2013年5月15日水曜日

2012.04.30.MonCategory:漢文・音読

この漢文の返り点の打ち方がよくわからない。-Goo知恵袋
http://blog-imgs-47.fc2.com/k/a/n/kannbunn/DSCF0974_convert_20120501144713.jpg
(01)~(44):取りあえず、省略。
(01)~(44)は、次の「記事」として、書き換える、予定です。
― 話は、変はります。―
(45)
I=20:
私によって、BASICで書かれたプログラムが在って、例えば、
悪称人之悪者
(といふDATA)を表示したまま、アイドリング(無限ループ)を続けます。
cf.
http://blog-imgs-47.fc2.com/k/a/n/kannbunn/DSCF0991.jpg
http://blog-imgs-47.fc2.com/k/a/n/kannbunn/DSCF0994.jpg
http://blog-imgs-47.fc2.com/k/a/n/kannbunn/DSCF0999.jpg
この時、「訓読」が、
悪・称人・之・悪者=いづくんぞ、人を称する之れ悪は。
である筈がありません。
一方、
悪称・人之悪・者 =
悪称(人之悪)者
といふ形は、
悪称(人之悪)者=人の悪を称する者を悪む。
といふ「正解」を、予測させ、
果たして(、例へば、スペースkeyを押すと、正解が示されて、その「正解(訓読)」は) 、
人の悪を称する者を悪む。
従って、
悪称人之悪者
とい六文字のセットは、
  (人之悪)
といふ、サブセットと、
〔称(人之悪)者〕
といふ、サブセットを、Imply(含む・暗示)する。
― 補足(2013/05/16) ―
①悪称人之悪者
という「白文(漢文)」が、
①悪称(人之悪)者
という風に、見えたからこそ、
①悪〔称(人之悪)者〕
という風に見え、その結果として、
①悪〔称(人之悪)者〕⇒
②〔(人之悪)称者〕悪=人の悪を称する者を悪む。
という風に読めた、ことになる。

①悪称(人)之悪者 ⇒
②悪(人)称之悪者=悪くんぞ、人を称する、これ、悪は。
という「訓読」が、可能であるならば、
①悪〔称(人之悪)者〕
という風には、見えなかった、ことになる。
然るに、
「漢字の音」自体は、両方とも、
①悪  称(人)之悪者  =ヲショウジンシアクシャ 。
①悪〔称(人之悪)者〕=ヲショウジンシアクシャ 。
で、変わりが無い。

①悪称人之悪者 =ヲショウジンシアクシャ 。
という「漢字音」が、
②悪称人之悪者 =人の悪を称する者を悪む。
であることを、教えている、わけではない。
従って、
(46)
その「プログラム」、即ち、
1035 KEY 6,”SAVE”+CHR$(34)+”1:B2KBHB”+CHR(34)+CHR$(13)
に於ける「プログラム」、即ち、「B2KBHB」といふ「プログラム」のDATAとして、
1720 DATA ①悪称人之悪者
1725 DATA ②人の悪を称する者を悪む
といふDATAが、在った。ことになる。
cf. 
http://blog-imgs-47.fc2.com/k/a/n/kannbunn/DSCF1010.jpg  
http://blog-imgs-47.fc2.com/k/a/n/kannbunn/DSCF1008.jpg
然るに、
(47)
戦前の入試で、復文(書き下し文から原漢文に復元する作業)ということがあったらしいが、今日から見れば、よくいえば高級な、悪くいえばナンセンスなことをしていたものである(二畳庵主人、漢文文法基礎、1984年、84頁)。
従って、
(48)
「復文」とは、要するに、「和文漢訳」、即ち、「英作文」ならぬ、「漢作文」である。
然るに、
(49)
1720 DATA ①悪称人之悪者
1725 DATA ②人の悪を称する者を悪む
の「発音」は、
1720 DATA ①ヲショウジンシアクシャ
1725 DATA ②ヒトノアクヲショスルモノヲ二クム
従って、
(50)
②人の悪を称する者を悪む
を、「口頭」で、「復文」しようとすると、
①ヲショウジンシアクシャ
と、「発音」することになる。
然るに、
(51)
①悪称人之悪者
を、「訓読」する場合は、
②ヒトノアクヲショスウルモノヲ二クム
と、「発音」することになる。
従って、
(52)
(50)(51)により、
②人の悪を称する者を悪む=①ヲショウジンシアクシャ
と「発音」し、
①悪称人之悪者=②ヒトノアクヲショスルモノヲ二クム
と、「発音」することになる。
然るに、
(53)
徂徠は、言語を歴史的に変わるものとして考え、経典に即した文辞の用法を把握することで、経典の背後にある、それが書かれた当時の事実をつかみだそう、として古文辞学というものをとなえた。その立場から、漢文の音読を主張し、中国音、当時のいわゆる「唐音」を学で、漢学の内部に革新の波をおこしたのであった(安藤彦太郎、中国語と日本近代、1988年、64頁)。
従って、
(54)
「唐音」は、どんな音かは判らないものの、假りに、
①ヲショウジンシアクシャ=①アクシヤウニンシアクシヤウ
の右辺を、「唐音」とするならば、
ブロガーは、
②人の悪を称する者を悪む=①ヲショウジンシアクシャ
①悪称人之悪者        =②ヒトノアクヲショスルモノヲ二クム
と「発音」し、
荻生徂徠は、
②人の悪を称する者を悪む=②ヒトノアクヲショスルモノヲ二クム
①悪称人之悪者            =①アクシヤウニンシアクシヤウ
と「発音」したことになる。
従って、
(55)
私と、荻生徂徠は、アベコベであるものの、何故そうなのかと言へば、今も述べた通り、
私のそれは、
②人の悪を称する者を悪む=①ヲショウジンシアクシャ
といふ「復文」であって、
荻生徂徠のそれは、
①悪称人之悪者          =①アクシヤウニンシアクシヤウ  
といふ『中国音、当時のいわゆる「唐音」の、音読』であるからである。
従って、
(56)
例へば、
②世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。故に名馬有りと雖も、祇だ奴隷人の手に辱められ、槽櫪の間駢死して、千里を以て称せられざるなり。
であれば、
①セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ、センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ、コスイユウメイバ、ギジョクオドレイジンシシュ、ベンシオソウレキシカン、フツイセンリショヤ。
といふ風に、「音読」出来るのは、そのやうな、「復文」の結果に、他ならないし、
(57)
①世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。故雖有名馬、祇辱於隷人之手、駢死於槽櫪之間、不以千里称也。
といふ風に、「暗唱」出来るのも、
②世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。故に名馬有りと雖も、祇だ奴隷人の手に辱められ、槽櫪の間駢死して、千里を以て称せられざるなり。
といふ「訓読」を、思ひ出してゐる。からである。と言ふことになる。
従って、
(58)
要するに、私は、例えば、
①世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。故雖有名馬、祇辱於隷人之手、駢死於槽櫪之間、不以千里称也。
といふ「白文」を、「訓読」出来るし、「暗唱」も、出来るものの、
その一方で、
(59)
皆さんが、本書を手に入れるとすぐにする質問は「先生、公式は全部暗記するんですか?」でしょう 。私は即座に答えます。「必要なし。読んで解釈できればそれでよろしい」と(多久の漢文公式110)。
とのことである。
従って、
(60)
受験勉強として漢文を学んでゐる、普通の高校生は、尚のこと、
セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ、センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ、コスイユウメイバ、ギジョクオドレイジンシシュ、ベンシオソウレキシカン、フツイセンリショウヤ(多久の漢文公式110、20頁)。
を、暗記する必要は、無いことになる。
但し、
(61)
例えば、「多久の漢文公式110」ならば、その、「公式110」に在る、
②世に伯楽有り、然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。故に名馬 有りと雖も、祇だ奴隷人の手に辱められ、槽櫪の間駢死して、千里を以て称せられざるなり。
といふ「訓読」を、
セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ、センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ、コスイユウメイバ、ギジョクオドレイジンシシュ、ベンシオソウレキシカン、フツイセンリショウヤ
といふ風に、「声」を出しながら、
①世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。故雖有名馬、祇辱於隷人之手、駢死於槽櫪之間、不以千里称也。
といふ風に、「漢字」を、並び変へてゐるならば、しばらくすれば、
セイユウハクラク、ゼンコウユウセンリバ、センリバジョウユウ、ジハクラクフツジョウユウ、コスイユウメイバ、ギジョクオドレイジンシシュ、ベンシオソウレキシカン、フツイセンリショウヤ
といふ風に、大抵の日本人は、「暗唱」できる。のではないでせうか。といふ風に、思はれます。
従って、
(62)
いづれにせよ、
その「プログラム」、即ち、
1035 KEY 6,”SAVE”+CHR$(34)+”1:B2KBHB”+CHR(34)+CHR$(13)
に於ける「プログラム」、即ち、「B2KBHB」といふ「プログラム」のDATAとして、
1720 DATA ①悪称人之悪者
1725 DATA ②人の悪を称する者を悪む
といふDATAが、在った。が故に、
②人の悪を称する者を悪む=①ヲショウジンシアクシャ
と「発音」し、
①悪称人之悪者                =②ヒトノアクヲショスウルモノヲ二クム
と、「発音」する過程で、
①悪〔称(人之悪)者〕=
①悪s称2人之悪1者u=②人の悪を称する者を悪む。
に気付いたものの、実を言ふと、
(63)
「B2KBHB」といふ「プログラム」は、元々は、「古文の助動詞」を覚えるため に書いたものであって、
「訓読・復文」のための、「プログラム」ではない。
従って、
(64)
最初に書いた「プログラム」の、例へば、
1720 DATA ①問ひつめられて、え答へずなりはべりつ。
1725 DATA ②問いつめられて、答えられなくなりました。
といふDATAを、
1720 DATA ①悪s称2人之悪1者u
1725 DATA ②人の悪を称する者を悪む
といふ風に書き換へたとしたら、即ち、DATA文に、「返り点」を、付けてゐたら、
①悪〔称(人之悪)者〕=
①悪s称2人之悪1 者u=②人の悪を称する者を悪む。
といふことに気付くことは無かったし、今のやうに、漢文に興味を持つことも、無かったことになる。
従って、
(65)
私の場合は、飽く迄も、趣味として、漢文に興味を持って、独習してゐるため、中国語は全く知らないものの、次のやうなことは、本で読むで、知ってゐます。
(66)
 返り点送り假名は要するに支那語を國語に譯す方法であって決して讀み方ではない。讀み方とはその國の人々が讀む様に讀むのが讀み方である(「図書」 第四年第四二号、一九三九年七月、岩波書店)。

漢音や呉音で直読するというのは、現代中国語の学習とは全く離れてしまうので、ここでは問題外とするが、この青木氏の主張が、当時のいわゆる支那語の学習成果を一直線に中国古典の読み方に結びつけ、これによって古典をいかに早く、多く、正確に理解するか、ということを提唱したことは、きわめて斬新であり、示唆的である(牛島徳次、中国古典の学び方、1977年、14頁)。

専門家と称する人たちの大部分、99.9%は(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである。これは厳たる事実である(二畳庵人、漢文法基礎、1984年、62頁)。

さすがに、現在においては、「漢文訓読法」でなければ、日本人だけでなく、中国人も中国の古典は理解できない、などという倒錯した主張をなす者はいなくなった。今から考えてみれば、「漢文訓読法」派は単に現代中国語ができなかっただけのことではなかったか、そのようにさえ思えてくる(勉誠出版、訓読論、2009年、2頁)。

このように、中国語学の専門家の間に音読派と、訓読派という二大別があり、お互いの利点を論じあているのが現状である。それが高校過程における漢文解釈にさまざまな関わりを持っている、というわけである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、64頁)。

加へて、
(67)
I=36:
エスペラント運動は、来年で百周年を迎へると言はれてゐた頃の、
①「ラジオ番組(外国語への招待、頼惟勤)」の録音 と、
復元された、8世紀の長安の音が聴ける、
②「図書館から借りたVHS(漢詩の鑑賞、石川忠久)」
に触発されて、
漢文の「音読(復文)」は、「漢音」の、歴史的假名遣を、その通りに、読むべきである。
と考へて、漢和辞典の漢音を、一冊分、そのまま暗記しようとして、途中で断念した。 といふ経緯があります。
そのため、
(68)
「漢音・呉音」の「漢音」に、興味はあっても、今は、「漢音・呉音・慣用音」をごちゃまぜにして、思ひ付くままの「漢字音」で、「音読(復文)」してゐます。
平成24年04月30日
(69)
①近(塞上)之人有〔善(術)者〕⇒
②(塞上)近之人〔(術)善者〕有=塞上に近きの人に術を善くする者有り。
③A(BC)DEF〔G(H)I〕⇒
④(BC)ADE〔(H)GI〕F=・・・・・。
⑤二(B一)DE二〔レ(0)一〕⇒
⑥(B一)二DE〔(0)レ一〕二=・・・・・。

①近(塞上)之人有〔善(術)者〕
③A (B C) D E  F〔G (H) I 〕
⑤二(B一) D E 二〔レ (0)一〕

近=二
上=一
有=二
善=レ
術=0
者=一

「私の解釈」による「返り点」は、
二 一 二 レ 0 一。

現行の、学校で習う「返り点」は、
二 一 二 レ   一。

二 一 二  レ  0 一 は、
二 一 下  二 一 上 
に書き換えられ、
二 一  下 二 一 上 は、
(   )  〔  (   )  〕
のように、「括弧」と、重なる。
然るに、
(70)
塞上に近きの人に善くする者有り。
という国語に対して、
靠近辺境(住)的人中有个精通朮数的人(青木五郎、現代中国語で読む古典、6頁)。
は、中国語(普通話)。
従って、
(71)
「語彙」に関しては、
国語漢字は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用しているが、本場の中国においては、そのことばが死語になっていて、現在では別のいいかたがふつうになっている(鈴木修二、漢語と日本人、1978年、206頁)。
(72)
「発音」に関しては、
また厳格に言えば、北京語に依る音読は他の発音に依る音読と比べると、古典中国語の正しい理解のためには特別な欠点をいくつか示す。その欠点は発音や文法に関するものである。発音上の問題は皆北京語の音声磨滅に依るものである。現在生きている多数の漢字の発音の間では、いちばん 極端な磨滅を被ったのは異論の余地なく北京語である((二十一世紀の漢文-死語の将来- Jean-Noel A. ROBERT  ジャン-ノエル ロベール フランス パリ国立高等研究院 教授)。
(73)
「文法」に関しては、
北京語の音声系統と同様に、歴史的情勢を考えてみると、北京語の文法構造が他の中国系の「方言」と比べて、厳しい変化過程を経て非常に遠ざかっていたと認めざるを得ない(同じく、Jean-Noel A. ROBERT 教授)。
との、ことである。
平成25年05月15日

0 件のコメント:

コメントを投稿