(01)
数学でいうところの関数とは、例えばx2+3xからxを取り除いた部分のことである。
y=x2+3x
という方程式において、( )2+3( )の部分は関数、xは項、xがどのような数であるかによってyは変わる。
(宗宮喜代子、ルイス・キャロルの意味論、2001年、61・62頁)
従って、
(01)により、
(02)
y=(x)2+3(x)
然るに、
(03)
y=[(x)2+〔3(x)〕]
とする。
然るに、
(04)
y=[(x)2+〔3(x)〕]
に於いて、
3( )→( )3
+〔 〕→〔 〕+
=[ ]→[ ]=
といふ「移動」を行ふと、
y[(x)2〔(x)3〕+]= ⇔
yは[(x)の2乗に〔(xの)3倍を〕加へた値に]等しい。
といふ「関数訓読」が、成立する。
然るに、
(05)
y=x2+3x
といふ「関数」は、
yはxの2乗にxの3倍を加へた値に等しい。
といふ、「意味」である。
然るに、
(06)
y=x2+3x
を「英語」で読むならば、
y equals x squared plus 3 times x.
であると、思はれる。
従って、
(05)(06)により、
(07)
y=x2+3x
といふ「関数」は、
y equals x squared plus 3 times x.
yはxの2乗にxの3倍を加へた値に等しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(08)
現代中国語がしゃべれないような人は本当は漢文は読めないんです(Webサイト)。
といふ、「意見」が有る。
然るに、
(09)
現代英語がしゃべれような人は、
y=x2+3x
といふ「関数」は、本当は読めないんです。
といふ人は、ゐないものと、思はれる。
然るに、
(10)
「数式」と「漢文(文学)」は、一緒にはならない。
従って、
(11)
「数式の訓読」は、「可」であるが、「漢文の訓読」は、「不可」である。
といふことは、有り得ないことでは、ない。
然るに、
(12)
「何故」かは、分からないないものの、「漢文の名文」は、「訓読(日本語)」で読んだとしても、「名文」である。
例へば、
(13)
「出帥の表」は、古今の名文とされ、読む人の心を打ち続けてきた(守屋洋、中国古典の名文集、2003年、70頁)。
「諸葛孔明の出帥表を読んで涙を落さざる者は、その人必ず不忠ならん。」(三省堂、明解古典学習シリーズ20、1973、17頁)
従って、
(08)(13)により、
(14)
現代中国語がしゃべれないような人は本当は漢文は読めないんです。
といふことは、さて置くとして、いづれにせよ、例へば、「諸葛孔明の出帥表」等の「名文」は、「日本語(訓読)」で読んでも、「涙を禁じ得ない」といふことだけは、「事実」である。
平成29年02月27日、毛利太。
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