2013年5月18日土曜日

英文訓読-『菊と刀』-

(01)
いる=ゐる〔ワ行上一段〕 ②ある場所に存在する(大修館書店、古語林)。
be=2.exist;occupy a place or position(旺文社、シニア英英辞典).
to=に(於いて、向けて)、
in=(に住む所)の、
従って、
(02)
① 私は日本にいる。
② 私は〔(日本)に〕いる.
③ I 〔(Japan)in〕am.
④ I am 〔in(Japan)〕.
(03)
① I am  writing  this  blog to my  friend in  U.S.A
② I am(writing{this  blog   to[my  friend 〔in(U.S.A.)〕]}).
③ I({this blog[〔(U.S.A.)in〕my friend]to}writing)am.
④ 私は({このブログを[〔(アメリカ)の〕友人]に}書いて)いる。
(04)
①日本人は世界のどの国民に対しても、これまでに使われた中では最も途方もない、一連の『だが一方で』の句で以て、描写されてきた。
②日本人は({[〔({[〔(世界)の〕どの国民]に対しても}これまでに使われた中では)最も途方もない、一連の『だが一方で』の句〕で以て]描写}されて)きた。
③The  Japanese ({[〔({[〔(the world)of〕any  nation]for}ever  used)the most fantastic series of ‘but also’s’〕in]described}been) have.⇒
④The  Japanese have(been{described[in〔the most fantastic series of ‘but also’s’(ever  used{for[any  nation 〔of(the world)〕]})〕]}).
従って、
(05)
「be動詞」や、「前置詞」も踏まえて、「括弧」を付けようとすると、
④I am writing this blog to my friend in U.S.S.R.
のような、中学生レベルの英語であっても、
 {[〔( )〕]}では、足りずに、
({[〔( )〕]})を、必要とし、
「菊と刀(Ruth Benedict)」の場合は、少なくとも、、
({[〔({[〔( )〕]})〕]})を、必要とする。
従って、
(06)
During  the  past  seventy  five  years  since  Japan’s  closed  doors  were  opened,the Japanese  have been  described  in  the  most  fantastic  series  of ‘but also’s’ever used  for any  nation  of  the  world.  When  a  serious  observer  is  writing  about  peoples other  than  the Japanese  and   says  they  are  unprecedently polite, he isn’t  likely  to  add,‘But  also  insolent  and  overbearing.
に対して、「括弧」を加えると、
(07)
During{the  past  seventy  five  years[since〔Japan’s  closed  doors  were(opend,)〕]}The Japanese  have(been{described[in〔the   mos t fantastic  series  of ‘but also’s’(ever  used{for[any   nation 〔of(the  world)〕]})〕]}). When〔a  serious  observer  is(writing{about[peoples〔other  than(the  Japanese)〕]})and  says〔they are(unprecedently polite)〕〕, he isn’t [likely〔to add,(‘But also insolent  and  overbearing.’ )〕]
従って、
(08)
「変換」すると、
{[〔Japan’s  closed  doors(opened,)were〕since]the  past  seventy  five  years}During.The Japanese ({[〔({[〔(the world)of〕any  nation]for}ever  used)the  most  fantastic  series of ‘but also’s’〕in]described}been) have.〔a  serious  observer({[〔(the  Japanese)other  than〕peoples]about}writing)is〕When and  〔they (unprecedently polite)are〕says, he [〔(‘But alsoinsolent  and  overbearing.’ )to add,〕likely]isn’t.
(09)
日本語に置き換えると、
{[〔日本の閉ざされたドアが(開か)れて〕から]過去七十五年の}間、 日本人は({[〔({[〔(世界)の〕どの国民]に対しても}これまでに使われた中では)最も途方もない、一連の『だが一方で』の句〕で以て]描写}されて)きた。〔真剣に観察する人が({[〔(日本人)以外の〕国民に]ついて}書いて)いて、そして〔彼らは(ほかに例を見ないほど礼儀正しい)です〕と書く〕際に、その彼が[〔(『だが、無礼で横暴だ』と)付け加えることは〕有りそうに]ない。
従って、
(10)
「括弧」を除くと、
日本の閉ざされたドアが開かれてから過去七十五年の間、日本人は、世界のどの国民に対しても、これまでに使われた中では最も途方もない、一連の『だが一方で』の句で以て、描写されてきた。真剣に観察する人が日本人以外の国民について書いていて、そして彼らはほかに例を見ないほど礼儀正しいです。と書く際に、その彼が、『だが、無礼で横暴だ』と付け加えることは有りそうにない。
 cf.
日本がその閉ざされた扉を開いてから過去七十五年の間、日本人は、かつて世界中のどの国民に対しても使われたことがないような、途方もない一連の『だが同時に』の句によって語られてきた。日本人以外の国民について、それを綿密に観察した上で、ほかに例を見ないほど礼儀正しいと言っておきながら、「だが同時に無礼で横柄である」との表現をつけ加えるなどということはあまり考えられない(斎藤兆史、英文法の論理、2007年、150頁)。
従って、
(06)(10)により、
(11)
During  the  past  seventy  five  years  since  Japan’s  closed  doors  were  opened,the Japanese  have been  described  in  the  most  fantastic  series  of ‘but also’s’ever used  for any  nation  of  the  world.  When  a  serious  observer  is  writing  about  peoples other  than  the  Japanese  and   says  they  are  unprecedently  polite, he isn’t  likely  to  add,‘But  also  insolent  and  overbearing.
は、「括弧」を用いて、
日本の閉ざされたドアが開かれてから過去七十五年の間、日本人は、世界のどの国民に対しても、これまでに使われた中では最も途方もない、一連の『だが一方で』の句で以て、描写されてきた。真剣に観察する人が日本人以外の国民について書いていて、そして彼らはほかに例を見ないほど礼儀正しいです。と書く際に、その彼が、『だが、無礼で横暴だ』と付け加えることは有りそうにない。
という風に、「変換」出来る。
従って、
(12)
①You Are Tom.
①You Are Who.
の場合も、
①You Are(Tom)⇒
②You(Tom)Are =あなたはトムである。
①You Are(Who)⇒
②You(Who)Are =あなたは誰であるか。
のように、「変換」出来る。
加えて、
(13)
①Are You Tom?
①Are You Who.
も、
①Are (You Tom)⇒
②(You Tom)Are  =あなたはトムですか。
①Are (You Who)⇒
②(You Who)Are =あなたは誰ですか。
のように、「変換」出来る。
然るに、
(14)
①Who Are You?
は、
②あなたは誰ですか。
という風に、「変換」することは、出来ない。
(15)
①You Who Are =123=あなたは誰です・か。
に対して、
②You Are Who =13(2)  ⇒ 1(2)3
③Who You Are =2(1)3  ⇒(1)2 3
④Who Are You =23〔1〕⇒(1)2
⑤Are You  Who=3(12)  ⇒(12)3
⑥Are Who You =3〔2(1)〕⇒〔(1)2〕3
であるものの、
④Who Are You =2(31)〔12〕3
のような、「括弧」は無いため、
②You Are Who?
③Who You Are?
④Who Are You?
⑤Are You Who?
⑥Are Who You?
という五つの中にあって、唯一、
④Who Are You?
という「WH疑問文(WH移動)」だけは、
①You Who Are =123=あなたは誰です・か。
に、「変換」できない。
従って、
(16)
During  the  past  seventy  five  years  since  Japan’s  closed  doors  were  opened,the Japanese  have been  described  in  the  most  fantastic  series  of ‘but also’s’ever used  for any nation  of  the  world.  When  a  serious  observer  is  writing  about  peoples other  than  the  Japanese  and   says  they  are  unprecedently  polite, he isn’t  likely  to  add,‘But  also  insolent  and  overbearing.
のような「英語」は、「変換」出来るにも拘わらず、
Who Are You?
という「WH疑問文(WH移動)」は、「変換」出来ない。
然るに、
(17)
「論語(巻第九、微子第一八、六)には、
①子為(誰)⇒
②子(誰)為=子は誰と為す。
と在って、
【子】シ、 ス       ⑥あなた、おんみ、第二人称の敬称。
【為】[爲]イ(ヰ) ⑥なり。  ・・・である。 
【誰】スイ     ①だれ、たれ、た。疑問や反語に用いる。
(角川新字源、改訂版、1994年)
である。
従って、
(18)
子=You
為=Are
誰=Who?
であるため、「論語」には、
②子  為   誰 ?
②You Are Who ?
という、「WH移動」を起こしていない、「WH疑問文」が、認められる。
従って、
(19)
ある時代の英語も、あるいは、
②You Are Who?
という「語順」で、あったのかも、知れない。
その次の、ある時代には、
⑤Are You Who?
になり、更に、それが、
④Who Are You?
に変わり、その「結果」として、
During  the  past  seventy  five  years  since  Japan’s  closed  doors  were  opened,the Japanese  have been  described  in  the  most  fantastic  series  of ‘but also’s’ever used  for any  nation  of  the  world.  When  a  serious  observer  is  writing  about  peoples other  than  the  Japanese  and   says  they  are  unprecedently  polite, he isn’t  likely  to  add,‘But  also  insolent  and  overbearing.
のような「英語」は、「変換」出来るにも拘わらず、
④Who Are You?
という「WH疑問文(WH移動)」は、「変換」出来ない。のかも、知れない。
然るに、
(20)
いづれにせよ、
④Who Are You =2(31)⇒(1)2
という「括弧」は、有り得ないし、
 三 一
という、「返り点」も、存在しない。
従って、
(21)
「漢文」には、
④誰 為 子 =23〔1〕⇒〔12〕3
のような「語順」が、無いからこそ、
①レ
②一 二 三 四 五 ・・・・・
③上 中 下
④甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤天 地 人
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
という、「返り点と括弧」で、「漢文」の語順を、「訓読」の語順に、「変換」出来ることになる。
然るに、
(22)
「漢文」が、「返り点と括弧」で、「日本語」の語順に「変換」出来るということは、「漢文の語順」と「訓読の語順」が、「規則正しく、異なっている」ということを、意味している。
然るに、
(23)
「規則正しく、異なっている」ことと、「ランダムに、異なっている」こととは、同じではなく、「規則正しく、異なっている」ということは、ある意味で、「異なっていない」とすることも、可能な、はずである。
従って、
(24)
私が思うに、
「どこに外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だとするのである(中村作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、「訓読」論、2008年、1頁)。
という見解は、皮相である。
(25)
更に言えば、
古英語が、むしろ、古ドイツ語であるならば、ドイツ語は英語ではない。が故に、古中国語(漢文)は、中国語(普通話)ではない。とすることも、出来るのであって、だとすると、漢文を学ぶためには、現代中国語(普通話)の知識が必要である。という言い方は、古英語を学ぶためには、ドイツ語の知識は必要ない。という言い方と同じく、理屈が、通らない。
cf.
文献にはじめて現われた時代、つまり700年頃から1100年頃までの英語を古英語(Old English)と言うが、その古英語の特徴を一口にいえば「一種のドイツ語の方言の文法である」と言ってよい〔渡辺昇一、英語の歴史、1983年、70頁〕。言語学上、英語もドイツ語と同じインド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、2千年ほど前に共通の祖先から分かれたと考えられるため、共通点が多い。しかし、両語がたどった歴史的背景から(とりわけ中世以降)、相違が広がった〔ウィキペディア:ドイツ語〕。北京語の音声系統と同様に、歴史的情勢を考えてみると、北京語の文法構造がの中国系の「方言」と比べて、厳しい変化過程を経て非常に遠ざかっていたと認めざるを得ない〔二十一世紀の漢文-死語の将来、ジャン-ノエル ロベール フランス パリ国立高等研究院 教授〕。    

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