(01)
1 (1)~∃x[親(x)&~∃y〔子(yx)&愛(xy)〕] A
2 (2) ~[親(a)&~∃y〔子(ya)&愛(ay)〕] A
3 (3) ~[親(a)& ~〔子(ab)&愛(ab)〕] A
3 (4) ~親(a)∨ ~~〔子(ab)&愛(ab)〕 3ド・モルガンの法則
3 (5) ~親(a)∨ 〔子(ab)&愛(ab)〕 4DN
3 (6) 親(a)→ 〔子(ab)&愛(ab)〕 5含意の定義
3 (7) 親(a)→ ∃y〔子(ay)&愛(ay)〕 6EI
2 (8) 親(a)→ ∃y〔子(ay)&愛(ay)〕 237EE
1 (9) 親(a)→ ∃y〔子(ay)&愛(ay)〕 128EE
1 (ア) ∀x[親(x)→ ∃y〔子(xy)&愛(xy)〕] 9UI
(02)
1 (1) ∀x[親(x)→ ∃y〔子(yx)&愛(xy)〕] A
1 (2) 親(a)→ ∃y〔子(ya)&愛(ay)〕 1UE
3 (3) 親(a)→ 〔子(ba)&愛(ab)〕 A
4 (4) ∃x[親(x)&~∃y〔子(yx)&愛(xy)〕] A
5 (5) 親(a)&~∃y〔子(ya)&愛(ay)〕 A
6 (6) 親(a)& ~〔子(ba)&愛(ab)〕 A
6 (7) 親(a) 6&E
6 (8) ~〔子(ba)&愛(ab)〕 6&E
36(9) 〔子(ba)&愛(ab)〕 37MPP
36(ア) ~〔子(ba)&愛(ab)〕&
〔子(ba)&愛(ab)〕 89&I
3 (イ) ~[親(a)& ~〔子(ba)&愛(ab)〕] 6アRAA
3 (ウ) ~[親(x)&~∃y〔子(ya)&愛(ay)〕] イEI
3 (エ)~∃x[親(x)&~∃y〔子(yx)&愛(xy)〕] ウEI
1 (オ)~∃x[親(x)&~∃y〔子(yx)&愛(xy)〕] 23エEE
従って、
(01)(02)により、
(03)
① ~∃x[親(x)&~∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]
② ∀x[親(x)→ ∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]
に於いて、
①=② である。
然るに、
(04)
1(1)∃y〔愛(xy)&子(yx)〕 A
2(2) 愛(xb)&子(bx) A
2(3) 愛(xb) 2&E
2(4) 子(bx) 2&E
2(5) 子(yb)&愛(xb) 34&I
2(6)∃y〔愛(xy)&子(yx)〕 5EI
1(7)∃y〔愛(xy)&子(yx)〕 126EE
従って、
(03)(04)により、
(05)
① ~∃x[親(x)&~∃y〔愛(xy)&子(yx)〕]
② ∀x[親(x)→ ∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]
に於いて、
①=② である。
然るに、
(06)
① ~∃x[親(x)&~∃y〔愛(xy)&子(yx)〕]
に於いて、
① ~∃x[ ]⇒〔 〕 ~∃x
① 親( )⇒( )親
① ~∃x〔 〕⇒〔 〕 ~∃x
① 愛( )⇒( )愛
① 子( )⇒( )子
といふ「移動」を行ふと、
① ~∃x[親(x)&~∃y〔愛(xy)&子(yx)〕]⇒
① [(x)親&〔(xy)愛&(yx)子〕~∃y]~∃x=
① [(xは)親であって、尚且つ〔(xが)愛する、子である所の(yが)〕存在しないといふ]そのやうなxは存在しない。
といふ風に、「読む」ことになる。
(07)
② ∀x[親(x)→∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]。
に於いて、
② 親( )⇒( )親
② 子( )⇒( )子
② 愛( )⇒( )愛
といふ「移動」を行ふと、
② ∀x[親(x)→∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]⇒
② ∀x[(x)親→∃y〔(yx)子&(xy)愛〕]=
② 全てのxに於いて[(xが)親ならば、或る〔(yはxの)子であって、尚且つ(xはyを)愛す〕]。
といふ風に、「読む」ことになる。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① [(xは)親であって、尚且つ〔(xが)愛する、子である所の(yが)〕存在しないといふ]そのやうなxは存在しない。
② 全てのxに於いて[(xが)親ならば、或る〔(yはxの)子であって、尚且つ(xはyを)愛す〕]。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(09)
② 全てのxに於いて[(xが)親ならば、或る〔(yはxの)子であって、尚且つ(xはyを)愛す〕]。
といふことは、要するに、
② 親は皆、自分の子を愛す。
といふ「意味」である。
然るに、
(10)
① 無親而不愛其子=
① 無[親而不〔愛(其子〕]。
に於いて、
① 無[ ]⇒[ ]無
① 不〔 〕⇒〔 〕不
① 愛( )⇒( )愛
といふ「移動」を行ふと、
① 無[親而不〔愛(其子)〕]⇒
① [親而〔(其子)愛〕不]無=
① [親にして〔(其の子を)愛せ〕ざるは]無し=
① [親であって〔(自分の子供を)愛さ〕ない者は]ゐない。
といふ「訓読」が、成立する。
然るに、
(11)
① [親であって〔(自分の子供を)愛さ〕ない者は]ゐない。
といふことは、要するに、
① 親は皆、自分の子を愛す。
といふ「意味」である。
従って、
(05)~(11)により、
(12)
① 無[親而不〔愛(其子〕]。
① ~∃x[親(x)&~∃y〔愛(xy)&子(yx)〕]
② ∀x[親(x)→ ∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]
に於いて、
①=①=② である。
然るに、
(13)
① ~∃x[親(x)&~∃y〔愛(xy)&子(yx)〕]
② ∀x[親(x)→ ∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]
といふ「人工言語(数学語)」は、「何処の国の言葉」でもない。
cf.
② 全てのxに於いて、xが親 であるならば、或るyは、xの子供であって、尚且つ、xはyを愛す。
② 全てのxについて、xが合成数であるならば、或るyは、xの約数であって、尚且つ、1<y<x。
然るに、
(14)
中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。しからば、口語はAxByであるものを、文章語はABとつづめても、これはこれで完全な文となり得る。かくして記載語のABは、はじめから口語のAxByとは別のものとして発生し、存在したと思われる。かくして記載語ABが、口語AxByよりも簡潔な形であると意識されたとき、記載語は、簡潔な上にも簡潔な方向へと、みずからをねりあげていった(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁・60)。中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない(ウィキペディア)。
従って、
(14)により、
(15)
「白話(口語)」は「中国語」であるが、「漢文(文言)」は、「中国語」ではないため、「漢文」は、「何処の国の言葉」でもない。
従って、
(13)(15)により、
(16)
① 無[親而不〔愛(其子〕]。
① ~∃[親&不〔愛(其子〕]。
① ~∃x[親(x)&~∃y〔愛(xy)&子(yx)〕]
② ∀x[親(x)→ ∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]
に於いて、
①=①=①=② である所の、
① 無[親而不〔愛(其子〕]。
といふ「人工言語(漢文)」は、「何処の国の言葉」でもない。
然るに、
(17)
② ∀x[親(x)→ ∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]
といふ「論理式」を、
② 全てのxに於いて[(xが)親ならば、或る〔(yはxの)子であって、尚且つ(xはyを)愛す〕]。
といふ風に、「日本語」で、「日本語の語順」で「読んだ」としても、「誰からも、クレーム」は来ない。
然るに、
(18)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
従って、
(17)(18)により、
(18)
① 無[親而不〔愛(其子〕]。
① ~∃[親&不〔愛(其子〕]。
① ~∃x[親(x)&~∃y〔愛(xy)&子(yx)〕]
② ∀x[親(x)→ ∃y〔子(yx)&愛(xy)〕]
に於いて、
①=①=①=② である所の、
① 無[親而不〔愛(其子〕]。
といふ「漢文」は、「何処の国の言葉」でもない、「人工言語」であるとするならば、「どこの国に外国語(漢文)を母国語(日本語)の語順で読む国があろうか」といふ「批判」は、当らない。
平成29年09月13日、毛利太。
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