―「03月16日の記事」を書き直します。―
(01)
① 読(漢文)⇒
① (漢文)読=
① (漢文を)読む。
に於いて、
① 読 は、
① 漢文 の「2字」に係ってゐる。
然るに、
(02)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である。管到の「管」は「領(おさめる)」の意味とほぼ同じと考えてよい。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、三八九頁)
それ故、
(01)(02)により、
(03)
① 読(漢文)⇒
① (漢文)読=
① (漢文を)読む。
に於いて、
① 読 の「管到」は、
① 漢文 の「2字」である。
この時、
(04)
Κ(読)=2
と書いて、「読 の管到は、2である。」と、読むことにする。
従って、
(05)
② 不〔読(漢文)〕⇒
② 〔(漢文)読〕不=
② 〔(漢文を)読ま〕ず。
の場合は、
Κ(不)=3
である。
従って、
(03)(05)により、
(06)
② 不〔読(漢文)〕⇒
② 〔(漢文)読〕不=
② 〔(漢文を)読ま〕ず。
に於いて、
Κ(読)=2
Κ(不)=3
である。
従って、
(07)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE。
に於いて、
Κ(有)=Κ(F)=12
Κ(不)=Κ(D)=10
Κ(求)=Κ(C)= 8
Κ(以)=Κ(8)= 4
Κ(解)=Κ(6)= 2
Κ(解)=Κ(B)= 2
であるならば、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉。
である。
然るに、
(08)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉。
に於いて、
6( )⇒( )6
8〔 〕⇒〔 〕8
B( )⇒( )B
C[ ]⇒[ ]C
D{ }⇒{ }D
F〈 〉⇒〈 〉F
といふ「倒置」を行ふと、
③ 12〈{3[〔6(45)7〕8(9A)B]C}DE〉F=
③ 中野〈{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんことを求めざる者有り。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(09)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、二九六頁)
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉。
に於ける、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( )]} 〉
といふ「括弧」は、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者。
といふ「漢文」に於ける、「補足構造」を表してゐる。
然るに、
(11)
④ 321。
⑤ 162543。
⑥ 7312645。
であれば、「これら」に対する「括弧」は、「見た瞬間」に、
④ 3〔2(1)〕。
⑤ 16〔25(43)〕。
⑥ 7〔3(12)6(45)〕。
であることが、分る。
従って、
(11)により、
(12)
③ 12FD3C86457B9AE。
であっても、「訓練」により、「見た瞬間」に、
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉。
であることが、分るやうになることは、「可能」である。
然るに、
(13)
③ 12FD3C86457B9AE。
といふ「数」を、
③ 123456789ABCDEF。
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」際の「括弧」は、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
以外には、有り得ない。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者。
に対する「括弧(補足構造)」が、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
であることは、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者。
といふ「漢文」自体が、示してゐるのと、同様に、
③ 12FD3C86457B9AE。
に対する「括弧(補足構造)」が、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
であることは、
③ 12FD3C86457B9AE。
といふ「数」自体が、そのことを示してゐる。
従って、
(10)(14)により、
(15)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE⇒
③ 123456789ABCDEF=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんことを求めざる者有り。
といふ「漢文訓読」に於ける、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者。
といふ「漢文」の「補足構造」は、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
といふ「括弧」と、
③ 12FD3C86457B9AE
といふ「数」が、示してゐる。
従って、
(08)(15)により、
(16)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者。
といふ「漢文」の「補足構造」は、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
③ 12FD3C86457B9AE
といふ『括弧と数』が、示してゐて、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんことを求めざる者有り。
といふ「漢文訓読」の「語順」も、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
③ 12FD3C86457B9AE
といふ『括弧と数』が、示してゐる。
然るに、
(17)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文__者=
③ 12FD3C86457B9A00E=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)_]_}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)_]_}E〉。
に於いて、
6( )⇒( )6
8〔 〕⇒〔 〕8
B( )⇒( )B
C[ ]⇒[ ]C
D{ }⇒{ }D
F〈 〉⇒〈 〉F
といふ「倒置」を行ふと、
③ 12〈{3[〔6(45)7〕8(9A)B_]C_}DE〉F=
③ 中野〈{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解_]求_}不者〉有=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんこと_を求め_ざる者有り。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(17)により、
(18)
( )=二 一
〔 〕=下 上
[ ]=乙 甲
{ }=地 天
〈 〉=坤 乾
とするならば、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文__者=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんこと_を求め_ざる者有り。
に付く「返り点」は、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
③ 坤 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天 乾
である。
然るに、
(19)
この場合、
_ は「黙字」であって、「発音されず」、尚且つ、「書かなくとも良い」ものとする。
従って、
(17)~(19)により、
(20)
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉。
に於ける、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
といふ「括弧」は、
③ 坤 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天 乾
といふ「返り点」であると、見なすことも、可能である。
cf.
従って、
(21)
「括弧」は、
( )=二 一
〔 〕=下 上
[ ]=乙 甲
{ }=地 天
〈 〉=坤 乾
_ =黙字
からなる、「返り点」であると、見なすことも、可能である。
然るに、
(22)
漢語文法の基礎となっている文法的な関係として、次の四つの関係をあげることができる。
(一)主述関係 主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281~284頁改)
従って、
(22)により、
(23)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉⇒
③ 12〈{3[〔6(45)7〕8(9A)B]C}DE〉F=
③ 中野〈{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんことを求めざる者有り。
に於ける、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( )]} 〉
といふ「括弧」は、
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
だけを、表してゐる。
然るに、
(24)
中=1=形容詞(middle)
野=2=名 詞(field)
必=3=副 詞(always)
英=4=形容詞(English)
文=5=名 詞(writing)
法=7=名 詞(method)
漢=9=形容詞(Chinese)
文=A=名 詞(writing)
者=C=名 詞(person)
従って、
(22)(23)(24)により、
(25)
1+2>F〈D{3+C[8〔6(4+5)+7〕B(9+A)]}+E〉。
とすることにより、
に於ける、「+」と「括弧」は、
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
を表してゐる。
従って、
(25)に加へて、
(26)
(一) 主語>述語
(四)並列語・並列語
とすれば、
1+2>F〈D{3+C[8〔6(4・5)+7〕B(9+A)]}+E〉。
とすることにより、
に於ける、「>」と「+」と「括弧」と「・」は、
1+2>F〈D{3+C[8〔6(4・5)+7〕B(9+A)]}+E〉。
に於ける、
(一)主述関係 主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
を表してゐる。
従って、
(27)
(Ⅰ)>
(Ⅱ)+
(Ⅲ)( )〔 〕[ ]{ }〈 〉
(Ⅳ)・
を用ゐることにより、
(一)主述関係 主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
といふ、「漢語文法の基礎となっている文法的である所の四つの関係」を、表すことが、出来る。
然るに、
(28)
デジタル大辞泉の解説
かく‐じょし【格助詞】
助詞の種類の一。体言または体言に準ずるものに付いて、それが文中で他の語とどんな関係にあるかを示す助詞。
従って、
(27)(28)により、
(29)
(Ⅰ)>
(Ⅱ)+
(Ⅲ)( )〔 〕[ ]{ }〈 〉
(Ⅳ)・
は、言はば、「格助詞(Case particle)」である。
平成28年03月17日、毛利太。
2016年3月17日木曜日
2016年3月12日土曜日
「括弧」と「補足構造」と「順番」と「返り点」。
(01)
一=(囗)
二=(囗囗)
三=(囗囗囗)
四=(囗囗囗囗)
五=(囗囗囗囗囗)
六=(囗囗囗囗囗囗)
七=(囗囗囗囗囗囗囗)
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗)
九=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
といふ風に、「理解」する。
従って、
(02)
九=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
七=(囗囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
七=(囗囗囗囗囗囗囗)は、
六=(囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
六=(囗囗囗囗囗囗)は、
五=(囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
五=(囗囗囗囗囗)は、
四=(囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
四=(囗囗囗囗)は、
三=(囗囗囗) 以下を「含んでる」。
三=(囗囗囗)は、
二=(囗囗) 以下を「含んでる」。
二=(囗囗)は、
一=(囗) 以下を「含んでる」。
一=(囗)は、
〇=( )を「含んでる」。
従って、
(03)
九は、八を「含んでゐ」て、八は、七を「含んでゐ」て、
七は、六を「含んでゐ」て、六は、五を「含んでゐ」て、
五は、四を「含んでゐ」て、四は、三を「含んでゐ」て、
三は、二を「含んでゐ」て、二は、一を「含んでゐ」て、
一は、〇を「含んでゐる」。
従って、
(04)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① 八( 七(二(一)三六(五(四))))=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxが存在し)ない。
① There is not an x such that x doesn't die.
に於いて、
~=八 といふ「一個の数」は、
∃x=七 以下の、
人=二
x=一
&=三
~=六
死=五
x=四
といふ、「七個の数」を含んでゐて、
∃x=七 といふ「一個の数」は
人=二 以下の、
x=一
&=三
~=六
死=五
x=四
といふ、「六個の数」を含んでゐる。
然るに、
(05)
Nは、「(N-1)個の数」を含んでゐる。
といふことを、
Nは、「(N-1)個の数」を「包含」する。
といふ風に、言ふことにする。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
① 八{ 七[二(一)三六〔五(四)〕]}。
に於ける、
① { 〔 ( ) 〔 ( )〕]}
といふ「括弧」は、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
といふ「述語論理」の、「包含関係」を表してゐる。
然るに、
(07)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)。対象が有限集合の場合は述語論理も命題論理に還元できます(吉永良正、ゲーデル・不完全性定理、1992、201頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
① 八{ 七[二(一)三六〔五(四)〕]}。
に於ける、「括弧」は、「述語論理」の、「包含関係」を表してゐて、尚且つ、「包含関係」とは、すなはち「スコープ」である。
従って、
(09)
① 不有人而不死。
といふ「漢文」に対して、
六=不
五=有
一=人
二=而
四=不
三=死
といふ「数」を与へることは、その一方で、
① 不有人而不死。
といふ「漢文」に対して、
① 不[有〔人而不(死)〕]。
といふ「包含関係(スコープ)」を与へることを、意味してゐる。
然るに、
(10)
六=不
五=有
一=人
二=而
四=不
三=死
といふ「それ」は、
一=人にし
二=て
三=死せ
四=ざるは
五=有ら
六=ず。九
といふ風に、「並び替へ(ソートす)る」ことが、出来る。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
① 不有人而不死=
① 六五一二四三=
① 不[有〔人而不(死)〕]=
① 六[五〔一二四(三)〕]⇒
① [〔一二(三)四〕五]六=
① [〔人而(死)不〕有]不=
① 人にして死せざるは有らず。
といふ「漢文訓読」が「可能」である「所以」は、
① 不有人而不=
① 不[有〔人而不(死)〕]。
に於ける、
① [ 〔 ( )〕]
といふ「括弧」に有る。といふことになり、尚且つ、
「括弧」=「包含関係」=「スコープ」
である。といふことになる。
然るに、
(12)
① 六[五〔一二四(三)〕]
に於いて、
① 六 は、一番、左にあって、
① [五〔一二四(三)〕] を「含んでゐる」。
(13)
① [〔一二(三)四〕五]六
に於いて、
① 六 は、一番、右にあって、
① [〔一二(三)四〕五] を「含んでゐる」。
(14)
① 四(三)
に於いて、
① 四 は、左から、
① (三) を「含んでゐる」。
(15)
① (三)四
に於いて、
① 四 は、右から、
① (三) を「含んでゐる」。
従って、
(11)~(15)により、
(16)
① 不[有〔人而不(死)〕]=
① 六[五〔一二四(三)〕]⇒
① [〔一二(三)四〕五]六=
① [〔人而(死)不〕有]不。
に於いて、
「括弧」=「包含関係」=「スコープ」
に、「変はり」は無い。
然るに、
(17)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である。管到の「管」は「領(おさめる)」の意味とほぼ同じと考えてよい。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、三八九頁)
然るに、
(18)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、二九六頁)
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 九七三一二六四五八=
② 有[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕者]=
② 九[七〔三(一二)六(四五)〕八]⇒
② [七〔(一二)三六(四五)〕八]九=
② 一二 三 四五 六 七 八九=
② 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
といふ「漢文訓読」が「可能」である「所以」は、
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 有[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕者]
に於ける、
② [ 〔 ( ) ( )〕 ]
といふ「括弧」に有る。といふことになり、尚且つ、
「括弧」=「包含関係」=「スコープ」=「補足構造」
である。といふことになる。
然るに、
(20)
③ 揮快断刀。
といふ「漢文」は、
③ 快断刀を断つ。
といふ風にしか、「訓読」することが、出来ない。
従って、
(21)
固より、
③ 有欲揮快断刀乱麻者=
② 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
といふ「漢文訓読」は、有り得ない。
加へて、
(22)
② 三(一二)六(四五)
といふ「包含関係(補足構造)」を、仮に、
② 三(一六二)四五
に変へてしまふと、
③ 三一六二
に於いて、
三=(囗囗囗)は、
一=(囗) と、
二=(囗囗)を「含んでゐる」ものの、
三=(囗囗囗)は、
六=(囗囗囗囗囗囗)を、「含んでゐない」。
然るに、
(23)
六=(囗囗囗囗囗囗)は、
五=(囗囗囗囗囗) を、「含んでゐる」ため、
② 三(一六二)四五 は、
② 三(一六〔二)四五〕 でなければ、成らない。
従って、
(23)により、
(24)
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 九七三一二六四五八。
といふ「包含関係(補足構造)」を、仮に、
③ 有欲揮快断刀乱麻者=
③ 九七三一六二四五八。
に変へてしまふと、「包含関係(補足構造)」が「破綻」する。
然るに、
(25)
② 九七三一六二四五八
② 有欲揮快断刀乱麻者。
といふ「それ」を、
③ 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
といふ風に、「括弧」を用ゐて「訓読」するためには、
③ 有{欲[揮(快断〔刀)乱麻〕]者}。
に於いて、
揮( )⇒( )揮
断〔 〕⇒〔 〕断
欲[ ]⇒[ ]欲
有{ }⇒{ }有
といふ「倒置」、行ふことになる。
然るに、
(26)
③ 有{欲[揮(快断〔刀)乱麻〕]者}。
に於いて、
③ (〔 )〕
は、「数学」であれば、
② ({ )}
に相当するため、
③ (〔 )〕
を含む、
③ { [ ( 〔 ) 〕] }
といふ「括弧」は、有り得ない。
加へて、
(27)
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 有[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕者]⇒
② [〔(快刀)揮(乱麻)断〕欲者]有=
② 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
に対する「返り点」が、
② 乙 下 二 一 中 上 甲
である一方で、
③ 有欲揮快断刀乱麻者=
③ 有{欲[揮(快断〔刀)乱麻〕]者}⇒
③ {[(快〔刀)揮乱麻〕断]欲者}有=
③ 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
に対する「それ」は、
③ 乙 下 二 中 一 上 甲
cf.
である。
然るに、
(28)
上中下点(上・下、上・中・下)
必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、四三頁)
従って、
(28)により、
(29)
③ 二 中 一
を含む、
③ 乙 下 二 中 一 上 甲
といふ「返り点」は、有り得ない。
従って、
(20)~(29)により、
(30)
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 九七三一二六四五八=
② 九七三一二六四五八。
といふ「包含関係(補足構造)」を、仮に、
③ 有欲揮快断刀乱麻者=
③ 九七三一六二四五八=
② 九七三一六二四五八。
に変へてしまふと、「包含関係(補足構造)」が「破綻」し、尚且つ、
③ { [ ( 〔 ) 〕] }
といふ「括弧」は、有り得ないし、
③ 乙 下 二 中 一 上 甲
といふ「返り点」は、有り得ないし、固より、
③ 揮快断刀。
といふ「漢文」は、
③ 快断刀を断つ。
といふ風にしか、「訓読」することが、出来ない。
然るに、
(31)
② 九 七 三 一 二 六 四 五 八
といふ「数」は、そのまま、
② 一二点
でもある上に、
② 9th 7th 3rd 1st 2nd 6th 4th 5th 8th
といふ「順番」を表すためには、
② 9 7 3 1 2 6 4 5 8
② 九 七 三 一 二 六 四 五 八
② Ⅸ Ⅶ Ⅲ Ⅰ Ⅱ Ⅵ Ⅳ Ⅴ Ⅷ
のやうな「数」を用ゐることが、「普通」である。
従って、
(32)
九=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
七=(囗囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
七=(囗囗囗囗囗囗囗)は、
六=(囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
六=(囗囗囗囗囗囗)は、
五=(囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
五=(囗囗囗囗囗)は、
四=(囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
四=(囗囗囗囗)は、
三=(囗囗囗) 以下を「含んでる」。
三=(囗囗囗)は、
二=(囗囗) 以下を「含んでる」。
二=(囗囗)は、
一=(囗) 以下を「含んでる」。
一=(囗)は、
〇=( )を「含んでる」。
といふことにより、
② 九 七 三 一 二 六 四 五 八
といふ「数」と、
② 乙 下 二 一 中 上 甲
といふ「返り点」は、
② 九[七〔三(一二)六(四五)〕八]
② 乙[下 二( 一)中( 上)〕甲]
といふ、
「括弧」=「包含関係」=「スコープ」=「管到」=「補足構造」
を表してゐる。
にも拘はらず、「そのこと」に気付くことは、普通はない。
cf.
それ故、
(33)
返り点 (hiragana かえりてん, romaji kaeriten)
1.in kambun, marks that are placed in the lower left corner of a character to indicate the reading order; types include ichiniten, kōotsuten, jōgeten, tenchiten, and reten(返り点 - Wiktionary).
といふ具合ひに、「返り点は、reading orderを示すためのマークである。」といふ風にしか、理解されてゐない。
平成28年03月12日、毛利太。
然るに、
(34)
中には中国・韓国の留学生もいたが、日本式の訓読を学ぶことは必ず諸君に有益なものがあるからと、訓読を習得させた。初めはだいぶ苦労したようであるが、日本式に読めるようになった。博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
従って、
(32)(34)により、
(35)
「返り点」は、単なる「reading orderを示すためのマーク」ではなく、「括弧・包含関係・スコープ・管到・補足構造」を示してゐる。
(36)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxが存在し)ない=
① 人として死せざるは有らず=
① There is not an x such that x doesn't die.
従って、
(37)
「漢文音読」を是とし、「漢文訓読」を非とする人たちは、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① There is not an x such that x doesn't die.
に対して、
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxが存在し)ない。
は「述語論理」ではない。といふ風に、述べてゐる、人たちである。
然るに、
(38)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死。
といふことからすれば、「漢文」は、「x等の、変数」を伴わない、「述語論理」である。
(39)
「返り点」は、「レ点」が有ることによって、例へば、
④ 不読書=
④ 不〔読(書)〕⇒
④ 〔(書を)読ま〕不。
の「返り点」は、
④ レ レ
であって、その一方で、
⑤ 不読漢文=
⑤ 不〔読(漢文)〕⇒
⑤ 〔(漢文を)読ま〕不。
の「返り点」は、
⑤ レ 二 一
であって、
⑥ 不訓読書=
⑥ 不〔訓読(書)〕⇒
⑥ 〔(書を)訓読せ〕不。
の「返り点」は、
⑥ レ レ
ではなく、
⑥ 三 二(ハイフンに付く) 一
であると、思はれる。
従って、
(35)(39)により、
(40)
「返り点」は、単なる「reading orderを示すためのマーク」ではなく、「括弧・包含関係・スコープ・管到・補足構造」を示してゐる。ものの、「同一の括弧・包含関係・スコープ・補足構造」に対して、「二通り以上の、返り点」が、存在し、そのため、「返り点」は、初学者にとっては、それなりに難しい。
平成28年03月13日、毛利太。
一=(囗)
二=(囗囗)
三=(囗囗囗)
四=(囗囗囗囗)
五=(囗囗囗囗囗)
六=(囗囗囗囗囗囗)
七=(囗囗囗囗囗囗囗)
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗)
九=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
といふ風に、「理解」する。
従って、
(02)
九=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
七=(囗囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
七=(囗囗囗囗囗囗囗)は、
六=(囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
六=(囗囗囗囗囗囗)は、
五=(囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
五=(囗囗囗囗囗)は、
四=(囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
四=(囗囗囗囗)は、
三=(囗囗囗) 以下を「含んでる」。
三=(囗囗囗)は、
二=(囗囗) 以下を「含んでる」。
二=(囗囗)は、
一=(囗) 以下を「含んでる」。
一=(囗)は、
〇=( )を「含んでる」。
従って、
(03)
九は、八を「含んでゐ」て、八は、七を「含んでゐ」て、
七は、六を「含んでゐ」て、六は、五を「含んでゐ」て、
五は、四を「含んでゐ」て、四は、三を「含んでゐ」て、
三は、二を「含んでゐ」て、二は、一を「含んでゐ」て、
一は、〇を「含んでゐる」。
従って、
(04)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① 八( 七(二(一)三六(五(四))))=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxが存在し)ない。
① There is not an x such that x doesn't die.
に於いて、
~=八 といふ「一個の数」は、
∃x=七 以下の、
人=二
x=一
&=三
~=六
死=五
x=四
といふ、「七個の数」を含んでゐて、
∃x=七 といふ「一個の数」は
人=二 以下の、
x=一
&=三
~=六
死=五
x=四
といふ、「六個の数」を含んでゐる。
然るに、
(05)
Nは、「(N-1)個の数」を含んでゐる。
といふことを、
Nは、「(N-1)個の数」を「包含」する。
といふ風に、言ふことにする。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
① 八{ 七[二(一)三六〔五(四)〕]}。
に於ける、
① { 〔 ( ) 〔 ( )〕]}
といふ「括弧」は、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
といふ「述語論理」の、「包含関係」を表してゐる。
然るに、
(07)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)。対象が有限集合の場合は述語論理も命題論理に還元できます(吉永良正、ゲーデル・不完全性定理、1992、201頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
① 八{ 七[二(一)三六〔五(四)〕]}。
に於ける、「括弧」は、「述語論理」の、「包含関係」を表してゐて、尚且つ、「包含関係」とは、すなはち「スコープ」である。
従って、
(09)
① 不有人而不死。
といふ「漢文」に対して、
六=不
五=有
一=人
二=而
四=不
三=死
といふ「数」を与へることは、その一方で、
① 不有人而不死。
といふ「漢文」に対して、
① 不[有〔人而不(死)〕]。
といふ「包含関係(スコープ)」を与へることを、意味してゐる。
然るに、
(10)
六=不
五=有
一=人
二=而
四=不
三=死
といふ「それ」は、
一=人にし
二=て
三=死せ
四=ざるは
五=有ら
六=ず。九
といふ風に、「並び替へ(ソートす)る」ことが、出来る。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
① 不有人而不死=
① 六五一二四三=
① 不[有〔人而不(死)〕]=
① 六[五〔一二四(三)〕]⇒
① [〔一二(三)四〕五]六=
① [〔人而(死)不〕有]不=
① 人にして死せざるは有らず。
といふ「漢文訓読」が「可能」である「所以」は、
① 不有人而不=
① 不[有〔人而不(死)〕]。
に於ける、
① [ 〔 ( )〕]
といふ「括弧」に有る。といふことになり、尚且つ、
「括弧」=「包含関係」=「スコープ」
である。といふことになる。
然るに、
(12)
① 六[五〔一二四(三)〕]
に於いて、
① 六 は、一番、左にあって、
① [五〔一二四(三)〕] を「含んでゐる」。
(13)
① [〔一二(三)四〕五]六
に於いて、
① 六 は、一番、右にあって、
① [〔一二(三)四〕五] を「含んでゐる」。
(14)
① 四(三)
に於いて、
① 四 は、左から、
① (三) を「含んでゐる」。
(15)
① (三)四
に於いて、
① 四 は、右から、
① (三) を「含んでゐる」。
従って、
(11)~(15)により、
(16)
① 不[有〔人而不(死)〕]=
① 六[五〔一二四(三)〕]⇒
① [〔一二(三)四〕五]六=
① [〔人而(死)不〕有]不。
に於いて、
「括弧」=「包含関係」=「スコープ」
に、「変はり」は無い。
然るに、
(17)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である。管到の「管」は「領(おさめる)」の意味とほぼ同じと考えてよい。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、三八九頁)
然るに、
(18)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、二九六頁)
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 九七三一二六四五八=
② 有[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕者]=
② 九[七〔三(一二)六(四五)〕八]⇒
② [七〔(一二)三六(四五)〕八]九=
② 一二 三 四五 六 七 八九=
② 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
といふ「漢文訓読」が「可能」である「所以」は、
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 有[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕者]
に於ける、
② [ 〔 ( ) ( )〕 ]
といふ「括弧」に有る。といふことになり、尚且つ、
「括弧」=「包含関係」=「スコープ」=「補足構造」
である。といふことになる。
然るに、
(20)
③ 揮快断刀。
といふ「漢文」は、
③ 快断刀を断つ。
といふ風にしか、「訓読」することが、出来ない。
従って、
(21)
固より、
③ 有欲揮快断刀乱麻者=
② 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
といふ「漢文訓読」は、有り得ない。
加へて、
(22)
② 三(一二)六(四五)
といふ「包含関係(補足構造)」を、仮に、
② 三(一六二)四五
に変へてしまふと、
③ 三一六二
に於いて、
三=(囗囗囗)は、
一=(囗) と、
二=(囗囗)を「含んでゐる」ものの、
三=(囗囗囗)は、
六=(囗囗囗囗囗囗)を、「含んでゐない」。
然るに、
(23)
六=(囗囗囗囗囗囗)は、
五=(囗囗囗囗囗) を、「含んでゐる」ため、
② 三(一六二)四五 は、
② 三(一六〔二)四五〕 でなければ、成らない。
従って、
(23)により、
(24)
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 九七三一二六四五八。
といふ「包含関係(補足構造)」を、仮に、
③ 有欲揮快断刀乱麻者=
③ 九七三一六二四五八。
に変へてしまふと、「包含関係(補足構造)」が「破綻」する。
然るに、
(25)
② 九七三一六二四五八
② 有欲揮快断刀乱麻者。
といふ「それ」を、
③ 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
といふ風に、「括弧」を用ゐて「訓読」するためには、
③ 有{欲[揮(快断〔刀)乱麻〕]者}。
に於いて、
揮( )⇒( )揮
断〔 〕⇒〔 〕断
欲[ ]⇒[ ]欲
有{ }⇒{ }有
といふ「倒置」、行ふことになる。
然るに、
(26)
③ 有{欲[揮(快断〔刀)乱麻〕]者}。
に於いて、
③ (〔 )〕
は、「数学」であれば、
② ({ )}
に相当するため、
③ (〔 )〕
を含む、
③ { [ ( 〔 ) 〕] }
といふ「括弧」は、有り得ない。
加へて、
(27)
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 有[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕者]⇒
② [〔(快刀)揮(乱麻)断〕欲者]有=
② 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
に対する「返り点」が、
② 乙 下 二 一 中 上 甲
である一方で、
③ 有欲揮快断刀乱麻者=
③ 有{欲[揮(快断〔刀)乱麻〕]者}⇒
③ {[(快〔刀)揮乱麻〕断]欲者}有=
③ 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
に対する「それ」は、
③ 乙 下 二 中 一 上 甲
cf.
である。
然るに、
(28)
上中下点(上・下、上・中・下)
必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、四三頁)
従って、
(28)により、
(29)
③ 二 中 一
を含む、
③ 乙 下 二 中 一 上 甲
といふ「返り点」は、有り得ない。
従って、
(20)~(29)により、
(30)
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 九七三一二六四五八=
② 九七三一二六四五八。
といふ「包含関係(補足構造)」を、仮に、
③ 有欲揮快断刀乱麻者=
③ 九七三一六二四五八=
② 九七三一六二四五八。
に変へてしまふと、「包含関係(補足構造)」が「破綻」し、尚且つ、
③ { [ ( 〔 ) 〕] }
といふ「括弧」は、有り得ないし、
③ 乙 下 二 中 一 上 甲
といふ「返り点」は、有り得ないし、固より、
③ 揮快断刀。
といふ「漢文」は、
③ 快断刀を断つ。
といふ風にしか、「訓読」することが、出来ない。
然るに、
(31)
② 九 七 三 一 二 六 四 五 八
といふ「数」は、そのまま、
② 一二点
でもある上に、
② 9th 7th 3rd 1st 2nd 6th 4th 5th 8th
といふ「順番」を表すためには、
② 9 7 3 1 2 6 4 5 8
② 九 七 三 一 二 六 四 五 八
② Ⅸ Ⅶ Ⅲ Ⅰ Ⅱ Ⅵ Ⅳ Ⅴ Ⅷ
のやうな「数」を用ゐることが、「普通」である。
従って、
(32)
九=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
七=(囗囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
七=(囗囗囗囗囗囗囗)は、
六=(囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
六=(囗囗囗囗囗囗)は、
五=(囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
五=(囗囗囗囗囗)は、
四=(囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
四=(囗囗囗囗)は、
三=(囗囗囗) 以下を「含んでる」。
三=(囗囗囗)は、
二=(囗囗) 以下を「含んでる」。
二=(囗囗)は、
一=(囗) 以下を「含んでる」。
一=(囗)は、
〇=( )を「含んでる」。
といふことにより、
② 九 七 三 一 二 六 四 五 八
といふ「数」と、
② 乙 下 二 一 中 上 甲
といふ「返り点」は、
② 九[七〔三(一二)六(四五)〕八]
② 乙[下 二( 一)中( 上)〕甲]
といふ、
「括弧」=「包含関係」=「スコープ」=「管到」=「補足構造」
を表してゐる。
にも拘はらず、「そのこと」に気付くことは、普通はない。
cf.
それ故、
(33)
返り点 (hiragana かえりてん, romaji kaeriten)
1.in kambun, marks that are placed in the lower left corner of a character to indicate the reading order; types include ichiniten, kōotsuten, jōgeten, tenchiten, and reten(返り点 - Wiktionary).
といふ具合ひに、「返り点は、reading orderを示すためのマークである。」といふ風にしか、理解されてゐない。
平成28年03月12日、毛利太。
然るに、
(34)
中には中国・韓国の留学生もいたが、日本式の訓読を学ぶことは必ず諸君に有益なものがあるからと、訓読を習得させた。初めはだいぶ苦労したようであるが、日本式に読めるようになった。博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
従って、
(32)(34)により、
(35)
「返り点」は、単なる「reading orderを示すためのマーク」ではなく、「括弧・包含関係・スコープ・管到・補足構造」を示してゐる。
(36)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxが存在し)ない=
① 人として死せざるは有らず=
① There is not an x such that x doesn't die.
従って、
(37)
「漢文音読」を是とし、「漢文訓読」を非とする人たちは、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① There is not an x such that x doesn't die.
に対して、
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxが存在し)ない。
は「述語論理」ではない。といふ風に、述べてゐる、人たちである。
然るに、
(38)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死。
といふことからすれば、「漢文」は、「x等の、変数」を伴わない、「述語論理」である。
(39)
「返り点」は、「レ点」が有ることによって、例へば、
④ 不読書=
④ 不〔読(書)〕⇒
④ 〔(書を)読ま〕不。
の「返り点」は、
④ レ レ
であって、その一方で、
⑤ 不読漢文=
⑤ 不〔読(漢文)〕⇒
⑤ 〔(漢文を)読ま〕不。
の「返り点」は、
⑤ レ 二 一
であって、
⑥ 不訓読書=
⑥ 不〔訓読(書)〕⇒
⑥ 〔(書を)訓読せ〕不。
の「返り点」は、
⑥ レ レ
ではなく、
⑥ 三 二(ハイフンに付く) 一
であると、思はれる。
従って、
(35)(39)により、
(40)
「返り点」は、単なる「reading orderを示すためのマーク」ではなく、「括弧・包含関係・スコープ・管到・補足構造」を示してゐる。ものの、「同一の括弧・包含関係・スコープ・補足構造」に対して、「二通り以上の、返り点」が、存在し、そのため、「返り点」は、初学者にとっては、それなりに難しい。
平成28年03月13日、毛利太。
漢文(述語論理sine変数)。
(01)
~=ではない。
∨=または、
&=尚且つ、
→=ならば、
( )=といふ
∃x=そのやうなxが存在する。
∀x=ことは、
全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、「定義(01)」する。
(02)
「述語」は、「漢字」で書く。
といふ風に、「約束(02)」する。
(03)
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
といふ風に、「約束(03)」する。
然るに、
(04)
「すべての人間は死ぬ」という文は、
∀x(H(x)→M(x))
となる。∀は全称記号と呼ばれる。「すべて」を意味するAllのAをひっくり返した記号である。
(月本洋、日本語は論理的である、2009年、114頁)
従って、
(01)~(04)により、
(05)
∀x(H(x)→M(x))=
∀x(人(x)→死(x))=
((xが)人である。ならば、(xは)死ぬ。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
然るに、
(06)
不有人而不死=
~∃人&~死=
~(∃x(人(x)&~(死(x)))=
(((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
然るに、
(07)
((xが)人である。ならば、(xは)死ぬ。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
(((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
といふことに、他ならない。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
不有人而不死=
人にして死せ不るは有らず=
∀x(人(x)→死(x))=
~(∃x(人(x)&~(死(x)))=
(((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
(09)
∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))=
((yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
然るに、
(10)
如馬有頭則其頭為馬頭而其頭為動物頭=
如馬有(頭)則其頭為(馬頭)而其頭為(動物頭)=
如馬(頭)有則其頭(馬頭)為而其頭(動物頭)為=
如し馬に(頭)有らば則ち其の頭は(馬の頭)為りて其の頭は(動物の頭)為り。
従って、
(09)(10)により、
(11)
如馬有頭則其頭為馬頭而其頭為動物頭=
∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))=
((yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
然るに、
(12)
この辞典には左の基準によって、約一万一〇〇〇字の親字収録した。
(学研 漢和大辞典、1978年)
然るに、
(13)
シナや極東の王国では、一般に文字をも語をも表わすものではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほどほど広い範囲で了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な符号があるのである。
(フランシス・ベーコン、学問の進歩、第二巻、一六・二)
従って、
(12)(13)により、
(14)
「漢字」は、「一萬字を超える、意味を持ったABC」である。
従って、
(02)(08)~(14)により、
(15)
不有人而不死=
不(有(人而不(死)))=
∀x(人(x)→死(x))=
~(∃x(人(x)&~(死(x)))。
如馬有頭則其頭為馬頭而其頭為動物頭=
如馬有(頭)則其頭為(馬頭)而其頭為(動物頭)=
∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))=
((yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「漢文・述語論理」がさうであるやうに、「漢文」は、「変数(x,y)」を伴はない「述語論理」である。
従って、
(15)により、
(16)
「漢文」に、「変数」はなくとも、「括弧」は有ります。
平成28年03月12日、毛利太。
~=ではない。
∨=または、
&=尚且つ、
→=ならば、
( )=といふ
∃x=そのやうなxが存在する。
∀x=ことは、
全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、「定義(01)」する。
(02)
「述語」は、「漢字」で書く。
といふ風に、「約束(02)」する。
(03)
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
といふ風に、「約束(03)」する。
然るに、
(04)
「すべての人間は死ぬ」という文は、
∀x(H(x)→M(x))
となる。∀は全称記号と呼ばれる。「すべて」を意味するAllのAをひっくり返した記号である。
(月本洋、日本語は論理的である、2009年、114頁)
従って、
(01)~(04)により、
(05)
∀x(H(x)→M(x))=
∀x(人(x)→死(x))=
((xが)人である。ならば、(xは)死ぬ。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
然るに、
(06)
不有人而不死=
~∃人&~死=
~(∃x(人(x)&~(死(x)))=
(((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
然るに、
(07)
((xが)人である。ならば、(xは)死ぬ。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
(((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
といふことに、他ならない。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
不有人而不死=
人にして死せ不るは有らず=
∀x(人(x)→死(x))=
~(∃x(人(x)&~(死(x)))=
(((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
(09)
∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))=
((yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
然るに、
(10)
如馬有頭則其頭為馬頭而其頭為動物頭=
如馬有(頭)則其頭為(馬頭)而其頭為(動物頭)=
如馬(頭)有則其頭(馬頭)為而其頭(動物頭)為=
如し馬に(頭)有らば則ち其の頭は(馬の頭)為りて其の頭は(動物の頭)為り。
従って、
(09)(10)により、
(11)
如馬有頭則其頭為馬頭而其頭為動物頭=
∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))=
((yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
然るに、
(12)
この辞典には左の基準によって、約一万一〇〇〇字の親字収録した。
(学研 漢和大辞典、1978年)
然るに、
(13)
シナや極東の王国では、一般に文字をも語をも表わすものではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほどほど広い範囲で了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な符号があるのである。
(フランシス・ベーコン、学問の進歩、第二巻、一六・二)
従って、
(12)(13)により、
(14)
「漢字」は、「一萬字を超える、意味を持ったABC」である。
従って、
(02)(08)~(14)により、
(15)
不有人而不死=
不(有(人而不(死)))=
∀x(人(x)→死(x))=
~(∃x(人(x)&~(死(x)))。
如馬有頭則其頭為馬頭而其頭為動物頭=
如馬有(頭)則其頭為(馬頭)而其頭為(動物頭)=
∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))=
((yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「漢文・述語論理」がさうであるやうに、「漢文」は、「変数(x,y)」を伴はない「述語論理」である。
従って、
(15)により、
(16)
「漢文」に、「変数」はなくとも、「括弧」は有ります。
平成28年03月12日、毛利太。
2016年3月11日金曜日
「述語論理」に対する「括弧」の用法。
(01)
ド・モルガンが、明らかに健全であるにもかかわらず、伝統的論理学のわくぐみのなかでは取り扱うことができなかった論証とし挙げた、有名な、また簡単な論証がある。
There is famous and simple argument, cited by de Morgan as an example of a kind reasoning which, though patently sound, could not be handled within the framework of traditional logic.
(1)すべての馬は動物である。故にすべての馬の頭は動物の頭である(世界思想社、論理学初歩、1973年、167頁)。
(1)All horses are animals; therefore all horses'heads are animal's head(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p131).
(1)∀x(馬(x)→動物(x))├ ∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))
然るに、
(02)
然るに、
(03)
∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))=
∀x[∃y〔馬(y)&頭(xy)〕→∃y〔動物(y)&頭(xy)〕]⇒
[〔(y)馬&(xy)頭〕∃y→∃y〔(y)動物&(xy)頭〕]∀x=
[〔(yは)馬であって、尚且つ(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在するならば〔(yは)動物であり、尚且つ、(xはyの)頭〕である。といふそのやうなyが存在する]といふことは、全てのxに於いて、正しい。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
「返り点」の代はりに、「括弧」を、「述語論理」に対して、用ゐることは可能である。
(05)
~=ではない。
∨=または、
&=尚且つ、
→=ならば、
( )=といふ
∃x=そのやうなxが存在する。
∀x=ことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、「定義」する。
(06)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
とするならば、
① xy 親 ∃y ∀x
② yx 親 ∃y ∀x
③ xy 親 ∀y ∃x
③ yx 親 ∀y ∃x
といふ「順番」で、読むことになる。
然るに、
(07)
① ∀x(∃y(親(xy)))
といふ風に、並んでゐるそれを、
① xy 親 ∃y ∀x
といふ「順番」で読むといふことは、
① ∀x(∃y(親(xy)))
に於いて、
① ∀x( )⇒( )∀x
① ∃y( )⇒( )∃y
① 親( )⇒( )親
といふ「倒置」を行ふことに、等しい。
然るに、
(06)(07)により、
(08)
① ∀x(∃y(親(xy)))=
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
(06)(07)により、
(09)
② ∀x(∃y(親(yx)))=
② (((yはxの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
(06)(07)により、
(10)
③ ∃x(∀y(親(xy)))=
③ (((xがyの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
(06)(07)により、
(11)
④ ∃x(∀y(親(yx)))=
④ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
然るに、
(12)
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
① (((yはxの)子である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
① サザエさんの家の、タラちゃんを含めて、全ての人に、子供がゐる。
といふことを、意味してゐるものの、タラちゃん(三才)に、子供はゐない。
(13)
② (((yはxの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
② (((xはyの)子である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
② 全ての人には、親がゐる。
② take any x:there is a y such that y is parent of x(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p99).
② 任意のxを選ぶとせよ。するとyがxの親であるようなyが存在する(世界思想社、論理学初歩、1973年、126頁改)。
といふ意味である。
(14)
③ (((xがyの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
③ (((yがxの)子である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、
③ 全人類の親である人が、ゐる。
③ その人には、約75億人の子供がゐる。
といふ、意味である。
(15)
④ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
④ (((xはyの)子である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、
④ タラちゃんの子供であって、尚且つ、サザエさんの子供であり、尚且つ、オバマの子供であって、尚且つ、あなたの子供である所の、誰かがゐる。
といふことに、他ならない。
然るに、
(16)
① 子供のゐない夫婦は、いくらでもゐるし、タラちゃん(三才)に、子供はゐない。
③ DNAから見て、全人類が、或る人の子供である。といふことは、有り得ない。
④ DNAから見て、全人類が、或る人の親 である。といふことは、尚のこと、有り得ない。
cf.
③ しばしば誤解を受けるが、彼女は「同世代で唯一、現生人類に対し子孫を残すことができた女性」ではない。
ド・モルガンが、明らかに健全であるにもかかわらず、伝統的論理学のわくぐみのなかでは取り扱うことができなかった論証とし挙げた、有名な、また簡単な論証がある。
There is famous and simple argument, cited by de Morgan as an example of a kind reasoning which, though patently sound, could not be handled within the framework of traditional logic.
(1)すべての馬は動物である。故にすべての馬の頭は動物の頭である(世界思想社、論理学初歩、1973年、167頁)。
(1)All horses are animals; therefore all horses'heads are animal's head(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p131).
(1)∀x(馬(x)→動物(x))├ ∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))
然るに、
(02)
然るに、
(03)
∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))=
∀x[∃y〔馬(y)&頭(xy)〕→∃y〔動物(y)&頭(xy)〕]⇒
[〔(y)馬&(xy)頭〕∃y→∃y〔(y)動物&(xy)頭〕]∀x=
[〔(yは)馬であって、尚且つ(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在するならば〔(yは)動物であり、尚且つ、(xはyの)頭〕である。といふそのやうなyが存在する]といふことは、全てのxに於いて、正しい。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
「返り点」の代はりに、「括弧」を、「述語論理」に対して、用ゐることは可能である。
(05)
~=ではない。
∨=または、
&=尚且つ、
→=ならば、
( )=といふ
∃x=そのやうなxが存在する。
∀x=ことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、「定義」する。
(06)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
とするならば、
① xy 親 ∃y ∀x
② yx 親 ∃y ∀x
③ xy 親 ∀y ∃x
③ yx 親 ∀y ∃x
といふ「順番」で、読むことになる。
然るに、
(07)
① ∀x(∃y(親(xy)))
といふ風に、並んでゐるそれを、
① xy 親 ∃y ∀x
といふ「順番」で読むといふことは、
① ∀x(∃y(親(xy)))
に於いて、
① ∀x( )⇒( )∀x
① ∃y( )⇒( )∃y
① 親( )⇒( )親
といふ「倒置」を行ふことに、等しい。
然るに、
(06)(07)により、
(08)
① ∀x(∃y(親(xy)))=
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
(06)(07)により、
(09)
② ∀x(∃y(親(yx)))=
② (((yはxの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
(06)(07)により、
(10)
③ ∃x(∀y(親(xy)))=
③ (((xがyの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
(06)(07)により、
(11)
④ ∃x(∀y(親(yx)))=
④ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
然るに、
(12)
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
① (((yはxの)子である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
① サザエさんの家の、タラちゃんを含めて、全ての人に、子供がゐる。
といふことを、意味してゐるものの、タラちゃん(三才)に、子供はゐない。
(13)
② (((yはxの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
② (((xはyの)子である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
② 全ての人には、親がゐる。
② take any x:there is a y such that y is parent of x(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p99).
② 任意のxを選ぶとせよ。するとyがxの親であるようなyが存在する(世界思想社、論理学初歩、1973年、126頁改)。
といふ意味である。
(14)
③ (((xがyの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
③ (((yがxの)子である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、
③ 全人類の親である人が、ゐる。
③ その人には、約75億人の子供がゐる。
といふ、意味である。
(15)
④ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
④ (((xはyの)子である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、
④ タラちゃんの子供であって、尚且つ、サザエさんの子供であり、尚且つ、オバマの子供であって、尚且つ、あなたの子供である所の、誰かがゐる。
といふことに、他ならない。
然るに、
(16)
① 子供のゐない夫婦は、いくらでもゐるし、タラちゃん(三才)に、子供はゐない。
③ DNAから見て、全人類が、或る人の子供である。といふことは、有り得ない。
④ DNAから見て、全人類が、或る人の親 である。といふことは、尚のこと、有り得ない。
cf.
③ しばしば誤解を受けるが、彼女は「同世代で唯一、現生人類に対し子孫を残すことができた女性」ではない。
(ウィキペディア:ミトコンドリア・イブ)
従って、
(08)~(16)により、
(17)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
② だけが、「真(本当)」である。
(18)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(水夫(y)→愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
⑥ x 少年 → y 少女 & xy 愛 ∃y ∀x
⑦ x 綺麗 & x 少女 → y 水夫 xy ∀y ∀x
といふ「順番」で、読むことになる。
然るに、
(19)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
といふ風に、並んでゐるそれを、
⑤ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
といふ「順番」で読むといふことは、
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
に於いて、
⑤ ∃x( )⇒( )∃x
⑤ 少女( )⇒( )少女
⑤ ∀y( )⇒( )∀y
⑤ 少年( )⇒( )少年
⑤ 愛( )⇒( )愛
といふ「倒置」を行ふことに、等しい。
(20)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(21)
⑤ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、「少女xは、全少年によって愛されてゐる所の、スーパーアイドルである。」といふことに、他ならない。
(22)
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑥ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛してゐる。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(23)
⑥ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛してゐる。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、「全ての少年には、愛してゐる所の少女がゐる。」といふことに、他ならない。
然るに、
(24)
⑥ ∃y(少女(y)&愛(xy))
といふのは、
⑥ そのやうな少女が、少なくとも、一人ゐる。
といふ、意味である。
しかしながら、
(25)
「全ての少年には、愛してゐる所の少女がゐる。」といふことは、普通は、
「全ての少年は、それぞれが、別の少女を愛してゐて、出来れば、その少女と結婚したい。」といふ場合である。
従って、
(26)
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(水夫(y)→愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑦ ((xが)綺麗で、尚且つ、(xが)少女であるならば、((yが)水夫であるならば、(xはyを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。))といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(27)
⑦ ((xが)綺麗で、尚且つ、(xが)少女であるならば、((yが)水夫であるならば、(xはyを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。))といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、「全ての綺麗な少女は、水夫であれば、それだけで、その水夫を愛してゐる。」
従って、
(08)~(16)により、
(17)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
② だけが、「真(本当)」である。
(18)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(水夫(y)→愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
⑥ x 少年 → y 少女 & xy 愛 ∃y ∀x
⑦ x 綺麗 & x 少女 → y 水夫 xy ∀y ∀x
といふ「順番」で、読むことになる。
然るに、
(19)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
といふ風に、並んでゐるそれを、
⑤ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
といふ「順番」で読むといふことは、
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
に於いて、
⑤ ∃x( )⇒( )∃x
⑤ 少女( )⇒( )少女
⑤ ∀y( )⇒( )∀y
⑤ 少年( )⇒( )少年
⑤ 愛( )⇒( )愛
といふ「倒置」を行ふことに、等しい。
(20)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(21)
⑤ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、「少女xは、全少年によって愛されてゐる所の、スーパーアイドルである。」といふことに、他ならない。
(22)
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑥ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛してゐる。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(23)
⑥ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛してゐる。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、「全ての少年には、愛してゐる所の少女がゐる。」といふことに、他ならない。
然るに、
(24)
⑥ ∃y(少女(y)&愛(xy))
といふのは、
⑥ そのやうな少女が、少なくとも、一人ゐる。
といふ、意味である。
しかしながら、
(25)
「全ての少年には、愛してゐる所の少女がゐる。」といふことは、普通は、
「全ての少年は、それぞれが、別の少女を愛してゐて、出来れば、その少女と結婚したい。」といふ場合である。
従って、
(26)
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(水夫(y)→愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑦ ((xが)綺麗で、尚且つ、(xが)少女であるならば、((yが)水夫であるならば、(xはyを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。))といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(27)
⑦ ((xが)綺麗で、尚且つ、(xが)少女であるならば、((yが)水夫であるならば、(xはyを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。))といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、「全ての綺麗な少女は、水夫であれば、それだけで、その水夫を愛してゐる。」
といふことになる。
然るに、
(28)
綺麗な少女xとして、
x=オリーブオイル であるならば、
x=オリーブオイル は、
y=ポパイ だけを、愛してゐる。と思はれる。
それ故、
(26)(28)により、
(29)
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(水夫(y)→愛(xy)))=
⑦ ((xが)綺麗で、尚且つ、(xが)少女であるならば、((yが)水夫であるならば、(xはyを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。))といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「述語論理」は、常識的には、「偽(ウソ)」である。
(30)
P→Q=~P∨Q
は、「含意の定義」である。
従って、
(30)により、
(31)
⑦ ∀y(水夫(y)→愛(xy)) は、
⑦ ∀y(~(水夫(y))∨愛(xy))に等しい。
従って、
(29)(31)により、
(32)
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(水夫(y)→愛(xy)))=
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(~(水夫(y))∨愛(xy)))
従って、
(01)~(32)により、
(33)
いづれにせよ、
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(~(水夫(y))∨愛(xy)))
⑧ ∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))
といふ「述語論理」は、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
といふ「ルール」に従ふことによって、「漢文訓読」ならぬ、「述語論理訓読」を、行ふことが、可能となる。
従って、
(33)により、
(34)
「すべての人間は死ぬ」という文は
∀x(H(x)→M(x))
となる。∀は全称記号と呼ばれる。「すべて」を意味するAllのAをひっくり返した記号である。
(月本洋、日本語は論理的である、2009年、114頁)
に於ける、
∀x(H(x)→M(x))
の場合も、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
といふ「ルール」に従って、
((xが)人間であるならば、(xは)死ぬ。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、「訓読」することが、可能となる。
然るに、
(35)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
⑨ ∀x(H(x)→M(x))
といふ「記号」は、「論理学初歩 単行本 ? 1992E.J.レモン (著), 竹尾 治一郎 (翻訳), 浅野 楢英 (翻訳)」に従ふと、
① (x)(∃y)Pxy
② (x)(∃y)Pyx
③ (∃x)(y)Pxy
④ (∃x)(y)Pyx
⑨ (x)(Hx→Mx)
といふ風に、「記号化」される。
従って、
(33)(34)(35)により、
(36)
① (x)(∃y)Pxy
② (x)(∃y)Pyx
③ (∃x)(y)Pxy
④ (∃x)(y)Pyx
⑨ (x)(Hx→Mx)
といふ「述語論理」を、「訓読」するためには、
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
⑨ ∀x(人(x)→死(x))
といふ風に、「書き換へ」る、必要が有る。
平成28年03月11日、毛利太。
然るに、
(28)
綺麗な少女xとして、
x=オリーブオイル であるならば、
x=オリーブオイル は、
y=ポパイ だけを、愛してゐる。と思はれる。
それ故、
(26)(28)により、
(29)
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(水夫(y)→愛(xy)))=
⑦ ((xが)綺麗で、尚且つ、(xが)少女であるならば、((yが)水夫であるならば、(xはyを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。))といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「述語論理」は、常識的には、「偽(ウソ)」である。
(30)
P→Q=~P∨Q
は、「含意の定義」である。
従って、
(30)により、
(31)
⑦ ∀y(水夫(y)→愛(xy)) は、
⑦ ∀y(~(水夫(y))∨愛(xy))に等しい。
従って、
(29)(31)により、
(32)
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(水夫(y)→愛(xy)))=
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(~(水夫(y))∨愛(xy)))
従って、
(01)~(32)により、
(33)
いづれにせよ、
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(~(水夫(y))∨愛(xy)))
⑧ ∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))
といふ「述語論理」は、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
といふ「ルール」に従ふことによって、「漢文訓読」ならぬ、「述語論理訓読」を、行ふことが、可能となる。
従って、
(33)により、
(34)
「すべての人間は死ぬ」という文は
∀x(H(x)→M(x))
となる。∀は全称記号と呼ばれる。「すべて」を意味するAllのAをひっくり返した記号である。
(月本洋、日本語は論理的である、2009年、114頁)
に於ける、
∀x(H(x)→M(x))
の場合も、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
といふ「ルール」に従って、
((xが)人間であるならば、(xは)死ぬ。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、「訓読」することが、可能となる。
然るに、
(35)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
⑨ ∀x(H(x)→M(x))
といふ「記号」は、「論理学初歩 単行本 ? 1992E.J.レモン (著), 竹尾 治一郎 (翻訳), 浅野 楢英 (翻訳)」に従ふと、
① (x)(∃y)Pxy
② (x)(∃y)Pyx
③ (∃x)(y)Pxy
④ (∃x)(y)Pyx
⑨ (x)(Hx→Mx)
といふ風に、「記号化」される。
従って、
(33)(34)(35)により、
(36)
① (x)(∃y)Pxy
② (x)(∃y)Pyx
③ (∃x)(y)Pxy
④ (∃x)(y)Pyx
⑨ (x)(Hx→Mx)
といふ「述語論理」を、「訓読」するためには、
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
⑨ ∀x(人(x)→死(x))
といふ風に、「書き換へ」る、必要が有る。
平成28年03月11日、毛利太。
2016年3月10日木曜日
「述語論理訓読」法。
―「この記事」は、書き直します。―
(01)
~=ではない。
∨=または、
&=尚且つ、
→=ならば、
( )=といふ
∃x=そのやうなxが存在する。
∀x=ことは、全てのxに於いて、正しい。
(02)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
とするならば、
① xy 親 ∃y ∀x
② yx 親 ∃y ∀x
③ xy 親 ∀y ∃x
③ yx 親 ∀y ∃x
といふ「順番」で、読むことになる。
然るに、
(03)
① ∀x(∃y(親(xy)))
といふ風に、並んでゐるそれを、
① xy 親 ∃y ∀x
といふ「順番」で読むといふことは、
① ∀x(∃y(親(xy)))
に於いて、
① ∀x( )⇒( )∀x
① ∃y( )⇒( )∃y
① 親( )⇒( )親
といふ「倒置」を行ふことに、等しい。
然るに、
(04)
① ∀x(∃y(親(xy)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
① ∀x(∃y(親(xy)))=
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ、ことになる。
然るに、
(05)
xが人であり、
yも人であって、尚且つ、
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふこと、すなはち、
① (((yはxの)子である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
① サザエさんの家の、タラちゃんを含めて、全ての人に、子供がゐる。
といふことを、意味してゐるものの、アニメの中の、タラちゃんに、子供はゐない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ∀x(∃y(親(xy)))
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」である。
(07)
② ∀x(∃y(親(yx)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
② ((yはxの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ、ことになる。
然るに、
(08)
xが人であり、
yも人であって、尚且つ、
② ((yはxの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
② 全ての人には、親がゐる(ゐた)。
といふ、意味である。
cf.
take any x:there is a y such that y is parent of x.
(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p99)
任意のxを選ぶとせよ。するとyがxの親であるようなyが存在する。
(世界思想社、論理学初歩、1973年、126頁改)
従って、
(07)(08)により、
(09)
② ∀x(∃y(親(yx)))
といふ「述語論理」は、「真(本当)」である。
(10)
③ ∃x(∀y(親(xy)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
③ ∃x(∀y(親(xy)))=
③ (((xがyの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ、ことになる。
然るに、
(11)
xが人であり、
yも人であって、尚且つ、
③ (((xがyの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、
③ 全人類の親である人が、ゐる。
③ その人には、約75億人の子供がゐる。
といふ、意味である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ ∃x(∀y(親(xy)))
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」である。
(13)
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
④ ∃x(∀y(親(yx)))=
④ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ、ことになる。
然るに、
(14)
xが人であり、
yも人であって、尚且つ、
④ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふこと、すなはち、
④ (((xはyの)子である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、
④ xは、タラちゃんの子供であって、尚且つ、サザエさんの子供であり、尚且つ、オバマの子供であって、尚且つ、あなたの子供である。
といふことに、他ならない。
従って、
(13)(14)により、
(15)
④ ∃x(∀y(親(yx)))
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」である。
従って、
(06)(09)(12)(15)により、
(19)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
② だけが、「真(本当)」である。
(20)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
⑥ x 少年 → y 少女 & xy 愛 ∃y ∀x
といふ「順番」で、読むことになる。
然るに、
(21)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
といふ風に、並んでゐるそれを、
⑤ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
といふ「順番」で読むといふことは、
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
に於いて、
⑤ ∃x( )⇒( )∃x
⑤ 少女( )⇒( )少女
⑤ ∀y( )⇒( )∀y
⑤ 少年( )⇒( )少年
⑤ 愛( )⇒( )愛
といふ「倒置」を行ふことに、等しい。
(22)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛する。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(23)
⑤ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛する。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、「少女xは、全少年によって愛されてゐる所の、スーパーアイドルである。」といふことに、他ならない。
(24)
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑥ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(25)
⑥ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、「全ての少年には、愛してゐる所の少女がゐる。」といふことに、他ならない。
然るに、
(26)
⑥ ∃y(少女(y)&愛(xy))
といふのは、
⑥ そのやうな少女が、少なくとも、一人ゐる。
といふ、意味である。
しかしながら、
(27)
「全ての少年には、愛してゐる所の少女がゐる。」といふことは、普通は、
「全ての少年は、それぞれが、別の少女を愛してゐて、出来れば、その少女と結婚したい。」といふ場合である。
従って、
(22)~(27)により、
(28)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、前者と後者は、「述語論理」として、明確に、異なってゐる。
(29)
ド・モルガンが、明らかにに健全であるにもかかわらず、伝統的論理学のわくぐみのなかでは取り扱うことができなかった論証とし挙げた、有名な、また簡単な論証がある。
(1) All horses are animals;therefore all horses'heads are animal's head.
(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p99)
(1) すべての馬は動物である。故にすべての馬の頭は動物の頭である。
(世界思想社、論理学初歩、1973年、167頁)
(30)
⑦ ∀x(馬(x)→動物(x))├ ∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑦ ((xは)馬であるならば、(xは)動物である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。が故に、(((yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
(31)
⑦ ∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))
が、「縦書き」である際に、「返り点」を付けるとしたら、
⑦ 丁 三 レ 二 一 丙 ハイフン レ 乙 甲
といふ、それが、付くことになる。
平成28年03月10日、毛利太。
(01)
~=ではない。
∨=または、
&=尚且つ、
→=ならば、
( )=といふ
∃x=そのやうなxが存在する。
∀x=ことは、全てのxに於いて、正しい。
(02)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
とするならば、
① xy 親 ∃y ∀x
② yx 親 ∃y ∀x
③ xy 親 ∀y ∃x
③ yx 親 ∀y ∃x
といふ「順番」で、読むことになる。
然るに、
(03)
① ∀x(∃y(親(xy)))
といふ風に、並んでゐるそれを、
① xy 親 ∃y ∀x
といふ「順番」で読むといふことは、
① ∀x(∃y(親(xy)))
に於いて、
① ∀x( )⇒( )∀x
① ∃y( )⇒( )∃y
① 親( )⇒( )親
といふ「倒置」を行ふことに、等しい。
然るに、
(04)
① ∀x(∃y(親(xy)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
① ∀x(∃y(親(xy)))=
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ、ことになる。
然るに、
(05)
xが人であり、
yも人であって、尚且つ、
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふこと、すなはち、
① (((yはxの)子である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
① サザエさんの家の、タラちゃんを含めて、全ての人に、子供がゐる。
といふことを、意味してゐるものの、アニメの中の、タラちゃんに、子供はゐない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ∀x(∃y(親(xy)))
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」である。
(07)
② ∀x(∃y(親(yx)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
② ((yはxの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ、ことになる。
然るに、
(08)
xが人であり、
yも人であって、尚且つ、
② ((yはxの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
② 全ての人には、親がゐる(ゐた)。
といふ、意味である。
cf.
take any x:there is a y such that y is parent of x.
(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p99)
任意のxを選ぶとせよ。するとyがxの親であるようなyが存在する。
(世界思想社、論理学初歩、1973年、126頁改)
従って、
(07)(08)により、
(09)
② ∀x(∃y(親(yx)))
といふ「述語論理」は、「真(本当)」である。
(10)
③ ∃x(∀y(親(xy)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
③ ∃x(∀y(親(xy)))=
③ (((xがyの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ、ことになる。
然るに、
(11)
xが人であり、
yも人であって、尚且つ、
③ (((xがyの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、
③ 全人類の親である人が、ゐる。
③ その人には、約75億人の子供がゐる。
といふ、意味である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ ∃x(∀y(親(xy)))
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」である。
(13)
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
④ ∃x(∀y(親(yx)))=
④ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ、ことになる。
然るに、
(14)
xが人であり、
yも人であって、尚且つ、
④ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふこと、すなはち、
④ (((xはyの)子である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、
④ xは、タラちゃんの子供であって、尚且つ、サザエさんの子供であり、尚且つ、オバマの子供であって、尚且つ、あなたの子供である。
といふことに、他ならない。
従って、
(13)(14)により、
(15)
④ ∃x(∀y(親(yx)))
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」である。
従って、
(06)(09)(12)(15)により、
(19)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
② だけが、「真(本当)」である。
(20)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
⑥ x 少年 → y 少女 & xy 愛 ∃y ∀x
といふ「順番」で、読むことになる。
然るに、
(21)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
といふ風に、並んでゐるそれを、
⑤ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
といふ「順番」で読むといふことは、
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
に於いて、
⑤ ∃x( )⇒( )∃x
⑤ 少女( )⇒( )少女
⑤ ∀y( )⇒( )∀y
⑤ 少年( )⇒( )少年
⑤ 愛( )⇒( )愛
といふ「倒置」を行ふことに、等しい。
(22)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛する。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(23)
⑤ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛する。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、「少女xは、全少年によって愛されてゐる所の、スーパーアイドルである。」といふことに、他ならない。
(24)
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑥ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(25)
⑥ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、「全ての少年には、愛してゐる所の少女がゐる。」といふことに、他ならない。
然るに、
(26)
⑥ ∃y(少女(y)&愛(xy))
といふのは、
⑥ そのやうな少女が、少なくとも、一人ゐる。
といふ、意味である。
しかしながら、
(27)
「全ての少年には、愛してゐる所の少女がゐる。」といふことは、普通は、
「全ての少年は、それぞれが、別の少女を愛してゐて、出来れば、その少女と結婚したい。」といふ場合である。
従って、
(22)~(27)により、
(28)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、前者と後者は、「述語論理」として、明確に、異なってゐる。
(29)
ド・モルガンが、明らかにに健全であるにもかかわらず、伝統的論理学のわくぐみのなかでは取り扱うことができなかった論証とし挙げた、有名な、また簡単な論証がある。
(1) All horses are animals;therefore all horses'heads are animal's head.
(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p99)
(1) すべての馬は動物である。故にすべての馬の頭は動物の頭である。
(世界思想社、論理学初歩、1973年、167頁)
(30)
⑦ ∀x(馬(x)→動物(x))├ ∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑦ ((xは)馬であるならば、(xは)動物である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。が故に、(((yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
(31)
⑦ ∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))
が、「縦書き」である際に、「返り点」を付けるとしたら、
⑦ 丁 三 レ 二 一 丙 ハイフン レ 乙 甲
といふ、それが、付くことになる。
平成28年03月10日、毛利太。
述語論理訓読、漢文訓読(Ⅱ)。
―「03月08日の記事」を書き換えます。―
(01)
不
有
人=人
而
不
死=死
然るに、
(02)
「~」は「・・・ではない」、「∨」は「または」、「&」は「かつ」、「→」は「ならば」、「∀」は「すべての」、「∃」は「ある・・・が存在する」の意味です。
(吉永良正、ゲーデル・不完全定理、1992年、200頁改)
従って、
(01)(02)により、
(03)
不=~=でない。
有=∃=存在する。
人=人
而=&=尚且つ、
不=~=でない。
死=死
従って、
(04)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死。
然るに、
(05)
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① There is not a man thata doesn't die.
といふ「漢文訓読」は、正しい。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ~(∃(人&~(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① ((人&(死)~)∃)~=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① 人にして死せ~るは∃ら~=
① There is not a man thata doesn't die.
といふ「漢文訓読」は、正しい。
然るに、
(07)
① ~(∃(人&~(死)))
に対して、
① x (x) (x)
を加へて、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
とするならば、「述語論理」である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① 不(有x(人(x)而不(死(x))))
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
は、二つとも、「述語論理」である。
然るに、
(09)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
に於いて、
① ~( )⇒( )~
① ∃x( )⇒( )∃x
① 人( )⇒( )人
① ~( )⇒( )~
① 死( )⇒( )死
のやうに、
① 囗( )⇒( )囗
といふ「倒置」を、「括弧の(回)数」だけ行ふと、
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~
といふ「語順」を、得ることになる。
然るに、
(10)
注意2.4.3 ∃xP(x)は、
ある x があってP(x)である。
あるいは、
ある x が存在してP(x)である。
と言っても良いし、場合によっては
P(x)となる x が存在する。
という言い方もする。要するに、表す内容が同じであれば、表現の仕方にこだわらなくとも良い。
(中内信光、ろんりの練習帳、2002年、94頁)
従って、
(03)(09)(10)により、
(11)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない。)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
従って、
(06)(11)により、
(12)
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない。)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
然るに、
(13)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、AIプログラミング、2008年、13頁)
むやみに括弧が多くなることは我慢でないのである(E.J.愛e人人on、論理学初歩、1973年、59頁)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう;しかし、丸括弧はその内部の表述が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(13)により、
(14)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
① ~∃x(人 x &~ 死 x)
従って、
(12)(14)により、
(15)
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① ~∃x(人 x &~ 死 x)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない。)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
従って、
(04)(15)により、
(16)
① ~∃人&~死=
① ~∃x(人 x &~ 死 x)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
は、「述語論理訓読」である。
然るに、
(17)
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有(其所(愛)少女)=
② 少年皆(其(愛)所少女)有=
② 少年皆其の愛す所の少女有り=
② Every boy loves a certain girl.
といふ「漢文訓読」は、正しい。
然るに、
(18)
② 少年(x)→少女(y)&愛(xy)=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。
といふことは、
② 少年xは、少女yを愛す。
といふことである。
(19)
② 少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy))=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyの愛す。といふ、そのやうなyが存在する。
といふことは、
② 少年xには、愛する所の、少女yがゐる。
といふことである。
(20)
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
② 全ての少年xには、愛する所の、少女yがゐる。
といふことである。
従って、
(21)
② 少年の人数=10人
であるならば、
② 10人中10人の、全ての少年xには、愛する所の少女yがゐる。
といふことである。
然るに、
(22)
② 少年の人数=10人
に対して、
② 愛される所の少女は、 1人であることも、可能であり、
② 愛される所の少女は、10人であることも、可能である。
従って、
(17)~(22)により、
(23)
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
② "for all x,if x is a boy then x loves some girl",and to say "x loves some girl" we say "there is a y such that y is a girl and x loves y"(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p100).
といふ「言ひかた」は、
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有(其所(愛)少女)=
② 少年皆(其(愛)所少女)有=
② 少年皆其の愛す所の少女有り=
② Every boy loves a certain girl.
といふ「漢文訓読」に、等しい。
然るに、
(10)により、
(24)
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② ((x)少年→((y)少女&(xy)愛)∃y)∀x
(13)により、
(25)
② ∀x(少年x→∃y(少女y&愛xy))=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
従って、
従って、
(02)(23)(24)(25)により、
(26)
② ∀x(少年x→∃y(少女y&愛xy))=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② ((x)少年→((y)少女&(xy)愛)∃y)∀x=
② ((xが)少年であるならば、((yは)少女であり、尚且つ、(xはyを)愛す。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
従って、
(23)(26)により、
(27)
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有(其所(愛)少女)=
② 少年皆(其(愛)所少女)有=
② 少年皆其の愛す所の少女有り=
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② ((x)少年→((y)少女&(xy)愛)∃y)∀x=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
従って、
(28)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② ((x)少年→((y)少女&(xy)愛)∃y)∀x=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
は、「述語論理訓読」である。
従って、
(15)(16)(27)(28)により、
(29)
① 不有人而不死。
② 少年皆有其所愛少女。
といふ「漢文」に対して、
① 不(有(人而不(死)))
② 少年皆有(其所(愛)少女)
といふ「括弧」を認めないことは、
① ~∃x(人x&~死x)
② ∀x(少年x→∃y(少女y&愛xy))
といふ「述語論理」に対して、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「括弧」を認めないことに、等しい。
従って、
(30)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「括弧」を認めるのであれば、
① 不(有(人而不(死)))
② 少年皆有(其所(愛)少女)
といふ「括弧」も、認めざるを得ない。
然るに、
(31)
「述語論理」が正しく、尚且つ、「論理(Logic)」が、「普遍的」である限り、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「括弧」は、認めざるを得ない。
従って、
(30)(31)により、
(32)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)
といふこととは、関係なく、
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有(其所(愛)少女)=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「括弧」は、認めざるを得ない。
然るに、
(33)
① 不(有(人而不(死)))
② 少年皆有(其所(愛)少女)
に於ける、
① ((( )))
② (( ))
といふ「括弧」は、
① 三 二 一レ
② 二 レ 一
といふ「返り点」に相当する。
cf.
(34)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
といふこととは、関係なく、
① 不有人而不死。
② 少年皆有其所愛少女。
に付く、
① 三 二 一レ
② 二 レ 一
といふ「返り点」は、認めざるを得ない。
従って、
(35)
漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳する。
にしても、その漢籍に付いてゐる、「返り点(括弧)」まで、否定することは、出来ない。
従って、
(36)
漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳する。
にしても、「漢文訓読」まで、否定すべきではない。
(37)
∃xP(x)
といふ「述語論理」を、
∃x(P(x))
とした上で、
∃xP(x)=
∃x(P(x))⇒
((x)P)∃x=
xはPである。といふ、そのやうなxが存在する。
と読むのが、「述語論理訓読」であるに対して、
∃xP(x)=
There is x that is P.
と読めば、「述語論理音読」である。
従って、
(34)(37)により、
(38)
倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ開始されたことは、
∃xP(x)=
∃x(P(x))⇒
((x)P)∃x=
xはPである。といふ、そのやうなxが存在する。
といふ「述語論理訓読」を否定して、
∃xP(x)=
There is x that is P.
といふ「音読」を開始したことに、等しい。
然るに、
(39)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
といふ「述語論理」を、
①「左から右へ読みつつも、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。」
といふこと、すなはち、
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「順番」で、読むことに、反対する人は、ゐないはずである。
従って、
(38)(39)により、
(40)
倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ開始されたことは、
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① 不有x(人x而不死x)=
① ~∃x(人x&~死x)=
① ~(有x(人(x)&~(死(x))))=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))。
といふこと、すなはち、
「漢文」は、「述語論理」のやうな「言語」である。
といふ事実を、無視してゐる。といふ風に、言はざるを得ない。
平成28年03月10日、毛利太。
(41)
シナや極東の王国では、一般に文字をも語をも表わすものではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほどほど広い範囲で了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な符号があるのである。
(フランシス・ベーコン、学問の進歩、第二巻、一六・二)
(42)
漢字はことばではない、文字である。多くの文化人はそのことにふれずして、日本語論を語る。その結果、「訓読みは日本人の発明だ!」などという論調が蔓延してしまっているが、そんな日本と日本人の漢字礼讃傾向に、著者は真っ向から反論する書である。
(田中克彦、漢字が日本語をほろぼす、2011年、A人azonの書評?)
(43)
太平洋戦争終結後、1948年(昭和23年)に「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」という偏見から、GHQのジョン・ペルゼル[2]による発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。そして正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示した(統計処理は林知己夫が担当)1948年8月、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男少女を対象とした日本初の全国調査「日本人の読み書き能力調査」が実施されたが、その結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率が非常に高いことが証明された。柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「識字率が低い結果でないと困る」と遠回しに言われたが、柴田は「結果は曲げられない」と突っぱね[3]、日本語のローマ字化は撤回された[4](ウィキペディア:漢字廃止論)
(44)
あのとき、ローマ字論者であった柴田が、ペルゼルの申し出を拒否せずに、統計の書き直しをしていたら、どうなっていたか。あるいは、ペルゼルが自分の申し出を大人しく引っ込めずに、強く言いつのり、そんなペルゼルに押されて柴田武が折れてしまったら、どうなっていたか。おそらく文部省は、即、ローマ字表記の強制に踏み切ったであろう。そうしたら、日本語は、新字、新かなづかいなどといった、すでに施行された文字改革どころかではなく、ローマ字表記になっていた可能性が大いにあるのである。
(水村美苗、増補 日本語が亡びるとき、2015年、447頁)
(45)
さうであれば、「漢文教育」は、完全に、息の根を止められたゐたことになるため、このやうな「記事」は、存在しなかつたことになる。日本語(と日本の文化=日本らしさ)は、敗戦後の一時期に於いて、「自殺幇助」といふ形で、殺されかけてゐたことになる。そのことを、English Natives の方たちに、是非とも、知つて貰ひたい。
平成28年03月10日、毛利太。
(01)
不
有
人=人
而
不
死=死
然るに、
(02)
「~」は「・・・ではない」、「∨」は「または」、「&」は「かつ」、「→」は「ならば」、「∀」は「すべての」、「∃」は「ある・・・が存在する」の意味です。
(吉永良正、ゲーデル・不完全定理、1992年、200頁改)
従って、
(01)(02)により、
(03)
不=~=でない。
有=∃=存在する。
人=人
而=&=尚且つ、
不=~=でない。
死=死
従って、
(04)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死。
然るに、
(05)
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① There is not a man thata doesn't die.
といふ「漢文訓読」は、正しい。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ~(∃(人&~(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① ((人&(死)~)∃)~=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① 人にして死せ~るは∃ら~=
① There is not a man thata doesn't die.
といふ「漢文訓読」は、正しい。
然るに、
(07)
① ~(∃(人&~(死)))
に対して、
① x (x) (x)
を加へて、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
とするならば、「述語論理」である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① 不(有x(人(x)而不(死(x))))
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
は、二つとも、「述語論理」である。
然るに、
(09)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
に於いて、
① ~( )⇒( )~
① ∃x( )⇒( )∃x
① 人( )⇒( )人
① ~( )⇒( )~
① 死( )⇒( )死
のやうに、
① 囗( )⇒( )囗
といふ「倒置」を、「括弧の(回)数」だけ行ふと、
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~
といふ「語順」を、得ることになる。
然るに、
(10)
注意2.4.3 ∃xP(x)は、
ある x があってP(x)である。
あるいは、
ある x が存在してP(x)である。
と言っても良いし、場合によっては
P(x)となる x が存在する。
という言い方もする。要するに、表す内容が同じであれば、表現の仕方にこだわらなくとも良い。
(中内信光、ろんりの練習帳、2002年、94頁)
従って、
(03)(09)(10)により、
(11)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない。)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
従って、
(06)(11)により、
(12)
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない。)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
然るに、
(13)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、AIプログラミング、2008年、13頁)
むやみに括弧が多くなることは我慢でないのである(E.J.愛e人人on、論理学初歩、1973年、59頁)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう;しかし、丸括弧はその内部の表述が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(13)により、
(14)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
① ~∃x(人 x &~ 死 x)
従って、
(12)(14)により、
(15)
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① ~∃x(人 x &~ 死 x)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない。)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
従って、
(04)(15)により、
(16)
① ~∃人&~死=
① ~∃x(人 x &~ 死 x)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
は、「述語論理訓読」である。
然るに、
(17)
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有(其所(愛)少女)=
② 少年皆(其(愛)所少女)有=
② 少年皆其の愛す所の少女有り=
② Every boy loves a certain girl.
といふ「漢文訓読」は、正しい。
然るに、
(18)
② 少年(x)→少女(y)&愛(xy)=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。
といふことは、
② 少年xは、少女yを愛す。
といふことである。
(19)
② 少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy))=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyの愛す。といふ、そのやうなyが存在する。
といふことは、
② 少年xには、愛する所の、少女yがゐる。
といふことである。
(20)
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
② 全ての少年xには、愛する所の、少女yがゐる。
といふことである。
従って、
(21)
② 少年の人数=10人
であるならば、
② 10人中10人の、全ての少年xには、愛する所の少女yがゐる。
といふことである。
然るに、
(22)
② 少年の人数=10人
に対して、
② 愛される所の少女は、 1人であることも、可能であり、
② 愛される所の少女は、10人であることも、可能である。
従って、
(17)~(22)により、
(23)
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
② "for all x,if x is a boy then x loves some girl",and to say "x loves some girl" we say "there is a y such that y is a girl and x loves y"(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p100).
といふ「言ひかた」は、
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有(其所(愛)少女)=
② 少年皆(其(愛)所少女)有=
② 少年皆其の愛す所の少女有り=
② Every boy loves a certain girl.
といふ「漢文訓読」に、等しい。
然るに、
(10)により、
(24)
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② ((x)少年→((y)少女&(xy)愛)∃y)∀x
(13)により、
(25)
② ∀x(少年x→∃y(少女y&愛xy))=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
従って、
従って、
(02)(23)(24)(25)により、
(26)
② ∀x(少年x→∃y(少女y&愛xy))=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② ((x)少年→((y)少女&(xy)愛)∃y)∀x=
② ((xが)少年であるならば、((yは)少女であり、尚且つ、(xはyを)愛す。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
従って、
(23)(26)により、
(27)
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有(其所(愛)少女)=
② 少年皆(其(愛)所少女)有=
② 少年皆其の愛す所の少女有り=
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② ((x)少年→((y)少女&(xy)愛)∃y)∀x=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
従って、
(28)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② ((x)少年→((y)少女&(xy)愛)∃y)∀x=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
は、「述語論理訓読」である。
従って、
(15)(16)(27)(28)により、
(29)
① 不有人而不死。
② 少年皆有其所愛少女。
といふ「漢文」に対して、
① 不(有(人而不(死)))
② 少年皆有(其所(愛)少女)
といふ「括弧」を認めないことは、
① ~∃x(人x&~死x)
② ∀x(少年x→∃y(少女y&愛xy))
といふ「述語論理」に対して、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「括弧」を認めないことに、等しい。
従って、
(30)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「括弧」を認めるのであれば、
① 不(有(人而不(死)))
② 少年皆有(其所(愛)少女)
といふ「括弧」も、認めざるを得ない。
然るに、
(31)
「述語論理」が正しく、尚且つ、「論理(Logic)」が、「普遍的」である限り、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「括弧」は、認めざるを得ない。
従って、
(30)(31)により、
(32)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)
といふこととは、関係なく、
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有(其所(愛)少女)=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「括弧」は、認めざるを得ない。
然るに、
(33)
① 不(有(人而不(死)))
② 少年皆有(其所(愛)少女)
に於ける、
① ((( )))
② (( ))
といふ「括弧」は、
① 三 二 一レ
② 二 レ 一
といふ「返り点」に相当する。
cf.
(34)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
といふこととは、関係なく、
① 不有人而不死。
② 少年皆有其所愛少女。
に付く、
① 三 二 一レ
② 二 レ 一
といふ「返り点」は、認めざるを得ない。
従って、
(35)
漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳する。
にしても、その漢籍に付いてゐる、「返り点(括弧)」まで、否定することは、出来ない。
従って、
(36)
漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳する。
にしても、「漢文訓読」まで、否定すべきではない。
(37)
∃xP(x)
といふ「述語論理」を、
∃x(P(x))
とした上で、
∃xP(x)=
∃x(P(x))⇒
((x)P)∃x=
xはPである。といふ、そのやうなxが存在する。
と読むのが、「述語論理訓読」であるに対して、
∃xP(x)=
There is x that is P.
と読めば、「述語論理音読」である。
従って、
(34)(37)により、
(38)
倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ開始されたことは、
∃xP(x)=
∃x(P(x))⇒
((x)P)∃x=
xはPである。といふ、そのやうなxが存在する。
といふ「述語論理訓読」を否定して、
∃xP(x)=
There is x that is P.
といふ「音読」を開始したことに、等しい。
然るに、
(39)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
といふ「述語論理」を、
①「左から右へ読みつつも、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。」
といふこと、すなはち、
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「順番」で、読むことに、反対する人は、ゐないはずである。
従って、
(38)(39)により、
(40)
倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ開始されたことは、
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① 不有x(人x而不死x)=
① ~∃x(人x&~死x)=
① ~(有x(人(x)&~(死(x))))=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))。
といふこと、すなはち、
「漢文」は、「述語論理」のやうな「言語」である。
といふ事実を、無視してゐる。といふ風に、言はざるを得ない。
平成28年03月10日、毛利太。
(41)
シナや極東の王国では、一般に文字をも語をも表わすものではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほどほど広い範囲で了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な符号があるのである。
(フランシス・ベーコン、学問の進歩、第二巻、一六・二)
(42)
漢字はことばではない、文字である。多くの文化人はそのことにふれずして、日本語論を語る。その結果、「訓読みは日本人の発明だ!」などという論調が蔓延してしまっているが、そんな日本と日本人の漢字礼讃傾向に、著者は真っ向から反論する書である。
(田中克彦、漢字が日本語をほろぼす、2011年、A人azonの書評?)
(43)
太平洋戦争終結後、1948年(昭和23年)に「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」という偏見から、GHQのジョン・ペルゼル[2]による発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。そして正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示した(統計処理は林知己夫が担当)1948年8月、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男少女を対象とした日本初の全国調査「日本人の読み書き能力調査」が実施されたが、その結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率が非常に高いことが証明された。柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「識字率が低い結果でないと困る」と遠回しに言われたが、柴田は「結果は曲げられない」と突っぱね[3]、日本語のローマ字化は撤回された[4](ウィキペディア:漢字廃止論)
(44)
あのとき、ローマ字論者であった柴田が、ペルゼルの申し出を拒否せずに、統計の書き直しをしていたら、どうなっていたか。あるいは、ペルゼルが自分の申し出を大人しく引っ込めずに、強く言いつのり、そんなペルゼルに押されて柴田武が折れてしまったら、どうなっていたか。おそらく文部省は、即、ローマ字表記の強制に踏み切ったであろう。そうしたら、日本語は、新字、新かなづかいなどといった、すでに施行された文字改革どころかではなく、ローマ字表記になっていた可能性が大いにあるのである。
(水村美苗、増補 日本語が亡びるとき、2015年、447頁)
(45)
さうであれば、「漢文教育」は、完全に、息の根を止められたゐたことになるため、このやうな「記事」は、存在しなかつたことになる。日本語(と日本の文化=日本らしさ)は、敗戦後の一時期に於いて、「自殺幇助」といふ形で、殺されかけてゐたことになる。そのことを、English Natives の方たちに、是非とも、知つて貰ひたい。
平成28年03月10日、毛利太。
2016年3月6日日曜日
述語論理訓読、漢文訓読。
(01)
「~」は「・・・ではない」、「∨」は「または」、「&」は「かつ」、「→」は「ならば」、「∀」は「すべての」、「∃」は「ある・・・が存在する」の意味です。
(吉永良正、ゲーデル・不完全定理、1992年、200頁改)
従って、
(02)
① 人として死せざるは無し。
② 少年皆其の愛する所の少女有り。
③ 或る少女全少年の愛する所と為る。
④ 親として其の子を愛せざるは無し。
⑤ 親として其の子を愛せざる無きに非ず
といふ「訓読」を、「述語論理」で「記号化」すると、
① ~∃x(Mx&~Dx)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
といふことになる。
然るに、
(03)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① ~(∃x(Mx&~(Dx)))
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~(∃y(Cyx&~(Lxy))))
⑤ ~(∀x(Px→~(∃y(Cyx&~(Lxy)))))
といふことになる。
然るに、
(05)P(x)は命題型であるが、数学の函数の形と似ているので命題函数(propositional function)ともいう。
(岩波全書、論理学入門、1979年、58頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
② ∀x(B(x)→∃y(G(y)&L(xy)))
③ ∃x(G(x)&∀y(B(y)→L(yx)))
④ ∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy)))))
⑤ ~(∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy))))))
といふことになる。
然るに、
(07)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、AIプログラミング、2008年、13頁)。
むやみに括弧が多くなることは我慢でないのである(E.J.Lemmon、論理学初歩、1973年、59頁)。
従って、
(02)~(07)により、
(08)
① 無人不死。
② 少年皆有其所愛少女。
③ 或少女為全少年所愛。
④ 無親不愛其子。
⑤ 非無親不愛其子。
といふ「漢文」を、「述語論理」で「記号化」し、尚且つ、「括弧を省略する」場合は、
① ~∃x(Mx&~Dx)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
といふことなり、「括弧を省略しない」場合は、
① ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
② ∀x(B(x)→∃y(G(y)&L(xy)))
③ ∃x(G(x)&∀y(B(y)→L(yx)))
④ ∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy)))))
⑤ ~(∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy))))))
といふことになる。
(09)
( )( )( )( )( )( )
のやうに、「丸括弧」だけでは読みにくいため、
( )〔 〕[ ]{ }〈 〉《 》
を用ゐることにする。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 無人不死=
① ~∃x(Mx&~Dx)=
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
(11)
② 少年皆有其所愛少女=
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
(12)
③ 或少女為全少年所愛=
③ ∃x(Gx&∀x(Bx→Lyx))=
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]
(13)
④ 無親不愛其子=
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
(14)
⑤ 非無親不愛其子=
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
然るに、
(15)
「記号」などというものは歴史的経緯や何やらの「人的な事情」に依存して決まっている便宜的なものにすぎず、数学の本質そのものではない。そして、現在一般的に使われている数学の記号は欧米起源のものなので、日本語とは「すれ違う」側面がある、というだけである。実際に、a+bの代わりに、日本語の「aとbを足す」という表現に応じて、ab+という記号で足し算を表しても支障はない。「ab+なんて思いっきりヘン」と感じるかもしれないが、それは「慣れていないだけ」である。その証拠に、ab+のような「日本語の語順に応じた記号」の体系が構成されていて、それが有益であることが実証されている。
(中島匠一、集合・写像・論理、2012年、190頁)
従って、
(10)(15)により、
(16)
① 無人不死=
① ~∃x(Mx&~Dx)=
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}=
① {[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
(11)(15)により。
(17)
② 少年皆有其所愛少女=
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]=
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x
(12)(15)により、
(18)
③ 或少女為全少年所愛=
③ ∃x(Gx&∀x(Bx→Lyx))=
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]=
③ [(x)G&〔(y)B→(yx)L〕∀y]∃x
(13)(15)により、
(19)
④ 無親不愛其子=
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉=
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x
(14)(15)により、
(20)
⑤ 非無親不愛其子=
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》=
⑤ 《〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
然るに、
(21)
① {[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
といふ「述語論理」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
(22)
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x
といふ「述語論理」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
② xが少年であるならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛する。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
cf.
② Every boy loves a certain girl.
(23)
③ [(x)G&〔(y)B→(yx)L〕∀y]∃x
といふ「述語論理」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
③ xは少女であり、尚且つ、yが少年であるならば、yはxを愛する。といふことが、全てのyに於いて、正しい。といふ、そのやうなxが存在する。
cf.
③ There is a girl who is loved by all the boys.
(24)
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x
といふ「記号」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
④ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
(25)
⑤ 《〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
といふ「記号」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
⑤ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。とは言へない。
従って、
(16)~(25)により、
(26)
① ~∃x(Mx&~Dx)=
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}=
① {[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
は、「述語論理訓読」である。
(27)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]=
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x=
② xが少年であるならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛する。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
は、「述語論理訓読」である。
(28)
③ ∃x(Gx&∀x(Bx→Lyx))=
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]=
③ [(x)G&〔(y)B→(yx)L〕∀y]∃x=
③ xは少女であり、尚且つ、yが少年であるならば、yはxを愛する。といふことが、全てのyに於いて、正しい。といふ、そのやうなxが存在する。
は、「述語論理訓読」である。
(29)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉=
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x=
④ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
は、「述語論理訓読」である。
(30)
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》=
⑤ 《〈(x)P→{[C(yx)&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~=
⑤ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。とは言へない。
は、「述語論理訓読」である。
然るに、
(31)
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕⇒
① 〔人(死)不〕無=
① 人として死せ不るは無し。
は、「漢文訓読」である。
(32)
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有〔其所(愛)少女)〕⇒
② 少年皆〔其(愛)所少女)〕有=
② 少年皆其の愛する所の少女有り。
は、「漢文訓読」である。
(33)
③ 或少女為全少年所愛=
③ 或少女為〔全少年所(愛)〕⇒
③ 或少女〔全少年(愛)所〕為=
③ 或る少女全少年の愛する所と為る。
は、「漢文訓読」である。
(34)
④ 無親不愛其子=
④ 無[親不〔愛(其子)〕]⇒
④ [親〔(其子)愛〕不]無=
④ 親として其の子を愛せ不るは無し。
は、「漢文訓読」である。
(35)
⑤ 非無親不愛其子=
⑤ 非{無[親不〔愛(其子)〕]}⇒
⑤ {[親〔(其子)愛〕不]無}非=
⑤ 親として其の子を愛せ不る無きに非ず。
は、「漢文訓読」である。
従って、
(21)~(35)により、
(36)
① 無〔人不(死)〕。
② 少年皆有[其所〔愛(少女)〕]。
③ 或少女為〔全少年所(愛)〕。
④ 無[親〔不〔愛(其子)〕]。
⑤ 非{無[親不〔愛(其子)〕]}。
に対する、
① 無人不死。
② 少年皆有其所愛少女。
③ 或少女為全少年所愛。
④ 無親不愛其子。
⑤ 非無親不愛其子。
といふ「漢文」の場合は、「全ての括弧が、省略」されてゐるのに対して、
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
に対する、
① ~∃x(Mx&~Dx)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
といふ「述語論理」の場合は、
「述語」に続く( )と、
「否定」に続く( )が、「省略」されてゐる。
従って、
(36)により、
(37)
① ~∃x(Mx&~Dx)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
といふ「述語論理」に、
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
といふ「括弧」が有るやうに、
① 無人不死。
② 少年皆有其所愛少女。
③ 或少女為全少年所愛。
④ 無親不愛其子。
⑤ 非無親不愛其子。
といふ「漢文」にも、
① 無〔人不(死)〕。
② 少年皆有[其所〔愛(少女)〕]。
③ 或少女為〔全少年所(愛)〕。
④ 無[親〔不〔愛(其子)〕]。
⑤ 非{無[親不〔愛(其子)〕]}。
といふ「括弧」が、有ります。
然るに、
(38)
① 無〔人不(死)〕⇒
① 〔人(死)不〕無=
① 人として死せ不るは無し。
といふ「漢文」の場合は、
① 不[有〔人而不(死)〕]⇒
① [〔人而(死)不〕有]不=
① 人にして死せ不るは有ら不。
といふ「漢文」に等しい。
然るに、
(39)
① 不[有〔人而不(死)〕]
といふ「漢文」を、
① 不{有[人(x)而不〔死(x)〕]}
とすれば、
① 不{有[人(x)而不〔死(x)〕]}=
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(40)
① 不[有〔人而不(死)〕]
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
に於いて、「異なる」のは、ただ単に、「x」といふ「変数の有無」だけである。
従って、
(41)
「漢文」は、「述語論理」のやうな「言語」である。
といふ、ことになる。
(42)
① 不[有〔人不(死)〕]。
といふ「漢文」に於ける、
① [〔( )〕]
をといふ「括弧」を「否定」することは、
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
といふ「述語論理」に於ける、
① {[( )〔( )〕]}
といふ「括弧」を「否定」することに、等しい。
従って、
(42)により、
(43)
平成28年03月06日、毛利太。
「~」は「・・・ではない」、「∨」は「または」、「&」は「かつ」、「→」は「ならば」、「∀」は「すべての」、「∃」は「ある・・・が存在する」の意味です。
(吉永良正、ゲーデル・不完全定理、1992年、200頁改)
従って、
(02)
① 人として死せざるは無し。
② 少年皆其の愛する所の少女有り。
③ 或る少女全少年の愛する所と為る。
④ 親として其の子を愛せざるは無し。
⑤ 親として其の子を愛せざる無きに非ず
といふ「訓読」を、「述語論理」で「記号化」すると、
① ~∃x(Mx&~Dx)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
といふことになる。
然るに、
(03)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① ~(∃x(Mx&~(Dx)))
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~(∃y(Cyx&~(Lxy))))
⑤ ~(∀x(Px→~(∃y(Cyx&~(Lxy)))))
といふことになる。
然るに、
(05)P(x)は命題型であるが、数学の函数の形と似ているので命題函数(propositional function)ともいう。
(岩波全書、論理学入門、1979年、58頁)
(04)(05)により、
(06)
① ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
② ∀x(B(x)→∃y(G(y)&L(xy)))
③ ∃x(G(x)&∀y(B(y)→L(yx)))
④ ∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy)))))
⑤ ~(∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy))))))
といふことになる。
然るに、
(07)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、AIプログラミング、2008年、13頁)。
むやみに括弧が多くなることは我慢でないのである(E.J.Lemmon、論理学初歩、1973年、59頁)。
従って、
(02)~(07)により、
(08)
① 無人不死。
② 少年皆有其所愛少女。
③ 或少女為全少年所愛。
④ 無親不愛其子。
⑤ 非無親不愛其子。
といふ「漢文」を、「述語論理」で「記号化」し、尚且つ、「括弧を省略する」場合は、
① ~∃x(Mx&~Dx)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
といふことなり、「括弧を省略しない」場合は、
① ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
② ∀x(B(x)→∃y(G(y)&L(xy)))
③ ∃x(G(x)&∀y(B(y)→L(yx)))
④ ∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy)))))
⑤ ~(∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy))))))
といふことになる。
(09)
( )( )( )( )( )( )
のやうに、「丸括弧」だけでは読みにくいため、
( )〔 〕[ ]{ }〈 〉《 》
を用ゐることにする。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 無人不死=
① ~∃x(Mx&~Dx)=
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
(11)
② 少年皆有其所愛少女=
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
(12)
③ 或少女為全少年所愛=
③ ∃x(Gx&∀x(Bx→Lyx))=
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]
(13)
④ 無親不愛其子=
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
(14)
⑤ 非無親不愛其子=
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
然るに、
(15)
「記号」などというものは歴史的経緯や何やらの「人的な事情」に依存して決まっている便宜的なものにすぎず、数学の本質そのものではない。そして、現在一般的に使われている数学の記号は欧米起源のものなので、日本語とは「すれ違う」側面がある、というだけである。実際に、a+bの代わりに、日本語の「aとbを足す」という表現に応じて、ab+という記号で足し算を表しても支障はない。「ab+なんて思いっきりヘン」と感じるかもしれないが、それは「慣れていないだけ」である。その証拠に、ab+のような「日本語の語順に応じた記号」の体系が構成されていて、それが有益であることが実証されている。
(中島匠一、集合・写像・論理、2012年、190頁)
従って、
(10)(15)により、
(16)
① 無人不死=
① ~∃x(Mx&~Dx)=
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}=
① {[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
(11)(15)により。
(17)
② 少年皆有其所愛少女=
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]=
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x
(12)(15)により、
(18)
③ 或少女為全少年所愛=
③ ∃x(Gx&∀x(Bx→Lyx))=
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]=
③ [(x)G&〔(y)B→(yx)L〕∀y]∃x
(13)(15)により、
(19)
④ 無親不愛其子=
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉=
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x
(14)(15)により、
(20)
⑤ 非無親不愛其子=
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》=
⑤ 《〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
然るに、
(21)
① {[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
といふ「述語論理」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
(22)
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x
といふ「述語論理」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
② xが少年であるならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛する。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
cf.
② Every boy loves a certain girl.
(23)
③ [(x)G&〔(y)B→(yx)L〕∀y]∃x
といふ「述語論理」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
③ xは少女であり、尚且つ、yが少年であるならば、yはxを愛する。といふことが、全てのyに於いて、正しい。といふ、そのやうなxが存在する。
cf.
③ There is a girl who is loved by all the boys.
(24)
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x
といふ「記号」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
④ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
(25)
⑤ 《〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
といふ「記号」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
⑤ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。とは言へない。
従って、
(16)~(25)により、
(26)
① ~∃x(Mx&~Dx)=
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}=
① {[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
は、「述語論理訓読」である。
(27)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]=
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x=
② xが少年であるならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛する。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
は、「述語論理訓読」である。
(28)
③ ∃x(Gx&∀x(Bx→Lyx))=
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]=
③ [(x)G&〔(y)B→(yx)L〕∀y]∃x=
③ xは少女であり、尚且つ、yが少年であるならば、yはxを愛する。といふことが、全てのyに於いて、正しい。といふ、そのやうなxが存在する。
は、「述語論理訓読」である。
(29)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉=
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x=
④ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
は、「述語論理訓読」である。
(30)
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》=
⑤ 《〈(x)P→{[C(yx)&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~=
⑤ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。とは言へない。
は、「述語論理訓読」である。
然るに、
(31)
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕⇒
① 〔人(死)不〕無=
① 人として死せ不るは無し。
は、「漢文訓読」である。
(32)
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有〔其所(愛)少女)〕⇒
② 少年皆〔其(愛)所少女)〕有=
② 少年皆其の愛する所の少女有り。
は、「漢文訓読」である。
(33)
③ 或少女為全少年所愛=
③ 或少女為〔全少年所(愛)〕⇒
③ 或少女〔全少年(愛)所〕為=
③ 或る少女全少年の愛する所と為る。
は、「漢文訓読」である。
(34)
④ 無親不愛其子=
④ 無[親不〔愛(其子)〕]⇒
④ [親〔(其子)愛〕不]無=
④ 親として其の子を愛せ不るは無し。
は、「漢文訓読」である。
(35)
⑤ 非無親不愛其子=
⑤ 非{無[親不〔愛(其子)〕]}⇒
⑤ {[親〔(其子)愛〕不]無}非=
⑤ 親として其の子を愛せ不る無きに非ず。
は、「漢文訓読」である。
従って、
(21)~(35)により、
(36)
① 無〔人不(死)〕。
② 少年皆有[其所〔愛(少女)〕]。
③ 或少女為〔全少年所(愛)〕。
④ 無[親〔不〔愛(其子)〕]。
⑤ 非{無[親不〔愛(其子)〕]}。
に対する、
① 無人不死。
② 少年皆有其所愛少女。
③ 或少女為全少年所愛。
④ 無親不愛其子。
⑤ 非無親不愛其子。
といふ「漢文」の場合は、「全ての括弧が、省略」されてゐるのに対して、
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
に対する、
① ~∃x(Mx&~Dx)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
といふ「述語論理」の場合は、
「述語」に続く( )と、
「否定」に続く( )が、「省略」されてゐる。
従って、
(36)により、
(37)
① ~∃x(Mx&~Dx)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
といふ「述語論理」に、
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
といふ「括弧」が有るやうに、
① 無人不死。
② 少年皆有其所愛少女。
③ 或少女為全少年所愛。
④ 無親不愛其子。
⑤ 非無親不愛其子。
といふ「漢文」にも、
① 無〔人不(死)〕。
② 少年皆有[其所〔愛(少女)〕]。
③ 或少女為〔全少年所(愛)〕。
④ 無[親〔不〔愛(其子)〕]。
⑤ 非{無[親不〔愛(其子)〕]}。
といふ「括弧」が、有ります。
然るに、
(38)
① 無〔人不(死)〕⇒
① 〔人(死)不〕無=
① 人として死せ不るは無し。
といふ「漢文」の場合は、
① 不[有〔人而不(死)〕]⇒
① [〔人而(死)不〕有]不=
① 人にして死せ不るは有ら不。
といふ「漢文」に等しい。
然るに、
(39)
① 不[有〔人而不(死)〕]
といふ「漢文」を、
① 不{有[人(x)而不〔死(x)〕]}
とすれば、
① 不{有[人(x)而不〔死(x)〕]}=
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(40)
① 不[有〔人而不(死)〕]
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
に於いて、「異なる」のは、ただ単に、「x」といふ「変数の有無」だけである。
従って、
(41)
「漢文」は、「述語論理」のやうな「言語」である。
といふ、ことになる。
(42)
① 不[有〔人不(死)〕]。
といふ「漢文」に於ける、
① [〔( )〕]
をといふ「括弧」を「否定」することは、
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
といふ「述語論理」に於ける、
① {[( )〔( )〕]}
といふ「括弧」を「否定」することに、等しい。
従って、
(42)により、
(43)
平成28年03月06日、毛利太。
2016年3月5日土曜日
英語、漢文訓読、論理学訓読。
―「03月04日の記事」を書き直します。「括弧」は、有ります。―
(01)
論理学では、表現形態が相異なったいくつかの文が同じ意味内容を示すかぎり、それらを同一の命題としてとりあつかう、また日本語で表わそうと外国語で書こうと、同一の主張内容を示すかぎり、同一の命題と見なされる。
(上田泰治、論理学、1967年、40頁)
従って、
(02)
① y皆有其親。
② 少年皆有其所愛少女。
③ 無人不死。
④ 無親不愛其子。
⑤ 非無親不愛其子。
といふ「命題」は、
① 全てyには、親である所のxがゐる。
② 全ての少年には、好きな少女がゐる。
③ 不死身の人間は存在しない。
④ 親であって、自分の子供を愛さない者はゐない。
⑤ 親であって、自分の子供を愛さない者は、無きに非ず。
といふ「命題」と、
① Every y has its parent.
② Every boy loves a certain girl.
③ The immortal human being does not exist.
④ There is not the parent who does not love one's child.
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「命題」に等しい。
然るに、
(03)
① 全てyには、親である所のxがゐる。
② 全ての少年には、好きな少女がゐる。
③ 不死身の人間は存在しない。
④ 親であって、自分の子供を愛さない者はゐない。
⑤ 親であって、自分の子供を愛さない者は、無きに非ず。
といふ「命題」は、
① ∀y∃x(Pxy)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ~∃x(Mx&~Dx)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))
といふ風に、「記号化」される。
然るに、
(04)
むやみに括弧が多くなることは我慢でないのである(E.J.Lemmon、論理学初歩、1973年、59頁)。
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、AIプログラミング、2008年、13頁)。
従って、
(03)(04)により、
(05)
「括弧」を「省略」しない場合は、
① ∀y(∃x(P(xy)))
② ∀x(B(x)→∃y(G(y)&L(xy)))
③ ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
④ ∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy)))))
⑤ ~(∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy))))))
とするのが、「正しい」。
然るに、
(06)
① ∀y(∃x(P(xy)))
② ∀x(B(x)→∃y(G(y)&L(xy)))
③ ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
④ ∀x(P(x)→~∃y(C(yx)&~(L(xy)))))
⑤ ~(∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy))))))
のやうに、「丸括弧」だけでは、読みにくいため、
「( )〔 〕[ ]{ }〈 〉《 》」を用ゐて、
① ∀y[∃x〔P(xy)〕]
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
とする。
然るに、
(07)
実際に、a+bの代わりに、日本語の「aとbを足す」という表現に応じて、ab+という記号で足し算を表しても支障はない。「ab+なんて思いっきりヘン」と感じるかもしれないが、それは「慣れていないだけ」である。その証拠に、ab+のような「日本語の語順に応じた記号」の体系が構成されていて、それが有益であることが実証されている。
(中島匠一、集合・写像・論理、2012年、190頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ∀y[∃x〔P(xy)〕]
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
といふ「論理式」は、
① [〔(xy)P〕∃x]∀y
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x} ~
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x
⑤ 《〈P(x)→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
といふ「論理式」に、等しい。
従って、
(03)~(08)により、
(09)
① ∀y∃x(Pxy)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ~∃x(Mx&~Dx)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))
といふ「論理式」は、
① [〔(xy)P〕∃x]∀y
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x
⑤ 《〈P(x)→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
といふ「論理式」に、等しい。
然るに、
(10)
① ∀y∃x(Pxy)⇒
① [〔(xy)P〕∃x]∀y=
① xはyの親である。といふ、そのやうなxが存在する。といふことは、全てのyに於いて、正しい。
(11)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))⇒
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x=
② xが少年であるならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛する。といふ、そのやうなyが存在することは、全てのxに於いて、正しい。
(12)
③ ~∃x(Mx&~Dx)⇒
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
(13)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))⇒
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x=
④ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
(14)
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))⇒
⑤ 《〈P(x)→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
⑤ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。といふわけではない。
然るに、
(15)
① y皆有其親 ⇒
① y皆(其親)有=
① y皆、其の親有り。
(16)
② 少年皆有其所愛少女 ⇒
② 少年皆〔其(愛)所少女〕有=
② 少年皆、其の愛する所の少女有り。
(17)
③ 無人不死 ⇒
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し。
(18)
④ 無親不愛其子 ⇒
④ [親〔(其子)愛〕不]無=
④ 親として、其の子を愛さ不るは無し。
(19)
⑤ 非無親不愛其子 ⇒
⑤ {[親〔(其子)愛〕不]無}非=
⑤ 親として、其の子を愛さ不るは無きに非ず。
従って、
(09)~(19)により、
(20)
例へば、
③ 無人不死 ⇒
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し。
といふ「翻訳」が、「漢文訓読」であるのに対して、
③ ~∃x(Mx&~Dx)⇒
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「翻訳」は、「述語論理訓読」である。
従って、
(01)(20)により、
(21)
③ 無人不死=
③ 〔人(死)不〕無=
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「等式」が成立する。
然るに、
(22)
無=No
人=man
不=doesn't
死=die.
従って、
(21)(22)により、
(23)
③ 無人不死=
③ No man doesn't die=
③ 〔人(死)不〕無=
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「等式」が成立する。はずである。
然るに、
(24)
このような用法は、特に英語で問題になる。たとえば、Nobody don't like me. (誰も僕を好いてくれない)や I don't know nothing. (僕は何も知らない) などがこれにあたる(ウィキペディア:二重否定)。
従って、
(24)により、
(25)
実際には、
③ No man doesn't die=
③ 死なない人間は、存在しない。
ではなく、
③ No man doesn't die=
③ Any man doesn't die=
③ 一人も死なない(誰も死なない)。
といふことになる。
従って、
(21)(23)(25)により、
(26)
③ 無人不死=
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し=
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
に対する、
③ No man doesn't die=
③ Any man doesn't die=
③ 一人も死なない(誰も死なない)。
といふといふ「英語」は、「論理的」にはヲカシイのであって、次の(27)は、そのことを、述べてゐる。
(27)
しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した。とりわけ聖職者ロバート・ラウスが 1762 年に出版した文法書 A Short Introduction to English Grammar with Critical Notes は否定呼応を否定の否定であるとみなし(今日の言語学的観点からすれば誤解)し、この表現を非文法的な言い方の最もたるものとしている。これにより英語は否定呼応を用いる言語から緩叙法を用いる言語へと半ば強制的に変換させられた。
(ウィキペディア:二重否定)
(28)
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語」を、「機械翻訳」すると、
⑤ 自分の子供を愛していない親が存在しないというのは本当ではありません。
といふことになる。
従って、
(01)(14)(18)(28)により、
(29)
⑤ 非無親不愛其子 ⇒
⑤ {[親〔(其子)愛〕不]無}非=
⑤ 親として、其の子を愛さ不るは無きに非ず。
といふ「漢文訓読」と、
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))⇒
⑤ 《〈P(x)→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
⑤ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。といふわけではない。
といふ「述語論理訓読」は、
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語」に等しい。
然るに、
(30)
⑤ 非=~=No
⑤ 無=~=no
⑤ 不=~=not
に相当するは、
⑤ It is not true that
⑤ there is not
⑤ who does not
であるため、
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語の三重否定」は、
⑤「漢文」や、
⑤「述語論理」に於ける、それとは、同じではない。
従って、
(30)により、
(31)
厳密に言へば、
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語」は、「三重否定」ではない。
(32)
① Every y has its parent.
② Every boy loves a certain girl.
③ The immortal human being does not exist.
④ There is not the parent who does not love one's child.
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
に対する、
① ∀y∃xPxy
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ~∃x(Mx&~Dx)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))
であるため、「述語論理」には、「主語」が有る。
然るに、
(33)
⑥ If it rains tomorrow, We will not go on a picnic.
のやうなそれを、
⑥ P=It rains tomorrow.
⑥ Q=We will go on a picnic.
⑥ ~Q=We will not go on a picnic.
とした上で、
⑥ P→~Q
とするのが、「命題論理」であるため、「命題論理」には、「主語」が無い。
然るに、
(34)
⑥ Pならば、Qではない。
に於いて、
P=P
→=ならば、
Q~=Qではない。
であるため、
⑥ Pならば、Qではない。
といふ「日本語(逐語訳)」にも、「主語」が無い。
然るに、
(35)
主語強要言語は以下の通りである。
英語、ドイツ語、フランス語、ロマンシュ語(スイス)、オランダ語、スカンディナヴィア言語(ノルウェー語、スウェーデン語、デンマーク語)
ここに挙げられた以外の言語はすべて主語非強要言語である。ということで、圧倒的多数の言語には主語が必要ないのである。
(月本洋、日本語は論理的である、2009年、66頁)
従って、
(34)(35)により、
(36)
⑥ P→Q~=
⑥ Pならば、Qではない。
といふ「日本語(逐語訳)」に対して、「英語」の場合は、
⑥ It is P. Then it is not Q.(ヤフー!翻訳)
⑥ It's P. When it is, it isn't Q.(エキサイト翻訳)
がさうであるやうに、
⑥ It is P. It is not Q.
といふ、「意味の無い、It(主語)is」を必要とする。
従って、
(26)により、
(37)
③ 無人不死=
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し=
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
といふ「二重否定」に対する、
③ No man doesn't die=
③ Any man doesn't die=
③ 一人も死なない(誰も死なない)。
といふといふ「英語」は、「非論理的」である。
加へて、
(29)(31)により、
(38)
⑤ 非無親不愛其子 ⇒
⑤ {[親〔(其子)愛〕不]無}非=
⑤ 親として、其の子を愛さ不るは無きに非ず。
に対する、
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語」は、厳密には、「三重否定」とは言へない。
加へて、
(36)により、
(39)
⑥ P→~Q
を「翻訳」する際に、「意味の無い、It(主語)is」を必要とする。
といふ点に於いても、「英語」は、「非論理的」である。
従って、
(37)(38)(39)により、
(40)
「英語」は、「漢文や日本語」よりも、「非論理的」である。
然るに、
(41)
He was an old man who fished alone in a skiff in the Gulf Stream and he had gone eighty four days without taking a fish.
は「英語」であり、
I decided to try and write a popular book about space and time after the Loeb lectures at Harvard in 1982.
は「英語」であるだけなく、
The aim of the book is to provide the student with a good working knowledge of propositional and predicate calculi ― the foundations upon which modern symbolic logic.
も「英語」である。
然るに、
(42)
「論理学の教科書」が「英語」で書かれてゐる。といふ、その一方で、「英語」が「非論理的な言語」である。といふことは、有り得ない。
従って、
(01)~(42)により、
(43)
「英語」は、
「漢文・訓読」よりも「非論理 的」なのではなく、
「漢文・訓読」よりも「非論理学的」であると、すべきである。
(44)
平成28年03月05日、毛利太。
③ Mx=x is Man.
③ Dx=x Dies.
であるため、その意味では、「英語の語順」としては、
③ xM=x is Man.
③ xD=x
の方が、「自然」です。
ところが、
(45)
③ xM=x is Man.
③ xD=x Dies.
は、「命題関数」ので、
③ y=F(x)
にならって、
③ ∃x(M(x)&~D(x))
となります。
(46)
D(x)
の「否定」が、
~(D(x))
であるため、
③ ∃x(M(x)&~(D(x)))
となります。
(47)
③ ∃x(M(x)&~(D(x)))
の「否定」なので、
③ ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
従って、
(03)~(06)、(44)~(47)により、
(48)
③ ~∃x(Mx&~Dx)=
③ ~(∃x(M(x)&~(D(x))))=
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}。
従って、
(49)
③ ~∃x(Mx&~Dx)=
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}⇒
③ {[M(x)&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「論理学訓読」が、成立します。
然るに、
(50)
③ 無人不死=
③ 無〔人不(死)〕⇒
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し。
従って、
(49)(50)により、
(51)
③ 無人不死。
の場合は、「全ての括弧が、省略されてゐる。」の対して、
③ ~∃x(Mx&~Dx).
の場合は、「殆どの括弧が、省略されている。」といふことに、なります。
従って、
(52)
③ ~∃x(Mx&~Dx).
といふ「述語論理」に、
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}.
といふ「括弧」が有るやうに、
③ 無人不死。
といふ「漢文」にも、「括弧」は有ります。
従って、
(53)
漢文とは、全く関係ない、「スタップ細胞」が有るかどうかは、分らないものの、
漢文には、「括弧」が有ります。
従って、
(54)
「括弧」を無視して、「漢文訓読」を行ふことは、有っては、ならない。
平成28年03月05日、毛利太。
(01)
論理学では、表現形態が相異なったいくつかの文が同じ意味内容を示すかぎり、それらを同一の命題としてとりあつかう、また日本語で表わそうと外国語で書こうと、同一の主張内容を示すかぎり、同一の命題と見なされる。
(上田泰治、論理学、1967年、40頁)
従って、
(02)
① y皆有其親。
② 少年皆有其所愛少女。
③ 無人不死。
④ 無親不愛其子。
⑤ 非無親不愛其子。
といふ「命題」は、
① 全てyには、親である所のxがゐる。
② 全ての少年には、好きな少女がゐる。
③ 不死身の人間は存在しない。
④ 親であって、自分の子供を愛さない者はゐない。
⑤ 親であって、自分の子供を愛さない者は、無きに非ず。
といふ「命題」と、
① Every y has its parent.
② Every boy loves a certain girl.
③ The immortal human being does not exist.
④ There is not the parent who does not love one's child.
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「命題」に等しい。
然るに、
(03)
① 全てyには、親である所のxがゐる。
② 全ての少年には、好きな少女がゐる。
③ 不死身の人間は存在しない。
④ 親であって、自分の子供を愛さない者はゐない。
⑤ 親であって、自分の子供を愛さない者は、無きに非ず。
といふ「命題」は、
① ∀y∃x(Pxy)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ~∃x(Mx&~Dx)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))
といふ風に、「記号化」される。
然るに、
(04)
むやみに括弧が多くなることは我慢でないのである(E.J.Lemmon、論理学初歩、1973年、59頁)。
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、AIプログラミング、2008年、13頁)。
従って、
(03)(04)により、
(05)
「括弧」を「省略」しない場合は、
① ∀y(∃x(P(xy)))
② ∀x(B(x)→∃y(G(y)&L(xy)))
③ ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
④ ∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy)))))
⑤ ~(∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy))))))
とするのが、「正しい」。
然るに、
(06)
① ∀y(∃x(P(xy)))
② ∀x(B(x)→∃y(G(y)&L(xy)))
③ ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
④ ∀x(P(x)→~∃y(C(yx)&~(L(xy)))))
⑤ ~(∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy))))))
のやうに、「丸括弧」だけでは、読みにくいため、
「( )〔 〕[ ]{ }〈 〉《 》」を用ゐて、
① ∀y[∃x〔P(xy)〕]
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
とする。
然るに、
(07)
実際に、a+bの代わりに、日本語の「aとbを足す」という表現に応じて、ab+という記号で足し算を表しても支障はない。「ab+なんて思いっきりヘン」と感じるかもしれないが、それは「慣れていないだけ」である。その証拠に、ab+のような「日本語の語順に応じた記号」の体系が構成されていて、それが有益であることが実証されている。
(中島匠一、集合・写像・論理、2012年、190頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ∀y[∃x〔P(xy)〕]
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
といふ「論理式」は、
① [〔(xy)P〕∃x]∀y
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x} ~
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x
⑤ 《〈P(x)→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
といふ「論理式」に、等しい。
従って、
(03)~(08)により、
(09)
① ∀y∃x(Pxy)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ~∃x(Mx&~Dx)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))
といふ「論理式」は、
① [〔(xy)P〕∃x]∀y
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x
⑤ 《〈P(x)→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
といふ「論理式」に、等しい。
然るに、
(10)
① ∀y∃x(Pxy)⇒
① [〔(xy)P〕∃x]∀y=
① xはyの親である。といふ、そのやうなxが存在する。といふことは、全てのyに於いて、正しい。
(11)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))⇒
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x=
② xが少年であるならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛する。といふ、そのやうなyが存在することは、全てのxに於いて、正しい。
(12)
③ ~∃x(Mx&~Dx)⇒
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
(13)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))⇒
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x=
④ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
(14)
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))⇒
⑤ 《〈P(x)→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
⑤ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。といふわけではない。
然るに、
(15)
① y皆有其親 ⇒
① y皆(其親)有=
① y皆、其の親有り。
(16)
② 少年皆有其所愛少女 ⇒
② 少年皆〔其(愛)所少女〕有=
② 少年皆、其の愛する所の少女有り。
(17)
③ 無人不死 ⇒
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し。
(18)
④ 無親不愛其子 ⇒
④ [親〔(其子)愛〕不]無=
④ 親として、其の子を愛さ不るは無し。
(19)
⑤ 非無親不愛其子 ⇒
⑤ {[親〔(其子)愛〕不]無}非=
⑤ 親として、其の子を愛さ不るは無きに非ず。
従って、
(09)~(19)により、
(20)
例へば、
③ 無人不死 ⇒
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し。
といふ「翻訳」が、「漢文訓読」であるのに対して、
③ ~∃x(Mx&~Dx)⇒
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「翻訳」は、「述語論理訓読」である。
従って、
(01)(20)により、
(21)
③ 無人不死=
③ 〔人(死)不〕無=
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「等式」が成立する。
然るに、
(22)
無=No
人=man
不=doesn't
死=die.
従って、
(21)(22)により、
(23)
③ 無人不死=
③ No man doesn't die=
③ 〔人(死)不〕無=
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「等式」が成立する。はずである。
然るに、
(24)
このような用法は、特に英語で問題になる。たとえば、Nobody don't like me. (誰も僕を好いてくれない)や I don't know nothing. (僕は何も知らない) などがこれにあたる(ウィキペディア:二重否定)。
従って、
(24)により、
(25)
実際には、
③ No man doesn't die=
③ 死なない人間は、存在しない。
ではなく、
③ No man doesn't die=
③ Any man doesn't die=
③ 一人も死なない(誰も死なない)。
といふことになる。
従って、
(21)(23)(25)により、
(26)
③ 無人不死=
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し=
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
に対する、
③ No man doesn't die=
③ Any man doesn't die=
③ 一人も死なない(誰も死なない)。
といふといふ「英語」は、「論理的」にはヲカシイのであって、次の(27)は、そのことを、述べてゐる。
(27)
しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した。とりわけ聖職者ロバート・ラウスが 1762 年に出版した文法書 A Short Introduction to English Grammar with Critical Notes は否定呼応を否定の否定であるとみなし(今日の言語学的観点からすれば誤解)し、この表現を非文法的な言い方の最もたるものとしている。これにより英語は否定呼応を用いる言語から緩叙法を用いる言語へと半ば強制的に変換させられた。
(ウィキペディア:二重否定)
(28)
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語」を、「機械翻訳」すると、
⑤ 自分の子供を愛していない親が存在しないというのは本当ではありません。
といふことになる。
従って、
(01)(14)(18)(28)により、
(29)
⑤ 非無親不愛其子 ⇒
⑤ {[親〔(其子)愛〕不]無}非=
⑤ 親として、其の子を愛さ不るは無きに非ず。
といふ「漢文訓読」と、
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))⇒
⑤ 《〈P(x)→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
⑤ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。といふわけではない。
といふ「述語論理訓読」は、
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語」に等しい。
然るに、
(30)
⑤ 非=~=No
⑤ 無=~=no
⑤ 不=~=not
に相当するは、
⑤ It is not true that
⑤ there is not
⑤ who does not
であるため、
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語の三重否定」は、
⑤「漢文」や、
⑤「述語論理」に於ける、それとは、同じではない。
従って、
(30)により、
(31)
厳密に言へば、
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語」は、「三重否定」ではない。
(32)
① Every y has its parent.
② Every boy loves a certain girl.
③ The immortal human being does not exist.
④ There is not the parent who does not love one's child.
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
に対する、
① ∀y∃xPxy
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ~∃x(Mx&~Dx)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~(∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy)))
であるため、「述語論理」には、「主語」が有る。
然るに、
(33)
⑥ If it rains tomorrow, We will not go on a picnic.
のやうなそれを、
⑥ P=It rains tomorrow.
⑥ Q=We will go on a picnic.
⑥ ~Q=We will not go on a picnic.
とした上で、
⑥ P→~Q
とするのが、「命題論理」であるため、「命題論理」には、「主語」が無い。
然るに、
(34)
⑥ Pならば、Qではない。
に於いて、
P=P
→=ならば、
Q~=Qではない。
であるため、
⑥ Pならば、Qではない。
といふ「日本語(逐語訳)」にも、「主語」が無い。
然るに、
(35)
主語強要言語は以下の通りである。
英語、ドイツ語、フランス語、ロマンシュ語(スイス)、オランダ語、スカンディナヴィア言語(ノルウェー語、スウェーデン語、デンマーク語)
ここに挙げられた以外の言語はすべて主語非強要言語である。ということで、圧倒的多数の言語には主語が必要ないのである。
(月本洋、日本語は論理的である、2009年、66頁)
従って、
(34)(35)により、
(36)
⑥ P→Q~=
⑥ Pならば、Qではない。
といふ「日本語(逐語訳)」に対して、「英語」の場合は、
⑥ It is P. Then it is not Q.(ヤフー!翻訳)
⑥ It's P. When it is, it isn't Q.(エキサイト翻訳)
がさうであるやうに、
⑥ It is P. It is not Q.
といふ、「意味の無い、It(主語)is」を必要とする。
従って、
(26)により、
(37)
③ 無人不死=
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し=
③{[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
といふ「二重否定」に対する、
③ No man doesn't die=
③ Any man doesn't die=
③ 一人も死なない(誰も死なない)。
といふといふ「英語」は、「非論理的」である。
加へて、
(29)(31)により、
(38)
⑤ 非無親不愛其子 ⇒
⑤ {[親〔(其子)愛〕不]無}非=
⑤ 親として、其の子を愛さ不るは無きに非ず。
に対する、
⑤ It is not true that there is not the parent who does not love one's child.
といふ「英語」は、厳密には、「三重否定」とは言へない。
加へて、
(36)により、
(39)
⑥ P→~Q
を「翻訳」する際に、「意味の無い、It(主語)is」を必要とする。
といふ点に於いても、「英語」は、「非論理的」である。
従って、
(37)(38)(39)により、
(40)
「英語」は、「漢文や日本語」よりも、「非論理的」である。
然るに、
(41)
He was an old man who fished alone in a skiff in the Gulf Stream and he had gone eighty four days without taking a fish.
は「英語」であり、
I decided to try and write a popular book about space and time after the Loeb lectures at Harvard in 1982.
は「英語」であるだけなく、
The aim of the book is to provide the student with a good working knowledge of propositional and predicate calculi ― the foundations upon which modern symbolic logic.
も「英語」である。
然るに、
(42)
「論理学の教科書」が「英語」で書かれてゐる。といふ、その一方で、「英語」が「非論理的な言語」である。といふことは、有り得ない。
従って、
(01)~(42)により、
(43)
「英語」は、
「漢文・訓読」よりも「非論理 的」なのではなく、
「漢文・訓読」よりも「非論理学的」であると、すべきである。
(44)
平成28年03月05日、毛利太。
③ Mx=x is Man.
③ Dx=x Dies.
であるため、その意味では、「英語の語順」としては、
③ xM=x is Man.
③ xD=x
の方が、「自然」です。
ところが、
(45)
③ xM=x is Man.
③ xD=x Dies.
は、「命題関数」ので、
③ y=F(x)
にならって、
③ ∃x(M(x)&~D(x))
となります。
(46)
D(x)
の「否定」が、
~(D(x))
であるため、
③ ∃x(M(x)&~(D(x)))
となります。
(47)
③ ∃x(M(x)&~(D(x)))
の「否定」なので、
③ ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
従って、
(03)~(06)、(44)~(47)により、
(48)
③ ~∃x(Mx&~Dx)=
③ ~(∃x(M(x)&~(D(x))))=
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}。
従って、
(49)
③ ~∃x(Mx&~Dx)=
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}⇒
③ {[M(x)&〔(x)D〕~]∃x}~=
③ xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「論理学訓読」が、成立します。
然るに、
(50)
③ 無人不死=
③ 無〔人不(死)〕⇒
③ 〔人(死)不〕無=
③ 人として、死せ不るは無し。
従って、
(49)(50)により、
(51)
③ 無人不死。
の場合は、「全ての括弧が、省略されてゐる。」の対して、
③ ~∃x(Mx&~Dx).
の場合は、「殆どの括弧が、省略されている。」といふことに、なります。
従って、
(52)
③ ~∃x(Mx&~Dx).
といふ「述語論理」に、
③ ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}.
といふ「括弧」が有るやうに、
③ 無人不死。
といふ「漢文」にも、「括弧」は有ります。
従って、
(53)
漢文とは、全く関係ない、「スタップ細胞」が有るかどうかは、分らないものの、
漢文には、「括弧」が有ります。
従って、
(54)
「括弧」を無視して、「漢文訓読」を行ふことは、有っては、ならない。
平成28年03月05日、毛利太。
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