2014年6月30日月曜日

英語は論理的か。

(01)
漢文は論理的な構文をたくさん含んでいる(山下正男)。
否定は文全体にかかるものとして理解するのが論理学の鉄則です(三浦俊彦)。
従って、
(01)により、
(02)
不死。
不雲。
不長。
等は、
不(死)。
不(雲)。
不(長)。
でなければ、ならない。
然るに、
(03)
無(人)不(死)。
無(日)不(雲)。
無(物)不(長)。
であるならば、
無(人)不(死)=人無し。死せず。
無(日)不(雲)=日無し。曇らず。
無(物)不(長)=物無し。長ぜず。
である。
従って、
(04)
無人不死=人無し。死せず。
無日不雲=日無し。曇らず。
無物不長=物無し。長ぜず。
ではない。のであれば、
無(人不(死))=人として死せ不るは無し。
無(日不(雲))=日として雲ら不るは無し。
無(物不(長))=物として長ぜ不るは無し。
が、「正しい」。
然るに、
(01)により、
(05)
人として死せ不るは無し。
日として雲ら不るは無し。
物として長ぜ不るは無し。
といふ「命題」の否定は、
無(人不(死))。
無(日不(雲))。
無(物不(長))。
といふ「文全体の否定」であるため、
非(無(人不(死)))=(人として死せ不るは無きに)非ず。
非(無(日不(雲)))=(日として雲ら不るは無きに)非ず。
非(無(物不(長)))=(物として長ぜ不るは無きに)非ず。
が、「正しい」。
然るに、
(06)
① 無(人不(死))。
の英訳は、
② There is no man who doesn’t die=死なない人はありません(グーグル翻訳)。
従って、
(07)
③ 非(無(人不(死)))。
の英訳は、
④ It is not true that there is no man who doesn’t die.
であると、思はれる。
然るに、
(08)
③ 非(無(人不(死)))=
③ 非(不(有(人不(死))))=
③ ~(~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))).
と言ふ際に、
④ It is not true that there is no man who doesn’t die=
④ そのやうなことは本当ではない、すなはち、死なない人間が存在しないこと。
と言はなければならない「言語」が、
③ 非(無(人不(死)))=
③ ~(~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))).
より以上に、「論理的」であるとは、思へない。
(08)
A非B=
A非(B)⇒
A(B)非=
Aは(Bに)非ず=
A is not B=
A で ない B=
A で(ない〔B)〕⇒
A (〔B)で〕ない。
然るに、
(09)
(〔 )〕:二  一。
のやうな「括弧:返り点」はない。
従って、
(08)(09)により、
(10)
A is  not B.
A are not B.
A can not B.
等に対して、「括弧:返り点」を付けることは、出来ない。
然るに、
(11)
何不令人謂韓公叔曰、秦之敢絶周而伐韓者、信東周也、公何不与周地、発質使之楚、秦必疑楚不信周、是韓不伐也、又謂秦曰、韓彊与周地、将以疑周於秦也、周不敢不受。
といふ「漢文」を、
何ぞ人をして韓の公叔に謂ひて「秦の敢へて周を絶つて韓を伐たんとするは東周を信ずればなり、公何ぞ周に地を与へ、質使を発して楚に之かしめざる、秦必ず楚を疑ひ、周を信ぜざらん、是れ韓伐たれざらん、」と曰ひ、又秦に謂ひて「韓彊ひて周に地を与ふるは将に以て周を秦に疑はしめんとするなり、周敢へて受けずんばあらず」と曰は令めざる(これならわかる返り点、―入門から応用まで―古田島洋介、91頁)。
とふ風に「訓読」すると、
何不〈令{人謂(韓公叔)曰[、秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)、発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰[、韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉⇒
何〈{人(韓公叔)謂[、秦之敢(周)絶而(韓)伐者、(東周)信也、公何〔(周地)与、(質使)発(楚)之〕不、秦必(楚)疑〔(周)信〕不、是韓(伐)不也]曰、又(秦)謂[、韓彊(周地)与、将〔以(周於秦)疑〕也、周〔敢(受)不〕不]曰}令〉不=
何ぞ〈{人をして(韓の公叔に)謂ひて[、秦之敢へて(周を)絶つ而(韓を)伐とする者、(東周を)信ずれば也、公何ぞ〔(周に地を)与へ、(質使を)発して(楚に)之かしめ〕不る、秦必ず(楚を)疑ひ〔(周を)信ぜ〕不らん、是れ韓(伐たれ)不らん也と]曰ひ、又た(秦に)謂ひて[、韓彊ひて(周に地を)与ふるは、将に〔以て(周を於秦に)疑はしめんとする〕也、周〔敢へて(受け)不んば〕不ずと]曰は}令め〉不る。
従って、
(12)
何不〈令{        
人謂(韓叔)      
曰[、           
秦之敢絶(周)    
而伐(韓)者、    
信(東周)也、     
公何不〔与(周地)、  
発(質使)之(楚)〕、 
秦必疑(楚)     
不〔信(周)〕、    
是韓不(伐)也]   
又謂(秦)曰[、    
韓彊与(周地)、
将〔以疑(周於秦)〕也、
周不〔敢不(受)〕  

}〉=
〈{( )[( )( )( )〔( )( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〉。
に対する「返り点」は、
レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ。
である。
従って、
(10)(12)により、
(13)
A is not B.
には、「括弧:返り点」を付けることは、出来ない。が、
何不令人謂韓公叔曰、秦之敢絶周而伐韓者、信東周也、公何不与周地、発質使之楚、秦必疑楚不信周、是韓不伐也、又謂秦曰、韓彊与周地、将以疑周於秦也、周不敢不受。
に対しては、
「〈{( )[( )( )( )〔( )( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〉:レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ」
といふ、「括弧:返り点」を付けることが、出来る。
(14)
Who are you=
誰(である〔あなたは)〕⇒
(〔あなたは)誰〕である。
であるため、
Who are you.
にも、「括弧:返り点」を付けることは、出来ない。
(15)
子為(誰)⇒
子(誰)為=
子は(誰と)為す。
であるため、
You are who?
であれば、「括弧:返り点」を付けるこが、出来る。
(16)
A不〔為(B)〕⇒
A〔(B)為〕不=
A〔を(Bと)為さ〕不。
であるため、
A not is B.
A 不  是   B.
ならば、「括弧:返り点」を付けるこが、出来る。
平成26年06月30日、毛利太。

2014年6月29日日曜日

「括弧は有ります!」(Ⅴ)。

「昨日の記事の、続き」です。
(17)
④ No man who doesn’t die=死なない人はありません(エキサイト翻訳)。
に於いて、
A=man
B=doesn’t die
とするならば、
④=No A who B=死なない人はありません。
然るに、
(18)
A who B
は、
A 即ち、 B
であって、
A 即ち、 B
は、
A=B
を、「指示」してゐる。
従って、
(18)により、
(19)
 A  who B
 の who が、
 A=B
を、「指示」してゐる。
然るに、
(20)
 A=B
の、
Bに、Aを「代入」すると、
 A=A
然るに、
(21)
 A=A=ⅹ
は、
〔A=A〕
といふ風に、「括ること」を、許すはずである。
cf.
① ~(∃ⅹ)〔Mⅹ・~(Dⅹ)〕
従って、
(17)~(21)により、
(22)
④ No man who doesn’t die=死なない人はありません(エキサイト翻訳)。
の who が、〔 〕の「役割」を、果たしゐると、思はれる。
従って、
(22)より、
(23)
④ No man who doesn’t die=死なない人はありません(エキサイト翻訳)。
に於ける、
who は、〔 〕に、「置き換へる」ことが、出来る。
従って、
(23)より、
(24)
④ No man who doesn’t die=死なない人はありません(エキサイト翻訳)。
といふ「英文」は、
④ No〔man doesn’t die〕=死なない人はありません(エキサイト翻訳)。
といふ風に、「置き換へる」ことが、出来る。
従って、
(25)
「否定の鉄則」により、
④ No〔man doesn’t(die)〕=死なない人はありません(エキサイト翻訳)。
然るに、
(26)
④ No〔man doesn’t(die)〕⇒
④ 〔man (die)doesn’t〕No=
④ 〔manとして(dieせ)doesn’tは〕No=
⑥ 〔人として(死せ)不るは〕無し=
⑥ 〔人(死)不〕無⇒
⑥ 無〔人不(死)〕=
⑥ 死なない人はゐない。
従って、
(24)(25)(26)により、
(27)
④ No man who doesn’t die=死なない人はありません(エキサイト翻訳)。
といふ「英文」は、
who=〔 〕
であるとして、
④ No〔man doesn’t(die)〕
といふ風に、見なすことが、出来る。
従って、
(27)により、
(28)
⑤ No man doesn’t die=人は死にません(エキサイト翻訳)。
といふ「英文」は、
⑤ No man doesn’t(die)=人は死にません(エキサイト翻訳)。
といふ風に、見なすことが、出来る。
然るに、
(29)
⑤ No man doesn’t(die)=人は死にません(エキサイト翻訳)。
に於いて、「実質的に」、
⑤ No    man=
⑤ Any man
であることを、意味してゐる。
(30)
③ There is no man who doesn’t die=死なない人はありません(グーグル翻訳)。
に於ける、
③ There is no man
は、
④ No man who doesn’t die=死なない人はありません(エキサイ
ト翻訳)。
に於ける、
④ No man
に相当する。
従って、
(31)
③ There is no man who doesn’t die=死なない人は
ありません(グーグル翻訳)。
に於ける、
③ There is
は、「冗長」である。
平成26年06月29日、毛利太。

2014年6月28日土曜日

「括弧は有ります!」(Ⅳ)。

(01)
真なる文の否定は必ず偽、偽なる文の否定は必ず真。これが成り立つよう、
否定は文全体にかかるものとして理解するのが論理学の鉄則です。
(三浦俊彦、論理学がわかる辞典、2004年、111頁)
(02)
明治以前の日本人は論理的な思考を身につけるために漢文を学んだ。
なぜなら、漢文は論理的な構文をたくさん含んでいるからである。
(山下正男、論理的に考えること、1985年、はじめに)
従って、
(01)(02)により、
(03)
真なる文の否定は必ず偽、偽なる文の否定は必ず真。これが成り立つよう、
否定は文全体にかかるものとすることを、以下では、
「(論理学と漢文の)否定の鉄則」とする。
然るに、
(04)
括弧が多くなることは我慢できないので(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)
、 括弧は曖昧さがない場合には適当に省略される(赤間世紀、Prologで学ぶAI
プログラミング、平成20年、13頁)。
従って、
(05)
       ~=否定 
    (∃ⅹ)=存在する
  ~(∃ⅹ)=存在しない=No
であるならば、「否定の鉄則」により、
    (∃ⅹ)(Mⅹ・~(Dⅹ))  の「否定」は、「正確」には、
~((∃ⅹ)(Mⅹ・~(Dⅹ))) であることを、確認しつつ、
  ~(∃ⅹ)(Mⅹ・~(Dⅹ))  であっても、
    (∃ⅹ)(Mⅹ・~(Dⅹ))  の「否定」であると、する。
然るに、
(06)
    Mⅹ =ⅹ is Man.
    Dⅹ  =ⅹ Dies.
~(Dⅹ)=ⅹ doesn’t Die.
であるとする。
然るに、
(07)
① ~(∃ⅹ)〔Mⅹ・~(Dⅹ)〕 
② There is not an ⅹ such that ⅹ is Man and ⅹ doesn’t Die.
に於いて、
①=②
であって、
〔Mⅹ・~(Dⅹ)〕 は、
that ⅹ is Man and ⅹ doesn’t Die.
に、対応する。
従って、
(08)
①=②
にあって、
Mⅹ・~(Dⅹ)=
ⅹ is Man and ⅹ doesn’t Die.
であるため、
〔 〕は、
that に、相当する。
(09)
② There is not an ⅹ such that ⅹ is Man and ⅹ doesn’t Die.
③ There is no man who doesn’t die=死なない人はありません(グーグル翻訳)。
に於いて、
②=③
であって、
that and は、
who に、相当する。
何となれば、
(10)
③ There is no man who doesn’t die=死なない人はありません(グーグル翻訳)。
④ No man who doesn’t die=死なない人はありません(エキサイト翻訳)。
⑤ No man doesn’t die=人は死にません(エキサイト翻訳)。
に於いて、
③=④
であるが、
④ ≠ ⑤
であって、尚且つ、
③=④ には、who が有って、
⑤ には、    who が無い。
従って、
(11)
① ~(∃ⅹ)〔Mⅹ・~(Dⅹ)〕
② There is not an ⅹ such that ⅹ is Man and ⅹ doesn’t Die.
③ There is no man who doesn’t die=死なない人はありません(グーグル翻訳)。
④ No man who doesn’t die=死なない人はありません(エキサイト翻訳)。
に於いて、
①=②=③=④
であって、
① の 〔 〕は、
② の that に相当し、
② の that and は、
③ の who と、
④ の who に相当する。
然るに、
(12)
⑥ 無〔人不(死)〕⇒
〔人(死)不)無=
〔人として(死せ)不るは〕無し=
〔人であって(死な)ないものは〕ゐない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① ~(∃ⅹ)〔Mⅹ・~(Dⅹ)〕
② There is not an ⅹ such that ⅹ is Man and ⅹ doesn’t Die.
③ There is no man who doesn’t die=死なない人はありません(グーグル翻訳)。
④ No man who doesn’t die=死なない人はありません(エキサイト翻訳)。
⑥ 無〔人不(死)〕
に於いて、
①=②=③=④=⑥
であって、
① の 〔 〕は、
② の that に相当し、
② の that and は、
③ の who と、
④ の who に、相当し、
これらは、
⑥ の 〔 〕に、相当する。
然るに、
(14)
真なる文の否定は必ず偽、偽なる文の否定は必ず真。これが成り立つよう、
否定は文全体にかかる』ものとして理解するのが「否定の鉄則」です。
と言ふのであれば、
① 〔 〕
② that 
③ who
④ who  
⑥ 〔 〕
に於けるこれらが、『文全体に掛ってゐる』。
従って、
(15)
⑥ 無人不死=人して死せ不るは無し。
にも、
⑥ 〔 〕 
無いとしたら、その方が、オカシイ
従って、
(16)
「括弧は有ります!」。
平成26年06月28日、毛利太。

2014年6月27日金曜日

「括弧は有ります!」(Ⅲ)。

(01)
Aといふ人物が、
真なる文の否定は必ず偽、偽なる文の否定は必ず真。これが成り立つよう、
否定は文全体にかかるものとして理解するのが論理学の鉄則です。
(三浦俊彦、論理学がわかる辞典、2004年、111頁)
といふことを知ってゐて、尚且つ、
「漢文」についても、さうのであると、考へたとする。
だとすると、
(02)
Aは、
(読漢文)。
といふ風に思ふ。ことになる。
然るに、
(03)
不(読漢文)。
といふ「文」は、明らかに、「漢文」といふ「語」を、含んでいる。
従って、
(02)(03)により、
(04)
Aは、
不読漢文。
といふ「漢文」を見て、
(読(漢文))。
といふ風に、思ふことになる。
然るに、
(05)
Aは、
「漢文の語順」は、「英語の語順」と、基本的に同じであるが、
「主語」に関しては、日本語と同じく、しばしば「省略」される。
といふことを、知ってゐたとする。
だとすれば、
(04)(05)により、
(06)
Aは、
不読漢文=
不(読(漢文))。
といふ「漢文」を見て、
不(読(漢文))⇒
((漢文)読)不。
((漢文を)読ま)ず。
といふ風に、読むことになる。
従って、
(07)
真なる文の否定は必ず偽、偽なる文の否定は必ず真。これが成り立つよう、
否定は文全体にかかるものとして理解するのが論理学の鉄則であって、尚且つ、「漢文の鉄則」である。
ならば、その時に限って、
不読漢文=不(読(漢文))。
であって、尚且つ、
不読漢文=漢文を読まず。
といふ「漢文訓読」は、「正しい」。
然るに、
(08)
不読漢文=漢文を読まず。
といふ「漢文訓読」は、実際に、「正しい」。
加えて、
(09)
明治以前の日本人は論理的な思考を身につけるために漢文を学んだ。なぜなら、漢文は論理的な構文をたくさん含んでいるからである(山下正男、論理的に考えること、1985年、はじめに)。
従って、
(10)
真なる文の否定は必ず偽、偽なる文の否定は必ず真。これが成り立つよう、
否定は文全体にかかるものとして理解するのが論理学の鉄則であって、尚且つ、「漢文の鉄則」である。
といふことを、疑ふべき「理由」は、見当たらない。
従って、
(07)~(10)により、
(11)
不読漢文=不(読(漢文))。
であるといふことを、疑ふべき「理由」は、見当たらない。
従って、
(01)~(11)により、
(12)
不読漢文=不(読(漢文))。
といふ「括弧」について、「括弧は、有ります!」。
平成26年06月27日、毛利太。

2014年6月26日木曜日

「括弧は有ります!」(Ⅱ)。

(01)
次のやうに、書くことにする。
Mⅹ=ⅹは人である。
Dⅹ=ⅹは死ぬ。
然るに、
(02)
任意の表述の否定は,その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
Mⅹ・~(Dⅹ)=
ⅹは人であり・ⅹは死なない。
然るに、
(04)
(∃ⅹ)(・・・・・)
と書いて、「・・・・・であるようなⅹが存在する」あるいは「・・・・・である対象ⅹが見出されうる」ということを意味するのである(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、123頁) 。
従って、
(03)(04)により、
(05)
(∃ⅹ)(Mⅹ・~(Dⅹ)) =
(ⅹは人であり・ⅹは死なない)ようなⅹが存在する。
従って、
(02)(05)により、
(06)
  (∃ⅹ)(Mⅹ・~(Dⅹ)) を、
~(                )で括ると、
~((∃ⅹ)(Mⅹ・~(Dⅹ))) =
((ⅹは人であり・ⅹは死なない)やうなⅹが存在する)といふことはない。
然るに、
(07)
~(∃ⅹ)(ⅹは人間である・~ⅹは死ぬものである)
は ― ’あらゆる人間は死ぬものである’(Everyman man is mortal),’すべての人間は死ぬものである’(All men are mortal)と同様に ― 単に’人間は死ぬものである(Man is mortal),あるいは’人間達は死ぬものである(Men are mortal)と言いあらわすことができるであろう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、127頁) 。
従って、
(06)(07)により、
(08)
W.O.クワインは、
~((∃ⅹ)(Mⅹ・~(Dⅹ)))
とは書かずに、
~(∃ⅹ)(Mⅹ・~Dⅹ)=
~(∃ⅹ)(ⅹは人間である・~ⅹは死ぬものである)
といふ風に、書いてゐる。
然るに、
(09)
括弧が多くなることは我慢できないので(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)、 括弧は曖昧さがない場合には適当に省略される(赤間世紀、Prologで学ぶAIプログラミング、平成20年、13頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
  ~(∃ⅹ)(Mⅹ・~Dⅹ) は、
~((∃ⅹ)(Mⅹ・~(Dⅹ)))
と書くべきところを、括弧が多くなることは我慢できないので、「括弧」が、「省略」されてゐる。
然るに、
(11)
1.∀ⅹ . A(ⅹ)
2.∃ⅹ . A(ⅹ)
3.∀ⅹ . ¬A(ⅹ)
4.∃ⅹ. ¬A(ⅹ)
なお、∀ⅹ や ∃ⅹ のように前置記号のすぐ後におかれる変項(全称または存在記号に属する変項)を束縛変項(bound variable)と呼ぶ(ウィキペディア:数理論理学)。
とあるやうに、
(∃ⅹ)は、
 ∃ⅹ と書いても、よい。
従って、
(10)(11)により、
(12)
~((∃ⅹ)(Mⅹ・~(Dⅹ)))=
~∃ⅹ Mⅹ・~Dⅹ
然るに、
(13)
~∃ⅹ Mⅹ・~Dⅹ=
There is not an ⅹ such that ⅹ has M and ⅹ has not D.
に於ける「an ⅹ」は、「ⅹ=ⅹ=ⅹ」以外に、特に、「意味」はない。
従って、
(12)(13)により、
(14)
~((∃ⅹ)(Mⅹ・~(Dⅹ)))=
~∃ⅹ Mⅹ・~Dⅹ=
~∃ M・~D
然るに、
(15)
~∃ M・~D
不有人不死。
といふ「二つ」を、「← の方向」で読んで、「→ の方向」で書くと、
死なない・人は、存在しない。
死なない人は、有らず。
従って、
(15)により、
(16)
不有人不死=
~∃ M・~D
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
不有人不死=
~∃ M・~D=
~∃ⅹ Mⅹ・~Dⅹ=
~((∃ⅹ)(Mⅹ・~(Dⅹ)))=
(((死な)ない・人は)存在し)ない。
然るに、
(18)
不有人不死。
の「漢文訓読」は、
不有人不死=
不[有〔人不(死)〕]⇒
[〔人(死)不〕有]不=
[〔人として(死せ)不るは〕有ら]不。
(19)
~∃ M・~D
の「述語論理訓読」は、
~∃ M・~D=
~[(∃ⅹ)〔Mⅹ・~(Dⅹ)〕]⇒
[〔Mⅹ・(Dⅹ)~〕(∃ⅹ)]~=
[〔人であって・(死な)ないⅹは〕(存在し)]ない。
従って、
(13)~(19)により、
(20)
① 不有人不死  =不[有〔人不(死)〕]。
② ~∃ M・~D=~[(∃ⅹ)〔Mⅹ・~(Dⅹ)〕].
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「正しい」。
従って、
(20)により、
(21)
① 不有人不死=フツユウジンフツシ。
と読もうと、
① 不有人不死=人として死せ不るは無し。
と読もうと、
① 不有人不死=There is no man who doesn’t die.
と読もうと、
① 不有人不死。
といふ「漢文」は、
① 不[有〔人不(死)〕]=
② ~[(∃ⅹ)〔Mⅹ・~(Dⅹ)〕].
といふ「シンタックス(構造)」をしてゐる。と、せざるを得ない。
(22)
このことは、
① ~(∃ⅹ)(Mⅹ・~Dⅹ)
といふ「述語論理」を、
② There is not an ⅹ such that ⅹ has M and ⅹ has not D.
と読まずに、
③ Mであって・Dでないⅹは、存在しない。
と読んでも、
① ~(∃ⅹ)(Mⅹ・~Dⅹ)
の「意味」としては、
②=③
であることと、「同じこと」である。
cf.
シナや極東の王国では、一般に文字をも語をも表わすのではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほどほど広い範囲で了解されるからである(フランシス・ベーコン、学問の進歩、第二巻)。
従って、
(23)
~(∃ⅹ)(Mⅹ・~Dⅹ) =
~((∃ⅹ)(Mⅹ・~(Dⅹ))) =
(((死な)ない・人は)存在し)ない。
に於ける、
((( )))
といふ「括弧」が、「実在」であるやうに、
不有人不死=
不[有〔人不(死)〕]=
[〔人として(死せ)不るは〕有ら]不。
に於ける、
[〔( )〕]
といふ「括弧」は、「実在」である。
平成26年06月26日、毛利太。


2014年6月24日火曜日

「括弧は、有ります!」

(01)
(7)~(∃ⅹ)(ⅹは人間である・~ⅹは死ぬものである) 
(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、127頁)
然るに、
(02)
任意の表述の否定は,その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう;
しかし、丸括弧はその内部の表述が連言でないかぎり削除しよう。
(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
  ~(∃ⅹ)(ⅹは人間である・~ⅹは死ぬものである)=
~((∃ⅹ)(ⅹは人間である・~(ⅹは死ぬものである)))
然るに、
(04)
「述語論理訓読」は、
~((∃ⅹ)(ⅹは人間である・~(ⅹは死ぬものである)))⇒
((ⅹは人間である・(ⅹは死ぬものである)~)(∃ⅹ))~=
((ⅹは人間であり・(ⅹは死な)ない、そのやうな)(ⅹは存在はし))ない。
従って、
(03)(04)により、
(05)
~(∃ⅹ)(ⅹは人間である・~(ⅹは死ぬものである))=
(ⅹは人間であり・(ⅹは死な)ない、そのやうな)(ⅹは存在はし)ない。
然るに、
(06)
(ⅹは存在はし)ない=ⅹは無い=No ⅹ.
従って、
(05)(06)により、
(07)
~(∃ⅹ)(ⅹは人間である・~ⅹは死ぬものである)=
No(ⅹは人間であり・ⅹは死なない).
然るに、
(08)
(ⅹは人間であり・ⅹは死なない)⇒
ⅹ=(man who doesn’t die).
従って、
(07)(08)により、
(09)
~(∃ⅹ)(ⅹは人間である・~ⅹは死ぬものである)=
No(man who doesn’t die).
然るに、
(10)
No man who doesn’t die.
の「機械翻訳(エキサイト)」は、
死なない人はありません。
従って、
(09)(10)により、
(11)
~(∃ⅹ)(ⅹは人間である・~ⅹは死ぬものである)=
No(man who doesn’t die)=
No man who doesn’t die=
死なない人はありません=
Man is mortal.
従って、
(12)
No man who doesn’t die=
死なない人はありません。
といふ「命題」は、その実、
No(man who doesn’t die).
といふ「形」をしてゐる。ことになる。
従って、
(13)
少なくとも、
No(man who doesn’t die)=
  無(人        不          死)
といふことに、なる。
従って、
(14)
現実に、
No man who doesn’t die=
無   人        不          死。
に於いて、「括弧は、有ります!」。
平成26年06月24日、毛利太。

2014年6月22日日曜日

「英語の二重否定(DN)」について(Ⅱ)。

(01)
人皆知其名=
人皆知(其名)⇒
人皆(其名)知=
人は皆(其の名)を知る。
に対して、
無人不知其名=
無[人不〔知(其名)〕]⇒
[人〔(其名)知〕不]無=
[人として〔(其の名を)知ら〕不るは]無し。
(02)
Mⅹ  =ⅹは人間である。
Kⅹn=ⅹはある名前nを知ってゐる。

∀ⅹ(Mⅹ→ Kⅹn)=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのⅹはある名前nを知ってゐる。
に対して
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Kⅹn)=
人間であって、ある名前nを知らないⅹは存在しない。
従って、
(01)(02)により、
(03)
人皆知其名=
人は皆(其の名)を知る=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのⅹはある名前nを知ってゐる。
無人知其名=
[人として〔(其の名を)知ら〕不るは]無し=
人間であって、ある名前nを知らないⅹは存在しない。
従って、
(03)により、
(04)
人皆知其名=
人は皆(其の名)を知る。
といふ「命題」と、
無人不知其名=
[人として〔(其の名を)知ら〕不るは]無し。
といふ「命題」が「等しい」のは、
∀ⅹ(Mⅹ→ Kⅹn)=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのⅹはある名前nを知ってゐる。
といふ「命題」と、
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Kⅹn)=
人間であって、ある名前nを知らないⅹは存在しない。
といふ「命題」が「等しい」ことと、「同じこと」である。
然るに、
(05)
① ⅹ=ⅹ は必然であり、
② ⅹ ≠ ⅹ は不可能である。
③ ⅹ= y  は可能であり、
④ ⅹ ≠  y  も可能である。
然るに、
(06)
∀ⅹ〔Mⅹ→ Kyn&(ⅹ=y)〕
に対して、
∀ⅹ〔Mⅹ→ Kyn&(ⅹ ≠ y)〕=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、yはある名前nを知ってゐて、違ふ人間である。
といふ場合は、
人皆知其名=
人は皆(其の名)を知る=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのⅹはある名前nを知ってゐる。
といふことには、ならない。
然るに、
(07)
「彼女の名前を知らない人はいない」
 この文は、「彼女は非常に有名で今やだれでもその名前は知っている」という肯定を強
調する目的で、二重否定を使っていますので、英語では以下のように、二重否定で表現さ
れます。
 There is nobody who doesn't know her name.
 [ = Everybody knows her name .]
 (Webサイト:二重否定 - RAVCO)
従って、
(06)(07)により、
(08)
∀ⅹ(Mⅹ→ Kyn)=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのyはある名前nを知ってゐる=
There is nobody who doesn’t know the name=
人は皆、其の名前を知ってゐる。
であるならば、必然的に、
ⅹ=y である。といふことに、なる。
従って、
(09)
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Kyn)=
ⅹといふ人間であって、ある名前nを知らないyは存在しない=
There is nobody who doesn’t know the name.
に於いて、
who=y
ならば、
body=ⅹ
であって、
¬∃=There is no
である。といふことに、なる。
然るに、
(10)
チャンスが無い。⇒ There is no chance  (グーグル翻訳)。
No chance      ⇒ チャンスはありません(グーグル翻訳)。
Nobody=No one
従って、
(09)(10)により、
(11)
「理屈」としては、
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Kⅹn)=
人間であって、ある名前nを知らないⅹは存在しない=
No one who doesn’t know the name.
従って、
(11)により、
(12)
「理屈」としては、
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Lⅹm)=
人間であって、meを好きでないⅹは存在しない=
No one who doesn’t like me=
Everybody likes me.
然るに、
(13)
子ども:Nobody don’t like me.
母親 :No,say ”Nobody likes me.”
子ども:Nobody don’t like me.
(同じやりとりが8回繰り返される)
母親 :No,now listen carefully;say ”Nobody likes me.”
子ども:Oh! Nobody don’t likes me.
(大修館書店、生成言語学入門、1999年、76頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
子ども:Oh! Nobody don’t likes me.
は、あるいは、
子ども:Oh! Nobody who doesn’t like me.
子ども:Oh! Everybody likes me.
といふ「意味」である、「可能性」がある。
従って、
(15)
ある子供が、
Nobody doesn’t〔like(me)〕.
とはせずに、
No[body doesn’t〔like(me)〕].
といふ「形」で、
Nobody don’t likes me.
といふ風に、言ってゐるのであれば、
その子にとっては、
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Lⅹme)=
No[body doesn’t〔like(me)〕]
Nobody who doesn’t like me=
There is Nobody who doesn’t like me.
といふことに、なる。
(16)
子供の言葉は、固より、「メチャクチャ」なので、
Nobody don’t likes me.
といふ「英語」も「正しい」とか、「正しくない」といふことを、述べてゐるのではない。
(17)
私が、言ひたいのは、
「ネイティブとしての、正しい英語」を身につける以前の段階にある子供であれば、「正しい英語」には、捉われずに、却って、
無[人不〔知(其名)〕]。  ⇔ 人皆知(其名)。
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Lⅹme)⇔ ∀ⅹ(Mⅹ→ Lⅹme)
といふ「普遍的な論理(UG)」に従ふ「形」で、
Nobody don’t likes me. ⇔ Everybody likes me.
といふ風に、言ってゐる「可能性」が無いわけでは無い。といふことである。
(18)
更に言へば、
無=No
人=one
不=doesn’t
知=know
其名=the name.
であるにも拘らず、
No one doesn’t know the name.
といふ「英語」が、「正しい英語」としては、
No[one doesn’t〔know(the name)〕]⇒
[one 〔(the name)know〕doesn’t]No=
[人として〔(其の名を)知ら〕不るは]無し=
無 人 不 知 其 名。
とはならないとしたら、そのことは、「意外」である。といふ、ことである。
cf.

mistermaxjrさん曰く、
英語の二重否定(double negative)は肯定になることまずありません。否定の強調です。
平成26年06月22日、毛利太。

2014年6月18日水曜日

語順と主要部パラメータ(Ⅳ)。

(01)
① Y=-1ⅹ+1(一次関数)
② Y=    0ⅹ+0(ⅹ軸)
を「連立」すると、
(1,0)=グラフとⅹ軸との交点の座標。
然るに、
(02)
F(ⅹ)=人間(ⅹ)
であるとき、
F(チャールズ)=1
F(スヌーピー)=0
従って、
(03)
Y=aⅹ+b
のやうな「関数」の他に、
F(ⅹ)=人間(ⅹ)
のやうな「関数」が有って、
人間(チャールズ)=真
人間(スヌーピー)=偽
である。
然るに、
(04)
F(ⅹ)=人間(ⅹ)
に於いて、
F=人間 は、
名詞(オノマ) であって、
動詞(レーマ) ではない。
cf.
ρημα,ατοσ,το,
Ⅱ.in Gramm.,a verb, opp.to ονομα(a noun)
(LIDDELL&SCOTT,希英中辞典)
然るに、
(05)
レーマとはいくつかの空白的部分をもつ文のことである。ところでこのレーマ は現在の論理学の言葉で言えば明らかに命題関数である。つまりf(x),f(x,y),f(x, y,z)といったものである。さてこうしたレーマあるいは命題関数はそれ自身において は真でも偽でもなく、不定である(山田正、論理学史、1983年、95頁)。
従って、
(06)
F(ⅹ)=人間(ⅹ)
に於いて、
F=人間 は、
名詞(オノマ) であって、
動詞(レーマ) ではない。が故に、
F(チャールズ)=1
F(スヌーピー)=0
のやうな「命題関数」を、「関数(オノマ)」とする。
(07)
F は「名詞」ではない。
ⅹ は「名詞等」である。
といふ場合に於ける、
F(ⅹ)。
を、「関数(レーマ)」とする。
(08)
_F(ⅹ)。
が「関数(レーマ)」であるとき、
_ は「主語」であるが、「漢文や日本語」では、「主語」がしばしば「省略」されるため、以下では、
F(ⅹ)。
と書いて、
_F(ⅹ)。
であると、する。
然るに、
(09)
読書=書を読む。
に於いて、
読 は、動詞 であって、
書 は、名詞 である。
従って、
(07)(09)により、
(10)
読(書)。
は、「レーマ」であるが、
読(書)。
のやうに、
「変数ⅹ」を含まない場合は、
場合は、「命題(レーマ)」とする。
従って、
(08)(10)により、
(11)
F(ⅹ)。
は、「関数(レーマ)」であって、
読(書)。
は、「命題(レーマ)」である。
然るに、
(12)
読(ⅹ)。
の、 
ⅹに、
ⅹ=書
を代入した「結果」が、
読(書)。
である。とするならば、
読( )。
が、「関数(レーマ)」であって、
ⅹ=書
は、「(レーマの)変数」である。
加へて、
(13)
不〔ⅹ〕
の、
ⅹに、
ⅹ=読(書)。
を代入した「結果」が、
不〔読(書)〕。
である。とするならば、
不〔 〕。
が、「関数(レーマ)」であって、
読(書)
は、「(レーマの)変数」である。
従って、
(12)(13)により、
(14)
      読(書)。
は、「関数(レーマ)」であり、
    不〔読(書)〕。
  非[不〔読(書)〕]。
無{人不[言〔見(花)帰〕]}。
等は、「合成関数(レーマ)」である。
従って、
(15)
見(が主要部である際)の(補部)=(花)
言(が主要部である際)の〔補部〕=〔見(花)帰〕
不(が主要部である際)の[補部]=[言〔見(花)帰〕]
無(が主要部である際)の{補部}={人不[言〔見(花)帰〕]}
であるとき、
① 無人不言見花帰=
① 無{人不[言〔見(花)帰〕]}⇒
② {人[〔(花)見帰〕言]不}無=
② {人として[〔(花を)見て帰ると〕言は]不るは}無し。
といふ「漢文訓読」は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。
といふ「説明」は、
(16)
見(が関数である際)の(変数)=(花)
言(が関数である際)の〔変数〕=〔見(花)帰〕
不(が関数である際)の[変数]=[言〔見(花)帰〕]
無(が関数である際)の{変数}={人不[言〔見(花)帰〕]}
であるとき、
① 無人不言見花帰=
① 無{人不[言〔見(花)帰〕]}⇒
② {人[〔(花)見帰〕言]不}無=
② {人として[〔(花を)見て帰ると〕言は]不るは}無し。
といふ「漢文訓読」は、
①「関数先行型」⇒
②「関数後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。といふ風に、改めることが出来る。
 ― Nobody don’t like me. ―
(17)
我 は「名詞」であるため、
我(知)
といふ「レーマ」は、有り得ないし、
我 は「動作・状態」ではないため、
不(我)
といふ「レーマ」も、有り得ない。
cf.
不ず《動作や状態を否定する》(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、293頁)。
従って、
(18)
思ふに、「強調」を目的として、
否定文で、目的語が代名詞の場合、VとOの語順が逆になって、「否定詞+O+V」となる(三省堂、明解古典学習シリーズ16、論語 孟子、1973年、14頁)。
従って、
(18)により、
(19)
① 無人不我好=
① 無〔人不(我好)〕⇒
② 〔人(我好)不〕無=
② 〔人として(我を好ま)不るは〕無し=
③ 全ての人が、私を好んでゐる(私は全ての人から好かれてゐる)。
従って、
(19)により、
(20)
① 無人不我好=
① No{one[doesn’t〔like(me)〕]}⇒
② {[〔(me)like〕doesn’t]one}No=
② {[〔(私を)好きで〕ない]人は}ゐない=
③ 全ての人が、私を好んでゐる(私は全ての人から好かれてゐる)。
従って、
(20)により、
(21)
子どもが言ふ、
① No one does’t like me=
① Nobody don’t like me=
② Everybody likes me=
③ 全ての人が、私を好んでいる(私は全ての人から好かれている)。
然るに、
(22)
(12)
子ども:Nobody don’t like me.
母親 :No,say ”Nobody likes me.”
子ども:Nobody don’t like me.
(同じやりとりが8回繰り返される)
母親 :No,now listen carefully;say ”Nobody likes me.”
子ども:Oh! Nobody don’t like me.
従って、
(19)~(22)により、
(23)
子ども:Everybody likes me.
と、自分のことを、言ってゐるのに、
母親は:Nobody likes me.
と、その子に、言はせようとしてゐることになる。
従って、
(24)
me=Tom ならば、
Tom:Everybody likes Tom.
と、Tom自身のことを、言ってゐるのに、
母親は:Nobody likes Tom.
と、Tomに、言はせようとしてゐることになる。
従って、
(25)
① Nobody don’t like me =
① No{one[doesn’t〔like(me)〕]}⇒
② {[〔(me)like〕doesn’t]one}No=
② {[〔(私を)好きで〕ない]人は}ゐない=
③ 全ての人が、私を好んでいる(私は全ての人から好かれている)。
といふ「普遍言語(UG)」を知らないのは、母親と、アメリカ人一般である。
といふことになる。
従って、
(26)
(12)の例(McNeil(1966),p.69より)から意図的に模倣させようとしても不可能であることがわかる(大修館書店、生成言語学入門、1999年、76頁)。
とするのは、「誤解」である。
(26)
この場合は、
Tom:Everybody likes Tom.
と、Tom自身が、Tomのことを、言ってゐるのに、
母親が:Nobody likes Tom.
といふ風に、Tom自身に、無理矢理、言はせようとしてゐるに、過ぎない。
(27)
① Nobody likes me=
① No one like me.
の場合は、
① No[one〔like(me)〕]⇒
② [〔(me)like〕one]No=
② [〔(私を)好きな〕人は]ゐない。
である。
(28)
自動詞は、「主語の関数」である。
他動詞は、「主語と目的語の関数」である。
授与動詞は、「主語と間接目的語と直接目的語の関数」である。
使役動詞は、「使役動詞の主語と、・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ の関数」である。
「オノマ」は、「主語とbe動詞と補語の関数」である。
平成26年06月18・19日、毛利太。

2014年6月12日木曜日

語順と主要部パラメータ(Ⅲ)。

(01)
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))⇒
② ((人而(死)不)有)不=
② ((人にし而(死せ)不るは)有ら)不。
といふ「漢文」を、「述語論理」に直訳すると、
① ¬((∃x)(Mx&¬(Dx)))=(((死ぬ)ない人xは)存在し)ない。
然るに、
(02)
Human being can not stand very much proliferation of brackets(E.J.Lemmon).
従って、
(03)
人間は、括弧が多過ぎることに我慢できないので(E.J.レモン)ので、
① ¬(∃x)(Mx&¬(Dx))=((死ぬ)ない人xは)存在しない。
然るに、
(04)
¬(∃x)=存在しない=無である。
であって、尚且つ、「漢文」では、「而=&」は、不要である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(05)
① 無(人不(死))=人として死せざるは無し。
①  ¬(∃x)(Mx&¬(Dx))=((死ぬ)ない人xは)存在しない。
従って、
(05)により、
(06)
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕⇒
② 〔人(死)不〕無=
② 〔人として(死せ)不るは〕無し。
といふ「漢文訓読(倒置)」は、「論理学的」に「正しい」。
然るに、
(07)
5.2.7 語順と主要部パラメータ
日本語と英語の語順は違うが、この違いは文法組織のどこから導かれるものであろうか。― 中略 ―、仮に普遍文法主要部補部について二つの選択肢を許すと考えてみよう。すなわち主要が補部に先行する「主要部先行型」と主要部が補部に後続する「主要部後行型」の二つである。― 中略 ―、このようにすべての句において日本語では主要部後続型、英語では主要部先行型となっていることがわかる。一つのパラメータの値の設定が多くの構造の違いに反映されている好例である(大修館書店、生成言語学入門、1999年、223~225頁)。
従って、
(08)
不(が主要部である際)の(補部)=(死)
無(が主要部である際)の〔補部〕=〔人不(死)〕
であるとき、
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕⇒
② 〔人(死)不〕無=
② 〔人として(死せ)不るは〕無し。
といふ「漢文訓読」は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。
従って、
(08)により、
(09)
見(が主要部である際)の(補部)=(花)
言(が主要部である際)の〔補部〕=〔見(花)帰〕
不(が主要部である際)の[補部]=[言〔見(花)帰〕]
無(が主要部である際)の{補部}={人不[言〔見(花)帰〕]}
であるとき、
① 無人不言見花帰=
① 無{人不[言〔見(花)帰〕]}⇒
② {人[〔(花)見帰〕言]不}無=
② {人として[〔(花を)見て帰ると〕言は]不るは}無し。
といふ「漢文訓読」は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。
cf.
〔用例〕無2人不1ㇾ道2看ㇾ花回1。〈センター〉
(読)人として花を看て回ると道はざるは無し。
(訳)どんな人でも花を見て帰るところだと言わない人はいない。
(仁田峠公人、センター試験対策漢文キーワード200、平成17年、24頁)
従って、
(09)により、
(10)
① 無人不言見花食団子帰=
① 無{人不[言〔見(花)食(団子)帰〕]}⇒
② {人[〔(花)見(団子を)食べて帰〕言]不}無=
② {人として[〔(花を)見て(団子を)食べて帰ると〕言は]不るは}無し。
の場合も、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ、「変換(倒置)」である。が、
このやうな「代入」は、限りがない
従って、
(10)により、
(11)
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
といふ「順番」で「括弧」が用ゐられ、尚且つ、
④{ }の中に、一つ以上の
③[ ]が入り、
③[ ]の中に、一つ以上の
②〔 〕が入り、
②〔 〕の中に、一つ以上の
①( )が入る。
ならば、その場合に限って、
①「括弧」⇒
②「括弧」。
は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ、「変換(倒置)」である。
従って、
(12)
① 主要部〔主要部(補部)〕⇒
② 〔(補部)主要部〕主要文。
③ 三 二 一。
① 主要部〔主要部(補部)主要部(補部)〕⇒
② 〔(補部)主要部(補部)主要部〕主要文。
③ 下 二 一 中 上。
は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。一方で、
① 主要部主要部補部〕⇒
(〔補部主要部〕主要部。
③ 二 三 一。
① 主要部主要部補部補部〕⇒
(〔補部主要部補部〕主要部。
③ 二 下 一 上
等は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」ではない。
従って、
(13)
③ 三 二 一。
③ 下 二 一 中 上。
といふ「返り点」に対して、
③ 二 三 一
③ 二 下 一 上。
といふ「返り点」を必要とする場合は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」ではない。
従って、
(14)
逆に言へば、
「漢文訓読」に於いて、
③ 二 三 一
③ 二 下 一 上
のやうな『ありえない、「返り点」』が、「不要」であるといふことは、
「漢文訓読」は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。といふことを、意味してゐる。
然るに、
(15)
「漢文」ではなく、
「白話」に於いて、
以為=思ふ。
我的話=私の話。
靠不住=あてにならない。
cf.
「田中秀、漢文から中国語への道、1981年、111頁」。
従って、
(16)
以為我的話靠不住=
以為(我的話靠不住)⇒
② (我的話靠不住)以為=
② (私の話をあてにならないと)思ふ。
といふ「白話訓読」は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」である。
然るに、
(17)
「虎の威を仮る(戦国策)」の「原文」は、
不信。
であって、
以為我不信。
ではない。
従って、
(18)
私=私の話=私的話。
不信=あてにならない=靠不住。
とするとき、
① 以為我的話靠不住。
の「語順」は、「漢文」では、
不信=
我的話靠不住。
であることに、なる。
従って、
(19)
① 以我為不信 =
① 以我(為)不信 ⇒
② 以(為)我不信 =
② 以為(我的話靠不住)⇒
② (私の話をあてにならないと)思ふ。
然るに、
(20)
① 以我(為)不信。
のやうに、
① 我(為)
であるといふことは、
① 我(為)=
① 主要部(補部)。
といふことに、他ならない。
従って、
(21)
(為)=
(am)=
主要部(補部)。
であるものの、
代名詞が、(動詞)の「主要部」である。
といふことは、有り得ない
従って、
(19)(21)により、
(22)
① 以我為不信 =
① 以我(為)不信 ⇒
② 以(為)我不信 =
② 以為(我的話靠不住)⇒
② (私の話をあてにならないと)思ふ。
は、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
といふ「変換(倒置)」では、有り得ない
従って、
(23)
「漢文訓読」では、
① 以我為不信。
① 以(我)為〔不(信)〕⇒
② (我)以〔(信)不〕為=
②(我を)以て〔(信なら)不と〕為す。
であるものの、この場合は、
① 以(我)為〔不(信)〕⇒
②(我)以〔(信)不〕為 。
明らかに、
①「主要部先行型」⇒
②「主要部後続型」。
である。
従って、
(22)(23)により、
(24)
不信 ⇒
以為(我的話靠不住)⇒
② (私の話をあてにならないと)思ふ。
といふ、「漢文白話訳」は、
① 以(我)為〔不(信)〕。
といふ「漢文のシンタックス」を、
① 以為(我不信)。
といふ「白話のシンタックス」に「置き換へた上」で、
① 以為(我不信)=
② 以為(我的話靠不住)。
といふに、訳してゐる。ことになる。
従って、
(23)(24)により、
(25)
「漢文訓読」では、
①( )〔( )〕⇒
②( )〔( )〕。
であるのに対して、
「漢文白話訳」では、
①( )〔( )〕⇒
②( )。
である、ことになる。
加へて、
(26)
① 以我為不信 ⇒
② 以為我的話靠不住。
の場合は、
以(前置詞)≠以為(動詞)
私(対格)    ≠私的(属格)
であるため、
① 以我為不信 ⇒
② 以為我的話靠不住。
にあって「等しい漢字」は、
① 不。
② 不。
だけである。
従って、
(27)
① 以我為不信 ⇒
② 以為我的話靠不住。
といふ「漢文白話訳」は、
(イ) シンタックス。
(ロ) 語順。
(ハ) 漢字。
全てが、「原文」とは、甚だ、異なってゐる
然るに、
(28)
① 以我為不信 ⇒
② 我を以て信なら不と為す。
のやうな「漢文訓読」は、
① 以(我)為〔不(信)〕⇒
②(我)以〔(信)不〕為 =
②(我を)以て〔(信なら)不と〕為す。
であるため、「漢字」は、完全に「等しい」。
加へて、
(29)
「語順」に関しては、
不信 ⇒
以為我不信 ⇒
以為我的話靠住。
であるため、「漢文白話」であっても、「異なってゐる」。
従って、
(24)~(29)により、
(30)
(イ) シンタックス。
(ロ) 漢字。
(ハ) 語順。
に関して、
① 以我為不信 ⇒
②(我を)以て〔(信なら)不と〕為す。
に於いて、異なってゐるのは、
(ハ) 語順
だけであるのに対して、
① 以我為不信 ⇒
① 以為我的話靠不住。
に於いて、異なってゐるのは、
(イ) シンタックス。
(ロ) 漢字。
(ハ) 語順。
の、三つとも全てである。
従って、
(31)
① 以我為不信。
② 我を以て信なら不と為す。
だけ見てゐると、「語順が違ふ!」といふことになるものの、
① 以(我)為〔不(信)〕。
② (我)以〔(信)不〕為。
に注目すれば、
①( )〔( )〕。
②( )〔( )〕。
すなはち、「シンタックス構造)が等しい!」といふことになるし、
① 以(我)爲〔不(信)〕⇒
② (我)以〔(信)不〕爲=
②(我を)以て〔(信なら)不と〕爲す。
と読む以上、「原文同じ漢字」を読んでゐることになる。
従って、
(32)
「漢文訓読法」でなければ。日本人だけではなく、中国人も中国の古典は理解できない、 などという倒錯した主張(勉誠出版、「訓読」論、2008年、2頁)は、必ずしも、「倒錯 した主張」とは、言へない。
従って、
(33)
漢文よみを止めて中国語(その当時は支那語でしたが)でもってよまなければならない。 それは徳川時代にも荻生徂徠がいっぺんやったことだが、今はもっとやりよい時代だから 大いにやらなければならない(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、21頁)。
とすることは、「短絡的」である。
平成26年06月12日、毛利太。
(34)
漢文訓読と、中国語について、質問させて下さい。 倉石武四郎博士に師事され...師事された、牛島徳次博士は、「1977年初版、中国古典の学び方」の中で、伝統的な「漢文訓読法」の一切を否定して、「現代中国語の学習」を「基礎」とした「中国古典の学習」を、提唱されています。 e.g. これは...解決済み - 更新日時:2014/05/29 18:11:43 - 回答数:2 - 閲覧数:153
平成26年06月09日、ONOMAMEUS。