2020年8月17日月曜日

「必不仁」と「不必仁」の「述語論理」。

(01)
①  ∀x(Fx→ Gx)≡すべてxについて、xがFならば、xはGである。≡すべてのFはGである(全部肯定)。
②  ∀x(Fx→~Gx)≡すべてxについて、xがFならば、xはGでない。≡すべてのFはGでない(全部否定)。
③ ~∀x(Fx→ Gx)≡(すべてのFがGである。)といふわけではない(部分否定)。
④ ~∀x(Fx→~Gx)≡(すべてのFがGでない。)といふわけではない(部分肯定)。
然るに、
(02)
(a)
1(1) ∀x(Fx→ Gx) A
1(2)    Fa→~Ga  1UE
1(3)   ~Fa∨ Ga  2含意の定義
1(4)  ~(Fa&~Ga) 3ド・モルガンの法則
1(5)∀x~(Fx&~Gx) 4UI
1(6)~∃x(Fx&~Gx) 5量化子の関係
(b)
1(1)~∃x(Fx&~Gx) A
1(2)∀x~(Fx&~Gx) 1量化子の関係
1(3)  ~(Fa&~Ga) 1UE
1(4)   ~Fa∨ Ga  3ド・モルガンの法則
1(5)    Fa→ Ga  4ド・モルガンの法則
1(6) ∀x(Fx→~Gx) 5UI
従って、
(02)により、
① ∀x(Fx→ Gx)≡~∃x(Fx&~Gx)≡(Fであって、Gでないx)は存在しない≡GでないFは、存在しない(全部肯定)。
② ∀x(Fx→~Gx)≡~∃x(Fx& Gx)≡(Fであって、Gであるx)は存在しない≡GであるFは、存在しない(全部否定)。
然るに、
(03)
(c)
1 (1)~∀x(Fx→Gx) A
1 (2)∃x~(Fx→Gx) 1量化子の関係
 3(3)  ~(Fa→Ga) A
 3(4) ~(~Fa∨Ga) 3含意の定義
 3(5)   Fa&~Ga  4ド・モルガンの法則
 3(6)∃x(Fx&~Gx) 5EI
1 (7)∃x(Fx&~Gx) 136EE
(d)
1 (1)∃x(Fx&~Gx) A
 2(2)   Fa&~Ga  A
 2(3) ~(~Fa∨Ga) 2ド・モルガンの法則
 2(4)  ~(Fa→Ga) 3含意の定義
 2(5)∃x~(Fx→Gx) 4EI
1 (6)∃x~(Fx→Gx) 125EE
1 (7)~∀x(Fx→Gx) 6量化子の関係
従って、
(03)により、
(04)
③ ~∀x(Fx→ Gx)≡∃x(Fx&~Gx)≡(Fであって、Gでないx)が存在する≡GでないFが、存在する(部分否定)。
④ ~∀x(Fx→~Gx)≡∃x(Fx& Gx)≡(Fであって、Gであるx)が存在する≡GであるFが、存在する(部分肯定)。
従って、
(02)(04)により、
(05)
①  ∀x(Fx→ Gx)≡~∃x(Fx&~Gx)≡(Fであって、Gでないx)は存在しない≡GでないFは、存在しない(全部肯定)。
②  ∀x(Fx→~Gx)≡~∃x(Fx& Gx)≡(Fであって、Gであるx)は存在しない≡GであるFは、存在しない(全部否定)。
③ ~∀x(Fx→ Gx)≡ ∃x(Fx&~Gx)≡(Fであって、Gでないx)が存在する ≡GでないFが、存在する (部分否定)。
④ ~∀x(Fx→~Gx)≡ ∃x(Fx& Gx)≡(Fであって、Gであるx)が存在する ≡GであるFが、存在する (部分肯定)。
然るに、
(06)
「漢文の教科書」等で、取り上げられるのは、専ら、
②  ∀x(Fx→~Gx)≡~∃x(Fx& Gx)≡(Fであって、Gであるx)は存在しない≡GであるFは、存在しない(全部否定)。
③ ~∀x(Fx→ Gx)≡ ∃x(Fx&~Gx)≡(Fであって、Gでないx)が存在する ≡GでないFが、存在する (部分否定)。
である。
然るに、
(07)
② 勇者必不レ仁。⇔
② 勇者は必ず仁ならず。
といふことは、
② ∀x(勇者x→~仁x)⇔
② すべてのxについて(xが勇者であるならば、xは仁ではない)。
といふことに、他ならない。
(08)
③ 勇者不二必仁一。⇔
③ 勇者は必ずしも仁ならず。
といふことは、
③ ~∀x(勇者x→仁x)⇔
③ すべてのxについて(xが勇者であるならば、xは仁ではある)。といふわけではない。
といふことに、他ならない。
従って、
(07)(08)により、
(09)
② 勇者必不レ仁。 ≡ ∀x(勇者x→~仁x)≡~∃x(勇者x& 仁x)
③ 勇者不二必仁一。≡~∀x(勇者x→ 仁x)≡ ∃x(勇者x&~仁x)
といふ「等式」が、成立する。
令和02年08月17日、毛利太。

2020年8月16日日曜日

「世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。」の「述語論理」。

(01)
(ⅱ)
1(1)~{~∃x(伯楽x)& ∃y(千里馬y)} A
1(2) ~~∃x(伯楽x)∨~∃y(千里馬y)  1ド・モルガンの法則
1(3)  ~∃x(伯楽x)→~∃y(千里馬y)  2含意の定義
(ⅲ)
1(1)  ~∃x(伯楽x)→~∃y(千里馬y)  A
1(2) ~~∃x(伯楽x)∨~∃y(千里馬y)  1含意の定義
1(3)~{~∃x(伯楽x)& ∃y(千里馬y)} 2ド・モルガンの法則
(ⅲ)
1  (1) ~∃x(伯楽x)→~∃y(千里馬y) A
 2 (2)           ∃y(千里馬y) A
  3(3) ~∃x(伯楽x)           A
1 3(4)          ~∃y(千里馬y) 13MPP
123(5) ∃y(千里馬y)&~∃y(千里馬y) 24&I
12 (6)~~∃x(伯楽x)           35RAA
12 (7)  ∃x(伯楽x)           6DN
1  (8)  ∃y(千里馬y)→∃x(伯楽x)  27CP
(ⅳ)
1  (1)  ∃y(千里馬y)→∃x(伯楽x)  A
 2 (2)          ~∃x(伯楽x)  A
  3(3)  ∃y(千里馬y)          A
1 3(4)           ∃x(伯楽x)  13MPP
123(5)  ~∃x(伯楽x)&∃x(伯楽x)  24&I
12 (6) ~∃y(千里馬y)          35RAA
1  (7) ~∃x(伯楽x)→~∃y(千里馬y) 26CP
従って、
(01)により、
(02)
② ~{~∃x(伯楽x) & ∃y(千里馬y)}
③   ~∃x(伯楽x) →~∃y(千里馬y)
④    ∃y(千里馬y)→ ∃x(伯楽x)
に於いて、すなはち、
②{伯楽が存在せずして、千里の馬が存在する。}といふことはない。
③ 伯楽が存在しないならば、千里の馬も存在しない。
④ 千里の馬が存在するならば、伯楽も存在する。
に於いて、
②=③=④ である。
然るに、
(03)
③ 伯楽が存在しないならば、千里の馬も存在しない。
④ 千里の馬が存在するならば、伯楽も存在する。
といふことは、
③ 伯楽の存在が、千里馬の存在の、「必要条件」である。
④ 伯楽の存在が、千里馬の存在の、「必要条件」である。
といふことに、他ならない。
従って、
(02)(03)により、
(04)
② ~{~∃x(伯楽x)&∃y(千里馬y)}⇔
②{伯楽が存在せずして、千里の馬が存在する。}といふことはない。
といふ「命題」が「真」である。
といふことは、
③ 伯楽の存在が、千里馬の存在の、「必要条件」である。
といふことを、示してゐる。
然るに、
(05)
① 有二伯楽一、然後有二千里馬一⇔
① 伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。
といふことは、
③ 伯楽の存在が、千里馬の存在の、「必要条件」である。
といふことに、他ならない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 有二伯楽一、然後有二千里馬一。
② ~{~∃x(伯楽x)&∃y(千里馬y)}。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(07)
② ~{~∃x(伯楽x)&∃y(千里馬y)}。
の場合は、「正確」には、
② ~{~〔∃x(伯楽x)〕&∃y(千里馬y)}。
といふ風に、書くことになる。
然るに、
(08)
「~」は、「否定」であって、
「∃」は、「有る」である。
「&」は、「而」 である。
従って、
(07)(08)により、
(09)
② ~{~〔∃x(伯楽x)〕&∃y(千里馬y)}。
といふ「述語論理式」は、
② 無{不〔有x(伯楽x)〕而有y(千里馬y)}。
といふ風に、書くことが、出来る。
然るに、
(10)
「漢文」には、「変数(x、y)」が無い。
従って、
(09)(10)により、
(11)
② ~{~〔∃x(伯楽x)〕&∃y(千里馬y)}。
といふ「述語論理式」は、
② 無{不〔有(伯楽)〕而有(千里馬)}。
といふ「漢文」に、「相当」する。
然るに、
(12)
② 無不有伯楽而有千里馬=
② 無下不レ有二伯楽一而有中千里馬上=
② 無[不〔有(伯楽)〕而有(千里馬)]⇒
② [〔(伯楽)有〕不而(千里馬)有]無=
② [〔(伯楽)有ら〕ずして(千里馬)有る]無し=
② 伯楽がゐないのに、千里の馬がゐるといふことは無い。
従って、
(06)~(12)により、
(13)
① 有二伯楽一、然後有二千里馬一。
② 無[不〔有(伯楽)〕而有(千里馬)]。
に於いて、
①=② である。
従って、
(13)により、
(14)
① 世有二伯楽一、然後有二千里馬一。
② 無[世不〔有(伯楽)〕而有(千里馬)]。
に於いて、
①=② である。
従って、
(14)により、
(15)
「訓読」をすると、
①  世に(伯楽)有りて、然る後に(千里の馬)有り。
②[世に〔(伯楽)有ら〕不して(千里馬)有るは]無し。
に於いて、
①=② である。
令和02年08月16日、毛利太。

2020年8月15日土曜日

「兎不可復得(論理的)」と「不復返(非論理的)」。

(01)
P≡兎を得る。
Q≡兎を得る。
とする。
従って、
(01)により、
(02)
P&Q≡兎を得て、兎を得る。
従って、
(02)により、
(03)
P&Q≡兎を二度得る。
従って、
(03)により、
(04)
~(P&Q)≡(兎を二度得る)といふことはない。
然るに、
(05)
(ⅰ)
1  (1)~(P&Q)  A
 2 (2)  P     A
  3(3)    Q   A
 23(4)  P&Q   23&I
123(5)~(P&Q)&
       (P&Q)  14&I
12 (6)   ~Q   35RAA
1  (7) P→~Q   26CP
(ⅱ)
1  (1) P→~Q   A
 2 (2) P& Q   A
 2 (3) P      2&E
12 (4)   ~Q   13MPP
 2 (5)    Q   2&E
12 (6) ~Q&Q   45&I
1  (7)~(P&Q)  26RAA
従って、
(05)により、
(06)
① ~(P& Q)
②   P→~Q
に於いて、
①=② である。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
① ~(P& Q)≡(兎を二度得る)といふことはない。
②   P→~Q ≡(前に)兎を得ているならば、(次に)兎を得ることはない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(08)
 [二] 守株(韓非子)
① 宋人有 耕田者。
② 田中有株、兎走觸株、折頸而死。
③ 因釋其耒而守株、冀復得兎。
④ 兎不可復得、而身爲宋國笑。
従って、
(08)により、
(09)
「括弧」を加へると、
① 宋人有〔耕(田)者〕。
② 田中有(株)、兎走觸(株)、折(頸)而死。
③ 因釋(其耒)而守(株)、冀〔復得(兎)〕。
④ 兎不〔可(復得)〕、而身爲(宋國笑)。
従って、
(09)により、
(10)
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒( )□
といふ「移動」を行ふと、
① 宋人〔(田)耕者〕有。
② 田中(株)有、兎走(株)觸、(頸)折而死。
③ 因(其耒)釋而(株)守、〔復(兎)得〕冀。
④ 兎〔(復得)可〕不、而身(宋國笑)爲。
従って、
(10)により、
(11)
「平仮名」を加へると、
① 宋人に〔(田を)耕す者〕有り。
② 田中に(株)有り、兎走りて(株に)觸れ、(頸を)折りて死す。
③ 因りて(其の耒)釋て(株を)守り、〔復た(兎を)得んことを〕冀ふ。
④ 兎〔(復た得)可から〕ずして、身は(宋國の笑ひと)爲れり。
従って、
(07)~(11)により、
(12)
④ 兎不可復得=
④ 兎不〔可(復得)〕⇒
④ 兎〔(復た得)可から〕ず。
といふことは、
④ 一度目は、兎を得たが、二度目には、兎を得なかった。
といふことに、他ならない。
従って、
(12)により、
(13)
⑤ 不復返=
⑤ 不(復返)⇒
⑤ (復た返ら)ず=
⑤ 一度目は、返ったが、二度目には、返らなかった。
といふ、ことになる。
然るに、
(14)
崔顥の「黄鶴楼」詩の「黄鶴一去不二復返一」の場合は、
「前には一度返ったことがあるのか」と質問されると返答に窮し、「部分否定」とすることはできない。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、156頁改)
従って、
(13)(14)により、
(15)
⑤ 昔人已乗黄鶴去(昔人已に黄鶴に乗りて去り、)
⑤ 此地空餘黄鶴楼(此地空しく餘す黄鶴楼。)
⑤ 黄鶴一去不復返(黄鶴一たび去りて復た返らず。)
に於ける、
⑤ 黄鶴一去不復返(黄鶴一たび去りて復た返らず。)
の場合は、「理詰めで(論理的に)」考へれば、
⑤ 黄鶴一去、不返(黄鶴一たび去りて、返らず。)
でなければ、ならない。
従って、
(12)~(15)により、
(16)
④ 兎不可復得=
④ 兎不〔可(復得)〕⇒
④ 兎〔(復た得)可から〕ず。
といふ「漢文」は、「論理的」であるが、
⑤ 不復返=
⑤ 不(復返)⇒
⑤ (復た返ら)ず=
といふ「漢文」は、「論理的」ではない。
然るに、
(17)
「この副詞は、どういう意味なのか?」と理づめで考えても、わからない箇所も多い。漢文の原文を中国語で読むと、それらの字は、音読のリズムを作るための「字数稼ぎ」や「箸休め」であることも多い。
(加藤徹、白文攻略 漢文法ひとり学び、2013年、18頁改)
従って、
(16)(17)
(18)
昔人已乗黄鶴去(昔人已に黄鶴に乗りて去り、)
此地空餘黄鶴楼(此地空しく餘す黄鶴楼。)
黄鶴一去不復返(黄鶴一たび去りて復た返らず。)
白雲千載空悠悠(白雲千載空しく悠悠。)
晴川歴歴漢陽樹(晴川歴歴たり漢陽の樹。)
芳艸萋萋鸚鵡洲(芳艸萋萋たり鸚鵡洲。)
日暮郷関何處是(日暮郷関何れの處か是なる。)
煙波江上使人愁(煙波江上人をして愁へしむ。)
といふ「七言律詩」に於ける、
⑤ 不復返(復た返らず。)
といふ「漢文」を、「論理的」に「読解」しようとしも、「無駄」である。
令和02年08月15日、毛利太。

「全部否定」と「部分否定」。

(01)
(ⅱ)
1(1) ∀x(Fx→~Gx) A
1(2)    Fa→~Ga  1UE
1(3)   ~Fa∨~Ga  2含意の定義
1(4)  ~(Fa& Ga) 3ド・モルガンの法則
1(5)∀x~(Fx& Gx) 4UI
1(6)~∃x(Fx& Gx) 5量化子の関係
(ⅲ)
1(1)~∃x(Fx& Gx) A
1(2)∀x~(Fx& Gx) 1量化子の関係
1(3)  ~(Fa& Ga) 1UE
1(4)   ~Fa∨~Ga  3ド・モルガンの法則
1(5)    Fa→~Ga  4ド・モルガンの法則
1(6) ∀x(Fx→~Gx) 5UI
従って、
(01)により、
(02)
②  ∀x(Fx→~Gx)≡すべてのxについて(xがFならば、xはGでない)。
③ ~∃x(Fx& Gx)≡(Fであって、Gであるx)は存在しない。
に於いて、
②=③ である。
従って、
(02)により、
(03)
②  ∀x(馬x→~千理x)≡すべての馬は、千里ではない。
③ ~∃x(馬x& 千里x)≡千里の馬は存在しない。
然るに、
(04)
① 千里馬常不レ有≡千里の馬は、常に有らず。
従って、
(03)(04)により、
(05)
①        千里馬常不レ有≡千里の馬は、常に有らず。
②   ∀x(馬x→~千理x)≡すべての馬は、千里ではない。
③ ~∃x(馬x& 千里x)≡千里の馬は存在しない。
に於いて、
①=②=③ である。
cf.
全部否定(All negative)
(06)
(ⅴ)
1 (1)~∀x(Fx→Gx) A
1 (2)∃x~(Fx→Gx) 1量化子の関係
 3(3)  ~(Fa→Ga) A
 3(4) ~(~Fa∨Ga) 3含意の定義
 3(5)   Fa&~Ga  4ド・モルガンの法則
 3(6)∃x(Fx&~Gx) 5EI
1 (7)∃x(Fx&~Gx) 136EE
(ⅵ)
1 (1)∃x(Fx&~Gx) A
 2(2)   Fa&~Ga  A
 2(3) ~(~Fa∨Ga) 2ド・モルガンの法則
 2(4)  ~(Fa→Ga) 3含意の定義
 2(5)∃x~(Fx→Gx) 4EI
1 (6)∃x~(Fx→Gx) 125EE
1 (7)~∀x(Fx→Gx) 6量化子の関係
従って、
(06)により、
(07)
⑤ ~∀x(Fx→  Gx)≡(すべてのxについて(xがFならば、xはGである))といふわけではない。
⑥  ∃x(Fx&~Gx)≡(Fであって、Gでないx)が存在する。
に於いて、
⑤=⑥ である。
従って、
(07)により、
(08)
⑤ ~∀x(馬x→ 千里x)≡(すべての馬が、千里である)といふわけではない。
⑥  ∃x(馬x&~千里x)≡(千里ではない、馬)が存在する。
然るに、
(09)
④ 千里馬不二常有一≡千里の馬は、常には有らず。
従って、
(08)(09)により、
(10)
④          千里馬不二常有一≡千里の馬は、常には有らず。
⑤ ~∀x(馬x→ 千里x)≡(すべての馬が、千里である)といふわけではない。
⑥  ∃x(馬x&~千里x)≡(千里ではない、馬)が存在する。
に於いて、
④=⑤=⑥ である。
cf.
部分否定(Partially negative)
然るに、
(11)
① 千里馬常不有≡千里の馬は、常に、有らず。
④ 千里馬不常有≡千里の馬は、常には有らず。
といふ「漢文」は、「順番」に、
① 千里馬常レ不レ有≡千里の馬は、有ら不ること、常なり。
④ 千里馬不レ常レ有≡千里の馬は、有ること、常なら不。
といふ風にも、「読むこと」が出来る。
cf.
(原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁)
令和02年08月15日、毛利太。

2020年8月14日金曜日

「漢作文」の「仕方」について。

(01)
① 世有伯楽、然後有千里馬=
① 世有二伯楽一、然後有二千里馬一=
① 世有(伯楽)然後有(千里馬)⇒
① 世(伯楽)有然後(千里馬)有=
① 世に(伯楽)有りて、然る後に(千里馬)有り=
① 世の中に、伯楽がゐて、初めて、千里馬もゐる=
① 世の中に、伯楽がゐなければ、千里の馬もゐない。
然るに、
(02)
② 無世不有伯楽而有千里馬=
② 無下世不レ有二伯楽一而有中千里馬上=
② 無[世不〔有(伯楽)〕而有(千里馬)]⇒
② [世〔(伯楽)有〕不而(千里馬)有]無=
② [世に〔(伯楽)有ら〕不して(千里馬)有るは]無し=
②  世の中に伯楽がゐないのに、千里の馬がゐるといふことは無い。
然るに、
(03)
① 世の中に、伯楽がゐなければ、千里の馬もゐない。
② 世の中に、伯楽がゐないのに、千里の馬がゐるといふことは無い。
に於いて、
①=② は、「直観」として、「正しい」。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 世有伯楽、然後有千里馬(世に伯楽有りて、然る後に千里馬有り)。
② 無世不有伯楽而有千里馬(世に伯楽有らずして千里馬有るは無し)。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(05)
① 世有伯楽、然後有千里馬。
② 無世不有伯楽而有千里馬。
に於いて、
① を書いたのは、韓愈であって、
② を書いたのは、韓愈ではなく、日本語しか話せない、私である。
然るに、
(06)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
韓 愈(かん ゆ、768年(大暦3年) - 824年12月25日(長慶4年12月2日))は、中国唐代中期を代表する文人・士大夫である。字は退之(たいし)。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 世有伯楽、然後有千里馬。
② 無世不有伯楽而有千里馬。
に於いて、
① は、確かに、「漢文」であるが、
② は、あるいは「漢文」ではないのかも、知れない(?)。
然るに、
(08)
日本人が漢文を書く場合、漢文直訳体の日本語である漢文訓読は、有力な道具となり得る。実際に漢詩・漢文を自分で書いてみればわかることだが、日本人が音読直読だけで純正漢文を書くことは、なかなかに難しい(そもそも漢文の音読直読ができる現代中国人でも、純正漢文が書ける者は少ない)。
(加藤徹 他、「訓読」論、2008年、265頁改)
従って、
(08)により、
(09)
「訓読(漢文直訳体の日本語)」が書けて、その、
「訓読(漢文直訳体の日本語)」を、「漢文の語順」に、「書き換へる」ことが出来るのであれば、「中国語を、全く知らない、私のやうな日本人」であっても、
② 無世不有伯楽而有千里馬。
③ 我非必不求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」くらいは、書けることになる。
従って、
(08)(09)により、
(10)
② 世に伯楽有らずして千里馬有るは無し。
③ 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり。
といふ「訓読(漢文直訳体)」を、
② 無[世不〔有(伯楽)〕而有(千里馬)]。
③ 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文の語順」に、改めた「それ」が、
② 無世不有伯楽而有千里馬。
③ 我非必不求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」である。
といふ、ことになる。
然るに、
(11)
② If 伯楽 is not in the country, it is impossible for 千里馬 to be in the country.
③ I am not necesarily a person who doesn't try to understand Chinese classics using the method of understanding chinese.
といふ「英文(?)」を、「グーグル翻訳」に掛けたところ、
② 伯楽がその国にいなければ、千里馬がその国にいることは不可能です。
③ 私は必ずしも中国語を理解する方法を使用して中国の古典を理解しようとしない人ではありません。
といふ「翻訳」を、得ることが出来たため、果たして、
② If 伯楽 is not in the country, it is impossible for 千里馬 to be in the country.
③ I am not necesarily a person who doesn't try to understand Chinese classics using the method of understanding chinese.
は、「英語」であった。
然るに、
(12)
② 世に伯楽有らずして千里馬有るは無し。
③ 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり。
といふ「訓読(漢文直訳体)」を、
② 無[世不〔有(伯楽)〕而有(千里馬)]。
③ 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文の語順」に、改めたとしても、もちろん、
② If 伯楽 is not in the country, it is impossible for 千里馬 to be in the country.
③ I am not necesarily a person who doesn't try to understand Chinese classics using the method of understanding chinese.
といふ「英語」には、ならない。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
「漢作文」と、
「英作文」とでは、「やってゐること」が、「全然、違ふ」。
然るに、
(10)~(13)により、
(14)
「結論」だけを、述べるとすると、言ふまでもなく、
② 世に伯楽有らずして千里馬有るは無し。
③ 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり。
といふ「訓読(漢文直訳体)」を、
② 無[世不〔有(伯楽)〕而有(千里馬)]。
③ 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文の語順」に、改めるよりも、
② 国に伯楽がいないのに、千里馬がいることは、無い。
③ 私は、必ずしも中国語を理解する方法を用ひて、漢文を理解することを求めない者では、ないのです。
といふ「日本語」を、
② If 伯楽 is not in the country, it is impossible for 千里馬 to be in the country.
③ I am not necesarily a person who doesn't try to understand Chinese classics using the method of understanding chinese.
といふ「英語の語順」に、改める方が、「遥かに、難しい」。
然るに、
(15)
返り点・送り仮名をつけて訓読みすることが「日本人として徹底的にわかることを意味する」というところに私は大きな衝撃を受けた。それに対して韓国ではそのまま外国語として音読みし、翻訳して意味を理解する道をとった(呉善花、漢字廃止で韓国に何が起きたか、2008年、89・90頁)。
然るに、
(16)
少数の天才的なひとたちあるいは秀才たちは、返り点・送り仮名をつけなくとも正確な漢文の理解に至るであろう。李氏朝鮮の儒学のレベルの高さはそういう少数の秀才や天才に負うものである。・・・・・・しかし大多数のコリア人にとって、シナの古典は近づき難い高峰であった」(渡辺昇一、『英文法を撫でる』PHP新書、頁は不明)。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
日本のような漢文訓読法がなかった朝鮮では、純正漢文を読めたのは上流知識人に限られた。読書層は日本にくらべると薄く、朝鮮の対日認識は限定的なものにとどまった。極論すれば、漢文訓読法をもてなかったことが、朝鮮が近代において日本に圧倒されるようになった遠因の一つとなった(加藤徹、漢文の素養、2006年、199頁)。
といふことは、「確かに、さうであったのであらう」と、思はれる。
然るに、
(18)
しかし、倉石の鋭さは、なによりもまず先にも触れた「漢文訓読塩鮭論」に余すところなく現われていると言える。それはすなわち次のような一節である。
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
「漢文訓読法」があった日本に於いては、  「少数の天才的なひとたちあるいは秀才たち」ではなくとも、「正確な漢文の理解」が、「可能」であったにも、かかわらず、
「漢文訓読法」を「否定」することによって、「少数の天才的なひとたちあるいは秀才たち」ではなくては、「正確な漢文の理解」を「不可能」な「モノ」に、変へてしまった。
といふ、その人こそが、倉石先生であった。 といふ、ことになる。
令和02年08月14日、毛利太。

「漢文」に於ける、「倒置」と「提示語的用法」。

(01)
⑭ 小学而大遺「学レ小而遺レ大」とすべきところを意味を強めるために倒置した。
「小学レ之、大遺レ之」の「之」を省略した形。このような場合には、普通の場合
との区別がよくわかるように「小ハ・・・大ハ・・・」または「小ヲバ・・・大ヲバ・・・」などと読む。
(三省堂、明解古典学習シリーズ20、1963年、54頁)
従って、
(01)により、
(02)
「学小而遺大」といふ、「漢文としての、通常の語順」を、
「小学而大遺」といふ、「国語としての、通常の語順」に変へた場合は、
「(漢文としての)倒置」となり、その「結果」として、「小(補語)」と「大(補語)」が、「強調」される。
従って、
(02)により、
(03)
例へば、
① 入(危邦)⇒
① (危邦)入=
① (危邦に)入る。
に対して、
② 危邦入=危邦に入る。
の場合は、
②「危邦(補語)」が、「強調(倒置)」されてゐる(?)。
従って、
(03)により、
(04)
② 不〔入(危邦)〕⇒
② 〔(危邦)入〕不=
② 〔(危邦に)入ら〕ず。
に対して、
③ 危邦不(入)⇒
③ 危邦(入)不=
③ 危邦に(入ら)ず。
の場合も、
③「危邦(補語)」が、「強調(倒置)」されてゐる(?)。
然るに、
(05)
危険の兆候のある国には、足を踏み入れない。
(吉川幸次郎、論語上、1960年、252頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
「日本語」としては、
② 危邦に(入ら)ず。
ではなく、
③ 危邦には(入ら)ず。
である。
然るに、
(07)
枕草子の専門家が次のような頭注をつけている。
「春は」は総主語の提示語的用法。「春は曙いとをかし」などの略で。「曙いとをかし」などの述部の主語。
総主語の提示語のような総主語であり、かつ、主語である、とは難儀な話である。
(三上章、日本語の論理、1963年、148・9頁)
従って、
(07)により、
(08)
「提示語(~ハ)」といふ「文法用語」がある。
従って、
(06)(08)により、
(09)
② 危邦に (入ら)ず。
③ 危邦には(入ら)ず。
に於いて、
②「危邦」は、「 補語 」であるが、
③「危邦」は、「提示語」であって、
「日本語」に訳した際に、「提示語(ハを伴ふ)」となる「漢文の補語」は、「倒置」をしても、「強調」されることはない。
といふ風に、「仮定A」する。
然るに、
(10)
④ 父母の年ハ、知らざるべからざるなり(論語、里仁第四 21)。
の場合は、
④ 父母之年、不レ可レ不レ知也。
である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
「仮定A]を認めるのであれば、
④ 父母之年、不レ可レ不レ知也。
に於ける、
④「父母之年」は、「倒置による、強調形」ではなく、「提示語」である。
然るに、
(12)
⑤ 世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。千里の馬ハ常に有れども、伯楽ハ常には有らず(韓愈、雜説)。
の場合は、
⑤ 世有二伯楽一、然後有二千里馬一。千里馬常有、而伯楽不二常有一。
である。
従って、
(09)(10)(11)(12)により、
(13)
「仮定A]を認めるのであれば、
⑤                千里馬常有、而伯楽不二常有一。
に於ける、
⑤「千里馬」は、「倒置による、強調形」ではなく、「提示語」である。
⑤「 伯楽 」も、「倒置による、強調形」ではなく、「提示語」である。
令和02年08月14日、毛利太。

2020年8月13日木曜日

「千里馬常有、而伯楽不常有。」の「述語論理」。

(01)
(ⅰ)
1 (1)~∀x{千里馬x→ ∃y(伯楽y&食yx)} A
1 (2)∃x~{千里馬x→ ∃y(伯楽y&食yx)} 1量化子の関係
 3(3)  ~{千里馬a→ ∃y(伯楽y&食ya)} A
 3(4) ~{~千里馬a∨ ∃y(伯楽y&食ya)} 3含意の定義
 3(5)    千里馬a&~∃y(伯楽y&食ya)  4ド・モルガンの法則
 3(6)    千里馬a               5&E
 3(7)         ~∃y(伯楽y&食ya)  5&E
 3(8)         ∀y~(伯楽y&食ya)  7量化子の関係
 3(9)           ~(伯楽b&食ba)  8UE
 3(ア)           ~伯楽b∨~食ba   9ド・モルガンの法則
 3(イ)            伯楽b→~食ba   ア含意の定義
 3(ウ)         ∀y(伯楽y→~食ya)  イUI
 3(エ)    千里馬a&∀y(伯楽y→~食ya)  6ウ&I
 3(オ) ∃x{千里馬x&∀y(伯楽y→~食yx)} エEI
1 (カ) ∃x{千里馬x&∀y(伯楽y→~食yx)} 23オEE
(ⅱ)
1 (1) ∃x{千里馬x&∀y(伯楽y→~食yx)} A
 2(2)    千里馬a&∀y(伯楽y→~食ya)  A
 2(3)    千里馬a               2&E
 2(4)         ∀y(伯楽y→~食ya)  2&E
 2(5)            伯楽b→~食ba   4UE
 2(6)           ~伯楽b∨~食ba   5含意の定義
 2(7)           ~(伯楽b&食ba)  6ド・モルガンの法則
 2(8)         ∀y~(伯楽y&食ya)  7UI
 2(9)         ~∃y(伯楽y&食ya)  8量化子の関係
 2(ア)    千里馬a&~∃y(伯楽y&食ya)  39&I
 2(イ) ~{~千里馬a∨ ∃y(伯楽y&食ya)} ア、ド・モルガンの法則
 2(ウ)  ~{千里馬a→ ∃y(伯楽y&食ya)} イ含意の定義
 2(エ)∃x~{千里馬a→ ∃y(伯楽y&食ya)} ウEI
1 (オ)∃x~{千里馬a→ ∃y(伯楽y&食ya)} 12エEE
1 (カ)~∀x{千里馬x→ ∃y(伯楽y&食yx)} オ量化子の関係
従って、
(01)により、
(02)
① ~∀x{千里馬x→∃y(伯楽y& 食yx)}
② ∃x{千里馬x&∀y(伯楽y→~食yx)}
に於いて、すなはち、
① すべてのxについて{xが千里の馬であるならば、あるyは伯楽であって、yはxを養ふ}といふわけではない。
②   あるxについて{xは千里の馬であって、すべてのyについて(yが伯楽であるならば、yはxを養はない)}。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
① すべてのxについて{xが千里の馬であるならば、あるyは伯楽であって、yはxを養ふ}といふわけではない。
②     あるxについて{xは千里の馬であって、すべてのyについて(yが伯楽であるならば、yはxを養はない)}。
といふことは、
③(千里の馬がゐるならば、その、すべての千里の馬に対して、伯楽がゐる)といふわけではない。
といふ、ことである。
然るに、
(04)
①   ∃x(千里馬)⇔「千里の馬は存在する。」
②  ~∃x(千里馬)⇔「千里の馬は存在しない。」
③ ~~∃x(千里馬)⇔「千里の馬は存在しない、といふことはない。」
に於いて、
①=③ は、「二重否定律(DN)」である。
然るに、
(05)
③「千里の馬は存在しない、といふことはない。」
④「千里の馬は、常にゐる。」
に於いて、
③=④ である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ∃x(千里馬)⇔「千里の馬は常にゐる。」
従って、
(02)(03)(06)により、
(07)
① ∃x(千里馬)&~∀x{千里馬x→∃y(伯楽y&食yx)}
といふ「述語論理式」は、
① 千里の馬は常にゐるが、(千里の馬がゐるならば、その、すべての千里の馬に対して、伯楽がゐる)といふわけではない。
といふ、「意味」である。
然るに、
(08)
① 千里馬常有、而伯楽不ニ常有一。
① 千里の馬は常に有れども、伯楽は常にはあらず。
① 一日に千里走る名馬はいつでもいるのであるが(これを見わける)伯楽はいつもいるとはかぎらないのである。
(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、154頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
① 千里馬常有、而伯楽不ニ常有一。
といふ「漢文(部分否定形)」は、
① ∃x(千里馬)&~∀x{千里馬x→∃y(伯楽y&食yx)}
といふ「述語論理式」に、「相当」する。
令和02年08月13日、毛利太。

「有(返読文字)る」と「在る」。

(01)
① 我有父母=
① 我有(父母)⇒
① 我(父母)有=
① 我に(父母)有り=
① I have parents.
(02)
② 人皆有兄弟=
② 人皆有(兄弟)⇒
② 人皆(兄弟)有=
② 人皆(兄弟)有り=
② Everybody has brothers.
従って、
(01)(02)により、
(03)
「有」とは、即ち、「Have(持つ)」である。
然るに、
(04)
【有】ユウ(イウ・ウ)、ある
〈解字〉会意。意符号「月」(肉)と音と意を表す「又(イウ・ウ)」(右手)。肉を己の所有とする意。
「有無」の「有」はその延長義。「有」は「もつ」が原義だから「・・・・・がある」にあたり「・・・・・である」ではない。(対)無。
(中沢希夫、同訓異字辞典、1980年、21頁)
従って、
(03)(04)により、
(05)
「有」の「原義」は、「持つ(Have)」である。
然るに、
(06)
③ 居上位而不驕=
③ 居(上位)而不(我驕)⇒
③ (上位)居而(驕)不=
③ (上位に)居て(驕ら)ず=
③ 上座に座ってゐても、驕らない。
然るに、
(07)
【在】サイ・ザイ、ある
〈字義〉ある・おる(在)。
(中沢希夫、同訓異字辞典、1980年、21頁)
(08)
【在】4881
(ロ)をる。云々にをる。
(大修館、大漢和辞典)
(09)
を・り【居る】[一](動詞)自ラ変
① 存在する。いる。ある。
② 座っている。
(旺文社、全訳古語辞典、2006年、935頁)
(10)
従って、
(06)~(10)により、
(11)
「在」の「原義」は、「座ってゐる(Sitting)」に近い。
従って、
(05)(11)により、
(12)
「有」の「原義」は、「持つ(他動詞)」であって、
「在」の「原義」は、「座ってゐる(自動詞)」に近い。
然るに、
(13)
 存在と出現・消滅の表現法
 存在を表す動詞として、古代においても、「有」と「在」とが常用されている。しかし、その存在するものと、存在する場所とをいふ単語の語順は、次のように、全く反対である。
A式 場所語―有―存在物
 例 机上有レ書。(机上に書あり)
B式 存在物―在―場所語
 例 書在ニ机上一。(書、机上にあり)
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、346頁)
従って、
(12)(13)により、
(14)
① 机上有書。
② 書在机上。
に於いても、
①「有」は「他動詞」の「語順」を取り、
②「在」は「自動詞」の「語順」を取る。
然るに、
(15)
主語や補語は省略されることが多い。
(片桐功雄、究める漢文、2010年、16頁改)
従って、
(14)(15)により、
(16)
① 机上有書。
② 書在机上。
といふ「漢文」は、
① 机上(主語)と、
② 机上(補語)が、「省略」されて、
① 有書。
② 書在。
となることが、多い。 然るに、
(17)
「漢文」と「日本語(訓読)」に於いて、
①「他動詞の語順」は、「逆」であって、
②「自動詞の語順」は、「順」である。
従って、
(16)(17)により、
(18)
① 有書。
② 書在。
に於いて、
① の「語順」は、「日本語」と「逆」になり、
② の「語順」は、「日本語」と「順」になる。
然るに、
(19)
返読文字とは、先に述べた「ヲ・ニ・ト・ヨリ」がなくとも返り点を打つ文字のことである。
(高等学校古文/漢文の読み方/返読文字)
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
①「(漢文の)有」が、「他動詞」であって、
②「(漢文の)在」が、「自動詞」であるが故に、
① 有書。
② 書在。
に於いて、
①「有る」は、「返読文字」であって、
②「在る」は、「返読文字」ではない。
といふ、ことになる。
然るに、
(16)により、
(21)
① 机上有書(机上に、書有り)。
② 書在机上(書、机上に在り)。
であるため、
① 此有人(此に、人有り)。
② 人在此(人、此に在り)。
である。
従って、
(20)(21)により、
(22)
① 此有人(此に、人有り)。
② 人在此(人、此に在り)。
といふ「語順」に対して、
① 此在人(此に、人在り)。
② 人有此(人、此に有り)。
といふ「語順」は、無い。
然るに、
(23)
因みに、「加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、95頁」によると、
① 此有人(此に、人有り)。
② 人在此(人、此に在り)。
は、それぞれ、
①「(誰か)人がここにいる。」
②「(さっきから話題にしている、あの)人がここにいる。」
といふ「意味」である、との、ことである。
然るに、
(24)
② 沛公在此(沛公、此に在り)。
に於いて、
② 此(ここに)
は、「補語」である。
cf.
② 沛公 is here.
従って、
(24)により、
(25)
③ 沛公在安(沛公、安くにか在る)。
に於いて、
③ 安(いづくに)
は、「補語」である。
(26)
 前置による強調
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語(補語)も、その介詞の後に置かれるのが、通則であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語(補語)が疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前におかれている。このように、漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置することは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、334・5頁改)
従って、
(25)(26)により、
(27)
③ 沛公在安(沛公、安くにか在る)。
ではなく、
③ 沛公安在(沛公、安くにか在る)。
でなければ、ならない。
cf.
③ Where is 沛公?
③ WH移動(生成文法)。
従って、
(22)(23)(27)により、
(28)
① 此有人(此に、人有り)。
② 人在此(人、此に在り)。
③ 人安在(人、安くにか在る)。
に於いて、
① Here is someone.
② The man is here.
③ Where is the man.
といふ、「意味」なる(はずである)。
令和02年08月13日、毛利太。