2018年6月14日木曜日

象は鼻は(が)長い。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)    
1     (1)   ∀x{象x→∃y(鼻yx& 長y)} A
1     (2)      象a→∃y(鼻ya& 長y)} 1UE
 3    (3)      象a              A
13    (4)         ∃y(鼻ya& 長y)  23MPP
  5   (5)            鼻ba& 長b   A
  5   (6)                 長b   5&E
   7  (7) ∃x∃y(動x&鼻yx&~長y)     A
    8 (8)   ∃y(動a&鼻ya&~長y)     A
     9(9)      動a&鼻ba&~長b      A
     9(ア)             ~長b      9&E
    8 (イ)             ~長b      89アEE
   7  (ウ)             ~長b      78イEE
  57  (エ)             ~長b&長b   6ウ&I
13 7  (オ)             ~長b&長b   45エEE
1  7  (カ)     ~象a              3オRAA
1  7 9(キ)     ~象a&動a&鼻ba&~長b   9カ&I
1  78 (ク)     ~象a&動a&鼻ba&~長b   89キEE
1  7  (ケ)     ~象a&動a&鼻ba&~長b   78クEE
1  7  (コ)  ∃y(~象a&動a&鼻ya&~長y)  ケEI
1  7  (サ)∃x∃y(~象x&動x&鼻yx&~長y)  コEI
従って、
(01)により、
(02)
(1)全てのxについて、xが象ならば、或るyはxの鼻であって、尚且つ、yは長い。
(7)或るxは動物であって、或るyはxの鼻であって、尚且つ、 yは長くない。
(サ)或るxは象ではない動物であって、或るyはxの鼻であって、yは長くない。
従って、
(02)により、
(03)
(1)象は鼻は長い。
(7)或る動物の鼻は長くない。
(サ)象ではない、鼻が長くない動物が存在する。
然るに、
(04)
(1)象は鼻は長い。然るに、
(2)或る動物の鼻は長くない。従って、
(3)象ではない、鼻が長くない動物が存在する。
といふ「推論」は、「正しい」。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① 象は鼻は長い。
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}
③ 全てのxについて、xが象ならば、或るyはxの鼻であって、尚且つ、yは長い。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(06)
「象は」といふ「語」は「象x」に「対応」し、
「鼻は」といふ「語」は「鼻y」に「対応」する。
然るに、
(07)
「述語論理」といふ「観点」からすると、
「象x」に於ける「象」は「述語」であって、「x」が「主語」であって、
「鼻y」に於ける「鼻」も「述語」であって、「y」が「主語」である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
「述語論理」といふ「観点」からすると、
① 象は鼻は長い。
といふ「日本語」に、「主語」があるとするならば、
① 象は鼻は長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
といふ「日本語」には、
① 象x(xは象である)
① 鼻y(yは鼻である)
といふ、「二つの主語」がある。
といふ、ことになる。
然るに、
(09)
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。 明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『文には主語が必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『は』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた。 ここまで言い切る大野なら、なぜ「日本語に主語はない」と文部科学省に断固抗議し、学校文法改正の音頭を取らないのだろう。言語学的に何ら根拠のない「ハとガの違い」の説明に拘泥し、三上章の「主語廃止論」を一蹴した国語学会の大御所である大野晋も、学問的に正しく批判さる日がやがて来るだろう。
(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)
従って、
(08)(09)により、
(10)
「金谷先生・三上先生の説」に従ふならば、
① 象は鼻は長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
といふ「日本語」に、「主語」は無い。
然るに、
(11)
私には、「よくは分からない」ものの、
ところで論理学文法の探求は、一方では分析哲学を論理学 ―― 数学的手法を駆使して論理を体系化していく学問 ―― に近づけ、他方では分析哲学を言語学に近づけると言えます(青山拓央、分析哲学講義、2012年、22頁)。
との、ことである。
従って、
(12)
① 象は鼻は長い。
② 象は鼻が長い。
といふ「日本語」を、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「述語論理」に、「置き換へて」みることは、それなりに、「正しい、探究の仕方」であると、思はれる。
平成30年06月14日、毛利太。

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