(01)
「強調」とは、「その部分」を「他の部分」よりも、「目立たせる」ことに、他ならない。
(02)
AはBであり(A以外はBでない)。
A以外はBでない(BはAである)。
といふ「命題」を「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
(03)
「強調形」は、「排他的命題」を主張する。
(04)
「強調形」には、
① 心理的な音量差による「強調形」。
② 物理的な音量差による「強調形」。
③ 語順を変へる事による「強調形」。
等が、有る。
然るに、
(05)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(06)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① あなたは好きです。
ではなく、
① あなたが好きです。
等に於ける、
「~は(清音)・・・・・。」に対する、
「~が(濁音)・・・・・。」は、
① 心理的な音量差による「強調形(排他的命題)」である。
然るに、
(08)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
b.Ton SENT Mary flowers.
c.Tom sent MARY flowers.
d.Tom sent Mary FLOWERS.
”Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(04)(08)により、
(09)
a.TOM sent Mary flowers. 等は、
② 物理的な音量差による「強調形(排他的命題)」である。
然るに、
(10)
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語も、その介詞の後に置かれるのが、通則であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語が疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前におかれている。このように、漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置きすることは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、334・5頁)
従って、
(04)(10)により、
(11)
③ 汝欲誰見。
④ 汝欲見誰。
に於いて、
③ 汝欲誰見。 は、
③ 語順を変へる事による「強調形(排他的命題)」である。
従って、
(12)
③ 汝欲誰見=汝、誰にか会はんと欲す。
と「同様」に、
③ Do you want to see who?
ではない所の、
③ Who do you want to see?
の場合も、
③ 語順を変へる事による「強調形(排他的命題)」である。
と、すべきである。
然るに、
(13)
「漢文」の場合は、「英語」とは異なり、「主語」や「目的語」が、しばしば、「省略」される。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 汝誰敬=
であれば、
③ 誰敬=誰をか敬ふ。
とすることが、可能である。
然るに、
(15)
③ 誰敬=誰を(目的語)か敬ふ。
に対して、
④ 誰が敬ふ。
の場合も、
④ 誰敬=誰が(主語)か敬ふ。
である。
従って、
(01)(11)(15)により、
(16)
③ 誰敬=誰をか敬ふ。
に於いて、
③「排他的命題」を主張するために、「前置」といふ「強調形」が、用ゐられる。
といふ「理解」が、得られなくなれば、
③ 誰敬=誰を(目的語)か敬ふ。
④ 誰敬=誰が( 主語 )敬ふか。
に於ける、「識別」が「不能」となる。
然るに、
(17)
賓語が疑問代名詞であるばあい、上古漢語では倒置して動詞の前におく。現代語ではこのように倒置せず、動詞の後におくことは言うまでもない。このように倒置しなくなった時期について、筆者は明言を避けておいたのであるが(歴 p.130-131)、以下に中古の用例を補足する(ここ
では介詞も動詞にふくめて述べておく)。
曰、郷人長於伯兄一歳、則誰敬。〔趙注、季子曰、敬誰也〕曰、敬兄。酌則誰先。〔趙注、季子曰、酌酒則先酌誰〕曰、先酌郷人(孟子、告子、上、第5章)
曰く、郷人伯兄より長ずること一歳なれば、すなわち誰をか敬う。酌まばすなわち誰をか先にする。曰く、まず郷人に酌まん。
『孟子』の原文と趙岐の注を比較すると、上古の語序は後漢時代すでに変化して現代語式なっていたことがわかる。すなわち『孟子』では「誰敬」「誰先」と賓語の誰が動詞の前に来ている。
(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁)
cf.
趙岐(ちょう き、?[1] - 201年)は、後漢末の政治家、学者。『孟子』の注釈で知られる(ウィキペディア)。
従って、
(17)により、
(18)
『孟子』の原文では、
③ 誰敬=誰(目的語)+敬(動詞)
③ 誰先=誰(目的語)+先(動詞)
となってゐる。のに対して、
「趙岐」は、彼が書いた「注」に於いて、
③ 敬誰=敬(動詞)+誰(目的語)
③ 先誰=先(動詞)+誰(目的語)
といふ風に、「語順」を、変へてゐる。
然るに、
(19)
正岡子規による、
雲水絶塵緑
懶加弓馬列
斯心可比何
富士千秋雪
に関して、
第三行の「可比何」は、文法的に誤りであって、かく「何」の字が下に来る習慣は、漢文にはない。「何可比」といふべきところを、ついうっかりしたのであろう。
(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、24頁)
従って、
(19)により、
(20)
「目的語」が「疑問代名詞」であるばあいは、2世紀であらうと、20世紀であらうと、「漢文(文言)」である限り、倒置をして「動詞・助動詞」の前に置く。
従って、
(16)~(20)により、
(21)
③ 誰敬=誰をか敬ふ。
に於いて、
③「排他的命題」を主張するために、「前置」といふ「強調形」が、用ゐられる。
といふ「理解」が、得られなくなったとしても、
③ 漢文(文言) であれば、
③ 汝誰敬=汝、誰(目的語)をか敬ふ。
といふ「語順」が「正しく」、
④ 口語(白話) であれば、
④ 汝敬誰=汝、誰(目的語)をか敬ふ。
といふ「語順」が「正しい」。
然るに、
(22)
3.3 wh移動
次に、wh疑問文について考えてみましょう。第8章の(32)で見たように、Who does she loveのWhoは、D構造では、
loveの目的語の位置にあり、S構造では、CPの指定部の位置にあると考えられます〔言語研究入門―生成文法を学ぶ人のために 単行本 – 2002/5大津 由紀雄 (編集), 今西 典子 (編集), 池内 正幸 (編集), 水光 雅則 (編集)、130頁〕。
(17)(21)(22)により、
(23)
チョムスキーを始めとする、「理論言語学者」の方たちは、後漢時代の、趙岐(ちょう き、?[1] - 201年)と同じく、
⑤ Who does she love?
⑥ Does she love who?
であれば、本来は、
⑥ Does she love who?
といふ「語順」の方が「正しい」。といふ風に、思ってゐる。
従って、
(03)(04)(18)(23)により、
(24)
① 心理的な音量差による「強調形」。
② 物理的な音量差による「強調形」。
③ 語順を変へる事による「強調形」。
等が有って、「強調形」は、「排他的命題」を主張する。
といふ風には、趙岐も、チョムスキーも、思ってはゐない。
(25)
「排他的命題」を主張しようとする目的が、「強調」につながり、強調しようとする意識が、「疑問詞(目的語)」の「前置」を「プロモート」する。
といふ風には、趙岐も、チョムスキーも、思ってはゐない。
平成28年12月30日、毛利太。
―「関連記事」―
「強調形」と「疑問詞」と「排他的命題」(12月30日の補足)〔http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_89.html〕。
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