。
① 人間の本性が悪であることは明らかである。
といふのは、「見解」である。
(02)
しかるに「矣」は自ら信ずるところを特に強く表示したり、またこれを主張する必要がある場合の口気を写すものあり、その確言のしかたは直覚であり。感情的であり、強くかつ鋭い。国語では「~であることはいうまでもない「~にちがいない」といような気持ちを含めて訳せば、その意に近い。
(中澤希男・澁谷玲子、漢文訓読の基礎、昭和60年、86頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 人之性悪明矣。
① 人の性の悪なること明らかなり。
に於ける「矣」は、「自ら信ずるところを特に強く主張してゐる」。
といふ風に、見なすことが出来る。
然るに、
(04)
② 不幸短命死矣。
② 不幸短命にして死せり。
② 不幸にも短命で死んでしまった(論語)。
に於いて、
② 不幸短命死矣。
② 不幸にも短命で死んでしまった。
といふのは「見解」ではなく、「事実」である。
cf.
死せ(サ変・未然)り(完了)。
従って、
(05)
① 人之性悪明矣(人の性の悪なること明らかなり)。
② 不幸短命死矣(不幸にも短命で死んでしまった)。
に於ける、
① 矣(信ずるところを強く主張する)。
② 矣。
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、成り立たない。
然るに、
(06)
* 矣 完了の助字。「~してしまった」
(三省堂、明解古典学習シリーズ16 論語 孟子、昭和48年、71頁)
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 人之性悪明矣(人の性の悪なること明らかなり)。
② 不幸短命死矣(不幸にも短命で死んでしまった)。
に於いて、
① 矣(信ずるところを強く主張する)。
② 矣(完了を表す)。
といふことになる。
(08)
③ 并力西向、秦必破矣。
③ 力を并せて西に向かはば、秦必ず破れん。
③ 協力して西へ向かうならば、秦の国はきっと破れるに違いない。
(鳥羽田重直、漢文の基礎、昭和50年、17頁)
③ 并力西向、秦必破矣。
③ 協力して西へ向かうならば、秦の国はきっと破れるに違いない。
に於ける「矣」は、「自ら信ずるところを特に強く主張してゐる」。
といふ風に、見なすことが出来る。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① 人之性悪明矣(人の性の悪なること明らかなり)。
② 不幸短命死矣(不幸にも短命で死んでしまった)。
③ 并力西向、秦必破矣(協力して西へ向かうならば、秦の国はきっと破れるに違いない)。
に於いて、
① 矣(信ずるところを強く主張する)。
② 矣(完了を表す)。
③ 矣(信ずるところを強く主張する)。
といふことになる。
然るに、
(10)
① 人の性の悪なること明らかなり。
② 不幸にも短命で死んでしまった。
③ 秦の国はきっと破れるに違いない。
に於いて、「時制」としては、
①(現在)
②(完了)
③(未来)
である。
しかしならがら、
(11)
② 矣(完了)ではあっても、
① 矣(現在)であるわけでも、
③ 矣(未来)であるわけではない。
すなはち、
(12)
「矣」が表し得る「時制」は「完了」であるため、当然ではあるが、「矣」自体が、「現在」や「未来」を表すことはない。
平成28年05月24日、毛利太。

2016年5月23日月曜日

(助動詞としての)矣・焉。

(01)
* 嘗・曽(かつテ・~したことがある)
* 已・既(すでニ・~してしまった)
漢文には過去や完了を表す助動詞にあたるものがなく、このような副詞で表している。
然るに、
(02)
* 矣 完了の助字。「~してしまった」
(三省堂、明解古典学習シリーズ16 論語 孟子、昭和48年、71頁)
従って、
(03)
(01)と(02)は、「矛盾」する。
然るに、
(04)
吾恐他人又見、已埋之矣。
吾れ他人の又見んことを恐れて、已に之を埋めたり。
わたくしは他の人がまたこの蛇を見てはいけないと思って、もう土の中に埋めてしまいました。
(昇龍堂、重要漢文単語文例精解、昭和43年、2頁)
に於いて、
埋め(連用形)+たり(終止形)。
の「たり」は、たり〔完了の助動詞〕(古語林、平成9年、844頁)である。
従って、
(02)(04)により、
(05)
吾恐他人又見、已埋之矣。
吾れ他人の又見んことを恐れて、已に之を埋めたり。
である以上、
矣=完了(の助動詞)
である。とする方が、分りやすい。
(06)
已矣乎=ヤンヌルカナと読み、どうにも仕方がない、もはやこれまでだと、断念や絶望を示す語。「已む」に「矣」という断定、「乎」という感嘆の終尾詞がついてできたもの。
(多久弘一、多久の漢文公式110、昭和63年、64頁)
然るに、
(07)
な に ぬ ぬる ぬれ ね
ぬ〔完了の助動詞〕(古語林、平成9年、1024頁)
従って、
(02)(06)(07)により、
(08)
已                      矣                    乎。
終はっ         てしまった      なあ。
やん(連用形・撥音便)+ぬる(完了・連体形)+かな(終助詞・詠嘆)。
に於いて、
矣=断定(の助動詞)
とするよりも、
矣=完了(の助動詞)
とする方が、分りやすい。
(09)
まず、「焉」であるが、一番カッコヨクいいきる感じで、大阪弁でいえば、「テナモンヤ」と意気高揚した感じである。私は関西人であるので、大阪弁以外の方言はよくわからない。各地に、こういう高揚したときのいいかたがあるに違いない。自分でそういう語に翻訳して考えてほしい。「矣」は「焉」と違って、キッとなっていいきる感じである(二畳庵主人、漢文法基礎、昭和59年、新版、157頁)。
(10)
「焉」は「此」「是」「之」、ことに「之」に近く、しばしば通用される。また「於之」「於是」とも通じ、「ここニ」「これヨリ」などともよまれる。
(中澤希男・澁谷玲子、漢文訓読の基礎、昭和60年、87頁)
(11)
焉 状態の確乎たる持続を示す助字。読まない。
(三省堂、明解古典学習シリーズ16 論語 孟子、昭和48年、130頁)
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
① 焉≒「テナモンヤ」と意気高揚した感じで「言い切る」。
② 焉=「代名詞」、「ここニ」「これヨリ」などともよまれる。
③ 焉=状態の確乎たる持続を示す助字。
といふ、少なくとも、「三つの、焉」が、有ることになる。
然るに、
(13)
先世避秦時乱率妻子邑人来此絶境、不復出焉。
先世秦時の乱を避けて、妻子邑人を率ゐて此の絶境に来たり、復た出でず。
自分たちの祖先が秦の時代の戦乱をさけて妻子や村人を引きつれて、世の中から遠く離れたこの土地に来てそれきっりもう二度とこの土地から外へ出なかった。
(多久弘一、多久の漢文公式110、昭和63年、22頁)
然るに、
(14)
この場合、
① 不復出焉。
① 二度と出なかった、テナモンヤ。
といふことは、おそらく、ない。
(15)
② 不復出焉。
② 不復出於此。
② 二度とここヨリ出なかった。
といふ「解釈」は、有り得る。
(16)
③ 不復出焉。
に於ける「焉」は、
③ 二度と(ここから)出ない(まま、今日に至ってゐる)。
といふことから、
③ 二度と出ない。といふ「状態の確乎たる持続」を表してゐる。
といふ「解釈」も、有り得る。
然るに、
(17)
③ We have been in this land for 1000 years.
に於ける。
③ have
は、「(状態の持続を示す)助動詞」である。
従って、
(16)(17)により、
(18)
③ 不復出焉。
に於ける「焉」は、
③ 二度と出ない。
といふ「状態の持続」を表してゐる。
のであれば、この場合の「焉」は、「助動詞の一種」である。
といふ風にも、見なすことが出来る。
平成28年05月23日、毛利太。

2016年5月10日火曜日

「括弧」と「返り点」の違ひ。

(01)
「ルール」により、
(Ⅰ)囗の右側が、{[〔( と接してゐないならば、「普通に、読む」。
(Ⅱ)囗の右側が、{[〔( と接してゐる ならば、『より内側の「括弧」の中の囗』を「先に読む」。
従って、
(01)により、
(02)
① 1C〔2B(3A)〕。
であれば、
① 1C〔2B(3A)〕⇒
① 1〔2(3A)B〕C=
① 1 2 3 A B C。
の「順」で読む。
従って、
(02)により、
(03)
② 1D〔2B(3A)C〕。
であれば、
② 1D〔2B(3A)C〕⇒
② 1〔2(3A)BC〕D=
② 1 2 3 A B C D。
の「順」で読む。
従って、
(02)により、
(04)
① 我不〔常読(漢文)〕⇒
① 我〔常(漢文)読〕不=
① 我常には漢文を読ま不。
の「順」で読み、
(03)により、
(05)
② 我非〔常読(漢文)者〕⇒
② 我〔常(漢文)読者〕非=
② 我は常には漢文を読む者に非ず。
の「順」で読む。
然るに、
(06)

従って、
(06)により、
(07)
① 我不常読漢文=
① 我常には漢文を読ま不。
の「括弧・返り点」は、
① 〔 ( ) 〕
① 三 二 一
であって、
(08)
② 我非常読漢文者=
② 我は常には漢文を読む者に非ず。
の「括弧・返り点」は、
② 〔 ( ) 〕
② 下 二 一 上
である。
従って、
(04)~(08)により、
(09)
① 我不常読漢文。
② 我非常読漢文者。
に於いて、「括弧」は「同じである」ものの、「返り点」は「同じではない」。
然るに、
(05)により、
(10)
② 我非〔常読(漢文)0〕⇒
② 我〔常(漢文)読0〕非=
② 我は常には漢文を読む0に非ず。
の「順」で読む。
従って、
(04)(10)により、
(11)
① 我不〔常読(漢文)0〕⇒
① 我〔常(漢文)読〕不=
① 我常には漢文を読ま0不。
の「順」で読む。
従って、
(07)(08)(11)により、
(12)
① 我不常読漢文0=
① 我常には漢文を読ま0不。
の「括弧・返り点」は、
① 〔 ( ) 〕
① 三 二 一
ではなく、
① 〔 ( ) 〕
① 下 二 一 上
である。
然るに、
(13)
1+0+2+0=1+2
1+2=1+0+2+0
従って、
(13)により、
(14)
0は、有っても無いし、無くても有る。
従って、
(14)により、
(15)
① 我不常読漢文0=
① 我常には漢文を読ま0不。
であれば、
① 我不常読漢文=
① 我常には漢文を読ま不。
に「等しい」。
従って、
(12)(15)により、
(16)
① 我不常読漢文=
① 我常には漢文を読ま不。
の「括弧・返り点」は、
① 〔 ( ) 〕
① 三 二 一
ではなく、
① 〔 ( ) 〕
① 下 二 一 上
である。
従って、
(08)(16)により、
(17)
② 我非常読漢文者=
② 我は常には漢文を読む者に非ず。
だけでなく、
① 我不常読漢文=
① 我常には漢文を読ま不。
であっても、「括弧・返り点」は、
① 〔 ( ) 〕
① 下 二 一 上
である。
cf.

従って、
(14)(17)により、
(18)
0は、有っても無いし、無くても有る。
とするならば、
② 我非常読漢文者=
② 我は常には漢文を読む者に非ず。
だけでなく、
① 我不常読漢文=
① 我常には漢文を読ま不。
であっても、「括弧・返り点」は、
① 〔 ( ) 〕
① 下 二 一 上
である。
然るに、
(19)

従って、
(18)(19)により、
(20)
0は、有っても無いし、無くても有る。
とするならば、
{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
といふ「括弧」は、
地 乙 下 二 一 上 甲 天
といふ「返り点」に「等しい」。
然るに、
(21)

従って、
(20)(21)により、
(22)
0は、有っても無いし、無くても有る。
とするのが、 「括弧」 であって、
0は、有っても無いし、無くても有る。
としないのが、「返り点」である。
といふことになる。
然るに、
(23)
② 我非〔常読(漢文)0〕⇒
② 我〔常(漢文)読0〕非=
② 我は常には漢文を読むに非ず。
といふことは、「0」は「置き字(サイレント)」である。
といふことに、他ならない。
従って、
(24)
② 我非〔常読(漢文)〕⇒
② 我〔常(漢文)読〕非=
② 我は常には漢文を読むに非ず。
といふことは、「置き字(サイレント)」である「0」が「省略」されてゐる。
といふことに、他ならない。
平成28年05月12日、毛利太。
 ― 関連サイト ―
(A)『括弧』と『返り点』と「白話文」。:http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_34.html
(B)『括弧・返り点』の研究(Ⅱ)。  :http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_24.html
(C)『括弧・返り点』の研究(Ⅲ)。  :http://kannbunn.blogspot.com/2016/05/blog-post_5.html
(D)「返り点」を完璧に説明します。  :http://kannbunn.blogspot.com/2016/03/blog-post_31.html

2016年5月5日木曜日

『返り点・括弧』の研究(Ⅲ)。

(01)
じゃあ今の日本人って漢詩書けたりするの?
それは無理だろ。読めるのと書けるのは違うし、教育のベースは現代語での理解になるからな。昔の日本では中国語のテキストをそのまま使用していたし、「国語」ではなく「漢文」を教えていたからインテリ階級には漢詩を書ける人間が少なくなかったらしいが、現代の日本人にはほとんどいないはず(KINBRICS NOW)。
(02)
日本人が漢文を書く場合、漢文直訳体の日本語である漢文訓読は、有力な道具となり得る。まず頭のなかで漢文訓読体の日本語を思ひ浮かべ、それを漢文の語序にしたがって書く。次に、そうして書きあがった漢文を自分で訓読し、定型的な「句法」で訓読できない箇所はないか、返り点に無理はないか、などをチェックする。実際に漢詩・漢文を自分で書いてみればわかることだが、日本人が音読直読だけで純正漢文を書くことは、なかなかに難しい(そもそも漢文の音読直読ができる現代中国人でも、純正漢文が書ける者は少ない)。(勉誠出版、「訓読」論、2008年、265頁)
(03)
中國以北京語為國語矣。然、若北京語非漢文也。是以、中國語直読法雖盛、中華人民共和國語、不可以書中夏之書審矣。如日本之学生有欲能書漢文者、則宜以括弧学其管到。古、漢文之於日本語、猶古文之於日本語也。故、漢文亦日本語也。学中國語、莫若音読、学漢文、莫若以訓読学之。
(04)
中國以(北京語)為(國語)矣。然、
若(北京語)、非(漢文)也。是以、
中國語直読法雖(盛)中華人民共和國語不[可〔以書(中夏之書)〕]審矣。
如日本之学生有[欲〔能書(漢文)〕者]則宜〔以(括弧)学(其管到)〕。
古、漢文之於(日本語)、猶〔古文之於(日本語)〕也。故、漢文亦日本語也。
学(中國語)、莫〔若(音読)〕、学(漢文)、莫[若〔以(訓読)学(之)〕]。
(05)
中國は北京語を以て國語と為せり。然れども、
北京語の若きは漢文に非ざるなり。是を以て、
中國語直読法は盛んなりと雖も、中華人民共和國語は以て中華の書を書く可から不ること審かなり。
如し日本の学生に能く漢文を書かむと欲する者有らば則ち、宜しく括弧を以て其の管到を学ぶべし。
古へ、漢文の日本語に於けるや、猶ほ古文の日本語のごときなり。故に、漢文も亦た日本語なり。
中國語を学ぶは、音読に若くは莫く、漢文を学ぶは、訓読を以て之を学ぶに若くは莫し。
(06)
1=        (囗)
2=      (囗(囗))
3=    (囗(囗(囗)))
4=  (囗(囗(囗(囗))))
5=(囗(囗(囗(囗(囗)))))
であって、6 以上も、同様であるとする。
従って、
(07)
5は、4を 含んでゐて、
4は、3を 含んでゐて、
3は、2を 含んでゐて、
2は、1を 含んでゐる。
(08)
この時、
5は、4よりも、大きく、
4は、3よりも、大きく、
3は、2よりも、大きく、
2は、1よりも、大きい。
とし、同時に、
1は、2よりも、小さく、
2は、3よりも、小さく、
3は、4よりも、小さく、
4は、5よりも、小さい。
とする。
(09)
5は、4よりも、大きく、
4は、3よりも、大きく、
3は、2よりも、大きく、
2は、1よりも、大きい。
といふことを、
5>4>3>2>1
1<2<3<4<5
といふ風に書いて、「これらの数」を、『集合数』とする。
然るに、
(10)
1st、2nd、3rd、4th、5th、・ ・ ・ ・ ・
に於いて、
1番は、2番よりも、早く、
2番は、3番よりも、早く、
3番は、4番よりも、早く、
4番は、5番よりも、早く、
6番以降も、同様であるとする。
(11)
1番は、2番よりも、早く、
2番は、3番よりも、早く、
3番は、4番よりも、早く、
4番は、5番よりも、早い。
といふことを、すなはち、
5番は、4番よりも、遅く、
4番は、3番よりも、遅く、
3番は、2番よりも、遅く、
2番は、1番よりも、遅い。
といふことを、
1→2→3→4→5
5←4←3←2←1
といふ風に書いて、「これらの数」を、『順序数』とする。
従って、
(09)(11)により、
(12)
5 4 3 2 1
といふ「数字」は、
5>4>3>2>1
であるならば、『集合数』であって、
5←4←3←2←1
であるならば、『順序数』である。
加へて、
(13)
5 4 3 1 2
5 3 1 2 4
5 3 2 1 4
等の場合も、
5>4>3>2>1
であるならば、『集合数』であって、
5←4←3←2←1
であるならば、『順序数』であるとする。
(14)
 A=10
 B=11
 C=12
 D=13
 E=14
 F=15
10=16
であれば、「16進数」であるが、
 G=16
10=17
であるとする。
然るに、
(15)
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉
② 12G〈E{D[9〔7(3456)8〕C(AB)]}F〉
③ 1G〈E{D[9〔7(23456)8〕C(AB)]}F〉
④ G〈E{D[9〔7(123456)8〕C(AB)]}F〉
に於いて、「これらの数」は、『集合数』であるとする。
従って、
(06)~(15)により、
(16)
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉
② 12G〈E{D[9〔7(3456)8〕C(AB)]}F〉
③ 1G〈E{D[9〔7(23456)8〕C(AB)]}F〉
④ G〈E{D[9〔7(123456)8〕C(AB)]}F〉
に於いて、四つとも、
G〈  〉 の中の「全ての数」は、G よりも小さく、
E{  } の中の「全ての数」は、E よりも小さく、
D[ ] の中の「全ての数」は、D よりも小さく、
9〔 〕 の中の「全ての数」は、9 よりも小さく、
7( ) の中の「全ての数」は、7 よりも小さく、
C( ) の中の「全ての数」は、C よりも小さい。
然るに、
(17)
② 1 2 G E D 9 7 3 4 5 6 8 C A B F
③ 1 G E D 9 7 2 3 4 5 6 8 C A B F
④ G E D 9 7 1 2 3 4 5 6 8 C A B F
ではなく、
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F
に於いて、
G〈  〉 の中の「全ての数」は、G よりも小さく、
E{  } の中の「全ての数」は、E よりも小さく、
D[ ] の中の「全ての数」は、D よりも小さく、
9〔 〕 の中の「全ての数」は、9 よりも小さく、
7( ) の中の「全ての数」は、7 よりも小さく、
C( ) の中の「全ての数」は、C よりも小さい。
とするのであれば、
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉
といふ「一通り」しか、有り得ない。
然るに、
(18)
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉
に対して、
① 12〈{3[〔(456)78〕9(AB)C]D}EF〉G
であれば、
〈  〉G の中の「全ての数」は、G よりも小さく、
{  }E の中の「全ての数」は、E よりも小さく、
[ ]D の中の「全ての数」は、D よりも小さく、
〔 〕9 の中の「全ての数」は、9 よりも小さく、
( )7 の中の「全ての数」は、7 よりも小さく、
( )C の中の「全ての数」は、C よりも小さい。
従って、
(15)(18)により、
(19)
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉
といふ『集合数』に於いて、
G〈  〉⇒〈 〉G
E{  }⇒{ }E
D[ ]⇒[ ]D
9〔 〕⇒〔 〕9
7( )⇒( )7
C( )⇒( )C
といふ「倒置」を行へば、
① 12〈{3[〔(456)78〕9(AB)C]D}EF〉G=
① 1→2→3→4→5→6→7→8→9→A→B→C→D→E→F→G
といふ『順序数』が、実現する。
然るに、
(20)
① 中野有不必求以解中國語法解漢文者=
① 中野有〈不{必求[以〔解(中國語)法〕解(漢文)]}者〉
に於いて、
有〈  〉⇒〈 〉有
不{  }⇒{ }不
求[ ]⇒[ ]求
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
解( )⇒( )解
といふ「倒置」を行へば、
① 中野有不必求以解中國語法解漢文者=
① 中野有〈不{必求[以〔解(中國語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
① 中野〈{必[〔(中國語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
① 中野に〈{必ずしも[〔(中國語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉有り。
といふ「漢文訓読」が、実現する。
従って、
(19)(20)により、
(21)
① 中野有不必求以解中國語法解漢文者=
① 中野有〈不{必求[以〔解(中國語)法〕解(漢文)]}者〉=
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉⇒
① 12〈{3[〔(456)78〕9(AB)C]D}EF〉G=
① 中野〈{必[〔(中國語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
① 中野に〈{必ずしも[〔(中國語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉有り。
といふ「漢文訓読」が、実現する。
然るに、
(22)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治、中國語と漢文、1975年、二九六頁)。
従って、
(20)(21)により、
(23)
① 中野有〈不{必求[以〔解(中國語)法〕解(漢文)]}者〉=
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉⇒
① 12〈{3[〔(456)78〕9(AB)C]D}EF〉G=
① 中野〈{必[〔(中國語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
① 中野に〈{必ずしも[〔(中國語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉有り。
に於ける、
①〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
①〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
といふ「括弧」は、
① 中野有不必求以解中國語法解漢文者。
といふ「漢文」の、「補足構造」であって、
① 中野に必ずしも中國語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者有り。
といふ「国語」の、「補足構造」である。
然るに、
(17)により、
(24)
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F
であれば、「括弧」は、
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉
といふ「一通り」しか、有り得ない。
従って、
(23)(24)により、
(25)
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者。
といふ「漢文」に対して、
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F。
といふ『集合数』を与へることは、
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者。
といふ「漢文」に対して、
①〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
といふ「括弧」を与へることに、「等しい」。
然るに、
(26)
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者。
といふ「漢文」に対して、
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F。
といふ『集合数』を与へることは、
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者。
といふ「漢文」に対して、
① 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
といふ「返り点」を与へることに、「等しい」。
従って、
(25)(26)により、
(27)
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者。
といふ「漢文」に対して、
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F。
といふ『集合数』を与へることは、
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者。
といふ「漢文」に対して、
① 地{丁{丙[下〔二(一)上〕乙(甲)]}天}
といふ「括弧・返り点」を与へることに、「等しい」。
cf.

従って、
(13)(23)(27)により、
(28)
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者=
① 中野有〈不{必求[以〔解(中國語)法〕解(漢文)]}者〉=
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉⇒
① 12〈{3[〔(456)78〕9(AB)C]D}EF〉G=
① 中野〈{必[〔(中國語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
① 中野に〈{必ずしも[〔(中國語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉有り。
といふ「漢文訓読」に於いて、
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F。
といふ「数字」を、『集合数』と見なした場合、「これらの数字」は、「漢文の補足構造」を表してゐて、その一方で、
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F。
といふ「数字」を、『順序数』と見なした場合、「これらの数字」は、「漢文訓読の順番」を表してゐる。
従って、
(28)により、
(29)
① 中野有〈不{必求[以〔解(中國語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「漢文」を、
① 中野に〈{必ずしも[〔(中國語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉有り。
といふ風に、「訓読」した場合も、
①〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
①〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
といふ「補足構造(シンタックス)」自体に、「変はり」はない。
然るに、
(30)
(青木)二百年前、正徳の昔に於て荻生徂徠は夙に道破した。漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ。教うるに俗語を以てし、誦するに支那音を以てし、訳するに日本の俗語を以てし、決して和訓廻環の読み方をしてはならぬ。先ず零細な二字三字の短句から始めて、後には纏った書物を読ませる、斯くて支那語が熟達して支那人と同様になつてから、而る後段々と経子史集四部の書を読ませると云う風にすれば破竹の如しだ、是が最良の策だ(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(倉石)徂徠は、単に唐音を操るといふ様なことに満足せず、漢文を学ぶには先ず支那語からとりかり、支那の俗語をば支那語で暗誦させ、これを日本語の俗語に訳し、決して和訓の顚倒読みをしてはならない、始めは零細な二字三字の句から始めて、遂に纏った書物を読ます、支那語が支那人ほど熟達してから、古い書物を読ませば、破竹の勢いで進歩すると説いたこれは、今日の様に外国語に対する理念が発達した時代から見れば、何の不思議もないことであるが、その当時、つとに、かかる意見を吐いたのは、たしかに一世に抜きんでた見識に相違ない(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(31)
予嘗為(蒙生)定(学問之方法)、先為(崎陽之学)、教以(俗語)、誦以(華音)、訳以(此方俚語)、絶不〔作(和訓廻環之読)〕、始以(零細者)、二字三字為(句)、後使[読〔成(書)者〕]}、崎陽之学既成、乃始得〔為(中華人)〕、而後稍稍読(経子史集四部書)、勢如(破竹)、是最上乗也 ⇒
予嘗(蒙生)為(学問之方法)定、先(崎陽之学)為、教(俗語)以、誦(華音)以、訳(此方俚語)以、絶〔(和訓廻環之読〕作〕不、始(零細者)以、二字三字(句)為、後[〔(書)成者〕読]使、崎陽之学既成、乃始〔(中華人)為〕得、而後稍稍(経子史集四部書)読、勢(破竹)如、是最上乗也 =
予嘗て(蒙生の)為に(学問の方法を)定め、先ず(崎陽の学を)為し、教ふるに(俗語を)以てし、誦ずるに(華音を)以てし、訳するに(此の方の俚語を)以てし、絶へて〔(和訓廻環の読みを〕作さ〕ず、始めは(零細なる者を)以て、二字三字(句と)為し、後に[〔(書を)成す者を〕読ま]使めば、崎陽の学既に成り、乃ち始めて〔(中華の人)為る〕得、而る後に稍稍(経子史集四部書を)読まば、勢ひ(破竹の)如く、是れ最上の乗なり。
(荻生徂徠、訳文筌蹄)
然るに、
(32)
読むべき漢籍の文字列はあくまで「中華言語」のものであり、それを「此方言語」のシンタックスに従って読む(「和訓廻環之読」)のでは、通じているようでいて、じつは無理が有る(「雖若可通、実為牽強」)。
(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、17・18頁)
従って、
(30)(31)(32)により、
(33)
「荻生徂徠、青木正兒、倉石武四郎」先生の立場では、「語順が異なれば、シンタックスの異なる」が故に、例へば、
② 不有人而不死=
② 不[有〔人而不(死)〕]=
② 6[5〔124(3)〕]⇒
② [〔12(3)4〕5]6=
② [〔人而(死)不〕有]不=
② [〔人にして(死せ)ざるは〕有ら]ず。
といふ風に、「漢文訓読(和訓廻環之読)」をしてゐる限りは、「通じているようでいて、じつは無理が有る(「雖若可通、実為牽強」)」。
といふことになる。
然るに、
(34)
命題計算は一種の言語であり、そういうものとして、その文法、あるいはより限定して言えば、シンタックス(syntax)がある(E.J.レモン著 竹尾 治一郎・浅野 楢英 (翻訳)、論理学初歩、1973年、54頁)。対象が有限集合の場合は述語論理も命題論理に還元できます(吉永良正、ゲーデル・不完全性定理、1992、201頁)。
従って、
(34)により、
(35)
③ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
③ 8{77[2(1)36〔5(4)〕]}⇒
③ {[(1)23〔(4)5〕6]77}8=
③ {[(x)人&〔(x)死〕~]∃x}~=
③ {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうなxは存在し}ない。
といふ「述語論理訓読」に於ける、
③ { [ ( )〔 ( ) 〕 ] }
③ { [ ( )〔 ( ) 〕 ] }
といふ「括弧」は、
③ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}
といふ「述語論理」の「シンタックス」を、表してゐる。
然るに、
(36)
「記号」などというものは歴史的経緯や何やらの「人間的な事情」に依存して決まっている便宜的なものにすぎず、数学の本質そのものではない。そして、現在一般的に使われている数学の記号は欧米起源のものなので、日本語とは「すれ違う」側面がある、というだけである。実際に、a+bの代わりに、日本語の「aとbを足す」という表現に応じて、ab+という記号で足し算を表しても支障はない。「ab+なんて思いっきりヘン」と感じるかもしれないが、それは「慣れていないだけ」である。その証拠に、ab+のような「日本語の語順に応じた記号」の体系が構成されていて、それが有益であることが実証されている(中島匠一、集合・写像・論理、2012年、190頁)。
従って、
(35)(36)により、
(37)
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
② {[(x)人&〔(x)死〕~]∃x}~=
② {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうなxは存在し}ない。
といふ「等式」は、「論理的には、完全に正しい」。
従って、
(37)により、
(38)
③ 不有人而不死=
③ 不[有〔人而不(死)〕]=
③ [〔人而(死)不〕有]不=
③ [〔人にして(死せ)ざるは〕有ら]ず。
といふ「等式」は、「論理的には、完全に正しい」。
従って、
(33)~(38)により、
従って、
(39)
③ 不有人而不死。
③ 人にして死せざるは有らず。
の場合は、「語順は異なる」ものの、「論理的には、完全に等しい」。
然るに、
(40)
④ What are you doing now?=
④ What(are[you doing〔now)〕]?
④ ([you 〔now)What〕doing]are?=
④ ([あなたは〔今)何を〕して]ゐるか。
に於いて、
④ ( [ 〔 ) 〕 ]
④ ( [ 〔 ) 〕 ]
のやうな「それ」は、「括弧」とは言へない。
cf.
④ Are you now doing what?=
④ Are〔you now doing(what)〕?⇒
④ 〔you now(what)doing〕Are ?=
④ 〔あなたは 今(何を)して〕ゐるか。
cf.
WH移動、生成文法。
従って、
(40)により、
(41)
④ What are you doing now ?
④ あなたは今何をしてゐるか。
の場合は、「語順も、シンタックスも、異なってゐる」。
従って、
(39)(41)により、
(42)
③ 不有人而不死。
③ 人にして死せざるは有らず。
の場合は、「語順は、異なるが、シンタックスは等しく」、
④ What are you doing now ?
④ あなたは今何をしてゐるか。
の場合は、「語順も、シンタックスも、異なってゐる」。
従って、
(42)により、
(43)
「語順が異なれば、シンタックスも異なる」が故に、「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。のであれば、「語順が異なってゐるからと言って、シンタックスの異なる、とは限らない。」といふことを、指摘したい。
(44)
② ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
に対する「英語」は、
② There is not an x such that x is a man and x doesn't die.
である。
然るに、
(45)
② ~{∃x=
② Not there is an x such that
であるため、
② there is(Not)an x such that x is a man and x doesn't die.
に対して、
② { [ ( )〔 ( ) 〕 ] }
といふ「括弧」が付くことは無い。
従って、
(37)(45)により、
(46)
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}
② There is not an x such that x is a man and x doesn't die.
② {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうなxは存在し}ない。
に於いて、「述語論理のシンタックス」と「訓読のシンタックス」は、「共通」である。一方で、「述語論理のシンタックス」と「英語のシンタックス」は、「共通」ではない。
加へて、
(47)
記号論理学は、英語などヨーロッパ語を母国語とする文化圏でもっぱら開発された学門であるにもかかわらず、論理学者の母語よりも日本語のような外国語の文法に合致している部分が少なくない(もちろん逆もある)。このことは、論理学が、ローカルな日常言語ではなく原‐言語的な普遍論理をかなり再現しおおせている証しと言えるだろう(三浦俊彦、ラッセルのパラドックス、2005年、105頁)。
従って、
(37)(47)により、
(48)
「漢文のシンタックス」であっても、「中國語のシンタックス」よりも、「日本語のシンタックス」との「類似性」が大きいとしても、そのことを以て、「不自然」であるとすることは、出来ない。
従って、
(37)(38)(45)(48)により、
(49)
荻生徂徠の「やり方」は、
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}
といふ「述語論理」を、
② ナット イグズイスト エックス マン エックス アンド ナット ダイ エックス.
といふ風に「音読」して、
② There is not an x such that x is a man and x doesn't die=
といふ「意味」であるとし、その上で、
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
② {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうなxは存在し}ない。
といふ風に「理解」する。といふ場合に、「喩へる」ことが出来る。
(50)
少数の天才的なひとたちあるいは秀才たちは、返り点・送り仮名をつけなくとも正確な漢文の理解に至るであろう。李氏朝鮮の儒学のレベルの高さはそういう少数の秀才や天才に負うものである。・・・・・・しかし大多数のコリア人にとって、シナの古典は近づき難い高峰であった」(渡辺昇一、『英文法を撫でる』PHP新書)
返り点・送り仮名をつけて訓読みすることが「日本人として徹底的にわかることを意味する」というところに私は大きな衝撃を受けた。それに対して韓国でそのまま外国語として音読みし、翻訳して意味を理解する道をとった(呉善花、漢字廃止で韓国に何が起きたか、2008年、89・90頁)。ただ残念なことに、日本のような漢文訓読法がなかった朝鮮では、純正漢文を読めたのは上流知識人に限られた。読書層は日本にくらべると薄く、朝鮮の対日認識は限定的なものにとどまった。極論すれば、漢文訓読法をもてなかったことが、朝鮮が近代において日本に圧倒されるようになった遠因の一つとなった(加藤徹、漢文の素養、2006年、199頁)。
従って、
(30)(31)(50)により、
(51)
「荻生徂徠、青木正兒、倉石武四郎」先生たちの「主張」は、天才や秀才であることを普通の人間に求めてゐる。といふ風に、言へないことも無い。
いづれにせよ、
(30)(31)により、
(52)
(徂徠)崎陽之学既成、乃始得為中華人、而後稍稍読経子史集四部書、勢如破竹、是最上乗也 =
(青木)斯くて支那語が熟達して支那人と同様になつてから、而る後段々と経子史集四部の書を読ませると云う風にすれば破竹の如しだ、是が最良の策だ。
従って、
(53)
右のやうな「徂徠の節」が「正しい」のであれば、「支那語(中國語)」が出来る中國人が「漢文」を学ぶ際の「勢い」は、「破竹の如し」といふことになる。
従って、
(52)(53)により、
(54)
「漢文」は、普通の中國人にとって、「少しも難しくない」。といふことになる。
従って、
(55)
「漢文」は、普通の中國人にとって、「少しも難しくない」。といふことは、ない。
といふのであれば、「徂徠の説」は、端的に言って、「ウソ(事実誤認)」である。
平成05月05日、毛利太。
  ― 関連サイト ―
(01)『括弧』と『返り点』と「白話文」。 :http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_34.html
(02)『括弧・返り点』の研究(Ⅱ)。   :http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_24.html
(03)「返り点」を完璧に説明します。   :http://kannbunn.blogspot.com/2016/03/blog-post_31.html
(04)「返り点」と「括弧」と「補足構造」。:http://kannbunn.blogspot.com/2016/05/blog-post_39.html