―「01月29日の記事」を、「約半分」にした上で、「補足」を加へます。―
(01)
漢文としては助動詞であると思われるけれども、訓読ではアヘテと読み、動詞から変化した副詞のように使われる。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
然るに、
(02)
① 敢
② 敢
③ 敢
④ 敢
を、「副詞」ではなく、「助動詞」とするならば、
① 不敢視。
② 敢不視。
③ 敢不視乎。
④ 不敢不走。
といふ「漢文の補足構造」は、
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
③ 敢〔不(視)〕乎。
④ 不[敢〔不(視)〕]。
でなければ、ならない。
然るに、
(03)
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
③ 敢〔不(視)〕乎。
④ 不[敢〔不(視)〕]。
に対する「訓読」は、それぞれ、
① 〔(視ること)敢へてせ〕ず。
② 〔(視)ざること〕敢へてす。
③ 〔(視)ざること〕敢へてせんや。
④ [〔(視)ざること〕敢へてせ]ず。
である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 不敢視。
② 敢不視。
③ 敢不視乎。
④ 不敢不走。
といふ「漢文」は、
① 視ることを、 (意を)決してしない(出来ない)。
② 視ないことを、(意を)決してする。
③ 視ないことを、(意を)決してするだらうか(。そのやうなことはない)。
④ 視ないことを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ、「意味」である。
(05)
① 視ることを、 (意を)決してしない(出来ない)。
② 視ないことを、(意を)決してする。
であるならば、「結果」としては、
① 視ない。
② 視ない。
である。
然るに、
(06)
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふことは、
①(本当は視たいのに、勇気がなくて、)視ることが出来ない。
といふ「意味」である。
(07)
② 視ないことを、(意を)決してする。
といふことは、
②(本当は視たいものの、勇気を出して、)視ない。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
に於いて、
① であれば、「勇気が足りないので、視れない」。
② であれば、「勇気は足りてゐて、 視 ない」。
といふ、ことになる。
然るに、
(01)により、
(09)
「訓読」では、「敢」を「アヘテ」と読み、動詞から変化した「副詞」のように使い、それ故、
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
とはせずに、
① 不(敢視)。
② 敢不(視)。
といふ風に、「理解」する。
然るに、
(10)
① 不(敢視)。
② 敢不(視)。
に対する「訓読」は、両方とも、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
である。
従って、
(02)(03)(10)により、
(11)
① 不敢視。
② 敢不視。
といふ「漢文」は、
① 視ること敢へてせず。
② 視ざること敢へてす。
といふ風には「訓読」せず、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
といふ風に、「訓読」するのが、「習慣」になってゐる。
従って、
(08)(11)により、
(12)
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
といふ「訓読」からは、
①「勇気が足りないので、視れない」であるのか。
②「勇気は足りてゐて、 視 ない」であるのか。
といふことが、分からない。
然るに、
(13)
【視】みる[意味]①みる(ア)気を付けて見る。「注視」
(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、690頁)
從って、
(12)(13)により、
(14)
①「勇気が足りない」ので「注視出来ない」であるのか。
②「勇気は足りてゐる」が「注視し ない」であるのか。
といふことが、分からない。
然るに、
(15)
蘇秦は鬼谷先生を師とし学んだ。初め故郷の洛陽を出て諸国に遊説したが、志を得ず困窮して帰って来た。その時妻は秦を軽蔑して機織台から下りても来ず。兄嫁も秦のために飯をたいてもくれなかった。ところが今度は六国同盟の長となり、六国の宰相を兼務する身となった。そして道すがら故郷の洛陽に立ち寄った。護衛の車馬、荷車は、王者のそれにまごうべきであった。それを見た兄弟や妻や兄嫁は、恐れ入ってそっと横目でみてまともに見ず、うつむいて側に侍ってお給仕をした。秦はおかしくなって、「どうして以前にはあんなに傲慢にして、今度はこんなに鄭重なのですか。」とたずねた。
(林秀一、十八史略、82頁)
従って、
(15)により、
(16)
①(六国同盟の長となり、六国の宰相を兼務する身となって、王者と見まごうばかりの、立派な身なりをしてゐる蘇秦の顔を)まじまじと見てみたいのに、(以前には、傲慢な態度をとってしまった手前もあって、蘇秦をガン見する、勇気を持つことが出来なくて、蘇秦を)まじまじと見ることが出来ない。
といふ、ことになる。
従って、
(11)~(16)により、
(17)
②「勇気は足りてゐる」が「注視し ない」。
ではなく、
①「勇気が足りない」ので「注視出来ない」。
である。といふことから、
② 敢不視。
ではなく、明らかに、
① 不敢視。
である。といふ、ことになる。
然るに、
(18)
従って、
(17)(18)により、
(19)
果たして、
② 敢不視。
②「勇気は足りてゐる」が「注視し ない」。
ではなく、
① 不敢視。
①「勇気が足りない」ので「注視出来ない」。
である。といふことが、分った。
然るに、
(20)
① 不敢視。
は、「十八史略」であるが、「史記」の場合は、
① 不敢仰視。
となってゐる。
然るに、
(21)
① 不〔敢(視)〕⇒
① 〔(視)敢〕不=
① 〔(視ること)敢へてせ〕ず=
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
であって、尚且つ、
① 不〔敢(仰視)〕⇒
① 〔(仰視)敢〕不=
① 〔(仰ぎ視ること)敢へてせ〕ず=
① 仰ぎ視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
である。
従って、
(21)により、
(22)
① 不〔敢(視)〕。
であっても、
① 不〔敢(仰視)〕。
であっても、「同じ」である。
然るに、
(23)
10 蘇秦之昆弟妻嫂、側レ目不二敢仰視一。(史記、蘇秦列伝)蘇秦の兄弟や妻や兄嫁は、目をそらして、顔を上げてはっきり見るだけの勇気がなかった(西田太一郎、漢文の語法、1980年、321頁)。
蘇秦の昆弟妻嫂の場合、蘇秦を仰視することは勇気がいることだから「敢仰視」は「勇気を出して仰視」することで、「不敢仰視」はそれを否定している(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)。
然るに、
(23)により、
(24)
「不敢仰視」はそれを否定している。
といふのは、
「不敢仰視」は「敢仰視」を否定している。
といふ、「意味」である。
然るに、
(25)
「不敢仰視」に於ける「否定詞」は、「不」だけである。
従って、
(24)(25)により、
(26)
「不敢仰視」はそれを否定している。
といふことは、
「不敢仰視」に於ける「不」は、「敢仰視」を「否定」している。
といふ、「意味」である。
然るに、
(27)
この場合、「論理学」の「~」は、「漢文」の「不」である。
然るに、
(28)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(26)(27)(28)により、
(29)
西田先生と、クワイン先生に、従ふ限り、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」には、
① 不(敢仰視)。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
然るに、
(30)
さてたとえば10の「不敢仰視」についていうと、漢文の原則として上の字は下の字のみ影響するから、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)。
然るに、
(31)
「不敢仰視」に於いて、「敢」は、「仰視」の字にのみ「影響」する。
といふことは、
「不敢仰視」に於いて、「敢」の「意味」が、「仰視」に及んでゐる。
といふことである。
然るに、
(32)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(31)(32)により、
(33)
「不敢仰視」に於いて、「敢」の「意味」は、「仰視」に及んでゐる。
といふことを、「括弧」を用ゐて、「表す」のであれば、
① 敢(仰視)。
といふ、ことになる。
従って、
(29)(32)(33)により、
(34)
西田先生と、クワイン先生と、今仁先生に、従ふ限り、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」には、
① 不〔敢(仰視)〕。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
従って、
(34)により、
(35)
「スタップ細胞」はともかく、「括弧」は有ります!
然るに、
(36)
⑤ 沛公敢へて項王に背かず(史記、項羽本記)。
に対する「原文(白文)」は、
⑤ 沛公不敢背項王。
である。
従って、
(21)(36)により、
(37)
⑤ 沛公不敢背項王=
⑤ 沛公不[敢〔背(項王)〕]⇒
⑤ 沛公[〔(項王)背〕敢]不=
⑤ 沛公[〔(項王に)背くことを〕敢へてせ]ず=
⑤ 沛公は、項王に背くことを(意を)決してしない(出来ない)=
⑤ 沛公は、(恐れ多くて、)項王に背くことを、決してしない。
である。
然るに、
(38)
⑤ 沛公は、(恐れ多くて、)項王に背くことを、決してしない。
ではなく、
⑤ 沛公は、項王に背くことを、決してしない。
ではなく、
⑤ 沛公は、決して、項王に背かない。
であったとしても、「読解」の上では、「左程、支障はない」。
然るに、
(39)
1.市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、81頁)。
従って、
(38)(39)により、
(40)
「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。としても、「左程、支障はない」。
然るに、
(41)
⑥ 沛公不敢不背項王=
⑥ 沛公不{敢[不〔背(項王)〕]}⇒
⑥ 沛公{[〔(項王)背〕不]敢}不=
⑥ 沛公{[〔(項王に)背か〕ざること]敢へてせ}ず=
⑥ 沛公は、項王に背かないことを、決してしない。
である。
然るに、
(42)
⑤ 項王に背くことを、決してしない。
に於いて、
⑤ 背くこと
といふ「部分」を、
⑥ 背かないこと
に「置き換へ」ると、
⑥ 項王に背かないことを決してしない=
⑥ 必ず、項王に背く。
である。
然るに、
(43)
⑤ 決して項王に背かない。
に於いて、
⑤ 背かない。
といふ「部分」を、
⑥ 背かないことをしない。
に「置き換へ」ると、、
⑥ 決して項王に背かないことをしない=
⑥ 必ず、項王に背く。
である。
然るに、
(44)
⑥ 項王に背かないことを、決してしない。
といふ「日本語」の方が、
⑥ 決して、項王に背かないことをしない。
といふ「日本語」よりも、私には、分りやすいやうに、思へる。
従って、
(39)(40)(44)により、
(45)
私自身は、
「不敢」を「決して・・・ない」
とは訳さずに、
「不敢」を「・・・ことを決してしない」
といふ風に、訳してゐる。
従って、
(46)
「論語・憲問」にある、
⑦ 不[敢〔不(告)〕]。
であれば、
⑦ [〔(告)不〕敢]不。
⑦ [〔(告げ)ないことを〕決してし]ない。
⑦ 必ず、(どうしても)告げる。
といふ、「意味」である。
平成29年01月30日、毛利太。
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「復(副詞)の位置」 と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_25.html)。
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