(01)
原文にありながら、訓読に際して読まない字を「置き字」(捨て字・虚字)という。置き字には、前置詞・接続詞・週尾辞・語気詞があり、文の調子を整えたり、意味を強めたり、補ったり、接続などのはたらきがある。
(鳥羽田重直、漢文の基礎、1985年、14頁)
(02)
① 良薬苦二於口一=
① 良薬苦(於口)⇒
① 良薬(於口)苦=
① 良薬は(口に)苦し。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 良薬苦(於口)。
に於いて、
①「於=に」は、「置き字」である。
然るに、
(04)
② 良薬苦レ於レ口=
② 良薬苦〔於(口)〕⇒
② 良薬〔(口)於〕苦=
② 良薬は〔(口)に〕苦し。
従って、
(01)(04)により、
(05)
② 良薬苦〔於(口)〕。
に於いて、
②「於=に」は、「置き字」ではない。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
①「於(に)」を、「返り点」が付かないならば、
①「於(に)」は、「置き字」であって、
②「於(に)」を、「返り点」が付くならば、
②「於(に)」は、「置き字」ではない。
然るに、
(07)
告二汝於朕志一。
なお「於」字は、置いたり置かれなかったりして一定していないし、いつどういうときに置くという規則もない。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、40頁)
従って、
(07)により、
(08)
④ 告二汝於朕志一=汝に朕の志を告ぐ。
⑤ 告二汝 朕志一=汝に朕の志を告ぐ。
に於いて、
④ は「正しく」、
⑤ も「正しい」。
従って、
(08)により、
(09)
④ 告二汝於朕志一=汝に朕の志を告ぐ。
ではなく、
⑤ 告二汝 朕志一=汝に朕の志を告ぐ。
であれば、
⑤「於(を)」が無いにも拘はらず、
⑤「於(を)」といふ「字」を「読んでゐる」。
(10)
日本語は、テニヲハを伴わねば文を成さないのに対して、中国語は「助字」を伴わなくとても、文を成し得る。あってもなくともよい。
たとえば、
学んで之を習う。人知らずして慍まず。
は必ずしも、
学而時習之、
人不知而不慍、
と表現される必要はない。かりに而を省略して、
学時習之、
人不知不慍、
であったとしても、文を成し得る。意味の伝達のためだけならば、それでよい。
(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、47・48頁)
然るに、
(11)
⑥ 学而時習レ之=学びて時に之を習ふ。
ではなく、
⑦ 学 時習レ之=学びて時に之を習ふ。
であれば、
⑦「而(て)」といふ「漢字」が、無いにも拘はらず、
⑦「而(て)」といふ「漢字」を、「読んでゐる」。
(12)
「父母之年」の「之」の字に至っては、一そう必須ではない。
であったとしても、文を成し得る。意味の伝達のためだけならば、それでよい。
(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、48頁)
従って、
(13)
⑧ 父母之年=父母の年。
ではなく、
⑨ 父母 年=父母の年。
であれば、
⑨「之(の)」といふ「漢字」が、無いにも拘はらず、
⑨「之(の)」といふ「漢字」を、「読んでゐる」。
従って、
(06)~(13)により、
(14)
「訓読」は、「原文」に有る「漢字」を「読まない」ので、「不自然」である。
とするならば、
「漢文」は、「助字を書いたり、書かなかったりする」ので、「不自然」である。
とすべきである。
(15)
「也」と「矣」とは共に断定の終詞であるが、その用法にははっきりとした区別がある。「也」は断定をいっそう確言する口気を写すもので、訓読では、「~は~である」と訳せばほぼ合致する。「也」の確言のしかたはこのように説明であり、平板である。しかるに「矣」は自ら信ずるところを特に強く表示したり、またこれを主張する必要がある場合の口気を写すものあり、その確言のしかたは直覚であり。感情的であり、強くかつ鋭い。訓読では「~であることはいうまでもない「~にちがいない」といような気持ちを含めて訳せば、その意に近い。
(中澤希男・澁谷玲子、漢文訓読の基礎、昭和60年、86頁)
然るに、
(16)
感嘆符は元来の日本語の正書法にはない。俗に、強調文の最後に置かれる。全角では「!」と表現される。
(ウィキペディア:感嘆符)
従って、
(15)(16)により、
(17)
例へば、
⑩ 人之性悪明矣。
であれば、
⑩ 人の性の悪なること明らかなり。
ではなく、
⑩ 人の性の悪なること明らかなり!
に、似てゐる。
然るに、
(18)
例へば、
⑩ The human true character is evil!
であっても、
⑩ ザ ヒューマン トゥルー キャラクター イズ イヴィル エクスクラメーションマーク。
とは、読まない。
従って、
(01)(18)により、
(19)
⑩ The human true character is evil!
に於いて、
⑩ ! は「置き字」である。
(20)
句末にある「焉」は、「也」と同じく「断定」の終詞であるが、上文、もしくは上文の関係上連想しうる事柄を再示し、また暗示して、その意味を明瞭に力強く表現する働きがある。
(中澤希男・澁谷玲子、漢文訓読の基礎、昭和60年、86・87頁)
然るに、
(15)(20)により、
(21)
上文、もしくは上文の関係上連想しうる事柄を再示し、また暗示して、その意味を明瞭に力強く表現する働きがある。
といふ、「焉」の「解説」は、「也、矣」の「解説」よりも、分りにくい。
(22)
徂徠は、「也」は「ナリ」、「矣」は「ケル」、「焉」は「ケレ」となおしてみればよいと説明している。もっとも、荻生徂徠先生もいささか自身がなかったか、「適当とはいひがたけれども、かくもあらんか」とつけたしている。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、158頁)
然るに、
(23)
「古文」を読んでゐなければ、日本人であっても、「ナリ・ケル・ケレ」の「語感」は、分からない筈である。
平成29年02月02日、毛利太。
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