2016年3月5日土曜日

英語、漢文訓読、論理学訓読。

―「03月04日の記事」を書き直します。「括弧」は、有ります。―
(01)
論理学では、表現形態が相異なったいくつかの文が同じ意味内容を示すかぎり、それらを同一の命題としてとりあつかう、また日本語で表わそうと外国語で書こうと、同一の主張内容を示すかぎり、同一の命題と見なされる。
(上田泰治、論理学、1967年、40頁)
従って、
(02)
① y皆有其親。
② 少年皆有其所愛少女。
③ 無人不死。
④ 無親不愛其子。
⑤ 非無親不愛其子。
といふ「命題」は、
① 全てyには、親である所のxがゐる。
② 全ての少年には、好きな少女がゐる。
③ 不死身の人間は存在しない。
④ 親であって、自分の子供を愛さない者はゐない。
⑤ 親であって、自分の子供を愛さない者は、無きに非ず。
といふ「命題」と、
① Every y has its parent.
② Every boy loves a certain girl.
③ The immortal human being does not exist.
④ There is not the parent who does not love one's child.
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「命題」に等しい。
然るに、
(03)
① 全てyには、親である所のxがゐる。
② 全ての少年には、好きな少女がゐる。
③ 不死身の人間は存在しない。
④ 親であって、自分の子供を愛さない者はゐない。
⑤ 親であって、自分の子供を愛さない者は、無きに非ず。
といふ「命題」は、
① ∀y∃x(Pxy)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ~∃x(Mx&~Dx)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))
といふ風に、「記号化」される。
然るに、
(04)
むやみに括弧が多くなることは我慢でないのである(E.J.Lemmon、論理学初歩、1973年、59頁)。

括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、AIプログラミング、2008年、13頁)。
従って、
(03)(04)により、
(05)
「括弧」を「省略」しない場合は、
① ∀y(∃x(P(xy)))
② ∀x(B(x)→∃y(G(y)&L(xy)))
③ ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
④ ∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy)))))
⑤ ~(∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy))))))
とするのが、「正しい」。
然るに、
(06)
① ∀y(∃x(P(xy)))
② ∀x(B(x)→∃y(G(y)&L(xy)))
③ ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
④ ∀x(P(x)→~∃y(C(yx)&~(L(xy)))))
⑤ ~(∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy))))))
のやうに、「丸括弧」だけでは、読みにくいため、
「( )〔 〕[ ]{ }〈 〉《 》」を用ゐて、
① ∀y[∃x〔P(xy)〕]
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
とする。
然るに、
(07)
実際に、a+bの代わりに、日本語の「aとbを足す」という表現に応じて、ab+という記号で足し算を表しても支障はない。「ab+なんて思いっきりヘン」と感じるかもしれないが、それは「慣れていないだけ」である。その証拠に、ab+のような「日本語の語順に応じた記号」の体系が構成されていて、それが有益であることが実証されている。
(中島匠一、集合・写像・論理、2012年、190頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ∀y[∃x〔P(xy)〕]
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
といふ「論理式」は、
① [〔(xy)P〕∃x]∀y
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x} ~
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x
⑤ 《〈P(x)→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
といふ「論理式」に、等しい。
従って、
(03)~(08)により、
(09)
① ∀y∃x(Pxy)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ~∃x(Mx&~Dx)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))
といふ「論理式」は、
① [〔(xy)P〕∃x]∀y
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x
⑤ 《〈P(x)→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
といふ「論理式」に、等しい。
然るに、
(10)
① ∀y∃x(Pxy)⇒
① [〔(xy)P〕∃x]∀y=
① xはyの親である。といふ、そのやうなxが存在する。といふことは、全てのyに於いて、正しい。
(11)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))⇒
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x=
② xが少年であるならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛する。といふ、そのやうなyが存在することは、全てのxに於いて、正しい。
(12)
③ ~∃x(Mx&~Dx)⇒
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
(13)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))⇒
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x=
④ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
(14)
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))⇒
⑤ 《〈P(x)→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
⑤ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。といふわけではない。
然るに、
(15)
① y皆有其親 ⇒
① y皆(其親)有=
① y皆、其の親有り。
(16)
② 少年皆有其所愛少女 ⇒
② 少年皆〔其(愛)所少女〕有=
② 少年皆、其の愛する所の少女有り。
(17)
③ 無人不死 ⇒
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し。
(18)
④ 無親不愛其子 ⇒
④ [親〔(其子)愛〕不]無=
④ 親として、其の子を愛さ不るは無し。
(19)
⑤ 非無親不愛其子 ⇒
⑤ {[親〔(其子)愛〕不]無}非=
⑤ 親として、其の子を愛さ不るは無きに非ず。
従って、
(09)~(19)により、
(20)
例へば、
③ 無人不死 ⇒
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し。
といふ「翻訳」が、「漢文訓読」であるのに対して、
③ ~∃x(Mx&~Dx)⇒
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「翻訳」は、「述語論理訓読」である。
従って、
(01)(20)により、
(21)
③ 無人不死=
③ 〔人(死)不〕無=
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「等式」が成立する。
然るに、
(22)
無=No
人=man
不=doesn't
死=die.
従って、
(21)(22)により、
(23)
③ 無人不死=
③ No man doesn't die=
③ 〔人(死)不〕無=
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「等式」が成立する。はずである。
然るに、
(24)
このような用法は、特に英語で問題になる。たとえば、Nobody don't like me. (誰も僕を好いてくれない)や I don't know nothing. (僕は何も知らない) などがこれにあたる(ウィキペディア:二重否定)。
従って、
(24)により、
(25)
実際には、
③ No man doesn't die=
③ 死なない人間は、存在しない。
ではなく、
③ No  man doesn't die=
③ Any man doesn't die=
③ 一人も死なない(誰も死なない)。
といふことになる。
従って、
(21)(23)(25)により、
(26)
③ 無人不死=
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し=
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
に対する、
③ No  man doesn't die=
③ Any man doesn't die=
③ 一人も死なない(誰も死なない)。
といふといふ「英語」は、「論理的」にはヲカシイのであって、次の(27)は、そのことを、述べてゐる。
(27)
しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した。とりわけ聖職者ロバート・ラウスが 1762 年に出版した文法書 A Short Introduction to English Grammar with Critical Notes は否定呼応を否定の否定であるとみなし(今日の言語学的観点からすれば誤解)し、この表現を非文法的な言い方の最もたるものとしている。これにより英語は否定呼応を用いる言語から緩叙法を用いる言語へと半ば強制的に変換させられた。
(ウィキペディア:二重否定)
(28)
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語」を、「機械翻訳」すると、
⑤ 自分の子供を愛していない親が存在しないというのは本当ではありません。
といふことになる。
従って、
(01)(14)(18)(28)により、
(29)
⑤ 非無親不愛其子 ⇒
⑤ {[親〔(其子)愛〕不]無}非=
⑤ 親として、其の子を愛さ不るは無きに非ず。
といふ「漢文訓読」と、
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))⇒
⑤ 《〈P(x)→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
⑤ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。といふわけではない。
といふ「述語論理訓読」は、
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語」に等しい。
然るに、
(30)
⑤ 非=~=No
⑤ 無=~=no
⑤ 不=~=not
に相当するは、
⑤ It is not true that
⑤ there is not
⑤ who does not
であるため、
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語の三重否定」は、
⑤「漢文」や、
⑤「述語論理」に於ける、それとは、同じではない。
従って、

(30)により、
(31)
厳密に言へば、
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語」は、「三重否定」ではない。
(32)
① Every y has its parent.
② Every boy loves a certain girl.
③ The immortal human being does not exist.
④ There is not the parent who does not love one's child.
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
に対する、
① ∀y∃xPxy
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ~∃x(Mx&~Dx)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))
であるため、「述語論理」には、「主語」が有る。
然るに、
(33)
⑥ If it rains tomorrow, We will not go on a picnic.
のやうなそれを、
⑥  P=It rains tomorrow.
⑥  Q=We will go on a picnic.
⑥ ~Q=We will not go on a picnic.
とした上で、
⑥ P→~Q
とするのが、「命題論理」であるため、「命題論理」には、「主語」が無い。
然るに、
(34)
⑥ Pならば、Qではない。
に於いて、
 P=P
 →=ならば、
Q~=Qではない。
であるため、
⑥ Pならば、Qではない。
といふ「日本語(逐語訳)」にも、「主語」が無い。
然るに、
(35)
主語強要言語は以下の通りである。
英語、ドイツ語、フランス語、ロマンシュ語(スイス)、オランダ語、スカンディナヴィア言語(ノルウェー語、スウェーデン語、デンマーク語)
ここに挙げられた以外の言語はすべて主語非強要言語である。ということで、圧倒的多数の言語には主語が必要ないのである。
(月本洋、日本語は論理的である、2009年、66頁)
従って、
(34)(35)により、
(36)
⑥ P→Q~=
⑥ Pならば、Qではない。
といふ「日本語(逐語訳)」に対して、「英語」の場合は、
⑥ It is P. Then it is not Q.(ヤフー!翻訳)
⑥ It's P. When it is, it isn't Q.(エキサイト翻訳)
がさうであるやうに、
⑥ It is P. It is not Q.
といふ、「意味の無い、It(主語)is」を必要とする。
従って、
(26)により、
(37)
③ 無人不死=
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し=
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
といふ「二重否定」に対する、
③ No  man doesn't die=
③ Any man doesn't die=
③ 一人も死なない(誰も死なない)。
といふといふ「英語」は、「非論理的」である。
加へて、
(29)(31)により、
(38)
⑤ 非無親不愛其子 ⇒
⑤ {[親〔(其子)愛〕不]無}非=
⑤ 親として、其の子を愛さ不るは無きに非ず。
に対する、
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語」は、厳密には、「三重否定」とは言へない。
加へて、
(36)により、
(39)
⑥ P→~Q
を「翻訳」する際に、「意味の無い、It(主語)is」を必要とする。
といふ点に於いても、「英語」は、「非論理的」である。
従って、
(37)(38)(39)により、
(40)
「英語」は、「漢文や日本語」よりも、「非論理的」である。
然るに、
(41)
He was an old man who fished alone in a skiff in the Gulf Stream and he had gone eighty four days without taking a fish.
は「英語」であり、
I decided to try and write a popular book about space and time after the Loeb lectures at Harvard in 1982.
は「英語」であるだけなく、
The aim of the book is to provide the student with a good working knowledge of propositional and predicate calculi ― the foundations upon which modern symbolic logic.
も「英語」である。
然るに、
(42)
「論理学の教科書」が「英語」で書かれてゐる。といふ、その一方で、「英語」が「非論理的な言語」である。といふことは、有り得ない。
従って、
(01)~(42)により、
(43)
「英語」は、
「漢文・訓読」よりも「非論理 的」なのではなく、
「漢文・訓読」よりも「非論理学的」であると、すべきである。

(44)
平成28年03月05日、毛利太。
③ Mx=x is Man.
③ Dx=x Dies.
であるため、その意味では、「英語の語順」としては、
③ xM=x is Man.
③ xD=x 
の方が、「自然」です。
ところが、
(45)
③ xM=x is Man.
③ xD=x Dies.
は、「命題関数」ので、
③ y=F(x)
にならって、
③ ∃x(M(x)&~D(x))
となります。
(46)
  D(x)
の「否定」が、
~(D(x))
であるため、
③  ∃x(M(x)&~(D(x)))
となります。
(47)
③   ∃x(M(x)&~(D(x)))
の「否定」なので、
③ ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
従って、
(03)~(06)、(44)~(47)により、
(48)
③  ~∃x(Mx&~Dx)=
③ ~(∃x(M(x)&~(D(x))))=
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}。
従って、
(49)
③  ~∃x(Mx&~Dx)=
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}⇒
③ {[M(x)&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「論理学訓読」が、成立します。
然るに、
(50)
③ 無人不死=
③ 無〔人不(死)〕⇒
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し。
従って、
(49)(50)により、
(51)
③ 無人不死。
の場合は、「全ての括弧が、省略されてゐる。」の対して、
③ ~∃x(Mx&~Dx).
の場合は、「殆どの括弧が、省略されている。」といふことに、なります。
従って、
(52)
③  ~∃x(Mx&~Dx).
といふ「述語論理」に、
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}.
といふ「括弧」が有るやうに、
③ 無人不死。
といふ「漢文」にも、「括弧」は有ります。
従って、
(53)
漢文とは、全く関係ない、「スタップ細胞」が有るかどうかは、分らないものの、
漢文には、「括弧」が有ります。
従って、
(54)
「括弧」を無視して、「漢文訓読」を行ふことは、有っては、ならない。
平成28年03月05日、毛利太。

0 件のコメント:

コメントを投稿