―「03月21日の記事」を書き直します。―
(01)
① ∀y∃x親(xy)
② ∀y∃x親(yx)
③ ∃y∀x親(yx)
④ ∃y∀x親(xy)
然るに、
(02)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、AIプログラミング、2008年、13頁)。
むやみに括弧が多くなることは我慢でないのである(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)。
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① ∀y(∃x(親(xy)))
② ∀y(∃x(親(yx)))
③ ∃y(∀x(親(yx)))
④ ∃y(∀x(親(xy)))
然るに、
(04)
① ∀y(∃x(親(xy)))
② ∀y(∃x(親(yx)))
③ ∃y(∀x(親(yx)))
④ ∃y(∀x(親(xy)))
に於いて、「左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を、先に読むことにする」。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① ∀y∃x親(xy)
② ∀y∃x親(yx)
③ ∃y∀x親(yx)
④ ∃y∀x親(xy)
といふ「述語論理」は、
① ∀y(∃x(親(xy)))
② ∀y(∃x(親(yx)))
③ ∃y(∀x(親(yx)))
④ ∃y(∀x(親(xy)))
といふ「述語論理」と、
① (((xy)親)∃x)∀y
② (((yx)親)∃x)∀y
③ (((yx)親)∀x)∃y
④ (((xy)親)∀x)∃y
といふ「述語論理」に等しい。
然るに、
(06)
~=ではない。
∨=または、
&=尚且つ、
→=ならば、
( )=といふ
∃x=そのやうなxが存在する。
∀x=ことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことにする。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① ∀y∃x親(xy)
② ∀y∃x親(yx)
③ ∃y∀x親(yx)
④ ∃y∀x親(xy)
といふ「述語論理」に対して、「括弧」を用ゐて、
① (((xy)親)∃x)∀y=
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなxが存在する。)といふことは、全てのyに於いて、正しい。
② (((yx)親)∃x)∀y=
② (((yはxの)親である。)といふ、そのやうなxが存在する。)といふことは、全てのyに於いて、正しい。
③ (((yx)親)∀x)∃y=
③ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
④ (((xy)親)∀x)∃y=
④ (((xはyの)親である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
といふ風に、読むことにする。
然るに、
(08)
① (((xy)親)∃x)∀y=
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうな親xが存在する。)といふことは、全てのyに於いて、正しい。
といふことは、
① 全てのyには、親であるxがゐる。
といふことである。
(09)
② (((yx)親)∃x)∀y=
② (((yはxの)親である。)といふ、そのやうなxが存在する。)といふことは、全てのyに於いて、正しい。
といふことは、①とは「逆」に、
② 全てのyには、子であるxがゐる。
といふことである。
(10)
③ (((yx)親)∀x)∃y=
③ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
といふことは、
③ 全てのxの親はyである。
といふことである。
(11)
④ (((xy)親)∀x)∃y=
④ (((xはyの)親である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
といふことは、③とは「逆」に、
④ 全てのxの子はyである。
といふことである。
従って、
(08)~(11)により、
(12)
① 全てのyには、親であるxがゐる。
② 全てのyには、子であるxがゐる。
③ 全てのxの親はyである。
④ 全てのxの子はyである。
然るに、
(13)
「xとy」は、この場合は、「人間」である。
従って、
(12)(13)により、
(14)
① 全ての人には、親であるxがゐる。
② 全ての人には、子であるxがゐる。
③ 全ての人の親はyである。
④ 全ての人の子はyである。
然るに、
(15)
① 全ての人には、親であるxがゐる(た)。
といふ「命題」は「真(本当)」であるが、
② 全ての人には、子であるxがゐる。
といふのは、「明らかに例外のある一般化である(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、126頁)」。
(16)
③ 全ての人の親はyである。
といふのであれば、「ある人はすべての人の親であるという、明らかに偽なることを主張しており、また
④ 全ての人の子はyである。
は、ある人がすべての人を親としてもつということ主張しているが、これはなさら明らかに偽である(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、126頁)」。
従って、
(15)(16)により、
(17)
① ∀y(∃x(親(xy)))=
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなxが存在する。)といふことは、全てのyに於いて、正しい。
② ∀y(∃x(親(yx)))=
② (((yはxの)親である。)といふ、そのやうなxが存在する。)といふことは、全てのyに於いて、正しい。
③ ∃y(∀x(親(yx)))=
③ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
④ ∃y(∀x(親(xy)))=
④ (((xはyの)親である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
といふ「解釈」は、正しい。
然るに、
(18)
「xとy」は、「変数(仮の名前)」であるため、
① 全ての人には、親であるxがゐる。
② 全ての人には、子であるxがゐる。
③ 全ての人の親はyである。
④ 全ての人の子はyである。
といふ「言ひ方」は、
① 全ての人には、親であるyがゐる。
② 全ての人には、子であるyがゐる。
③ 全ての人の親はxである。
④ 全ての人の子はxである。
といふ「言ひ方」と、「同じこと」である。
従って、
(18)により、
(19)
② ∀y(∃x(親(yx))) は、
② ∀x(∃y(親(xy))) と、「同じこと」である。
然るに、
(15)(16)により、
(20)
② ∀y(∃x(親(yx))) と、
④ ∃y(∀x(親(xy))) は、「同じ」ではない。
従って、
(19)(20)により、
(21)
② ∀x(∃y(親(xy))) と、
④ ∃y(∀x(親(xy))) は、「同じ」ではない。
従って、
(22)
述語論理
www.brl.ntt.co.jp/people/fujita/2012ai/materials/AI06.pdf
の「書き方」に合はせるならば、
② ∀x∃yp(x,y) と、
④ ∃y∀xp(x,y) は、「同じ」ではない。
然るに、
(23)
藤田(fujita)氏は、
② ∀x∃yp(x,y)
④ ∃y∀xp(x,y)
といふ「述語論理」を、
② すべてのxについて、それぞれp(x,y)であるようなxが存在する。
④ あるyが存在し、そのyに対してすべてのxについてp(x,y)である。
といふ風に、読んでゐる。
従って、
(24)
② ∀x(∃y(P(xy)))=
② (((xはyに対して)Pである。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
④ ∃y(∀x(P(xy)))=
④ (((xはyに対して)Pである。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
といふ「読み方」は、普通は、なされない。
然るに、
(25)
② ∀x∃yP(xy)=
② ∀x[∃y〔P(xy)〕]
に於いて、
P( )⇒( )P
∃y〔 〕⇒〔 〕∃y
∀x[ ]⇒[ ]∀x
といふ「倒置」を行ふと、
② ∀x[∃y〔P(xy)〕]⇒
② [〔(xy)P〕∃y]∀x=
② [〔(xはyに対して)Pである〕といふ、そのようなyが存在する。]といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「読み方」が、成立する。
然るに、
(26)
② 非不読漢文=
② 非[不〔読(漢文)〕]
読( )⇒( )読
不〔 〕⇒〔 〕不
非[ ]⇒[ ]非
といふ「倒置」を行ふと、
② 非[不〔読(漢文)〕]⇒
② [〔(漢文)読〕不]非=
② [〔(漢文を)読ま〕不る]非ず。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(27)
② ∀y∃x親(yx)=
② take any y:then there is x such that y is parent of x(Beginning Logic by E.J. Lemmon,1965年、99頁改).
であるため、
② ∀y∃x親(yx)
のオリジナルは、「英語」である。
従って、
(05)(24)~(27)により、
(28)
② ∀y∃x親(yx)=
② take any y:then there is x such that y is parent of x.
といふ「読み方」に対して、
② ∀x[∃y〔P(xy)〕]⇒
② [〔(xy)P〕∃y]∀x=
② [〔(xはyに対して)Pである〕といふ、そのようなyが存在する。]といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「読み方」を、「述語論理訓読」と呼ぶことにする。
従って、
(29)
⑤ ∃x[少女(x)&∀y〔少年(y)→愛(yx)〕]⇒
⑤ [(x)少女&〔(y)少年→(yx)愛〕∀y]∃x=
⑤ [(xは)少女であって、尚且つ、〔(yが)少年であるならば、(yはxを)愛する。〕といふことが、全てのyに於いて、正しい。]といふ、そのやうなxが存在する。
といふ「読み方」は、「述語論理訓読」である。
(30)
⑥ ∀x[少年(x)→∃y〔少女(y)&愛(xy)〕]⇒
⑥ [(x)少年→〔(y)少女&(xy)愛〕∃y]∀x=
⑥ [(xが)少年であるならば、〔(yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。〕といふ、そのやうなyが存在する。]といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「読み方」は、「述語論理訓読」である。
(31)
⑦ ∀x[∃y〔馬(y)&頭(xy)〕→∃y〔動物(y)&頭(xy)〕]⇒
⑦ (((y)馬&(xy)頭)∃y→〔(y)動物&(xy)頭〕∃y)∀x=
⑦ [〔(yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、〔(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在する。]といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「読み方」は、「述語論理訓読」である。
cf.
⑦ 馬の頭は、必ず、動物の頭である=
⑦ 馬に頭が有るならば、その頭は動物の頭である=
⑦ xが或る馬の頭であるならば、xは或る動物の頭である。といふことに、例外は無い=
⑦ xが或る馬の頭であるならば、xは或る動物の頭である。といふことは、全てのxに於いて、正しい=
⑦ Anything that is a head of a horse is a head of an animal(Beginning Logic by E.J. Lemmon,1965年、131頁).
然るに、
(32)
⑤ ∃x[少女(x)&∀y〔少年(y)→愛(yx)〕]
といふ「述語論理」は、
⑤ 少女為全少年所愛=
⑤ 少女為〔全少年所(愛)〕⇒
⑤ 少女〔全少年(愛)所〕為=
⑤ 少女〔全少年の(愛する)所と〕為る=
⑤ 全ての少年が愛してゐる所の少女が存在する。
といふ「漢文」に相当する。
(33)
⑥ ∀x[少年(x)→∃y〔少女(y)&愛(xy)〕]
といふ「述語論理」は、
⑥ 少年皆有其所愛少女=
⑥ 少年皆有〔其所(愛)少女〕⇒
⑥ 少年皆〔其(愛)所少女〕有=
⑥ 少年皆〔其の(愛する)所の少女〕有り=
⑥ 全ての、それぞれの少年には、愛してゐる所の少女がゐる。
といふ「漢文」に相当する。
(34)
⑦ ∀x[∃y〔馬(y)&頭(xy)〕→∃y〔動物(y)&頭(xy)〕]
といふ「述語論理」は、例へば、
⑦ 如馬有頭則其頭当為動物頭=
⑦ 如馬有(頭)則其頭当〔為(動物頭)〕⇒
⑦ 如馬(頭)有則其頭当〔(動物頭)為〕=
⑦ 如し馬に(頭)有らば則ち其の頭は当に〔(動物の頭)為る〕べし=
⑦ もし馬に頭が有るならば、その頭は当然、動物の頭でなければならない。
といふ「漢文」に相当する。
従って、
(28)~(34)により、
(35)
「漢文訓読」が可能であるやうに、「述語論理訓読」も可能である。
「述語論理訓読」が可能であるやうに、「漢文訓読」も可能である。
然るに、
(36)
同じ意味内容ものが修辞とか倒置法とかによっていろいろの形態で表現されうるが、論理学では、表現形態が相異なったいくつかの文が同じ意味内容を示すかぎり、それらを同一の命題としてとりあつかう、また日本語で表わそうと外国語で書こうと、同一の主張内容を示すかぎり、同一の命題と見なされる(上田泰治、論理学、1967年、40頁)。
従って、
(35)(36)により、
(37)
⑧ ∀x{∃y〔馬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)&頭(xy)〕]}⇒
⑧{〔(y)馬&(xy)頭〕∃y→[〔(y)牛&(xy)頭〕∃y]~} ∀x=
⑧{〔(yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、[〔(yは)牛であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyは存在し]ない。}といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「述語論理訓読」を行ふことには、何らの「問題」も無い。
従って、
(38)
⑧ ∀x{∃y〔馬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)&頭(xy)〕]}⇒
⑧{〔(y)馬&(xy)頭〕∃y→[〔(y)牛&(xy)頭〕∃y]~} ∀x=
⑧{〔(yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、[〔(yは)牛であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在し]ない。}といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「述語論理訓読」を行ふことが、「正しい」のであれば、
⑧ 如馬有頭則其頭不当為牛頭=
⑧ 如馬有(頭)則其頭不[当〔為(牛頭)〕]⇒
⑧ 如馬(頭)有則其頭[当〔(牛頭)為〕]不=
⑧ 如し馬に(頭)有らば則ち其の頭は[当に〔(牛の頭)為る〕べから]不。
⑧ もしも馬に頭が有るのであれば、その頭は、当然、牛の頭であるべきではない。
といふ「漢文訓読」を行ふことにも、何らの「問題」も無い。
然るに、
(39)
如=J
馬=B
有=Y
頭=Z
則=S
其=K
頭=Z
不=F
当=T
為=W
動=A
物=R
頭=Z
とすれば、
⑦ 如馬有頭則其頭不当為動物頭=
⑦ JBYZSKZFTWARZ。
である。
従って、
(40)
⑦ 如馬有頭則其頭不当為動物頭=
⑦ JBYZSKZ不TWARZ。
であることから、「漢文」は、「xやy」といふ「変数」を必要としない、「述語論理(のやうな言語)」である。
従って、
(38)(40)により、
(41)
「漢文」は、固より、「述語論理」のやうな「言語」である。と、するならば、
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
といふ具合に、「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと、嘆く、必要は、無い。
(42)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
然るに、
(43)
この辞典では、音韻論によって復元できる発音の姿を「上古(周・秦・漢)―中古(隋・唐)―中世(宋・元・明)―現代(北京式ローマ字綴りもそえた)」四段式に分けて、おもな親字につけた(学研漢和大辞典、1978年、編者のことば)。
従って、
(44)
「論語や孟子」を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読するのでなく、「上古(周・秦・漢)」で読むのであれば、分らないでもない。
(45)
① ∀y∃xP(xy)=
① take any y:then there is x such that x is parent of y.
に於いて、
① take any y:then there is x such that x is parent of y.
は「英語」であるが、
① ∀y∃xP(xy)
は「英語」ではない。
然るに、
(46)
漢文はその発生の初めから知的に整理された中国の文章語で、紀元前の文献である『論語』や『孟子』のころにはすでに記載語として成立していた。その文章は当時の口語の煩雑さを整理して、より簡潔な形に凝集させたものである。― 中略 ―、このようにして文章語が口語よりもより簡潔な形であると意識されたとき、文章語は意識的に簡潔な上にも簡潔な方向へと自らを練り上げて行った。『論語』の文章はすでにその段階にあり、当時の口語とは相当の違いがあったと推察される(ウィキペディア:漢文)。
従って、
(45)(46)により、
(47)
① take any y:then there is x such that x is parent of y.
に対する、
① ∀y∃xP(xy)
といふ「述語論理」が、「英語」ではないやうに、
① 毎个人都有自己的父母(グーグル翻訳)。
に対する、
① 人皆有親。
といふ「漢文」は、「中国語(北京語)」ではない。
従って、
(41)~(47)により、
(48)
従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにする。
といふ「方法」が、「正しい方法」であるとは、私には、思へない。
平成28年03月23日、毛利太。
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