(01)
漢文というのは古い中国語なので、日本語と構文が違います。その構文の違う言葉に無理矢理レ点や送り仮名をつけて日本語として読めるようにしたのが、いわゆる漢文です。中国語の構文はどちらというと英語に似ているので、漢文ができた福澤には、英語の構文が楽に理解できたのだと思います(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53頁)。
従って、
(01)により、
(02)
「 漢文 」の「構文」は「英語の構文」に似てゐて、
「中国語」の「構文」も「英語の構文」に似てゐる。
従って、
(02)により、
(03)
「 漢文 」の「構文」は、
「中国語」の「構文」に似てゐる。
然るに、
(04)
中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。
(05)
しからば、口語はAxByであるものを、文章語はABとつづめても、これはこれで完全な文となり得る。かくして記載語のABは、はじめから口語のAxByとは別のものとして発生し、存在したと思われる(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
「漢文(記載語)」と「中国語(白話文)」は、
「単語も文法もたいへんちがう」ところの、
「別のもの」として発生した、「別の言語」である。
従って、
(06)により、
(07)
「 漢文 」の「構文」は、
「中国語」の「構文」に似てゐない。
従って、
(03)(07)により、
(08)
「(03)と(07)」は、「矛盾」する。
然るに、
(01)により、
(09)
「レ点や送り仮名をつけて日本語として読めるようにしたのが、いわゆる漢文です。」
とあるやうに、「漢文」は「訓読」に適してゐる。
従って、
(03)(09)により、
(10)
「 漢文 」の「構文」は、
「中国語」の「構文」に似てゐる。
にも拘らず、
「 漢文 」の「構文」は、「訓読」に適してゐるが、
「中国語」の「構文」は、「訓読」に適してゐない。
といふことは、有り得ない。
然るに、
(11)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし
強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語
気に近い訳となる(ウィキペディア)。
従って、
(11)により、
(12)
「もし強いて中国語(白話文)を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため」、
「中国語(白話文)」の「構文」は、「訓読」に適してゐない。
従って、
(10)(12)により、
(13)
「 漢文 」の「構文」は、
「中国語」の「構文」に似てゐない。
然るに、
(14)
「孝莫大於厳父、厳父莫大於配天」というところが、白話訳では
「孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般」となっている。
両者の違いは一目瞭然であろう(続訓読論、川島優子 他、2010年、312頁改)。
然るに、
(15)
「孝莫大於厳父、厳父莫大於配天。」
といふ「漢文」であれば、
「孝は父を厳ぶより大なるは莫く、父を厳ぶは天に配するよりも大なるは莫し。」
といふ風に「訓読」出来るのに対して、
「孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般。」
といふ「中国語(白話文)」は、私には、完全に、チンプンカンプン(It's Greek to me)である。
加へて、
(16)
一般做乳母的人對事故從小撫養帶大的總是有一種偏愛、總是覺得與眾不同的:何況這位乳母所撫養帶大的是源氏之君這様稀世的人物呢!(林訳『源氏物語』一 六三頁)といふ「中国語(白話文)」も、「漢文(文言文)の知識」では、「文字通り、全く、読めない」。
従って、
(06)(13)(15)(16)により、
(17)
「漢文(文言文)」と「中国語(白話文)」は、
「単語も文法もたいへんちがう」ところの、
「別のもの」として発生した、「別の言語」であって、それ故、
「漢文(文言文)」の「構文」は、「中国語(白話文)」の「構文」に似てゐない。
然るに、
(18)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
(19)
もっとも手近に考へれば、日本人が日本のことを研究する方法だって、つまり、この順序を踏んでゐるので、小学校で現代の日本語を学び、今の文章を読み、次第に、古い書物を研究して行くのである。支那のことだけが例外でなければならないと云ふ筈はない(勉誠出版、「訓読論」、2008年、58頁:陶徳民)。
従って、
(18)(19)により、
(20)
倉石先生は、「中国語(白話文)」を学んでから、「漢文(文言文)」を学ぶべきであると、されてゐた。
然るに、
(21)
漢字は、実は、本場の中国においても、その読み方は地域の自由にまかせているのである。― 中略 ―その多様さはインド・ヨーロッパ語族の多様さに優に匹敵する。それゆえに、もし中国においてことばの表記を表音文字にきりかえたならば、同時に十三以上の外国語ができてしまうということになる(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、134・5頁)。
従って、
(17)(20)(21)により、
(22)
「倉石先生の方法」は、私が思ふに、「木に縁りて魚を求む」といふことと、変はりが無い。
「ラテン語やギリシャ語」を学ぶ際に、「独語や仏語や英語」の「知識」が「必要」である。といふことと、変はりが無い。
(23)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文の補足構造」が、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
であるとする。
然るに、
(24)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治、
中国語と漢文、1975年、二九六頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文の補足構造」が、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
であるならば、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
に対する「国語の補足国造」は、
非{ }⇒{ }非
求[ ]⇒[ ]求
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
解( )⇒( )解
といふ「移動」により、
我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求者}非也。
である。といふことになる。
然るに、
(26)
我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求者}非也。
であれば、
我は{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以って(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざるなり。
といふ風に読むことは、「難しく」はない。
従って、
(24)(25)(26)により、
(27)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」に、
我非地必求丙以下解二中国語一法上解乙漢文甲者天也。
といふ「返り点」を付けることが出来る人は、
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文の補足構造」が、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
であることを、知ってゐる人でなければ、ならない。
然るに、
(28)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」を、
ガヒヒツキュウカイチュウゴクゴホウカイカンブンシャヤ。
と「音読」するだけならば、小学生であっても、出来る。
従って、
(29)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」を、
ガヒヒツキュウカイチュウゴクゴホウカイカンブンシャヤ。
Wǒ fēi bì qiú yǐ jiě zhōngguó yǔfǎ jiě hànwén zhě yě(グーグル翻訳).
といふ風に、「音読」出来たとしても、
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」の、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
といふ「補足構造」を、把握することは、出来ない。
然るに、
(30)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」の、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
といふ「補足構造」を、把握することが、出来ないのであれば、
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」を、理解することは、出来ない。
然るに、
(31)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)。
従って、
(29)(30)(31)により、
(32)
漢文の解釈については日本語の読み下し文のほうがわかりやすい。これは漢語を母語とする留学生たちの体験としてよく聞いている話だ
(黄文雄、漢字文明にひそむ中華思想の呪縛、2001年、226・7頁)といふことは、「当然」である。
然るに、
(33)
かつて漢文学科だった学科や漢文学専攻は、いま、そのほとんすべてが中国文学科や中国文学専攻になってしまっている。そこでは、当然、中国語も履修することになっていて、そこで学んだ方々は、古代の中国文も現代の中国音で発音できるし、またそういう出身の先生は、得意げにそういうように読んでも聞かせたりするもののようである。そこで、日本文学科出身の国語科の先生や、教育学部の国語専修などの出身の先生は、漢文は嫌いではないのだが、生徒からなにか、偽者のように思われて辛い、と聞くことがあったりするのである(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、36頁)。
従って、
(21)(32)(33)により、
(34)
漢語を母語とする留学生自身が、「漢文訓読法」の方が優れてゐると、言ってゐるにも拘らず、
中国文学科の出身である、高校の教師が、日本の漢字音を無視して、漢文を、普通話(北京語)の発音で、得意げに読んでも聞かせたりする。
のは、ずいぶんとヲカシイ(あほらしい)。
(35)
日本の中高生は、辛うじて、今でも、「論語や史記」等の「漢文」と「徒然草や源氏物語」等の「古文」を学んでゐる。
然るに、
(36)
朋有り、遠方より来る(論語)。
いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いと已むごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめきたまふありけり(源氏物語)。
といふ「それ」を、「日本語」として「比較」するならば、
論語や孟子を読むことは、少なくとも「源氏物語」や「枕草子」を読むほどには、むつかしくない。更にもう一つを加えれば、少なくとも漢文の文法は、いわゆる日本の「古文」の文法よりも簡単である(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)し、因みに、齋藤先生曰く、『源氏物語』や『蜻蛉日記』を本気で読もうとする、ものすごくたいへんなのです。私が受験した頃は、『源氏物語』がよく東大入試に出たので、当時かなり熱心に読んだのですが、かなり苦労した記憶があります(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53頁)との、ことである。
(37)
「光源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれ給ふ咎多かんなるに、いとど、かかるすき事どもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さんむと、忍び給ひける隠ろへ事をさへ語り伝へけむ、人の物言ひがなさよ(源氏物語、帚木)。」などといふ「1000年前の日本語」は、「構文が把握しくい文の典型」である。
従って、
(32)(36)(37)により、
(38)
「アニメやマンガ」で日本語を覚えた、外国の方が、
「ノーベル文学賞を取った近代日本を代表する文豪・川端康成でさえ、『源氏物語』はすごい、あれは奇跡の作品だ(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、59頁)」といふ風に述べてゐる『源氏物語』を読めるやうになることは、「齋藤先生が経験した以上に、ものすごくたいへん」であっても、「返り点と、送り仮名」が付いた『論語や史記』を読めるやうになることは、「比較的、簡単」である。
(39)
漢文ができた福澤には、英語の構文が楽に理解できたのだと思います。そう考えてみると、私たちも英語にレ点を付けたり、関係代名詞を括弧に入れたりと、もっと記号化していけば、英語も読みやすくなるのかもしれません。実際。私は英語を教えていたとき、漢文を意識していたわけではありませんが、記号化して、関係代名詞は括弧に入れ、この言葉はここに戻ると矢印を書いて、「こうすれば頭から読んでも構造が理解できる」といふ教え方をしていたことがありました(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53・54頁)。
(40)
I have[a-friend〔whose father is(an-actor)〕].
に於いて、
have[ ]⇒[ ]have
a-friend〔 〕⇒〔 〕a-friend
is( )⇒( )is
といふ「移動」を行ふと、
I have[a-friend〔whose father is(an-actor)〕]⇒
I [〔whose father (an-actor)is〕a-friend]have=
私には[〔その父親が(俳優)である所の〕一人の友人が]ゐる。
といふ「英文訓読」が、成立する。
(41)
If《you are〈not{afraid[of〔making(mistakes)〕]}〉》, your English will〔become(much better)〕.
に於いて、
If《 》⇒《 》If
are〈 〉⇒〈 〉are
not{ }⇒{ }not
afraid[ ]⇒[ ]afraid
of〔 〕⇒〔 〕of
making( )⇒( )making
will〔 〕⇒〔 〕will
become( )⇒( )become
といふ「移動」を行ふと、
If《you are〈not{afraid[of〔making(mistakes)〕]}〉》, your English will〔become(much better)〕⇒
《you〈{[〔(mistakes)making〕of]afraid}not〉are》If, your English〔(much better)become〕will=
《あなたが〈{[〔(間違ひを)すること〕を]恐れ}ないで〉ゐる》ならば、あなたの英語は〔(もっとずっと良く)なる〕でせう。
といふ「英文訓読」が、成立する。
(42)
「括弧」を用ゐる「英文訓読」をやってみて、気付くことは、
(Ⅰ)「英語」の場合は、「括弧」の種類が、やたらと、多くなる。
(Ⅱ)「Wh疑問文」等がさうであるやうに、「括弧」を付けることが出来ない「英語」が、それなりに多く有る。
といふ、ことである。
(43)
さらに言へば、
喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}。
非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}。
がさうである所の、
(Ⅲ)
{[〔( )〕]( )}といふ「括弧」や、
{[〔( )〕( )]}といふ「括弧」は、「英語」には、少ないか、無い。
のでは(?)といふ「印象」を、持ってゐる。
平成28年12月12日、毛利太。
―「関連記事」―
「漢字音」等について(http://kannbunn.blogspot.com/2016/11/blog-post_17.html)。
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