2019年6月5日水曜日
三上文法批判:「鼻が」は「補語」か。他。
―「返り点と括弧」に関しては、
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)
(β)「返り点」と「括弧」の条件。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ):(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。:(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)
(ζ)「返り点・モドキ」について。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)⇒
Web上には存在しますが、何故か、アクセス出来ません。
(η)「一二点・上下点」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)
(θ)「括弧」の「順番」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)
(ι)「返り点」と「括弧」の関係 :(https://kannbunn.blogspot.com/2019/01/blog-post_21.html)
等々、「その他、諸々」を、お読み下さい。―
(01)
学校文法は単純な英語文法からの輸入で、主語・述語関係を単純に当てはめたものだ。そのため、「象は、鼻が長い」という単純な文でさえ、どれが主語だか指摘できず、複数主語だとか、主語の入れ子だとか、奇矯な技を使う。これに対して三上は、日本語には主語はない、とする。「象は」は、テーマを提示する主題であり、これから象についてのことを述べますよというメンタルスペースのセットアップであり、そのメンタルスペースのスコープを形成する働きをもつと主張する(この場合は「長い」までをスコープとする)。また、「鼻が」は主格の補語にすぎなく、数ある補語と同じ格であるとする。基本文は述語である「長い」だけだ(三上文法! : wrong, rogue and log)。
然るに、
(02)
① 象は鼻が長い。⇔
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}⇔
① すべてのxについて、xが象であるならば、あるyはxの鼻であって長く、すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
従って、
(02)により、
(03)
「述語論理的(Predicate logical)」な「観点」からすれば、
① 象は鼻が長い。⇔
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
には、「複数の主語(x、y、z)」があって、尚且つ、
①{ ( )( ) }
といふ「括弧」があるが故に、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、「入れ子」になってゐる。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
「述語論理的(Predicate logical)」な「観点」からすれば、
「象は、鼻が長い」という単純な文でさえ、どれが主語だか指摘できず、複数主語だとか、主語の入れ子だとか、奇矯な技を使う。
といふ「批判」は、当たらない。
然るに、
(05)
34 文章の主語は、主格で表わされる。それゆえ、αποστολος γινωσκει は、「使徒は知る」(an apostle knows)という意味である。
他動詞の目的語は対格に置かれる。それゆえ、βλεπω λογον は「私は言葉を見る」(I see a word)という意味である。
(J.G.メイチェン 著、田辺滋 訳、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、27頁)
然るに、
(06)
① γινωσκει(三人称単数は知る)。
といふ「述語(predicate)」だけでも、「ギリシャ語は、成立する」。
従って、
(06)により、
(07)
① γινωσκει(三人称単数は知る)。
が、最初に有って、その次に、
② αποστολος γινωσκει(an apostle knows)。
③ αποστολον γινωσκει(三人称単数は使徒を知る)。
といふ、
② 主格+述語=αποστολος γινωσκει(an apostle knows)。
③ 対格+述語=αποστολον γινωσκει(三人称単数は使徒を知る)。
といふ「形」が成立する。
といふ風に、解することも、「可能」である。
従って、
(07)により、
(08)
その「意味」で、
② 主格+述語=αποστολος γινωσκει(an apostle knows)。
③ 対格+述語=αποστολον γινωσκει(三人称単数は使徒を知る)。
に於ける、
② 主格(αποστολος) は、述部(γινωσκει)の「意味を補ふ、補語(complement)」であり、
③ 対格(αποστολον)も、述部(γινωσκει)の「意味を補ふ、補語(complement)」である。
然るに、
(05)により、
(09)
αποστολος γινωσκει は、「使徒は知る」(an apostle knows)という意味である。
となってゐて、
αποστολος γινωσκει は、「使徒が知る」(an apostle knows)という意味である。
とは、なってゐない。
従って、
(08)(09)により、
(10)
② 主格+述語=αποστολος γινωσκει(an apostle knows)。
③ 対格+述語=αποστολον γινωσκει(三人称単数は使徒を知る)。
に於ける、
② 主格(αποστολος) は、述部(γινωσκει)の「補語(complement)」であり、
③ 対格(αποστολον)も、述部(γινωσκει)の「補語(complement)」である。
とすることは、「可能」であるとしても、この場合は、
「使徒が」ではなく、
「使徒は」が、さうである。
といふ、ことになる。
従って、
(10)により、
(11)
① 使徒は知る=αποστολος γινωσκει.
② 使徒が知る=αποστολος γινωσκει.
に於いて、
②「使徒が」は「知る(述部)」の「補語」であるが、
①「使徒は」は「知る(述部)」の「補語」ではない。
といふことには、ならない。
従って、
(11)により、
(12)
① 象は大きい。
② 鼻が長い。
に於いて、
②「鼻が」は、「述部( 長い )」の「意味を補ふ補語」であるが、
①「象は」は、「述部(大きい)」の「意味を補ふ補語」でない。
といふのであれば、さのやうな「言ひ方」は、「詭弁」に過ぎない。
(13)
確かに、「象は、鼻が長い。」という文の主語は何か、と尋ねられたら返答に窮する。学校文法に従えば「象は」も「鼻が」も両方とも「主語」ということになる。しかし、単文に2つの主語があるのは変だ。三上文法によると、「象は、鼻が長い。」という文において、「象は」は題(主題、題目 topic)で、残りの部分「鼻が長い」は解説 (comment) だという。この文の場合、「鼻が」という主格が解説に含まれている。しかし、日本語では主格(何が、誰が)がなくても文は成立する。たとえば、料理文がそうだ。料理文では「何を」は何度も登場するが、主格「誰が」は出てこない。言う必要がないからだ。
山崎紀美子著 『日本語基礎講座』三上文法入門 ちくま新書の38ページから、料理文の一例を引用する。
新ゴボウのかき揚げ」(朝日新聞2002年4月18日)
<主な材料>
新ゴボウ2本(200グラム)、桜エビ(素干し)15グラム、牛乳100cc、大根200グラム
<作り方>
ゴボウは汚れを落とし、斜め薄切りにして水にくぐらせ水気を切り、薄口しょうゆ大さじ1をからめます。ボウルに薄力粉100グラム、牛乳、桜エビ、ゴボウを入れまぜます。8等分し170度の揚げ油で、カリッと揚げます。大根おろしとしょうゆを添えます。
作り方の冒頭にある「ゴボウは汚れを落とし」は、言うまでもなく、ゴボウが自分で汚れを落とすわけではありません。ゴボウについて言えば、その汚れを料理人が落とす、という意味です。「ゴボウは」は、主語などではなく、題なのです(リベラル21私たちは護憲・軍縮・共生を掲げてネット上に市民のメディア、リベラル21を創った。2009.02.21 日本語に主語はあるのか)。
然るに、
(14)
1 (1)∀x(牛蒡x→∃y(我々y&洗yx)} A
1 (2) 牛蒡a→∃y(我々y&洗ya) 1UE
3 (3)∃x(牛蒡x) A
4(4) 牛蒡a A
1 4(5) ∃y(我々y&洗ya) 25MPP
134(6) 牛蒡a&∃y(我々y&洗ya) 45&I
134(7)∃x{牛蒡x&∃y(我々y&洗yx)} 6EI
13 (8)∃x{牛蒡x&∃y(我々y&洗yx)} 34EE
従って、
(14)により、
(15)
(1)すべてのxについて、xが牛蒡であるならば、あるyは我々であって、yはxを洗ふ。しかるに、
(3)あるxは牛蒡である。故に、
(8)あるxは牛蒡であって、あるyは我々であって、yはxを洗ふ。
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
「ゴボウは汚れを落とす。」
といふ「日本語」は、
「ゴボウは(我々によって汚れを)落とされる。」
といふ風に、解することが、出来る。
従って、
(16)により、
(17)
「ゴボウは汚れを落とす(ゴボウ is washed by us)。」
に於ける、
「ゴボウは」は、「受動文」の「主語」である。
然るに、
(18)
(1)すべてのxについて、xが牛蒡であるならば、
といふことは、
(1)ゴボウについて言えば、
といふことに、他ならない。
従って、
(18)により、
(19)
(1)ゴボウについて言えば、
が、「題」であるならば、
(1)「∀x(牛蒡x→」=「すべてのxについて、xが牛蒡であるならば、」
も、たしかに、「題」である。
然るに、
(20)
例へば、
メタ トーン アンゲローン アゲイ ホ キュリオス トゥース ディカイウース エイス トン ウーラノン.
に於いて、
キュリオス が「主語」である「所以」は、
キュリオス だけが「主格」の「形」をしてゐるからである。
従って、
(21)
ギリシャ語やラテン語であれば、「主格(形)」が「主語(形)」であり、「主語(形)」が「主格(形)」である。
従って、
(22)
料理文では「何を」は何度も登場するが、主格「誰が」は出てこない。言う必要がないからだ。
といふ「言ひ方」は、私にとっては、
料理文では「何を」は何度も登場するが、主語「誰が」は出てこない。言う必要がないからだ。
といってゐるのと、同じである。
(23)
そもそも、「主語と、主格と、主題」は、「矛盾する概念」ではないはずである。
従って、
(24)
「象は」は題(主題、題目 topic)で、残りの部分「鼻が長い」は解説 (comment) だという。この文の場合、「鼻が」という主格が解説に含まれている。
といふのであれば、「主題とは何で、主語とは何で、主格とは何で、それぞれの何処が、だう違ふのか」といふことを、示してくれない限り、「三上文法」を理解することは、永遠に不可能である。
と、言はざるを得ない。
令和元年06月05日、毛利太。
2017年10月16日月曜日
AがBである(排他的命題)。
(01)
1 (1) P→Q A
2 (2)~Q A
3 (3) P A
13 (4) Q 12MPP
123(5)~Q&Q 23&I
12 (6)~P 35RAA
1 (7)~Q→~P 26CP
(8)(P→Q)→(~Q→~P) 17CP
(02)
1 (1)~Q→~P A
2 (2)P A
2 (3)~~P 2DN
12 (4)~~Q 13MTT
12 (5)Q 4DN
1 (6)P→Q 25CP
(7)(~Q→~P)→(P→Q) 16CP
従って、
(01)(02)により、
(03)
(P→Q)は、(~Q→~P)に、等しい。
従って、
(03)により、
(04)
「PならばQである。」は、「QでないならばPでない。」に、等しい。
cf.
対偶(Contraposition)
従って、
(04)により、
(05)
「QならばPである。」は、「PでないならばQでない。」に、等しい。
従って、
(04)(05)により、
(06)
「PならばQであり、QならばPである。」は、
「PならばQであり、PでないならばQでない。」に、等しい。
従って、
(06)により、
(07)
「PはQであり、QはPである。」は、
「PはQであり、P以外はQでない。」に、等しい。
従って、
(07)により、
(08)
「東京は日本の首都であり、日本の首都は東京である。」は、
「東京は日本の首都であり、東京以外は日本の首都ではない。」に、等しい。
然るに、
(09)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
b.Ton SENT Mary flowers.
c.Tom sent MARY flowers.
d.Tom sent Mary FLOWERS.
”Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。 Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(09)により、
(10)
①「Tokyo is the capital of Japan.」ではなく、
②「TOKYO is the capital of Japan.」であるならば、その場合は、
①「東京は日本の首都である。」ではなく、
②「東京は日本の首都であり、東京以外は日本の首都ではない。」といふ、「意味」になる。
然るに、
(11)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、
音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
(12)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
然るに、
(13)
①「は」は、「清音」であって、
②「が」は、「濁音」である。
従って、
(10)~(13)により、
(14)
①「東京は日本の首都である。」ではなく、
②「東京が日本の首都である。」であるならば、
②「東京は日本の首都であり、東京以外は日本の首都ではない。」といふ、「意味」になる。
然るに、
(15)
②「東京は日本の首都であり、日本の首都は東京である。」
従って、
(08)(15)により、
(16)
②「東京は日本の首都であり、東京以外は日本の首都ではない。」
従って、
(14)(16)により、
(17)
②「東京が日本の首都である。」
平成29年10月16日、毛利太。
1 (1) P→Q A
2 (2)~Q A
3 (3) P A
13 (4) Q 12MPP
123(5)~Q&Q 23&I
12 (6)~P 35RAA
1 (7)~Q→~P 26CP
(8)(P→Q)→(~Q→~P) 17CP
(02)
1 (1)~Q→~P A
2 (2)P A
2 (3)~~P 2DN
12 (4)~~Q 13MTT
12 (5)Q 4DN
1 (6)P→Q 25CP
(7)(~Q→~P)→(P→Q) 16CP
従って、
(01)(02)により、
(03)
(P→Q)は、(~Q→~P)に、等しい。
従って、
(03)により、
(04)
「PならばQである。」は、「QでないならばPでない。」に、等しい。
cf.
対偶(Contraposition)
従って、
(04)により、
(05)
「QならばPである。」は、「PでないならばQでない。」に、等しい。
従って、
(04)(05)により、
(06)
「PならばQであり、QならばPである。」は、
「PならばQであり、PでないならばQでない。」に、等しい。
従って、
(06)により、
(07)
「PはQであり、QはPである。」は、
「PはQであり、P以外はQでない。」に、等しい。
従って、
(07)により、
(08)
「東京は日本の首都であり、日本の首都は東京である。」は、
「東京は日本の首都であり、東京以外は日本の首都ではない。」に、等しい。
然るに、
(09)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
b.Ton SENT Mary flowers.
c.Tom sent MARY flowers.
d.Tom sent Mary FLOWERS.
”Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。 Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(09)により、
(10)
①「Tokyo is the capital of Japan.」ではなく、
②「TOKYO is the capital of Japan.」であるならば、その場合は、
①「東京は日本の首都である。」ではなく、
②「東京は日本の首都であり、東京以外は日本の首都ではない。」といふ、「意味」になる。
然るに、
(11)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、
音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
(12)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
然るに、
(13)
①「は」は、「清音」であって、
②「が」は、「濁音」である。
従って、
(10)~(13)により、
(14)
①「東京は日本の首都である。」ではなく、
②「東京が日本の首都である。」であるならば、
②「東京は日本の首都であり、東京以外は日本の首都ではない。」といふ、「意味」になる。
然るに、
(15)
②「東京は日本の首都であり、日本の首都は東京である。」
従って、
(08)(15)により、
(16)
②「東京は日本の首都であり、東京以外は日本の首都ではない。」
従って、
(14)(16)により、
(17)
②「東京が日本の首都である。」
平成29年10月16日、毛利太。
2017年10月15日日曜日
憲法は/憲法が/これを
(01)
① 日本国憲法は、主権者たる国民、これを制定す。
といふ「日本語」は、
① 主権者たる国民が、日本国憲法を制定する。
といふ、「意味」である。
従って、
(01)により、
(02)
① 日本国憲法は、主権者たる国民、これを制定す。
であるならば、
① 日本国憲法は =目的語
① 主権者たる国民=主語
である。
然るに、
(03)
② 日本国憲法が、主権者たる国民、これを制定す。
であるならば、
② 日本国憲法が =主語
② 主権者たる国民=目的語
である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 日本国憲法は、主権者たる国民、これを制定す。
② 日本国憲法が、主権者たる国民、これを制定す。
に於いて、
① 日本国憲法は=目的語
② 日本国憲法が=主語
である。
然るに、
(05)
① 東京は日本である。
② 東京が日本である。
に於いて、
① は、正しく、
② は、正しくない。
cf.
② (東京と倫敦と巴里であれば、)東京が日本である。が、
② (東京以外の道府県も日本であるあるため、)東京が日本である。とは、言へない。
然るに、
(06)
① 東京は日本の首都である。
② 東京が日本の首都である。
に於いて、
① は、正しく、
② も、正しい。
然るに、
(07)
① 東京は日本であるが、日本は東京ではない。
② 東京は日本の首都であって、日本の首都は東京である。
に於いて、
① は、正しく、
② も、正しい。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
② AはBであって、BはAである。
といふことは、
② AがBである。
と言ひ得る上での、「必要条件」である。
然るに、
(09)
② AはBであって、BはAである。
といふことは、
② A=B
といふことに、他ならず、
② A=B
といふことは、
② AはBであって、A以外はBでない。
といふことに、他ならない。
従って、
(08)(09)により、
(10)
② AはBであって、A以外はBでない。
といふことは、
② AがBである。
と言ひ得る上での、「必要条件」である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
② A以外はBでない(BはAである)。
といふことを、言ひたい場合は、
② AはBである。
とは言はずに、
② AがBである。
といふ風に、言ふことになる。
従って、
(11)により、
(12)
② AがBである。
といふことは、
②(A以外ではない所の)AがBである。
といふ、「意味」になる。
従って、
(12)により、
(13)
② AがBする。
といふことは、
②(A以外ではない所の)AがBする。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(14)
②(A以外ではない所の)AがBする。
といふことは、
② Bする。の主語は、A以外ではない。
といふことを、「強調」する。
従って、
(14)により、
(15)
② 日本国憲法_、主権者たる国民、これを制定す。
に於いて、
② 制定す。の「主語」が、「日本国憲法」である。といふことを、「主張」する場合は、
① 日本国憲法は、
ではなく、
② 日本国憲法が、
でなければ、ならない。
従って、
(15)により、
(16)
① 日本国憲法_、主権者たる国民、これを制定す。
に於いて、
① 制定す。の「主語」が、「主権者たる国民」である。といふことを、「主張」する場合は、
② 日本国憲法が、
ではなく、
① 日本国憲法は、
でなければ、ならない。
(17)
第一条 日本国憲法ハ主権者タル国民之ヲ制定ス
といふ「それ」は、言うまでも無く、「作例」である。
平成29年10月15日、毛利太。
① 日本国憲法は、主権者たる国民、これを制定す。
といふ「日本語」は、
① 主権者たる国民が、日本国憲法を制定する。
といふ、「意味」である。
従って、
(01)により、
(02)
① 日本国憲法は、主権者たる国民、これを制定す。
であるならば、
① 日本国憲法は =目的語
① 主権者たる国民=主語
である。
然るに、
(03)
② 日本国憲法が、主権者たる国民、これを制定す。
であるならば、
② 日本国憲法が =主語
② 主権者たる国民=目的語
である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 日本国憲法は、主権者たる国民、これを制定す。
② 日本国憲法が、主権者たる国民、これを制定す。
に於いて、
① 日本国憲法は=目的語
② 日本国憲法が=主語
である。
然るに、
(05)
① 東京は日本である。
② 東京が日本である。
に於いて、
① は、正しく、
② は、正しくない。
cf.
② (東京と倫敦と巴里であれば、)東京が日本である。が、
② (東京以外の道府県も日本であるあるため、)東京が日本である。とは、言へない。
然るに、
(06)
① 東京は日本の首都である。
② 東京が日本の首都である。
に於いて、
① は、正しく、
② も、正しい。
然るに、
(07)
① 東京は日本であるが、日本は東京ではない。
② 東京は日本の首都であって、日本の首都は東京である。
に於いて、
① は、正しく、
② も、正しい。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
② AはBであって、BはAである。
といふことは、
② AがBである。
と言ひ得る上での、「必要条件」である。
然るに、
(09)
② AはBであって、BはAである。
といふことは、
② A=B
といふことに、他ならず、
② A=B
といふことは、
② AはBであって、A以外はBでない。
といふことに、他ならない。
従って、
(08)(09)により、
(10)
② AはBであって、A以外はBでない。
といふことは、
② AがBである。
と言ひ得る上での、「必要条件」である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
② A以外はBでない(BはAである)。
といふことを、言ひたい場合は、
② AはBである。
とは言はずに、
② AがBである。
といふ風に、言ふことになる。
従って、
(11)により、
(12)
② AがBである。
といふことは、
②(A以外ではない所の)AがBである。
といふ、「意味」になる。
従って、
(12)により、
(13)
② AがBする。
といふことは、
②(A以外ではない所の)AがBする。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(14)
②(A以外ではない所の)AがBする。
といふことは、
② Bする。の主語は、A以外ではない。
といふことを、「強調」する。
従って、
(14)により、
(15)
② 日本国憲法_、主権者たる国民、これを制定す。
に於いて、
② 制定す。の「主語」が、「日本国憲法」である。といふことを、「主張」する場合は、
① 日本国憲法は、
ではなく、
② 日本国憲法が、
でなければ、ならない。
従って、
(15)により、
(16)
① 日本国憲法_、主権者たる国民、これを制定す。
に於いて、
① 制定す。の「主語」が、「主権者たる国民」である。といふことを、「主張」する場合は、
② 日本国憲法が、
ではなく、
① 日本国憲法は、
でなければ、ならない。
(17)
第一条 日本国憲法ハ主権者タル国民之ヲ制定ス
といふ「それ」は、言うまでも無く、「作例」である。
平成29年10月15日、毛利太。
2017年10月13日金曜日
鳥獣と+鳥獣は=鳥獣とは
(01)
① 鳥獣不可与同群=
① 鳥獣不[可〔与同(群)〕]⇒
① 鳥獣[〔与(群)同〕可]不=
① 鳥獣は[〔与に(群を)同じくする〕可から]不。
は、「論語」である。
然るに、
(02)
先生はがっかりしてしていわれた、「鳥や獣とはいっしょに暮らすわけにいかない。」
(岩波文庫、論語、1963年、368頁)
然るに、
(03)
① 誰が、「鳥や獣とはいっしょに暮らすわけにいかない」のかと言へば、孔子(先生)である。
然るに、
(04)
2 ともニ
A与レBC [読み]A、BトともニCす。[訳]AはBと一緒にCする。
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、347頁改)
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① 鳥獣不可与同群。
といふ「漢文」は、
② 与之=与鳥獣
であるとして、
② 鳥獣吾不可与之同群=
② 鳥獣吾不[可〔与(之)同(群)〕]⇒
② 鳥獣吾[〔(之)与(群)同〕可]不=
② 鳥獣は吾[〔(之と)与に(群を)同じくする〕可から]不。
といふ風に、「書き換へ」ることが、出来る。
従って、
(01)(05)により、
(06)
① 与(ともに)=
② 与之(これとともに)=with them
に於ける、
② them は、鳥獣 である。
従って、
(01)(06)により、
(07)
① 鳥獣不可与同群=
① 鳥獣不[可〔与同(群)〕]⇒
① 鳥獣[〔与(群)同〕可]不=
① 鳥獣は[〔与に(群を)同じくする〕可から]不。
に於ける、
① 鳥獣 は、
① 与(with)の、「目的語」である。
従って、
(07)により、
(08)
① 鳥獣不可与同群。
といふ「漢文」は、
③ 不可与鳥獣同群=
③ 不[可〔与(鳥獣)同(群)〕]⇒
③ [〔(鳥獣)与(群)同〕可]不=
③ [〔(鳥獣と)与に(群を)同じくする〕可から]不。
といふ風に、「書き換へ」ることが、出来る。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① 鳥獣はともに群を同じくするべからず。
③ 鳥獣とともに群を同じくするべからず。
に於いて、
①=③ である。
従って、
(09)により、
(10)
① 鳥獣は
③ 鳥獣と
に於いて、
①=③ である。
然るに、
(02)により、
(11)
③ 鳥獣とともに群を同じくするべからず。
といふ「日本語」は、
③ 鳥獣とはともに群を同じくするべからず。
といふ風に、書くことが出来る。
平成29年10月13日、毛利太。
① 鳥獣不可与同群=
① 鳥獣不[可〔与同(群)〕]⇒
① 鳥獣[〔与(群)同〕可]不=
① 鳥獣は[〔与に(群を)同じくする〕可から]不。
は、「論語」である。
然るに、
(02)
先生はがっかりしてしていわれた、「鳥や獣とはいっしょに暮らすわけにいかない。」
(岩波文庫、論語、1963年、368頁)
然るに、
(03)
① 誰が、「鳥や獣とはいっしょに暮らすわけにいかない」のかと言へば、孔子(先生)である。
然るに、
(04)
2 ともニ
A与レBC [読み]A、BトともニCす。[訳]AはBと一緒にCする。
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、347頁改)
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① 鳥獣不可与同群。
といふ「漢文」は、
② 与之=与鳥獣
であるとして、
② 鳥獣吾不可与之同群=
② 鳥獣吾不[可〔与(之)同(群)〕]⇒
② 鳥獣吾[〔(之)与(群)同〕可]不=
② 鳥獣は吾[〔(之と)与に(群を)同じくする〕可から]不。
といふ風に、「書き換へ」ることが、出来る。
従って、
(01)(05)により、
(06)
① 与(ともに)=
② 与之(これとともに)=with them
に於ける、
② them は、鳥獣 である。
従って、
(01)(06)により、
(07)
① 鳥獣不可与同群=
① 鳥獣不[可〔与同(群)〕]⇒
① 鳥獣[〔与(群)同〕可]不=
① 鳥獣は[〔与に(群を)同じくする〕可から]不。
に於ける、
① 鳥獣 は、
① 与(with)の、「目的語」である。
従って、
(07)により、
(08)
① 鳥獣不可与同群。
といふ「漢文」は、
③ 不可与鳥獣同群=
③ 不[可〔与(鳥獣)同(群)〕]⇒
③ [〔(鳥獣)与(群)同〕可]不=
③ [〔(鳥獣と)与に(群を)同じくする〕可から]不。
といふ風に、「書き換へ」ることが、出来る。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① 鳥獣はともに群を同じくするべからず。
③ 鳥獣とともに群を同じくするべからず。
に於いて、
①=③ である。
従って、
(09)により、
(10)
① 鳥獣は
③ 鳥獣と
に於いて、
①=③ である。
然るに、
(02)により、
(11)
③ 鳥獣とともに群を同じくするべからず。
といふ「日本語」は、
③ 鳥獣とはともに群を同じくするべからず。
といふ風に、書くことが出来る。
平成29年10月13日、毛利太。
2017年8月21日月曜日
「教育勅語」に於ける「已然形+ば」。
(01)
① PならばQである。
② PであってQでない。といふことはない。
③ PでないかQである。
といふ「日本語」は、それぞれ、
① P→Q
② ~(P&~Q)
③ ~P∨Q
といふ風に、「記号化」される。
然るに、次に示す、
(03)~(06)により、
(02)
① P→Q
② ~(P&~Q)
③ ~P∨Q
に於いて、
①=②=③ である。
(03)
1 (1)P→Q A
2 (2)P&~Q A
2 (3)P 2&E
2 (4) ~Q 2&E
12(5)Q 13MPP
12(6)Q&~Q 45&I
1 (7)~(P&~Q) 26RAA
(8)(P→Q)→~(P&~Q) 17CP
(04)
1 (1)~(P&~Q) A
2 (2) P A
3 (3) ~Q A
23 (4) P&~Q 23&I
123(5)~(P&~Q)&(P&~Q) 14&I
12 (6)~~Q 35RAA
12 (7) Q 6DN
1 (8)P→Q 27CP
(9)~(P&~Q)→(P→Q) 18CP
(05)
1 (1)~( P&~Q) A
2 (2)~(~P∨ Q) A
3 (3) ~P A
3 (4) ~P∨Q 3VI
23(5)~(~P∨Q)&(~P∨Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
8 (8) Q A
8 (9) ~P∨Q 8VI
29(ア)~(~P∨Q)&(~P∨Q) 29&I
2 (イ) ~Q 8アRAA
2 (ウ) P&~Q 7イ&I
12(エ)~(P&~Q)&(P&~Q) 1ウ&I
1 (オ)~~(~P∨Q) 2エRAA
1 (カ) (~P∨Q) オDN
(キ)~(P&~Q)→(~P∨Q) 1カCP
(06)
1 (1) ~P∨ Q A
2 (2) P&~Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23(5) ~P& P 34&I
3 (6)~(P&~Q) 25RAA
7 (7) Q A
2 (8) ~Q 2&E
27(9) Q&~Q 78&I
7 (ア)~(P&~Q) 29RAA
1 (イ)~(P&~Q) 1367アVE
(ウ)(~P∨Q)→~(P&~Q) 1イCP
従って、
(01)(02)により、
(07)
① PならばQである。
② PであってQでない。といふことはない。
③ PでないかQである。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(08)
③ Pでないか、Qである。
といふ「命題」は、
③ Pでない。ならば、それだけで、「真(本当)」であり、
③ Qである。ならば、それだけで、「真(本当)」である。
従って、
(08)により、
(09)
③ Pでないか、Qである。
といふ「命題」は、
③ Pでない。ならば、それだけで、「真(本当)」である。
然るに、
(10)
③ Pでない。ならば、それだけで、「真(本当)」である。
といふことは、
③ Pでなくて、Qである。
としても、「真(本当)」であり、
③ Pでなくて、Qでない。
としても、「真(本当)」である。
といふことに、他ならない。
然るに、
(11)
③ Pでなくて、Qである。
としても、「真(本当)」であり、
③ Pでなくて、Qでない。
としても、「真(本当)」である。
といふことは、
③ Pでないならば、Qであるとは、限らない。
といふことをに、他ならない。
従って、
(07)~(11)により、
(12)
①=②=③ である所の、
① PならばQである。
② PであってQでない。といふことはない。
③ PでないかQである。
といふ「命題」が、「真(本当)」である場合には、
③ Pでないならば、Qであるとは、限らない。
従って、
(12)により、
(13)
① PならばQである。
といふ「命題」が、「真(本当)」である場合には、
③ Pでないならば、Qであるとは、限らない。
然るに、
(14)
① 水濁ら(未然形)ば、釣りをせん〔作例〕。
① 悪人のまねとて人を殺さ(未然形)悪人なり〔徒然草〕。
① 月の都の人もうで来(未然形)ば、捕らへさせん〔竹取物語〕。
の場合は、
① 水が濁るとは限らないので、釣りをするとは限らない。
① 人を殺すとは限らないので、悪人であるとは限らない。
① 月の都の人が来るとは限らないので、捕へさせるとは限らない。
従って、
(01)(13)(14)により、
(15)
① 水濁ら(未然形)ば、釣りをせん〔作例〕。
① 悪人のまねとて人を殺さ(未然形)悪人なり〔徒然草〕。
① 月の都の人もうで来(未然形)ば、捕らへさせん〔竹取物語〕。
といふ「古文」は、
① P→Q
① Pなら(未然形)ばQである。
に、相当する。
然るに、
(16)
② Pであって、PならばQである。
といふ「日本語」は、
② P&(P→Q)
といふ「論理式」に、相当する。
然るに、
(17)
1(1) P&(P→Q) A
1(2) P 1&E
(3){P&(P→Q)}→P 12CP
(18)
1(1) P&(P→Q) A
1(2) P 1&E
1(3) P→Q 1&E
1(4) Q 23MPP
(5){P&(P→Q)}→Q 14CP
従って、
(17)(18)により、
(19)
② {P&(P→Q)}ならば、必ず、Pである。
② {P&(P→Q)}ならば、必ず、Qである。
従って、
(16)(19)により、
(20)
② P&(P→Q)
② Pであって、PならばQである。
といふのであれば、
② PであってQである。
然るに、
(21)
* 未然 ―「未だ然らず」、 すなわち、「マダソウナッテイナイ」の意である。
* 已然 ―「未然」の反対で、すなわち、「スデニソウナッテイル」の意である。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、23・24頁)
(22)
平安中古文法では、
順接仮定条件を〈未然形+「ば」〉
順接確定条件を〈已然形+「ば」〉として、明確に使い分けていた。
(古田島洋介・湯城吉信、漢文訓読入門、2011年、80頁)。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
① P→Q
① Pなら(未然形)ばQである。
に対して、
② P&(P→Q)
② Pなれ(已然形)ばQである。
であるに、違ひない。
cf.
未然 連用 終止 連体 已然 命令
なら に なり なる なれ なれ
然るに、
(24)
② 二十七日、風吹き波荒けれ(已然形)ば、舟出さず〔土佐日記〕。
② 二十七日は、風が吹いて波が荒かったので、船出をあきらめた。
といふのは、紀貫之の「経験」である。
(25)
② 瓜食め(已然形)ば、子ども思うほゆ。栗食め(已然形)ば、まして偲はゆ〔万葉集〕。
② 瓜を食べると、自然と子どもことが思はれる。栗を食べると、いっそう恋しく思はれる。
といふのも、山上憶良の、「経験」である。
(26)
② 翁心地あしく、苦しき時も、この子を見れ(已然形)ば、苦しきこともやみぬ〔竹取物語〕。
② 翁は気分が悪く、苦しいときも、この子(かぐや姫)を見ると、苦しいこともおさまりました。
といふのも、竹取の翁の、「経験」である。
従って、
(23)~(26)により、
(27)
② 二十七日、風吹き波荒けれ(已然形)ば、舟出さず〔土佐日記〕。
② 瓜食め(已然形)ば、子ども思うほゆ。栗食め(已然形)ば、まして偲はゆ〔万葉集〕。
② 翁心地あしく、苦しき時も、この子を見れ(已然形)ば、苦しきこともやみぬ〔竹取物語〕。
の場合は、
② 波が荒かったので、船出をあきらめた。
② 瓜を食べたら、自然と子どもことが思はれた。
② この子を見たら、苦しいこともおさまった。
といふ、ことになる。
従って、
(23)(27)により、
(28)
② 二十七日、風吹き波荒けれ(已然形)ば、舟出さず〔土佐日記〕。
② 瓜食め(已然形)ば、子ども思うほゆ。栗食め(已然形)ば、まして偲はゆ〔万葉集〕。
② 翁心地あしく、苦しき時も、この子を見れ(已然形)ば、苦しきこともやみぬ〔竹取物語〕。
といふ「古文」に関しては、
② P&(P→Q)
② Pなれ(已然形)ばQである。
に相当する。
従って、
(15)(28)により、
(29)
① 水濁ら(未然形)ば、釣りをせん〔作例〕。
① 悪人のまねとて人を殺さ(未然形)悪人なり〔徒然草〕。
① 月の都の人もうで来(未然形)ば、捕らへさせん〔竹取物語〕。
といふ「古文」は、
① P→Q
① Pなら(未然形)ばQである。
に、相当し、
② 二十七日、風吹き波荒けれ(已然形)ば、舟出さず〔土佐日記〕。
② 瓜食め(已然形)ば、子ども思うほゆ。栗食め(已然形)ば、まして偲はゆ〔万葉集〕。
② 翁心地あしく、苦しき時も、この子を見れ(已然形)ば、苦しきこともやみぬ〔竹取物語〕。
といふ「古文」に関しては、
② P&(P→Q)
② Pなれ(已然形)ばQである。
に、相当する。
然るに、
(30)
なお、恒常条件、
花咲けば、散る。
は、花が咲クトイツモ、
の意味だが、条件を想定するといふ点で、仮定条件によく似ている。
(代々木ゼミ方式、土屋古文文法88、1990年、121頁)
従って、
(22)(30)により、
(31)
① 花咲か(未然形)ば、散る。
② 花咲け(已然形)ば、散る。
に於いて、
① 花が咲くならば、
② 花が咲クトイツモ、
である。
従って、
(31)により、
(32)
① 花咲か(未然形)ば、
の場合は、
① 花が咲くかどうかは、分らない。
従って、
(31)(32)により、
(33)
① 花が咲くかどうかは、分らない。
といふ風に、「言ひたい」場合は、
② 花咲け(已然形)ば、
とは言はずに、
① 花咲か(未然形)ば、
① もし花咲か(未然形)ば、
といふ風に、言ふことになる。
従って、
(22)(33)により、
(34)
「平安中古文法」では、
順接仮定条件を〈未然形+「ば」〉
順接確定条件を〈已然形+「ば」〉
として、明確に使い分けていた。
といふことから、
① もし花咲か(未然形)ば、
といふ「仮定条件」に対して、
② もし花咲け(已然形)ば、
といふ「仮定条件」は、「平安中古文」では、有り得ない。
従って、
(34)により、
(35)
① もし花咲か(未然形)ば、
① もし緩急あら(未然形)ば、
といふ「古文」に対して、
② もし花咲け(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
といふ「用例」は、平安中古文」では、有り得ない。
然るに、
(36)
【旦】[意味]① あした(朝)
(角川新字源、1968年、459頁)
然るに、
(37)
【一朝】③ 事件などがおこることを仮定するときのことば。いったん。
(学研、漢和大辞典、1978年、4頁)
従って、
(36)(37)により、
(38)
【一旦】=仮定するときのことば(もし・IF)
である。
従って、
(38)により、
(39)
② 一旦、緩急あれ(已然形)ば、
といふ「それ」は、
② もし、緩急あれ(已然形)ば、
といふ、「意味」になる。
従って、
(35)(39)により、
(40)
① もし花咲か(未然形)ば、
① もし緩急あら(未然形)ば、
① 一旦緩急あれ(未然形)ば、
といふ「古文」に対して、
② もし花咲け(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
といふ「古文」は、有り得ない。
然るに、
(41)
平安中古文法では、順接仮定条件を〈未然形+「ば」〉順接確定条件を、〈已然形+「ば」〉として、明確に使い分けていた。けれども、江戸近世文法では、〈已然形+「ば」〉が、現代口語文法の〈仮定形+「ば」〉に大きく接近し、順接仮定条件をも表すようになった。現行の訓読は、直接には近世後期の訓読を引き継いでいるため、順接仮定条件・順接確定条件のいずれをも〈已然形+「ば」〉で表すことが許容される。
(古田島洋介・湯城吉信、漢文訓読入門、2011年、80頁)
従って、
(40)(41)により、
(42)
①「平安中古文法」としては、
② もし花咲け(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
といふ「用法」は、「間違ひ」であるが、
②「江戸近世文法」としては、
② もし花咲け(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
といふ「用法」は、「間違ひ」ではない。
然るに、
(43)
『週刊文春』(3月30日号)ではジャーナリストの池上彰さんが、文法の間違いがあるとの指摘も紹介しておくと断った上で、「もしも国家に危機があるとするならば」の意では〈「あり」の未然形+ば〉の「あらば」が当時の文法では正しく、「一旦緩急あれば」では「危機は必ず来るから、そのときには」の意になってしまい、誤用である-と書いていた。
(2017.6.28 10:01【国語逍遥】)
然るに、
(44)
「当時の文法」といふのは、「(教育勅語が書かれた)明治時代の文法」であって、「平安時代の文法」では有り得ない。
従って、
(42)(43)(44)により、
(45)
「あれ(已然形)ば」ではなく、「あら(未然形)ば」だけが「明治時代の文法」では「正しい」。
とする「主張(ジャーナリストの池上彰さん)」は、「正しくない」。
然るに、
(46)
反論したのが大阪大名誉教授の加地伸行さんである。
月刊誌『WiLL』(6月号)で、まこと懇切丁寧に「あれば」の正当性を主張した。
全文を引けないのは残念だが、概略を以下に示したい。
古文の立場からは、助詞「ば」には3種のつながり方がある。
(1)「あらば」(未然形+ば)は「もし~であるならば」(仮定)を表す。
(2)「あれば」(已然(いぜん)形+ば)は「~ので」(理由)や「~したところ」(契機)を表す。
(3)「あれば」(已然形+ば)は(2)の意味のほかにも、「或(あ)ることが有ると、いつでもそれに伴って後(あと)のことが起こる」という〈一般条件〉を表す。
「一旦緩急あれば…」も「国民として、危急が起きたときには当然、戦う」の意だから(3)に相当し、文法として正しい。
(2017.6.28 10:01【国語逍遥】)
然るに、
(47)
C 恒常条件(~トイツモ)
(代々木ゼミ方式、土屋古文文法88、1990年、121頁)
従って、
(43)(46)(47)により、
(48)
大阪大名誉教授の加地伸行さんは、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
といふ「条件」を、
② 恒常条件(~トイツモ)
であると、されてゐる。
然るに、
(49)
もう一度、確認すると、
【一朝】③ 事件などがおこることを仮定するときのことば。一旦。
(学研、漢和大辞典、1978年、4頁)
従って、
(49)により、
(50)
② 一旦=もし(仮定するときのことば)
である。
従って、
(50)により、
(51)
② もし緩急あれ(已然形)ば、
である所の、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
の場合は、
②「仮定条件」である。
従って、
(48)(51)により、
(52)
大阪大名誉教授の加地伸行さんは、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
といふ「条件」を、
② 恒常条件(~トイツモ)
であると、されてゐるものの、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
の場合は、
②「仮定条件」である。
cf.
そして、もし危急の事態が生じたら(Webサイト:教育勅語と現代語訳)、
従って、
(52)により、
(53)
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
といふ「条件」を、
② 仮定条件
ではなく、
② 恒常条件(~トイツモ)
であると、された「時点」で、
大阪大名誉教授の加地伸行さんの「主張」は、「正しくない」。
従って、
(45)(53)により、
(54)
ジャーナリストの、池上彰さんの「主張」は、「間違ひ」であって、
大阪大名誉教授の加地伸行さんの「主張」も、「間違ひ」である。
平成29年08月21日、毛利太。
① PならばQである。
② PであってQでない。といふことはない。
③ PでないかQである。
といふ「日本語」は、それぞれ、
① P→Q
② ~(P&~Q)
③ ~P∨Q
といふ風に、「記号化」される。
然るに、次に示す、
(03)~(06)により、
(02)
① P→Q
② ~(P&~Q)
③ ~P∨Q
に於いて、
①=②=③ である。
(03)
1 (1)P→Q A
2 (2)P&~Q A
2 (3)P 2&E
2 (4) ~Q 2&E
12(5)Q 13MPP
12(6)Q&~Q 45&I
1 (7)~(P&~Q) 26RAA
(8)(P→Q)→~(P&~Q) 17CP
(04)
1 (1)~(P&~Q) A
2 (2) P A
3 (3) ~Q A
23 (4) P&~Q 23&I
123(5)~(P&~Q)&(P&~Q) 14&I
12 (6)~~Q 35RAA
12 (7) Q 6DN
1 (8)P→Q 27CP
(9)~(P&~Q)→(P→Q) 18CP
(05)
1 (1)~( P&~Q) A
2 (2)~(~P∨ Q) A
3 (3) ~P A
3 (4) ~P∨Q 3VI
23(5)~(~P∨Q)&(~P∨Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
8 (8) Q A
8 (9) ~P∨Q 8VI
29(ア)~(~P∨Q)&(~P∨Q) 29&I
2 (イ) ~Q 8アRAA
2 (ウ) P&~Q 7イ&I
12(エ)~(P&~Q)&(P&~Q) 1ウ&I
1 (オ)~~(~P∨Q) 2エRAA
1 (カ) (~P∨Q) オDN
(キ)~(P&~Q)→(~P∨Q) 1カCP
(06)
1 (1) ~P∨ Q A
2 (2) P&~Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23(5) ~P& P 34&I
3 (6)~(P&~Q) 25RAA
7 (7) Q A
2 (8) ~Q 2&E
27(9) Q&~Q 78&I
7 (ア)~(P&~Q) 29RAA
1 (イ)~(P&~Q) 1367アVE
(ウ)(~P∨Q)→~(P&~Q) 1イCP
従って、
(01)(02)により、
(07)
① PならばQである。
② PであってQでない。といふことはない。
③ PでないかQである。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(08)
③ Pでないか、Qである。
といふ「命題」は、
③ Pでない。ならば、それだけで、「真(本当)」であり、
③ Qである。ならば、それだけで、「真(本当)」である。
従って、
(08)により、
(09)
③ Pでないか、Qである。
といふ「命題」は、
③ Pでない。ならば、それだけで、「真(本当)」である。
然るに、
(10)
③ Pでない。ならば、それだけで、「真(本当)」である。
といふことは、
③ Pでなくて、Qである。
としても、「真(本当)」であり、
③ Pでなくて、Qでない。
としても、「真(本当)」である。
といふことに、他ならない。
然るに、
(11)
③ Pでなくて、Qである。
としても、「真(本当)」であり、
③ Pでなくて、Qでない。
としても、「真(本当)」である。
といふことは、
③ Pでないならば、Qであるとは、限らない。
といふことをに、他ならない。
従って、
(07)~(11)により、
(12)
①=②=③ である所の、
① PならばQである。
② PであってQでない。といふことはない。
③ PでないかQである。
といふ「命題」が、「真(本当)」である場合には、
③ Pでないならば、Qであるとは、限らない。
従って、
(12)により、
(13)
① PならばQである。
といふ「命題」が、「真(本当)」である場合には、
③ Pでないならば、Qであるとは、限らない。
然るに、
(14)
① 水濁ら(未然形)ば、釣りをせん〔作例〕。
① 悪人のまねとて人を殺さ(未然形)悪人なり〔徒然草〕。
① 月の都の人もうで来(未然形)ば、捕らへさせん〔竹取物語〕。
の場合は、
① 水が濁るとは限らないので、釣りをするとは限らない。
① 人を殺すとは限らないので、悪人であるとは限らない。
① 月の都の人が来るとは限らないので、捕へさせるとは限らない。
従って、
(01)(13)(14)により、
(15)
① 水濁ら(未然形)ば、釣りをせん〔作例〕。
① 悪人のまねとて人を殺さ(未然形)悪人なり〔徒然草〕。
① 月の都の人もうで来(未然形)ば、捕らへさせん〔竹取物語〕。
といふ「古文」は、
① P→Q
① Pなら(未然形)ばQである。
に、相当する。
然るに、
(16)
② Pであって、PならばQである。
といふ「日本語」は、
② P&(P→Q)
といふ「論理式」に、相当する。
然るに、
(17)
1(1) P&(P→Q) A
1(2) P 1&E
(3){P&(P→Q)}→P 12CP
(18)
1(1) P&(P→Q) A
1(2) P 1&E
1(3) P→Q 1&E
1(4) Q 23MPP
(5){P&(P→Q)}→Q 14CP
従って、
(17)(18)により、
(19)
② {P&(P→Q)}ならば、必ず、Pである。
② {P&(P→Q)}ならば、必ず、Qである。
従って、
(16)(19)により、
(20)
② P&(P→Q)
② Pであって、PならばQである。
といふのであれば、
② PであってQである。
然るに、
(21)
* 未然 ―「未だ然らず」、 すなわち、「マダソウナッテイナイ」の意である。
* 已然 ―「未然」の反対で、すなわち、「スデニソウナッテイル」の意である。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、23・24頁)
(22)
平安中古文法では、
順接仮定条件を〈未然形+「ば」〉
順接確定条件を〈已然形+「ば」〉として、明確に使い分けていた。
(古田島洋介・湯城吉信、漢文訓読入門、2011年、80頁)。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
① P→Q
① Pなら(未然形)ばQである。
に対して、
② P&(P→Q)
② Pなれ(已然形)ばQである。
であるに、違ひない。
cf.
未然 連用 終止 連体 已然 命令
なら に なり なる なれ なれ
然るに、
(24)
② 二十七日、風吹き波荒けれ(已然形)ば、舟出さず〔土佐日記〕。
② 二十七日は、風が吹いて波が荒かったので、船出をあきらめた。
といふのは、紀貫之の「経験」である。
(25)
② 瓜食め(已然形)ば、子ども思うほゆ。栗食め(已然形)ば、まして偲はゆ〔万葉集〕。
② 瓜を食べると、自然と子どもことが思はれる。栗を食べると、いっそう恋しく思はれる。
といふのも、山上憶良の、「経験」である。
(26)
② 翁心地あしく、苦しき時も、この子を見れ(已然形)ば、苦しきこともやみぬ〔竹取物語〕。
② 翁は気分が悪く、苦しいときも、この子(かぐや姫)を見ると、苦しいこともおさまりました。
といふのも、竹取の翁の、「経験」である。
従って、
(23)~(26)により、
(27)
② 二十七日、風吹き波荒けれ(已然形)ば、舟出さず〔土佐日記〕。
② 瓜食め(已然形)ば、子ども思うほゆ。栗食め(已然形)ば、まして偲はゆ〔万葉集〕。
② 翁心地あしく、苦しき時も、この子を見れ(已然形)ば、苦しきこともやみぬ〔竹取物語〕。
の場合は、
② 波が荒かったので、船出をあきらめた。
② 瓜を食べたら、自然と子どもことが思はれた。
② この子を見たら、苦しいこともおさまった。
といふ、ことになる。
従って、
(23)(27)により、
(28)
② 二十七日、風吹き波荒けれ(已然形)ば、舟出さず〔土佐日記〕。
② 瓜食め(已然形)ば、子ども思うほゆ。栗食め(已然形)ば、まして偲はゆ〔万葉集〕。
② 翁心地あしく、苦しき時も、この子を見れ(已然形)ば、苦しきこともやみぬ〔竹取物語〕。
といふ「古文」に関しては、
② P&(P→Q)
② Pなれ(已然形)ばQである。
に相当する。
従って、
(15)(28)により、
(29)
① 水濁ら(未然形)ば、釣りをせん〔作例〕。
① 悪人のまねとて人を殺さ(未然形)悪人なり〔徒然草〕。
① 月の都の人もうで来(未然形)ば、捕らへさせん〔竹取物語〕。
といふ「古文」は、
① P→Q
① Pなら(未然形)ばQである。
に、相当し、
② 二十七日、風吹き波荒けれ(已然形)ば、舟出さず〔土佐日記〕。
② 瓜食め(已然形)ば、子ども思うほゆ。栗食め(已然形)ば、まして偲はゆ〔万葉集〕。
② 翁心地あしく、苦しき時も、この子を見れ(已然形)ば、苦しきこともやみぬ〔竹取物語〕。
といふ「古文」に関しては、
② P&(P→Q)
② Pなれ(已然形)ばQである。
に、相当する。
然るに、
(30)
なお、恒常条件、
花咲けば、散る。
は、花が咲クトイツモ、
の意味だが、条件を想定するといふ点で、仮定条件によく似ている。
(代々木ゼミ方式、土屋古文文法88、1990年、121頁)
従って、
(22)(30)により、
(31)
① 花咲か(未然形)ば、散る。
② 花咲け(已然形)ば、散る。
に於いて、
① 花が咲くならば、
② 花が咲クトイツモ、
である。
従って、
(31)により、
(32)
① 花咲か(未然形)ば、
の場合は、
① 花が咲くかどうかは、分らない。
従って、
(31)(32)により、
(33)
① 花が咲くかどうかは、分らない。
といふ風に、「言ひたい」場合は、
② 花咲け(已然形)ば、
とは言はずに、
① 花咲か(未然形)ば、
① もし花咲か(未然形)ば、
といふ風に、言ふことになる。
従って、
(22)(33)により、
(34)
「平安中古文法」では、
順接仮定条件を〈未然形+「ば」〉
順接確定条件を〈已然形+「ば」〉
として、明確に使い分けていた。
といふことから、
① もし花咲か(未然形)ば、
といふ「仮定条件」に対して、
② もし花咲け(已然形)ば、
といふ「仮定条件」は、「平安中古文」では、有り得ない。
従って、
(34)により、
(35)
① もし花咲か(未然形)ば、
① もし緩急あら(未然形)ば、
といふ「古文」に対して、
② もし花咲け(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
といふ「用例」は、平安中古文」では、有り得ない。
然るに、
(36)
【旦】[意味]① あした(朝)
(角川新字源、1968年、459頁)
然るに、
(37)
【一朝】③ 事件などがおこることを仮定するときのことば。いったん。
(学研、漢和大辞典、1978年、4頁)
従って、
(36)(37)により、
(38)
【一旦】=仮定するときのことば(もし・IF)
である。
従って、
(38)により、
(39)
② 一旦、緩急あれ(已然形)ば、
といふ「それ」は、
② もし、緩急あれ(已然形)ば、
といふ、「意味」になる。
従って、
(35)(39)により、
(40)
① もし花咲か(未然形)ば、
① もし緩急あら(未然形)ば、
① 一旦緩急あれ(未然形)ば、
といふ「古文」に対して、
② もし花咲け(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
といふ「古文」は、有り得ない。
然るに、
(41)
平安中古文法では、順接仮定条件を〈未然形+「ば」〉順接確定条件を、〈已然形+「ば」〉として、明確に使い分けていた。けれども、江戸近世文法では、〈已然形+「ば」〉が、現代口語文法の〈仮定形+「ば」〉に大きく接近し、順接仮定条件をも表すようになった。現行の訓読は、直接には近世後期の訓読を引き継いでいるため、順接仮定条件・順接確定条件のいずれをも〈已然形+「ば」〉で表すことが許容される。
(古田島洋介・湯城吉信、漢文訓読入門、2011年、80頁)
従って、
(40)(41)により、
(42)
①「平安中古文法」としては、
② もし花咲け(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
といふ「用法」は、「間違ひ」であるが、
②「江戸近世文法」としては、
② もし花咲け(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
といふ「用法」は、「間違ひ」ではない。
然るに、
(43)
『週刊文春』(3月30日号)ではジャーナリストの池上彰さんが、文法の間違いがあるとの指摘も紹介しておくと断った上で、「もしも国家に危機があるとするならば」の意では〈「あり」の未然形+ば〉の「あらば」が当時の文法では正しく、「一旦緩急あれば」では「危機は必ず来るから、そのときには」の意になってしまい、誤用である-と書いていた。
(2017.6.28 10:01【国語逍遥】)
然るに、
(44)
「当時の文法」といふのは、「(教育勅語が書かれた)明治時代の文法」であって、「平安時代の文法」では有り得ない。
従って、
(42)(43)(44)により、
(45)
「あれ(已然形)ば」ではなく、「あら(未然形)ば」だけが「明治時代の文法」では「正しい」。
とする「主張(ジャーナリストの池上彰さん)」は、「正しくない」。
然るに、
(46)
反論したのが大阪大名誉教授の加地伸行さんである。
月刊誌『WiLL』(6月号)で、まこと懇切丁寧に「あれば」の正当性を主張した。
全文を引けないのは残念だが、概略を以下に示したい。
古文の立場からは、助詞「ば」には3種のつながり方がある。
(1)「あらば」(未然形+ば)は「もし~であるならば」(仮定)を表す。
(2)「あれば」(已然(いぜん)形+ば)は「~ので」(理由)や「~したところ」(契機)を表す。
(3)「あれば」(已然形+ば)は(2)の意味のほかにも、「或(あ)ることが有ると、いつでもそれに伴って後(あと)のことが起こる」という〈一般条件〉を表す。
「一旦緩急あれば…」も「国民として、危急が起きたときには当然、戦う」の意だから(3)に相当し、文法として正しい。
(2017.6.28 10:01【国語逍遥】)
然るに、
(47)
C 恒常条件(~トイツモ)
(代々木ゼミ方式、土屋古文文法88、1990年、121頁)
従って、
(43)(46)(47)により、
(48)
大阪大名誉教授の加地伸行さんは、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
といふ「条件」を、
② 恒常条件(~トイツモ)
であると、されてゐる。
然るに、
(49)
もう一度、確認すると、
【一朝】③ 事件などがおこることを仮定するときのことば。一旦。
(学研、漢和大辞典、1978年、4頁)
従って、
(49)により、
(50)
② 一旦=もし(仮定するときのことば)
である。
従って、
(50)により、
(51)
② もし緩急あれ(已然形)ば、
である所の、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
の場合は、
②「仮定条件」である。
従って、
(48)(51)により、
(52)
大阪大名誉教授の加地伸行さんは、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
といふ「条件」を、
② 恒常条件(~トイツモ)
であると、されてゐるものの、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
の場合は、
②「仮定条件」である。
cf.
そして、もし危急の事態が生じたら(Webサイト:教育勅語と現代語訳)、
従って、
(52)により、
(53)
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
② もし緩急あれ(已然形)ば、
といふ「条件」を、
② 仮定条件
ではなく、
② 恒常条件(~トイツモ)
であると、された「時点」で、
大阪大名誉教授の加地伸行さんの「主張」は、「正しくない」。
従って、
(45)(53)により、
(54)
ジャーナリストの、池上彰さんの「主張」は、「間違ひ」であって、
大阪大名誉教授の加地伸行さんの「主張」も、「間違ひ」である。
平成29年08月21日、毛利太。
2017年8月16日水曜日
一般論(と已然形)、仮言命題(と未然形)。
(01)
1 (1) P→Q A
2(2) P A
12(3) Q 12MPP
12(4) P&Q 23&I
1 (5) P→(P&Q) 24CP
(6)(P→Q)→{P→(P&Q)}15CP
(02)
1 (1) P→(P&Q) A
2(2) P A
12(3) P&Q 12MPP
12(4) Q 3&E
1 (5) P→Q 24CP
(6){P→(P&Q)}→(P→Q)15CP
従って、
(01)(02)により、
(03)
① Pであると仮定するならば、Qである(P→Q)。
といふ「仮言命題」は、
① Pであると仮定するならば、Pであって、Qである{P→(P&Q)}。
といふ、「意味」である。
従って、
(04)
① Pなら(未然形)ばQである。
といふ「仮言命題」自体は、
① Pである。
① Qである。
とは、「言ってゐない」し、
① Pでない。
① Qでない。
とも、「言ってゐない」。
然るに、
(05)
② Pなれ(已然形)ばQである。
といふ「古文」は、
② PなのでQである。
といふ「意味」である。
然るに、
(06)
② PなのでQである。
といふのであれば、
② Pである。
② Qである。
と、「言ってゐる」。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① Pなら(未然形)ばQである。
② Pなれ(已然形)ばQである。
に於いて、
① は、「仮言命題」であるが、
② は、「仮言命題」ではない。
然るに、
(08)
① Pなら(未然形)ばQである。
② Pなれ(已然形)ばQである。
に於ける、
① Pなら(未然形)ば、
② Pなれ(已然形)ば、
に於いて、
① を、「仮定条件」と言ひ、
② を、「確定条件」と言ふ。
然るに、
(09)
① Pなら(未然形)ばQである。
に於いて、
① Pなら(未然形)ば、
を、「前件(前提)」と言ひ、
② Qである。
を、「後件(結論)」と言ふ。
従って、
(08)(09)により、
(10)
①「仮定条件」とは、
①「 論理学 」でいふ、
①「前件・前提」に、他ならない。
然るに、
(11)
「古文・漢文」に於ける、
①「仮定条件」
に関しては、
① Pなら(未然形)ばQである。
といふ「用法」しか無い。
すなはち、
(12)
① 虎求百獣而食之得狐。狐曰、子無敢食我也。天帝使我長百獣。今子食我、是逆天帝命也(戦国策)。
① 虎、百獣を求めて之を食らひ、狐を得たり。狐曰く、子敢へて我を食らふこと無かれ。天帝、我をして百獣に長たらしむ。今、子、我を食らはば、是れ天帝の命に逆らふなり。
等が、さうであるやうに、
① 我を食らは(未然形)ば、是れ天帝の命に逆らふなり。
のやうな、
① Pなら(未然形)ばQである。
といふ「用法」しか無い。
然るに、
(13)
【ば】(接続助詞)
① 未然形に付き、順接の仮定条件を示す。
② 已然形に付き、順接の確定条件を示す。そして次の三つ用法がある。
(1)原因・理由を示す。
いと幼ければ、籠に入れて養ふ(竹取物語)。
(2)偶然条件を示す。
柿食へば鐘がなるなり法隆寺(正岡子規)。
(3)恒常条件を示す。
水清ければ、魚住まず(ことわざ)。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、167頁改)
従って、
(12)(13)により、
(14)
① Pなら(未然形)ばQである。
の場合が、
(1)「仮定条件」を示す。
といふ「一通り」しかないのに対して、
② Pなれ(已然形)ばQである。
の場合は、
(1)「原因・理由」を示す。
(2)「 偶然条件 」を示す。
(3)「 恒常条件 」を示す。
といふ「三通り」の「用法」がある。
然るに、
(15)
* 未然 ―「未だ然らず」、 すなわち、「マダソウナッテイナイ」の意である。
* 已然 ―「未然」の反対で、すなわち、「スデニソウナッテイル」の意である。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、23・24頁)
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
(1)いと幼けれは(原因)、籠に入れて養ふ(結果)。
(2)柿食へば(その直後に、)鐘がなるなり法隆寺。
(3)(これまでの例からすれば、)水清ければ、魚住まず。
といふ風に、解することが、出来る。
然るに、
(17)
(3)(これまでの例からすれば、)水清ければ、魚住まず。
といふのであれば、
② 水清けれ(已然形)ば、魚住まず。
といふ「言ひ方」は、「一般論」である。
然るに、
(18)
貧すれば鈍す
読み方:ひんすればどんす
別表記:貧すれば鈍する
貧しいと、生活苦に煩わされることが多くなり、才気や高潔さが失われてしまうものである。瀕すれば鈍する。
(日本語表現辞典 Weblio辞書)
cf.
「鈍する(サ変・連体形)」であるため、「古典文法」としては、「鈍す(サ変・終止形)」が、「正しい」。
従って、
(18)により、
(19)
② 水清けれ(已然形)ば、魚住まず。
③ 貧すれ(已然形)ば、鈍す。
といふ「ことわざ」は、「一般論」である。
然るに、
(20)
① 水にごら(未然形)ば、釣りをせん。
① 水が濁るなら(未然形)ば、釣りをしよう。
といふ「それ」は、「 一般論 」ではない所の、「仮言命題」であって、
① 水にごら(未然形)ば、
といふ「それ」は、「確定条件」ではない所の、「仮定条件」である。
従って、
(19)(20)により、
(21)
① 水にごら(未然形)ば、釣りをせん。
② 水清けれ(已然形)ば、魚住まず。
に於いて、
① は、「仮言命題」であって、
② は、「 一般論 」である。
従って、
(10)(20)(21)により、
(22)
① 水にごら(未然形)ば、
② 水清けれ(已然形)ば、
に於いては、
① だけが、「仮定条件」である。
然るに、
(23)
古典語では順接の仮定条件は「行かば(行クナラバ)」のように「未然形+ば(接続助詞)」の形であらわした。後期江戸からは、「已然形+ば」はもっぱら仮定条件の意味を表わすようになった。そうなると、「已然形」はもはや「已然形」ではなくなってしまい、「仮定形」と呼ぶべき意味用法を備えるようになった。ここに古典語の「已然形」が消滅し、現代語の「仮定形」によって取って代わられたことになる(浅川哲也・竹部歩美、歴史的変化から理解する現代日本語文法、2014年、97・149頁)。
従って、
(22)(23)により、
(24)
古典語の「已然形」が消滅し、現代語の「仮定形」によって取って代わられた。が故に、
① 水にごら(未然形)ば、
② 水清けれ(已然形)ば、
は、本来は、さうではないにも拘らず、両方とも、
①「仮定条件+ば」
②「仮定条件+ば」
として、受け止められる、「可能性」がある。
然るに、
(25)
批判は、勅語の中の「一旦(いったん)緩急あれば義勇公に奉じ…」の「あれば」は文法的に誤っているといった方向にまで及んだので、さすがに小欄も取り上げないわけにはいかなくなった(産経ニュース、【国語逍遥】2017.6.28 10:01)。
(24)(25)により、
(26)
古典語の「已然形」が消滅し、現代語の「仮定形」によって取って代わられた。が故に、
① 一旦緩急あら(未然形)ば、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
は、本来は、さうではないにも拘らず、両方とも、
①「仮定条件+ば」
②「仮定条件+ば」
として、受け止められてゐる(ものと、思はれる)。
然るに、
(27)
【旦】[意味]① あした(朝)
(角川新字源、1968年、459頁)
然るに、
(28)
【一朝】③ 事件などがおこることを仮定するときのことば。いったん。
(学研、漢和大辞典、1978年、4頁)
従って、
(27)(28)により、
(29)
一旦=仮定するときのことば(もしも・IF)
である。
従って、
(29)により、
(30)
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
といふ「それ」は、
① もしもPなら(未然形)ば、
ではなく、
② もしもPなれ(已然形)ば、
といふ「それ」に、相当する。
然るに、
(31)
① もしもPならば、
に対して、
② もしもPなれば、
といふ「それ」は、明らかに、「ヲカシイ」。
従って、
(30)(31)により、
(32)
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
といふ「それ」は、「読む人が読ま(め)」ば、「ヲカシイ」。
従って、
(32)により、
(33)
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、
といふ「それ」も、「読む人が読ま(め)」ば、「ヲカシイ」。
然るに、
(34)
③ 行なひて余力有ら(未然形)ば、則ち以て文を学ぶ(論語、三省堂、 1973年)。
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、則ち以て文を学ぶ(論語、岩波書店、1963年)。
従って、
(33)(34)により、
(35)
③ 行なひて余力有ら(未然形)ば、
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、
に於いて、
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、「古典文法」としては、「ヲカシイ」ものの、
実際には、
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、
といふ「それ」も、「通用」する。
然るに、
(36)
高校生が、「古文と漢文」を、「並行して学ぶ」以上、
③ 行なひて余力有ら(未然形)ば、
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、
に於いて、どちらでも良いのであれば、「古典文法」として「正しいそれ」である、
③ 行なひて余力有ら(未然形)ば、
の方を、高校生に対しては、教へるべきである。
加へて、
(37)
③ 行なひ(ハ行四段・連用形)
が、「正しい」のであって、
④ 行ない(ハ行四段・連用形)
は、「間違ひ」である。
従って、
(38)
高校生に対して、ある程度、「古文と漢文」の両方が、読めるようになることを「期待」するのであれば、
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、則ち以て文を学ぶ(論語、岩波書店、1963年)。
といふ「書き下し文」は、
③ 行なひて余力有ら(未然形)ば、則ち以て文を学ぶ(論語、三省堂、 1973年)。
といふ「書き下し文」に、改める、べきである。
平成29年08月16日、毛利太。
1 (1) P→Q A
2(2) P A
12(3) Q 12MPP
12(4) P&Q 23&I
1 (5) P→(P&Q) 24CP
(6)(P→Q)→{P→(P&Q)}15CP
(02)
1 (1) P→(P&Q) A
2(2) P A
12(3) P&Q 12MPP
12(4) Q 3&E
1 (5) P→Q 24CP
(6){P→(P&Q)}→(P→Q)15CP
従って、
(01)(02)により、
(03)
① Pであると仮定するならば、Qである(P→Q)。
といふ「仮言命題」は、
① Pであると仮定するならば、Pであって、Qである{P→(P&Q)}。
といふ、「意味」である。
従って、
(04)
① Pなら(未然形)ばQである。
といふ「仮言命題」自体は、
① Pである。
① Qである。
とは、「言ってゐない」し、
① Pでない。
① Qでない。
とも、「言ってゐない」。
然るに、
(05)
② Pなれ(已然形)ばQである。
といふ「古文」は、
② PなのでQである。
といふ「意味」である。
然るに、
(06)
② PなのでQである。
といふのであれば、
② Pである。
② Qである。
と、「言ってゐる」。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① Pなら(未然形)ばQである。
② Pなれ(已然形)ばQである。
に於いて、
① は、「仮言命題」であるが、
② は、「仮言命題」ではない。
然るに、
(08)
① Pなら(未然形)ばQである。
② Pなれ(已然形)ばQである。
に於ける、
① Pなら(未然形)ば、
② Pなれ(已然形)ば、
に於いて、
① を、「仮定条件」と言ひ、
② を、「確定条件」と言ふ。
然るに、
(09)
① Pなら(未然形)ばQである。
に於いて、
① Pなら(未然形)ば、
を、「前件(前提)」と言ひ、
② Qである。
を、「後件(結論)」と言ふ。
従って、
(08)(09)により、
(10)
①「仮定条件」とは、
①「 論理学 」でいふ、
①「前件・前提」に、他ならない。
然るに、
(11)
「古文・漢文」に於ける、
①「仮定条件」
に関しては、
① Pなら(未然形)ばQである。
といふ「用法」しか無い。
すなはち、
(12)
① 虎求百獣而食之得狐。狐曰、子無敢食我也。天帝使我長百獣。今子食我、是逆天帝命也(戦国策)。
① 虎、百獣を求めて之を食らひ、狐を得たり。狐曰く、子敢へて我を食らふこと無かれ。天帝、我をして百獣に長たらしむ。今、子、我を食らはば、是れ天帝の命に逆らふなり。
等が、さうであるやうに、
① 我を食らは(未然形)ば、是れ天帝の命に逆らふなり。
のやうな、
① Pなら(未然形)ばQである。
といふ「用法」しか無い。
然るに、
(13)
【ば】(接続助詞)
① 未然形に付き、順接の仮定条件を示す。
② 已然形に付き、順接の確定条件を示す。そして次の三つ用法がある。
(1)原因・理由を示す。
いと幼ければ、籠に入れて養ふ(竹取物語)。
(2)偶然条件を示す。
柿食へば鐘がなるなり法隆寺(正岡子規)。
(3)恒常条件を示す。
水清ければ、魚住まず(ことわざ)。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、167頁改)
従って、
(12)(13)により、
(14)
① Pなら(未然形)ばQである。
の場合が、
(1)「仮定条件」を示す。
といふ「一通り」しかないのに対して、
② Pなれ(已然形)ばQである。
の場合は、
(1)「原因・理由」を示す。
(2)「 偶然条件 」を示す。
(3)「 恒常条件 」を示す。
といふ「三通り」の「用法」がある。
然るに、
(15)
* 未然 ―「未だ然らず」、 すなわち、「マダソウナッテイナイ」の意である。
* 已然 ―「未然」の反対で、すなわち、「スデニソウナッテイル」の意である。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、23・24頁)
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
(1)いと幼けれは(原因)、籠に入れて養ふ(結果)。
(2)柿食へば(その直後に、)鐘がなるなり法隆寺。
(3)(これまでの例からすれば、)水清ければ、魚住まず。
といふ風に、解することが、出来る。
然るに、
(17)
(3)(これまでの例からすれば、)水清ければ、魚住まず。
といふのであれば、
② 水清けれ(已然形)ば、魚住まず。
といふ「言ひ方」は、「一般論」である。
然るに、
(18)
貧すれば鈍す
読み方:ひんすればどんす
別表記:貧すれば鈍する
貧しいと、生活苦に煩わされることが多くなり、才気や高潔さが失われてしまうものである。瀕すれば鈍する。
(日本語表現辞典 Weblio辞書)
cf.
「鈍する(サ変・連体形)」であるため、「古典文法」としては、「鈍す(サ変・終止形)」が、「正しい」。
従って、
(18)により、
(19)
② 水清けれ(已然形)ば、魚住まず。
③ 貧すれ(已然形)ば、鈍す。
といふ「ことわざ」は、「一般論」である。
然るに、
(20)
① 水にごら(未然形)ば、釣りをせん。
① 水が濁るなら(未然形)ば、釣りをしよう。
といふ「それ」は、「 一般論 」ではない所の、「仮言命題」であって、
① 水にごら(未然形)ば、
といふ「それ」は、「確定条件」ではない所の、「仮定条件」である。
従って、
(19)(20)により、
(21)
① 水にごら(未然形)ば、釣りをせん。
② 水清けれ(已然形)ば、魚住まず。
に於いて、
① は、「仮言命題」であって、
② は、「 一般論 」である。
従って、
(10)(20)(21)により、
(22)
① 水にごら(未然形)ば、
② 水清けれ(已然形)ば、
に於いては、
① だけが、「仮定条件」である。
然るに、
(23)
古典語では順接の仮定条件は「行かば(行クナラバ)」のように「未然形+ば(接続助詞)」の形であらわした。後期江戸からは、「已然形+ば」はもっぱら仮定条件の意味を表わすようになった。そうなると、「已然形」はもはや「已然形」ではなくなってしまい、「仮定形」と呼ぶべき意味用法を備えるようになった。ここに古典語の「已然形」が消滅し、現代語の「仮定形」によって取って代わられたことになる(浅川哲也・竹部歩美、歴史的変化から理解する現代日本語文法、2014年、97・149頁)。
従って、
(22)(23)により、
(24)
古典語の「已然形」が消滅し、現代語の「仮定形」によって取って代わられた。が故に、
① 水にごら(未然形)ば、
② 水清けれ(已然形)ば、
は、本来は、さうではないにも拘らず、両方とも、
①「仮定条件+ば」
②「仮定条件+ば」
として、受け止められる、「可能性」がある。
然るに、
(25)
批判は、勅語の中の「一旦(いったん)緩急あれば義勇公に奉じ…」の「あれば」は文法的に誤っているといった方向にまで及んだので、さすがに小欄も取り上げないわけにはいかなくなった(産経ニュース、【国語逍遥】2017.6.28 10:01)。
(24)(25)により、
(26)
古典語の「已然形」が消滅し、現代語の「仮定形」によって取って代わられた。が故に、
① 一旦緩急あら(未然形)ば、
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
は、本来は、さうではないにも拘らず、両方とも、
①「仮定条件+ば」
②「仮定条件+ば」
として、受け止められてゐる(ものと、思はれる)。
然るに、
(27)
【旦】[意味]① あした(朝)
(角川新字源、1968年、459頁)
然るに、
(28)
【一朝】③ 事件などがおこることを仮定するときのことば。いったん。
(学研、漢和大辞典、1978年、4頁)
従って、
(27)(28)により、
(29)
一旦=仮定するときのことば(もしも・IF)
である。
従って、
(29)により、
(30)
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
といふ「それ」は、
① もしもPなら(未然形)ば、
ではなく、
② もしもPなれ(已然形)ば、
といふ「それ」に、相当する。
然るに、
(31)
① もしもPならば、
に対して、
② もしもPなれば、
といふ「それ」は、明らかに、「ヲカシイ」。
従って、
(30)(31)により、
(32)
② 一旦緩急あれ(已然形)ば、
といふ「それ」は、「読む人が読ま(め)」ば、「ヲカシイ」。
従って、
(32)により、
(33)
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、
といふ「それ」も、「読む人が読ま(め)」ば、「ヲカシイ」。
然るに、
(34)
③ 行なひて余力有ら(未然形)ば、則ち以て文を学ぶ(論語、三省堂、 1973年)。
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、則ち以て文を学ぶ(論語、岩波書店、1963年)。
従って、
(33)(34)により、
(35)
③ 行なひて余力有ら(未然形)ば、
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、
に於いて、
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、「古典文法」としては、「ヲカシイ」ものの、
実際には、
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、
といふ「それ」も、「通用」する。
然るに、
(36)
高校生が、「古文と漢文」を、「並行して学ぶ」以上、
③ 行なひて余力有ら(未然形)ば、
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、
に於いて、どちらでも良いのであれば、「古典文法」として「正しいそれ」である、
③ 行なひて余力有ら(未然形)ば、
の方を、高校生に対しては、教へるべきである。
加へて、
(37)
③ 行なひ(ハ行四段・連用形)
が、「正しい」のであって、
④ 行ない(ハ行四段・連用形)
は、「間違ひ」である。
従って、
(38)
高校生に対して、ある程度、「古文と漢文」の両方が、読めるようになることを「期待」するのであれば、
④ 行ないて余力あれ(已然形)ば、則ち以て文を学ぶ(論語、岩波書店、1963年)。
といふ「書き下し文」は、
③ 行なひて余力有ら(未然形)ば、則ち以て文を学ぶ(論語、三省堂、 1973年)。
といふ「書き下し文」に、改める、べきである。
平成29年08月16日、毛利太。
2017年4月11日火曜日
「こと(that)」による「名詞化」。
(01)
① 我、かの女の間者なるを知れり(古文)。
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(02)
① 我、かの女のスパイなるを知れり。
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
に於いて、
① には、「こと」といふ語がなく、
② には、「こと」といふ語がある。
然るに、
(03)
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
に於いて、
②「こと」
といふ「語」は、「それが名詞」である。
といふ事以外に、「具体的な意味」を、持ってゐない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
② 彼女はスパイである。
といふ「文」を「名詞化」した「結果」が、
② 彼女がスパイであること。
であって、尚且つ、「こと」は、少なくとも、「古文」であれば、「省略」できる。
(05)
③ I am aware she is a spy.
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(06)
③ I am aware she is a spy.
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
③ には、「that」といふ語がなく、
④ には、「that」といふ語がある。
然るに、
(07)
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
④「that」
といふ「単語」は、「具体的な意味」を、持ってゐない。
従って、
(07)により、
(08)
④ She is a spy.
といふ「文」を「名詞化」した「結果」が、
④ that she is a spy.
であって、尚且つ、「that」は、「省略できる」といふ風に、捉へることが出来る。
従って、
(04)(08)により、
(09)
① 我、かの女のスパイなるを知れり。
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
③ I am aware she is a spy.
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
②「こと」は、
④「that」に「等しい」。
然るに、
(10)
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
⑤ 私は、彼女はスパイである。といふことを知ってゐる。
に於いて、
②「こと」は、
⑤「といふこと」に「等しい」。
従って、
(09)(10)により、
(11)
④ I am aware that she is a spy.
⑤ 私は、彼女はスパイである。といふことを知ってゐる。
に於いて、
④「that」は、
⑤「といふこと」に「等しい」。
平成29年04月11日、毛利太。
① 我、かの女の間者なるを知れり(古文)。
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(02)
① 我、かの女のスパイなるを知れり。
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
に於いて、
① には、「こと」といふ語がなく、
② には、「こと」といふ語がある。
然るに、
(03)
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
に於いて、
②「こと」
といふ「語」は、「それが名詞」である。
といふ事以外に、「具体的な意味」を、持ってゐない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
② 彼女はスパイである。
といふ「文」を「名詞化」した「結果」が、
② 彼女がスパイであること。
であって、尚且つ、「こと」は、少なくとも、「古文」であれば、「省略」できる。
(05)
③ I am aware she is a spy.
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(06)
③ I am aware she is a spy.
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
③ には、「that」といふ語がなく、
④ には、「that」といふ語がある。
然るに、
(07)
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
④「that」
といふ「単語」は、「具体的な意味」を、持ってゐない。
従って、
(07)により、
(08)
④ She is a spy.
といふ「文」を「名詞化」した「結果」が、
④ that she is a spy.
であって、尚且つ、「that」は、「省略できる」といふ風に、捉へることが出来る。
従って、
(04)(08)により、
(09)
① 我、かの女のスパイなるを知れり。
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
③ I am aware she is a spy.
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
②「こと」は、
④「that」に「等しい」。
然るに、
(10)
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
⑤ 私は、彼女はスパイである。といふことを知ってゐる。
に於いて、
②「こと」は、
⑤「といふこと」に「等しい」。
従って、
(09)(10)により、
(11)
④ I am aware that she is a spy.
⑤ 私は、彼女はスパイである。といふことを知ってゐる。
に於いて、
④「that」は、
⑤「といふこと」に「等しい」。
平成29年04月11日、毛利太。
2017年4月8日土曜日
あらなく・・・と=~( )
(01)
子曰、 「巧言令色、鮮矣。」
子曰く、「巧言令色、鮮いかな仁。」と。
先生が言われた、「ことばじょうずで、顔つきがよくして、人の気に入るようにする人間は、ほとんどないものだな、仁の徳は。」
(三省堂、明解古典学習シリーズ16、1973年、5頁)
然るに、
(02)
ク語法
動詞の未然形に、準体助詞の「く」がついて、「・・・こと、・・・ところ」など名詞化した意味を表す語法。
(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、199頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
子曰く、「巧言令色、鮮いかな仁。」と。
であれば、
先生が言ふこと、「巧言令色、鮮いかな仁。」と。
である。
然るに、
(04)
・「と」・・・最も多いのは、いわゆる引用の「と」で、「曰(いは)ク」「云(い)フ」「聞(き)く」「以為(おも)ヘラク」「聞説(きくなら)ク」などよって導かれた引用文の終結を表します。
(古田島洋介、これならわかる漢文の送り仮名、96頁)
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① 曰く AはBなりと。
② 以為くAはBなりと。
③ 聞説くAはBなりと。
であれば、
① 言ふこと=AはBなり。
② 思ふこと=AはBなり。
③ 聞くこと=AはBなり。
である。
然るに、
(06)
あら‐な-く-に【有らなくに】① ないことだなあ。
[品詞分解]動詞ラ変「あり」の未然形「あら」+打消の助動詞「ず」の古い形の未然形「な」+接尾語「く」+助詞「に」。
なくに ②(終助詞的に用いられる場合)・・・ないことだなあ。
《参考》「に」は格助詞・接続助詞・終助詞、また、断定の助動詞「なり」の連用形などとする諸説がある。
(三省堂、全訳読解古語辞典、65・885頁)
従って、
(06)により、
(07)
④ あらなく
を、「ク語法」とすることは、可能であり、それ故、
④ あらなくAはBなりと。
であれば、
④ あらざること=AはBなり。
である。
然るに、
(08)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
④ ~(AはBなり)。
といふ「それ」は、
④ あらなくAはBなりと。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(10)
④ ~(AはBなり)。
と書いて、
④ あらなくAはBなりと。
と読むのは、「恐らク」は、私だけである。ものの、
因みに、「恐らク」といふ語は、「曰ク、以為へらク、聞説ならク」等と同じく、本来は、「ク語法」である。
(11)
⑤ AはBである。といふことはない。
といふ「それ」は、
⑤ AはBである。
といふ「表述(statement)」の「否定」である。
従って、
(08)(09)(11)により、
(12)
④ あらなくAはBなりと。
⑤ AはBである。といふことはない。
に於いて、
④=⑤ である。
然るに、
(13)
④ あらなくAはBなりと。
といふ「語順」は、
④ ~(AはBなり)。
といふ「それ」に、対応し、
⑤ AはBである。といふことはない。
といふ「語順」は、
(AはBなり)~。
といふ「それ」に、対応する。
従って、
(12)(13)により、
(14)
④ 任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
としても、
⑤ 任意の表述の否定は、その表述を’( )~’という空所にいれて書くことにしよう。
としても、要するに、「どちらでも、良い」。
従って、
(15)
④ ~( ).
⑤ ( )~。
に於いて、
④ は、「論理的に、正しい語順」であり、
⑤ は、「論理的に、正しい語順」ではない。
といふことには、ならない。
平成29年04月08日、毛利太。
子曰、 「巧言令色、鮮矣。」
子曰く、「巧言令色、鮮いかな仁。」と。
先生が言われた、「ことばじょうずで、顔つきがよくして、人の気に入るようにする人間は、ほとんどないものだな、仁の徳は。」
(三省堂、明解古典学習シリーズ16、1973年、5頁)
然るに、
(02)
ク語法
動詞の未然形に、準体助詞の「く」がついて、「・・・こと、・・・ところ」など名詞化した意味を表す語法。
(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、199頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
子曰く、「巧言令色、鮮いかな仁。」と。
であれば、
先生が言ふこと、「巧言令色、鮮いかな仁。」と。
である。
然るに、
(04)
・「と」・・・最も多いのは、いわゆる引用の「と」で、「曰(いは)ク」「云(い)フ」「聞(き)く」「以為(おも)ヘラク」「聞説(きくなら)ク」などよって導かれた引用文の終結を表します。
(古田島洋介、これならわかる漢文の送り仮名、96頁)
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① 曰く AはBなりと。
② 以為くAはBなりと。
③ 聞説くAはBなりと。
であれば、
① 言ふこと=AはBなり。
② 思ふこと=AはBなり。
③ 聞くこと=AはBなり。
である。
然るに、
(06)
あら‐な-く-に【有らなくに】① ないことだなあ。
[品詞分解]動詞ラ変「あり」の未然形「あら」+打消の助動詞「ず」の古い形の未然形「な」+接尾語「く」+助詞「に」。
なくに ②(終助詞的に用いられる場合)・・・ないことだなあ。
《参考》「に」は格助詞・接続助詞・終助詞、また、断定の助動詞「なり」の連用形などとする諸説がある。
(三省堂、全訳読解古語辞典、65・885頁)
従って、
(06)により、
(07)
④ あらなく
を、「ク語法」とすることは、可能であり、それ故、
④ あらなくAはBなりと。
であれば、
④ あらざること=AはBなり。
である。
然るに、
(08)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
④ ~(AはBなり)。
といふ「それ」は、
④ あらなくAはBなりと。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(10)
④ ~(AはBなり)。
と書いて、
④ あらなくAはBなりと。
と読むのは、「恐らク」は、私だけである。ものの、
因みに、「恐らク」といふ語は、「曰ク、以為へらク、聞説ならク」等と同じく、本来は、「ク語法」である。
(11)
⑤ AはBである。といふことはない。
といふ「それ」は、
⑤ AはBである。
といふ「表述(statement)」の「否定」である。
従って、
(08)(09)(11)により、
(12)
④ あらなくAはBなりと。
⑤ AはBである。といふことはない。
に於いて、
④=⑤ である。
然るに、
(13)
④ あらなくAはBなりと。
といふ「語順」は、
④ ~(AはBなり)。
といふ「それ」に、対応し、
⑤ AはBである。といふことはない。
といふ「語順」は、
(AはBなり)~。
といふ「それ」に、対応する。
従って、
(12)(13)により、
(14)
④ 任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
としても、
⑤ 任意の表述の否定は、その表述を’( )~’という空所にいれて書くことにしよう。
としても、要するに、「どちらでも、良い」。
従って、
(15)
④ ~( ).
⑤ ( )~。
に於いて、
④ は、「論理的に、正しい語順」であり、
⑤ は、「論理的に、正しい語順」ではない。
といふことには、ならない。
平成29年04月08日、毛利太。
2017年4月5日水曜日
( )=that=といふこと。
(01)
「活用」の無い「自立語」で「主語」になる語を「体言」といひ、「体言」とは、所謂、「名詞」である。
従って、
(02)
「名詞」以外は、原則として、「主語」になれない。
然るに、
(03)
行か 行き 行く。行く 行け 行け。
未然 連用 終止。連体 仮定 命令。
である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
「行く」のやうな、「活用する語」である「動詞」は、「主語」にはなれない。
然るに、
(05)
① 君の行く(連体)道
② 君が行く(連体)道
に於いて、
① 道 は、「体言」であり、
② 道 は、「体言」である。
従って、
(01)(05)により、
(06)
① 君の(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
② 君が(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
に於いて、
① 君の行く道 は、「主語」であって、
② 君が行く道 は、「主語」である。
然るに、
(07)
① 君の行く は、「道」を「修飾する所の、連体修飾語」であって、
② 君が行く は、「道」を「修飾する所の、連体修飾語」である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 君の は、「連体修飾語の、主語」であって、
② 君が は、「連体修飾語の、主語」である。
然るに、
(09)
① 君の道=Your way.
② 君が道=Your way.
③ 君は道=You are way.
に於いて、
① の は、「格助詞」であって、
② が も、「格助詞」であって、
③ は は、「係助詞」である。
然るに、
(10)
① 君の(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
② 君が(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
③ 君は(係助詞)行く道は、果てしなく遠い。
に於いて、
① は、「日本語」であって、
② も、「日本語」であって、
③ は、「日本語」ではない。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
② 君が は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来、
③ 君は は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来ない。
従って、
(12)
② Aが は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来、
③ Aは は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来ない。
従って、
(13)
② 地球が太陽の周りをまわってゐること。
③ 地球は太陽の周りをまわってゐること。
に於いて、
② は、「日本語」であって、
③ は、「日本語」ではない。
従って、
(13)により、
(14)
② 地球が太陽の周りをまわってゐることはない。
③ 地球は太陽の周りをまわってゐることはない。
に於いて、
② は、「日本語」であって、
③ は、「日本語」ではない。
然るに、
(15)
と[格助][並立語]
2.会話・心中思惟・思想・手紙文・詩句などの引用を表す。・・・と言って。・・・などと。
(三省堂、全訳読解古語辞典、1995年、834頁)
従って、
(15)により、
(16)
「・・・・・」といふこと。
に於いて、
「・・・・・」は「引用」である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
② 地球が太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
③ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
に於いて、
② は、「日本語」であって、
③ も、「日本語」である。
従って、
(18)
① ・・・・・。といふことはない。
といふ「日本語」は、
①「任意の命題」の、「否定」である。
従って、
(18)により、
(19)
③ 地球は太陽の周りをまわってゐる。
といふ「命題」の「否定」は、
④ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
であって、
④ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
といふ「命題」の「否定」は、
③ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。といふことはない。
である。
然るに、
(20)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(19)(20)により、
(21)
③ P =地球は太陽の周りをまわってゐる。
④ ~(P) =地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
③ ~(~(P))=地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。といふことはない。
である。
然るに、
(22)
例へば、
① It is not true that the earth goes around the sun.
といふ「英語」は、
① The earth goes around the sun.
といふ「命題」の「否定」であって、
① It is not true that the earth doesn't go around the sun.
といふ「英語」は、
① The earth doesn't go around the sun.
といふ「命題」の「否定」である。
従って、
(17)(20)(22)により、
(23)
① ~(・ ・ ・ ・ ・).
① ・ ・ ・ ・ 。といふことはない。
① It is not true that ・ ・ ・ ・ ・.
は、それぞれが、「任意の命題の、否定」である。
従って、
(23)により、
(24)
① ~( )
① といふことはない
① It is not true that
であって、
① ~
① はない
① It is not true
である。
従って、
(24)により、
(25)
① ( )
① といふこと
① that
である。
従って、
(25)により、
(26)
① ( )=といふこと=that
である。
平成29年04月05日、毛利太。
「活用」の無い「自立語」で「主語」になる語を「体言」といひ、「体言」とは、所謂、「名詞」である。
従って、
(02)
「名詞」以外は、原則として、「主語」になれない。
然るに、
(03)
行か 行き 行く。行く 行け 行け。
未然 連用 終止。連体 仮定 命令。
である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
「行く」のやうな、「活用する語」である「動詞」は、「主語」にはなれない。
然るに、
(05)
① 君の行く(連体)道
② 君が行く(連体)道
に於いて、
① 道 は、「体言」であり、
② 道 は、「体言」である。
従って、
(01)(05)により、
(06)
① 君の(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
② 君が(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
に於いて、
① 君の行く道 は、「主語」であって、
② 君が行く道 は、「主語」である。
然るに、
(07)
① 君の行く は、「道」を「修飾する所の、連体修飾語」であって、
② 君が行く は、「道」を「修飾する所の、連体修飾語」である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 君の は、「連体修飾語の、主語」であって、
② 君が は、「連体修飾語の、主語」である。
然るに、
(09)
① 君の道=Your way.
② 君が道=Your way.
③ 君は道=You are way.
に於いて、
① の は、「格助詞」であって、
② が も、「格助詞」であって、
③ は は、「係助詞」である。
然るに、
(10)
① 君の(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
② 君が(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
③ 君は(係助詞)行く道は、果てしなく遠い。
に於いて、
① は、「日本語」であって、
② も、「日本語」であって、
③ は、「日本語」ではない。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
② 君が は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来、
③ 君は は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来ない。
従って、
(12)
② Aが は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来、
③ Aは は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来ない。
従って、
(13)
② 地球が太陽の周りをまわってゐること。
③ 地球は太陽の周りをまわってゐること。
に於いて、
② は、「日本語」であって、
③ は、「日本語」ではない。
従って、
(13)により、
(14)
② 地球が太陽の周りをまわってゐることはない。
③ 地球は太陽の周りをまわってゐることはない。
に於いて、
② は、「日本語」であって、
③ は、「日本語」ではない。
然るに、
(15)
と[格助][並立語]
2.会話・心中思惟・思想・手紙文・詩句などの引用を表す。・・・と言って。・・・などと。
(三省堂、全訳読解古語辞典、1995年、834頁)
従って、
(15)により、
(16)
「・・・・・」といふこと。
に於いて、
「・・・・・」は「引用」である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
② 地球が太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
③ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
に於いて、
② は、「日本語」であって、
③ も、「日本語」である。
従って、
(18)
① ・・・・・。といふことはない。
といふ「日本語」は、
①「任意の命題」の、「否定」である。
従って、
(18)により、
(19)
③ 地球は太陽の周りをまわってゐる。
といふ「命題」の「否定」は、
④ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
であって、
④ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
といふ「命題」の「否定」は、
③ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。といふことはない。
である。
然るに、
(20)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(19)(20)により、
(21)
③ P =地球は太陽の周りをまわってゐる。
④ ~(P) =地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
③ ~(~(P))=地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。といふことはない。
である。
然るに、
(22)
例へば、
① It is not true that the earth goes around the sun.
といふ「英語」は、
① The earth goes around the sun.
といふ「命題」の「否定」であって、
① It is not true that the earth doesn't go around the sun.
といふ「英語」は、
① The earth doesn't go around the sun.
といふ「命題」の「否定」である。
従って、
(17)(20)(22)により、
(23)
① ~(・ ・ ・ ・ ・).
① ・ ・ ・ ・ 。といふことはない。
① It is not true that ・ ・ ・ ・ ・.
は、それぞれが、「任意の命題の、否定」である。
従って、
(23)により、
(24)
① ~( )
① といふことはない
① It is not true that
であって、
① ~
① はない
① It is not true
である。
従って、
(24)により、
(25)
① ( )
① といふこと
① that
である。
従って、
(25)により、
(26)
① ( )=といふこと=that
である。
平成29年04月05日、毛利太。
2017年4月2日日曜日
「英文」には「三重否定」が無い?
(01)
① 然而不王者未之有。
① 然り而うして、王たらざる者、未だ之れ有らず。
① このやうであってしかも王にならなかった者は、今までにゐない(孟子、告上)。
従って、
(01)により、
(02)
② 不王者。
② 王たらざる者。
② 王にならない者。
従って、
(03)
③ 無不王者。
③ 王たらざる者無し。
③ 王にならない者はゐない。
然るに、
(04)
③ No person who doesn't become a king.
の「グーグル翻訳」は、
③ 王にならない人はいない。
然るに、
(05)
【非】[意味]① ・・・にあらず ・・・ではない。・・・ということではない。◇ 後にくる名詞や、事由をあらわすクローズを打ち消すことば。
(学研、漢和大辞典、1978年、1457頁改)
従って、
(03)(05)により、
(06)
③ 無不王者。
③ No person who doesn't become a king.
の「否定」は、
④ 非無不王者=
④ 非[無〔不(王)者〕]⇒
④ [〔(王)不者〕無]非=
④ [〔(王たら)不る者〕無きに]非ず=
④ 王にならない者はゐないのではない。
然るに、
(07)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
④ 非(無不王者)=(王にならない者はゐない)のではない。
⑤ ~(No person who doesn't become a king).
⑥ Not(No person who doesn't become a king).
に於いて、
④=⑤=⑥
である。
然るに、
(09)
⑥ Not no person who doesn't become a king.
⑥ Not{no[person who doesn't〔become(a king)〕]}.
といふ「三重否定」は、「英語」には無い。
然るに、
(10)
明治以前の日本人は、漢文を読むことで論理的な考えを身につけました。漢文は論理的な構文をたくさん含んでいるからです。
(山下正男、論理的に考えること、1985年、ⅲ)
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
「漢文は、論理的な構文をたくさん含んでいる。」のに対して、
「英文は、漢文のやうには、論理的な構文を、持ってはゐない。」といふ風に、言へさうである。
平成29年04月02日、毛利太。
① 然而不王者未之有。
① 然り而うして、王たらざる者、未だ之れ有らず。
① このやうであってしかも王にならなかった者は、今までにゐない(孟子、告上)。
従って、
(01)により、
(02)
② 不王者。
② 王たらざる者。
② 王にならない者。
従って、
(03)
③ 無不王者。
③ 王たらざる者無し。
③ 王にならない者はゐない。
然るに、
(04)
③ No person who doesn't become a king.
の「グーグル翻訳」は、
③ 王にならない人はいない。
然るに、
(05)
【非】[意味]① ・・・にあらず ・・・ではない。・・・ということではない。◇ 後にくる名詞や、事由をあらわすクローズを打ち消すことば。
(学研、漢和大辞典、1978年、1457頁改)
従って、
(03)(05)により、
(06)
③ 無不王者。
③ No person who doesn't become a king.
の「否定」は、
④ 非無不王者=
④ 非[無〔不(王)者〕]⇒
④ [〔(王)不者〕無]非=
④ [〔(王たら)不る者〕無きに]非ず=
④ 王にならない者はゐないのではない。
然るに、
(07)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
④ 非(無不王者)=(王にならない者はゐない)のではない。
⑤ ~(No person who doesn't become a king).
⑥ Not(No person who doesn't become a king).
に於いて、
④=⑤=⑥
である。
然るに、
(09)
⑥ Not no person who doesn't become a king.
⑥ Not{no[person who doesn't〔become(a king)〕]}.
といふ「三重否定」は、「英語」には無い。
然るに、
(10)
明治以前の日本人は、漢文を読むことで論理的な考えを身につけました。漢文は論理的な構文をたくさん含んでいるからです。
(山下正男、論理的に考えること、1985年、ⅲ)
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
「漢文は、論理的な構文をたくさん含んでいる。」のに対して、
「英文は、漢文のやうには、論理的な構文を、持ってはゐない。」といふ風に、言へさうである。
平成29年04月02日、毛利太。
2014年11月27日木曜日
「括弧」は無いのかな。
(01)
① I know that he is a good student=
① I know[that〔he is(a good student)〕]⇒
① I [〔he(a good student) is〕that]know=
① 私は[〔彼が(良い生徒)である〕といふことを]知ってゐる。
然るに、
(02)
① I know that he is a good student.
は、that を、「省略」して、
① I know he is a good student.
としても、かまわない。
従って、
(01)(02)により、
(03)
that=といふこと=[・・・・・] とするならば、
① I know he is a good student.
には、[括弧]があって、その[括弧]が、「省略」されてゐる。
従って、
(03)により、
(04)
① I know he is a good student.
② I see he is a good student.
に、「括弧(that)」は、有ります。
然るに、
(05)
【知覚動詞】
see,hear,smell,feel など
I hear him singing.(彼が歌っているのが聞こえる)
(旺文社、高校総合英語、1989年、106頁)
然るに、
(06)
「聞鳥啼樹」を「鳥の樹に啼くを聞く。」と訓読するときには、前記の「レ」と「一・二」とを合わせてもちいることになり、「啼樹」の部分には「レ」を、「聞・ ・ ・ ・ ・啼」には「一・二」の符号をつけて示す(旺文社、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
③ 我 聞 鳥 啼 樹 =
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕=
③ I hear〔birds singing(in the trees)〕⇒
③ I 〔birds (in the trees)singing〕hear=
③ 我〔鳥の(樹に)啼くを〕聞く。
に於いて、「括弧(that)」が有っても、「矛盾」は、しない。
然るに、
(08)
その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
然るに、
(09)
③ 啼樹=
③ 啼(樹)=
③ singing(in the trees)
等は、「補足構造」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 啼樹=
③ 啼(樹)⇒
③(樹に)啼く。
といふ「漢文訓読」は、「漢文と国語の補足構造の違ひ」による、「必然」であり、
③ 我 聞 ・・・・・ =
③ 我 聞〔・・・・・〕⇒
③ 我 〔・・・・・〕聞=
③ 我 〔・・・・・を〕聞く。
といふ「漢文訓読」も、「漢文と国語の補足構造の違ひ」による、「必然」である。
従って、
(10)により、
(11)
③ 〔( )〕 を介して、
③ 我 聞 鳥 啼 樹 ⇔
③ 我 鳥の 樹に 啼くを 聞く。
といふ「漢文訓読」が成立する「所以」は、要するに、『補足構造の語順が、逆である』からに、他ならない。
従って、
(11)により、
(12)
③ 我 聞 鳥 啼 樹。
といふ「漢文」は、固より、「それ自体」として、
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕。
といふ「補足構造(シンタックス)」をしてゐる。と、すべきである。
従って、
(13)
仮に、
③ 我 聞 鳥 啼 樹 ⇔
③ 我 鳥の 樹に 啼くを 聞く。
といふ「関係」が、「分りにくい」のであれば、その場合、
③ 我 聞 鳥 啼 樹。は、
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕。
といふ風に、書くべきである。
従って、
(14)
省略できるものはすべて省略するというのではなく、省略するかしないかは、「わかりやすい表現かどうか」を基準に判断して下さい(中内伸光、ろんりの練習帳、2002年、71頁)。といふアドバイスは、「論理学の括弧」に関してだけでなく、「漢文の括弧」に於いても、当てはまると、すべきである。
従って、
(13)(14)により、
(15)
① 民可使由之、不可使知之(民は之を由らしむべし、之を知らしむべからず)
② 民可使、由之。不可使、知之(民の使うべきは之を由らしめよ。使うべからざるは之を知らしめよ)
③ 民可、使由之。不可、使知之。(民、可ならば、之を由らしむ。不可ならば、之を知らしむ)
④ 民可使、由之不可。使知之。(民は使うべし、之に由らしむるは不可なり。之を知らしむ)
をどう正確に読解するか、極めてむずかしい(黄文雄、儒禍、2014年、300頁)といふことは、
① 民可[使〔由(之)〕]、不{可[使〔知(之)〕]}。
② 民可(使)、由(之)。不〔可(使)〕、知(之)。
③ 民(可)、使〔由(之)〕。不(可)、使〔知(之)〕。
④ 民〔可(使)〕、由(之)不(可)。使〔知(之)〕。
のうちの、「どれであるのか」といふことが、「難しい」。といふことに、他ならない。
cf.
四書五経についての教育は、私が最後の世代かも知れない。小学校に入る前に、『論語』、『孟子』、『大学』などを暗誦できたが、『中庸』までは暗誦できずに国民学校に入った(黄文雄、儒禍、2014年、331頁)。だが、
漢文古典の白話文(現代語訳)は中国語以上に日本の訓読はすぐれていると、私にかぎらず、たいてい漢文教育を受けてきた私の友人は、異口同音で、そう実感していた(黄文雄、儒禍、2014年、299頁)。
然るに、
(16)
その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
といふことからすれば、私には、
① 民可[使〔由(之)〕]、不{可[使〔知(之)〕]}⇔
① 民は[〔(之を)由ら〕使む]可し、{[〔(之を)知ら〕使む]可から}不。
とするのが、「一番、分かりやすい」。
従って、
(17)
近年、中国のインターネット上でよく話題になっているが、これは四通りに切りうる(加藤徹、本当は危ない『論語』、2011年、157頁)。とのことであっても、「昔からある、次の議論」の方が、私には、「分かりやすい」。
(18)
この言葉は「民にはなにも知らせてはならない、信頼させて黙ってついてこさせるべきだ」と解釈され、それを戦時中の日本になぞらえて批判されてたわけだが、〈中略〉この「可・不可」は「できる、できない」の意味。したがって「民衆からは、その政治に対する信頼をかちうることはできるが、政治の内容を知らせることはむずかしい」という事実を、そのまま述べた言葉である(山本七平、論語の読み方、1981年、18頁)。
すなはち、
(19)
①「できる(CAN)・できない」
②「すべきである(SHOULD)・すべきでない」
のうちの、どちらかである。とする「議論」の方が、「分かりやすい」。
平成26年11月27日、毛利太。
① I know that he is a good student=
① I know[that〔he is(a good student)〕]⇒
① I [〔he(a good student) is〕that]know=
① 私は[〔彼が(良い生徒)である〕といふことを]知ってゐる。
然るに、
(02)
① I know that he is a good student.
は、that を、「省略」して、
① I know he is a good student.
としても、かまわない。
従って、
(01)(02)により、
(03)
that=といふこと=[・・・・・] とするならば、
① I know he is a good student.
には、[括弧]があって、その[括弧]が、「省略」されてゐる。
従って、
(03)により、
(04)
① I know he is a good student.
② I see he is a good student.
に、「括弧(that)」は、有ります。
然るに、
(05)
【知覚動詞】
see,hear,smell,feel など
I hear him singing.(彼が歌っているのが聞こえる)
(旺文社、高校総合英語、1989年、106頁)
然るに、
(06)
「聞鳥啼樹」を「鳥の樹に啼くを聞く。」と訓読するときには、前記の「レ」と「一・二」とを合わせてもちいることになり、「啼樹」の部分には「レ」を、「聞・ ・ ・ ・ ・啼」には「一・二」の符号をつけて示す(旺文社、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
③ 我 聞 鳥 啼 樹 =
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕=
③ I hear〔birds singing(in the trees)〕⇒
③ I 〔birds (in the trees)singing〕hear=
③ 我〔鳥の(樹に)啼くを〕聞く。
に於いて、「括弧(that)」が有っても、「矛盾」は、しない。
然るに、
(08)
その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
然るに、
(09)
③ 啼樹=
③ 啼(樹)=
③ singing(in the trees)
等は、「補足構造」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 啼樹=
③ 啼(樹)⇒
③(樹に)啼く。
といふ「漢文訓読」は、「漢文と国語の補足構造の違ひ」による、「必然」であり、
③ 我 聞 ・・・・・ =
③ 我 聞〔・・・・・〕⇒
③ 我 〔・・・・・〕聞=
③ 我 〔・・・・・を〕聞く。
といふ「漢文訓読」も、「漢文と国語の補足構造の違ひ」による、「必然」である。
従って、
(10)により、
(11)
③ 〔( )〕 を介して、
③ 我 聞 鳥 啼 樹 ⇔
③ 我 鳥の 樹に 啼くを 聞く。
といふ「漢文訓読」が成立する「所以」は、要するに、『補足構造の語順が、逆である』からに、他ならない。
従って、
(11)により、
(12)
③ 我 聞 鳥 啼 樹。
といふ「漢文」は、固より、「それ自体」として、
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕。
といふ「補足構造(シンタックス)」をしてゐる。と、すべきである。
従って、
(13)
仮に、
③ 我 聞 鳥 啼 樹 ⇔
③ 我 鳥の 樹に 啼くを 聞く。
といふ「関係」が、「分りにくい」のであれば、その場合、
③ 我 聞 鳥 啼 樹。は、
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕。
といふ風に、書くべきである。
従って、
(14)
省略できるものはすべて省略するというのではなく、省略するかしないかは、「わかりやすい表現かどうか」を基準に判断して下さい(中内伸光、ろんりの練習帳、2002年、71頁)。といふアドバイスは、「論理学の括弧」に関してだけでなく、「漢文の括弧」に於いても、当てはまると、すべきである。
従って、
(13)(14)により、
(15)
① 民可使由之、不可使知之(民は之を由らしむべし、之を知らしむべからず)
② 民可使、由之。不可使、知之(民の使うべきは之を由らしめよ。使うべからざるは之を知らしめよ)
③ 民可、使由之。不可、使知之。(民、可ならば、之を由らしむ。不可ならば、之を知らしむ)
④ 民可使、由之不可。使知之。(民は使うべし、之に由らしむるは不可なり。之を知らしむ)
をどう正確に読解するか、極めてむずかしい(黄文雄、儒禍、2014年、300頁)といふことは、
① 民可[使〔由(之)〕]、不{可[使〔知(之)〕]}。
② 民可(使)、由(之)。不〔可(使)〕、知(之)。
③ 民(可)、使〔由(之)〕。不(可)、使〔知(之)〕。
④ 民〔可(使)〕、由(之)不(可)。使〔知(之)〕。
のうちの、「どれであるのか」といふことが、「難しい」。といふことに、他ならない。
cf.
四書五経についての教育は、私が最後の世代かも知れない。小学校に入る前に、『論語』、『孟子』、『大学』などを暗誦できたが、『中庸』までは暗誦できずに国民学校に入った(黄文雄、儒禍、2014年、331頁)。だが、
漢文古典の白話文(現代語訳)は中国語以上に日本の訓読はすぐれていると、私にかぎらず、たいてい漢文教育を受けてきた私の友人は、異口同音で、そう実感していた(黄文雄、儒禍、2014年、299頁)。
然るに、
(16)
その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
といふことからすれば、私には、
① 民可[使〔由(之)〕]、不{可[使〔知(之)〕]}⇔
① 民は[〔(之を)由ら〕使む]可し、{[〔(之を)知ら〕使む]可から}不。
とするのが、「一番、分かりやすい」。
従って、
(17)
近年、中国のインターネット上でよく話題になっているが、これは四通りに切りうる(加藤徹、本当は危ない『論語』、2011年、157頁)。とのことであっても、「昔からある、次の議論」の方が、私には、「分かりやすい」。
(18)
この言葉は「民にはなにも知らせてはならない、信頼させて黙ってついてこさせるべきだ」と解釈され、それを戦時中の日本になぞらえて批判されてたわけだが、〈中略〉この「可・不可」は「できる、できない」の意味。したがって「民衆からは、その政治に対する信頼をかちうることはできるが、政治の内容を知らせることはむずかしい」という事実を、そのまま述べた言葉である(山本七平、論語の読み方、1981年、18頁)。
すなはち、
(19)
①「できる(CAN)・できない」
②「すべきである(SHOULD)・すべきでない」
のうちの、どちらかである。とする「議論」の方が、「分かりやすい」。
平成26年11月27日、毛利太。
2014年11月8日土曜日
二重否定(仮題)。
(01)
無=No
人=man
不=doesn’t
死=die.
従って、
(01)により、
(02)
① 無人不死=
② No man doesn’t die.
然るに、
(03)
① 無い=不有(有らず)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 無人不死=
① 不有人不死=
① 不[有〔人不(死)〕]⇒
① [〔人(死)不〕有]不=
① [〔人として(死せ)不るは〕有ら]不=
① Mors omnibus communis=
① Death is common to all men.
然るに、
(05)
然るに、
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))⇒
③ ((Mⅹ&(Dⅹ)~)(∃ⅹ))~=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
従って、
(01)~(04)により、
(06)
① 無人不死=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
然るに、
(07)
しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した(ウィキペディア:二重否定)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、「英語の否定呼応」は、抹殺されずに、「生きている」。
然るに、
(09)
① 無〔人不(死)〕=
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
であるためには、
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕。
のやうに、
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
である、「必要」がある。
然るに、
(10)
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
であるためには、
② Noman=一語
ではなく、
② No man=二語
である「必要」が、ある。
従って、
(08)~(10)により、
(11)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、
④ No man dies(誰も死なない).
ではなく、
④ Noman dies(誰も死なない).
であると、思はれる。
然るに、
(12)
いづれにせよ、
① 無(人不死)=(人として死せざるは)無し。
① 無(書不読)=(書として読まざるは)無し。
① 無(草不枯)=(草として枯れざるは)無し。
① 無(物不長)=(物として長ぜざるは)無し。
① 無(日不雲)=(日として雲らざるは)無し。
① 無(夕不飲)=(夕として飲まざるは)無し。
⑤ 無(処不傷心)=(処として心を痛めしめざるは)無し。
⑤ 無(教師不如生徒)=(教師として生徒に如かざるは)無し。
・ ・ ・ ・ ・ ・
だけでなく、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「漢文」の場合も、
⑤ 無(所往而不為義)=(往く所として義為らざるは)無し。
との、ことである。
cf.
「笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、58頁」。
然るに、
(13)
⑤ 無(所往而不為義)。
ではなく、
⑥ 無(所往)而不為義。
であるならば、
⑥ 無(所往)而不為義=(往く所)無くして、義為らず。
である。
然るに、
(14)
⑤(往く所として義為らざるは)無し。
⑥(往く所)無くして、義為らず。
に於いて、
⑤と⑥は、もちろん、「同じ意味」ではない。
然るに、
(15)
「漢文(白文)」自体には、「括弧」が書いてあるわけではないので、見た目では、
⑤ 無所往而不為義。
に於いて、
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
の「区別」が、付かない。
cf.
また、童話の題名「眠れる森の美女」も、実は眠っているのは「森の美女」ではなく、「森」であるという話がある。フランス語の原題”La Belle au bois dormant”で、形容詞の性をみるとそう解釈できるのだという。
(木村大治、括弧の意味論、2011年、18頁改)
従って、
(16)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふことは、
このように「無」が頭にきているときにも、当てはまる。
然るに、
(17)
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
は、「正確」には、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
であるため、
⑤と⑥の違ひは、
⑥[ ]の有無の違ひである。
従って、
(13)(14)(17)により、
(18)
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所往而不為義]。
であると、思ったときに、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]⇒
⑤ [(往)所而〔(義)為〕不]無=
⑤ [(往く)所として〔(義)為ら〕不るは]無し。
といふ風に、「訓読」する。ことになる。
然るに、
(19)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 往く所として義為ら不るは無し。
と読むとしたら、その時には、既に、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思ってゐる。」ことになる。
然るに、
(20)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思った。」のは、「何時」かと言へば、当然、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、「見てゐる時」である。
従って、
(20)により、
(21)
さうである以上、
⑤ 無所往而不為義。
を、「よく見る事」こそが、「大切」なのであって、それ故、二畳庵主人曰く、
この「見る」という造形的感覚はだれでもが持っている。けっして特殊な才能を要さない。「読書百遍、意おのずから通ず」(何度も読んでいるうちに、意味がしぜんとわかる)ということの第一段は、この「見る」、骨格を「見る」ということだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、324頁)。といふことになる。
然るに、
(22)
以上のやうに、二畳庵主人が書いたのは、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
ではなく、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
に関してであって、尚且つ、
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふ「事情」がある。
(23)
もちろん、「二畳庵主人、漢文法基礎」では、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
ではなく、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
であるものの、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
と、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
は、「同じこと」なので、
①〔( )〕( )( )。が、「古注」で、
②〔( )( )〕( )。が、「新注」である。
といふ、ことになる。
従って、
(22)(23)により、
(24)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美。
を関して、
① 不〔有祝鮀之佞〕而有宋朝之美。
② 不〔有祝鮀之佞而有宋朝之美〕。
に於いて、
①のやうに、「不」が、「前半」に係る。のか、
②のやうに、「不」が、「全体」に係る。のか、
といふ「議論」は、実質的に、朱子も行ってゐる。ことになる。
然るに、
(25)
「新儒教」の朱子学の創始者である朱子は、「漢文訓読」など、行はない。
従って、
(24)(25)により、
(26)
「漢文訓読」の問題(issue)ではなく、「漢文」の問題(issue)として、「括弧」は有ります!。
平成26年11月08日、毛利太。
無=No
人=man
不=doesn’t
死=die.
従って、
(01)により、
(02)
① 無人不死=
② No man doesn’t die.
然るに、
(03)
① 無い=不有(有らず)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 無人不死=
① 不有人不死=
① 不[有〔人不(死)〕]⇒
① [〔人(死)不〕有]不=
① [〔人として(死せ)不るは〕有ら]不=
① Mors omnibus communis=
① Death is common to all men.
然るに、
(05)
然るに、
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))⇒
③ ((Mⅹ&(Dⅹ)~)(∃ⅹ))~=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
従って、
(01)~(04)により、
(06)
① 無人不死=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
然るに、
(07)
しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した(ウィキペディア:二重否定)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、「英語の否定呼応」は、抹殺されずに、「生きている」。
然るに、
(09)
① 無〔人不(死)〕=
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
であるためには、
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕。
のやうに、
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
である、「必要」がある。
然るに、
(10)
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
であるためには、
② Noman=一語
ではなく、
② No man=二語
である「必要」が、ある。
従って、
(08)~(10)により、
(11)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、
④ No man dies(誰も死なない).
ではなく、
④ Noman dies(誰も死なない).
であると、思はれる。
然るに、
(12)
いづれにせよ、
① 無(人不死)=(人として死せざるは)無し。
① 無(書不読)=(書として読まざるは)無し。
① 無(草不枯)=(草として枯れざるは)無し。
① 無(物不長)=(物として長ぜざるは)無し。
① 無(日不雲)=(日として雲らざるは)無し。
① 無(夕不飲)=(夕として飲まざるは)無し。
⑤ 無(処不傷心)=(処として心を痛めしめざるは)無し。
⑤ 無(教師不如生徒)=(教師として生徒に如かざるは)無し。
・ ・ ・ ・ ・ ・
だけでなく、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「漢文」の場合も、
⑤ 無(所往而不為義)=(往く所として義為らざるは)無し。
との、ことである。
cf.
「笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、58頁」。
然るに、
(13)
⑤ 無(所往而不為義)。
ではなく、
⑥ 無(所往)而不為義。
であるならば、
⑥ 無(所往)而不為義=(往く所)無くして、義為らず。
である。
然るに、
(14)
⑤(往く所として義為らざるは)無し。
⑥(往く所)無くして、義為らず。
に於いて、
⑤と⑥は、もちろん、「同じ意味」ではない。
然るに、
(15)
「漢文(白文)」自体には、「括弧」が書いてあるわけではないので、見た目では、
⑤ 無所往而不為義。
に於いて、
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
の「区別」が、付かない。
cf.
また、童話の題名「眠れる森の美女」も、実は眠っているのは「森の美女」ではなく、「森」であるという話がある。フランス語の原題”La Belle au bois dormant”で、形容詞の性をみるとそう解釈できるのだという。
(木村大治、括弧の意味論、2011年、18頁改)
従って、
(16)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふことは、
このように「無」が頭にきているときにも、当てはまる。
然るに、
(17)
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
は、「正確」には、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
であるため、
⑤と⑥の違ひは、
⑥[ ]の有無の違ひである。
従って、
(13)(14)(17)により、
(18)
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所往而不為義]。
であると、思ったときに、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]⇒
⑤ [(往)所而〔(義)為〕不]無=
⑤ [(往く)所として〔(義)為ら〕不るは]無し。
といふ風に、「訓読」する。ことになる。
然るに、
(19)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 往く所として義為ら不るは無し。
と読むとしたら、その時には、既に、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思ってゐる。」ことになる。
然るに、
(20)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思った。」のは、「何時」かと言へば、当然、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、「見てゐる時」である。
従って、
(20)により、
(21)
さうである以上、
⑤ 無所往而不為義。
を、「よく見る事」こそが、「大切」なのであって、それ故、二畳庵主人曰く、
この「見る」という造形的感覚はだれでもが持っている。けっして特殊な才能を要さない。「読書百遍、意おのずから通ず」(何度も読んでいるうちに、意味がしぜんとわかる)ということの第一段は、この「見る」、骨格を「見る」ということだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、324頁)。といふことになる。
然るに、
(22)
以上のやうに、二畳庵主人が書いたのは、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
ではなく、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
に関してであって、尚且つ、
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふ「事情」がある。
(23)
もちろん、「二畳庵主人、漢文法基礎」では、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
ではなく、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
であるものの、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
と、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
は、「同じこと」なので、
①〔( )〕( )( )。が、「古注」で、
②〔( )( )〕( )。が、「新注」である。
といふ、ことになる。
従って、
(22)(23)により、
(24)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美。
を関して、
① 不〔有祝鮀之佞〕而有宋朝之美。
② 不〔有祝鮀之佞而有宋朝之美〕。
に於いて、
①のやうに、「不」が、「前半」に係る。のか、
②のやうに、「不」が、「全体」に係る。のか、
といふ「議論」は、実質的に、朱子も行ってゐる。ことになる。
然るに、
(25)
「新儒教」の朱子学の創始者である朱子は、「漢文訓読」など、行はない。
従って、
(24)(25)により、
(26)
「漢文訓読」の問題(issue)ではなく、「漢文」の問題(issue)として、「括弧」は有ります!。
平成26年11月08日、毛利太。
2014年7月4日金曜日
「括弧は有ります!」(Ⅵ)。
(01)
① Mother said ”I am proud of you.”
② Mother said that she was proud of me.
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「正しい」。
然るに、
(02)
1. 同じものに等しいものは、互いに等しい。
2. 同じものに同じものを加えた場合、その合計は等しい。
3. 同じものから同じものを引いた場合、残りは等しい。
(ユークリッド幾何学、公準)
従って、
(01)(02)より、
(03)
①=②
に於いて、
” ”=that
は、「正しい」。
然るに、
(04)
日本語のやうに、
” ”=that=「 」
として、
① Mother said 「私はあなたを誇りに思ふ。」
② Mother said that she was proud of me.
とした場合も、
①=②
といふ「等式」は、「正しい」。
同様に、
(05)
” ”=that=( )
として、
① Mother said (I am proud of you.)
② Mother said that she was proud of me.
とした場合も、
①=②
といふ「等式」は、「正しい」。
従って、
(05)により、
(06)
英語には、
that=( )
である所のthat が、存在する。
然るに、
(07)
③ Everybody knows that Mr.Matsuo likes fishing.
の場合は、
that=( )
である所のthat である。
従って、
(07)により、
(08)
③ Everybody knows that Mr.Matsuo likes fishing.
④ Everybody knows(Mr.Matsuo likes fishing.)
に於いて、
③=④
といふ「等式」は、「正しい」。
然るに、
(09)
③ Everybody knows that Mr.Matsuo likes fishing.
の that は、「省略」出来る。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ Everybody knows Mr.Matsuo likes fishing.
④ Everybody knows(Mr.Matsuo likes fishing.)
に於いて、
③=④
といふ「等式」は、「正しい」。
然るに、
(11)
③ Everybody knows Mr.Matsuo likes fishing.
⑤ 人皆知松尾先生好釣。
に於いて、
③=⑤
といふ「等式」は、「正しい」。
従って、
(10)(11)により、
(12)
④ Everybody knows(Mr.Matsuo likes fishing.)
⑥ 人皆知(松尾先生好釣)。
に於いて、
④=⑥
といふ「等式」は、「正しい」。
従って、
(11)(12)により、
(13)
⑤ 人皆知 松尾先生好釣 =人皆、松尾先生の釣りを好むを知る。
⑥ 人皆知(松尾先生好釣)=人皆(松尾先生の釣りを好むを知る)。
に於いて、
⑤=⑥
といふ「等式」は、「正しい」。
従って、
(01)~(13)により、
(14)
「括弧」は有ります!
従って、
(15)
① 人皆知松尾先生 =人皆、松尾先生を知る。
といふ「白文」であれば、「実際に」、
② 人皆知(松尾先生)=人皆(松尾先生を)知る。
といふ「形」をしてゐる。
従って、
(16)
③ 人皆知2松尾先生1=人皆松尾先生を1知る2。
といふ「返り点(二 一)」が、「可能」なのは、
① 人皆知松尾先生。
といふ「漢文自体」が、固より、
② 人皆知(松尾先生)。
といふ「形」をしてゐるからで、ある。
従って、
(16)により、
(17)
「括弧」は、単なる、「返り点の代用」ではない。
平成26年07月04日、毛利太。
① Mother said ”I am proud of you.”
② Mother said that she was proud of me.
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「正しい」。
然るに、
(02)
1. 同じものに等しいものは、互いに等しい。
2. 同じものに同じものを加えた場合、その合計は等しい。
3. 同じものから同じものを引いた場合、残りは等しい。
(ユークリッド幾何学、公準)
従って、
(01)(02)より、
(03)
①=②
に於いて、
” ”=that
は、「正しい」。
然るに、
(04)
日本語のやうに、
” ”=that=「 」
として、
① Mother said 「私はあなたを誇りに思ふ。」
② Mother said that she was proud of me.
とした場合も、
①=②
といふ「等式」は、「正しい」。
同様に、
(05)
” ”=that=( )
として、
① Mother said (I am proud of you.)
② Mother said that she was proud of me.
とした場合も、
①=②
といふ「等式」は、「正しい」。
従って、
(05)により、
(06)
英語には、
that=( )
である所のthat が、存在する。
然るに、
(07)
③ Everybody knows that Mr.Matsuo likes fishing.
の場合は、
that=( )
である所のthat である。
従って、
(07)により、
(08)
③ Everybody knows that Mr.Matsuo likes fishing.
④ Everybody knows(Mr.Matsuo likes fishing.)
に於いて、
③=④
といふ「等式」は、「正しい」。
然るに、
(09)
③ Everybody knows that Mr.Matsuo likes fishing.
の that は、「省略」出来る。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ Everybody knows Mr.Matsuo likes fishing.
④ Everybody knows(Mr.Matsuo likes fishing.)
に於いて、
③=④
といふ「等式」は、「正しい」。
然るに、
(11)
③ Everybody knows Mr.Matsuo likes fishing.
⑤ 人皆知松尾先生好釣。
に於いて、
③=⑤
といふ「等式」は、「正しい」。
従って、
(10)(11)により、
(12)
④ Everybody knows(Mr.Matsuo likes fishing.)
⑥ 人皆知(松尾先生好釣)。
に於いて、
④=⑥
といふ「等式」は、「正しい」。
従って、
(11)(12)により、
(13)
⑤ 人皆知 松尾先生好釣 =人皆、松尾先生の釣りを好むを知る。
⑥ 人皆知(松尾先生好釣)=人皆(松尾先生の釣りを好むを知る)。
に於いて、
⑤=⑥
といふ「等式」は、「正しい」。
従って、
(01)~(13)により、
(14)
「括弧」は有ります!
従って、
(15)
① 人皆知松尾先生 =人皆、松尾先生を知る。
といふ「白文」であれば、「実際に」、
② 人皆知(松尾先生)=人皆(松尾先生を)知る。
といふ「形」をしてゐる。
従って、
(16)
③ 人皆知2松尾先生1=人皆松尾先生を1知る2。
といふ「返り点(二 一)」が、「可能」なのは、
① 人皆知松尾先生。
といふ「漢文自体」が、固より、
② 人皆知(松尾先生)。
といふ「形」をしてゐるからで、ある。
従って、
(16)により、
(17)
「括弧」は、単なる、「返り点の代用」ではない。
平成26年07月04日、毛利太。
2014年6月22日日曜日
「英語の二重否定(DN)」について(Ⅱ)。
(01)
人皆知其名=
人皆知(其名)⇒
人皆(其名)知=
人は皆(其の名)を知る。
に対して、
無人不知其名=
無[人不〔知(其名)〕]⇒
[人〔(其名)知〕不]無=
[人として〔(其の名を)知ら〕不るは]無し。
(02)
Mⅹ =ⅹは人間である。
Kⅹn=ⅹはある名前nを知ってゐる。
∴
∀ⅹ(Mⅹ→ Kⅹn)=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのⅹはある名前nを知ってゐる。
に対して
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Kⅹn)=
人間であって、ある名前nを知らないⅹは存在しない。
従って、
(01)(02)により、
(03)
人皆知其名=
人は皆(其の名)を知る=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのⅹはある名前nを知ってゐる。
無人知其名=
[人として〔(其の名を)知ら〕不るは]無し=
人間であって、ある名前nを知らないⅹは存在しない。
従って、
(03)により、
(04)
人皆知其名=
人は皆(其の名)を知る。
といふ「命題」と、
無人不知其名=
[人として〔(其の名を)知ら〕不るは]無し。
といふ「命題」が「等しい」のは、
∀ⅹ(Mⅹ→ Kⅹn)=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのⅹはある名前nを知ってゐる。
といふ「命題」と、
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Kⅹn)=
人間であって、ある名前nを知らないⅹは存在しない。
といふ「命題」が「等しい」ことと、「同じこと」である。
然るに、
(05)
① ⅹ=ⅹ は必然であり、
② ⅹ ≠ ⅹ は不可能である。
③ ⅹ= y は可能であり、
④ ⅹ ≠ y も可能である。
然るに、
(06)
∀ⅹ〔Mⅹ→ Kyn&(ⅹ=y)〕
に対して、
∀ⅹ〔Mⅹ→ Kyn&(ⅹ ≠ y)〕=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、yはある名前nを知ってゐて、ⅹとyは違ふ人間である。
といふ場合は、
人皆知其名=
人は皆(其の名)を知る=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのⅹはある名前nを知ってゐる。
といふことには、ならない。
然るに、
(07)
「彼女の名前を知らない人はいない」
この文は、「彼女は非常に有名で今やだれでもその名前は知っている」という肯定を強
調する目的で、二重否定を使っていますので、英語では以下のように、二重否定で表現さ
れます。
There is nobody who doesn't know her name.
[ = Everybody knows her name .]
(Webサイト:二重否定 - RAVCO)
従って、
(06)(07)により、
(08)
∀ⅹ(Mⅹ→ Kyn)=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのyはある名前nを知ってゐる=
There is nobody who doesn’t know the name=
人は皆、其の名前を知ってゐる。
であるならば、必然的に、
③ ⅹ=y である。といふことに、なる。
従って、
(09)
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Kyn)=
ⅹといふ人間であって、ある名前nを知らないyは存在しない=
There is nobody who doesn’t know the name.
に於いて、
who=y
ならば、
body=ⅹ
であって、
¬∃=There is no
である。といふことに、なる。
然るに、
(10)
チャンスが無い。⇒ There is no chance (グーグル翻訳)。
No chance ⇒ チャンスはありません(グーグル翻訳)。
Nobody=No one
従って、
(09)(10)により、
(11)
「理屈」としては、
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Kⅹn)=
人間であって、ある名前nを知らないⅹは存在しない=
No one who doesn’t know the name.
従って、
(11)により、
(12)
「理屈」としては、
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Lⅹm)=
人間であって、meを好きでないⅹは存在しない=
No one who doesn’t like me=
Everybody likes me.
然るに、
(13)
子ども:Nobody don’t like me.
母親 :No,say ”Nobody likes me.”
子ども:Nobody don’t like me.
(同じやりとりが8回繰り返される)
母親 :No,now listen carefully;say ”Nobody likes me.”
子ども:Oh! Nobody don’t likes me.
(大修館書店、生成言語学入門、1999年、76頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
子ども:Oh! Nobody don’t likes me.
は、あるいは、
子ども:Oh! Nobody who doesn’t like me.
子ども:Oh! Everybody likes me.
といふ「意味」である、「可能性」がある。
従って、
(15)
ある子供が、
Nobody doesn’t〔like(me)〕.
とはせずに、
No[body doesn’t〔like(me)〕].
といふ「形」で、
Nobody don’t likes me.
といふ風に、言ってゐるのであれば、
その子にとっては、
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Lⅹme)=
No[body doesn’t〔like(me)〕]
Nobody who doesn’t like me=
There is Nobody who doesn’t like me.
といふことに、なる。
(16)
子供の言葉は、固より、「メチャクチャ」なので、
Nobody don’t likes me.
といふ「英語」も「正しい」とか、「正しくない」といふことを、述べてゐるのではない。
(17)
私が、言ひたいのは、
「ネイティブとしての、正しい英語」を身につける以前の段階にある子供であれば、「正しい英語」には、捉われずに、却って、
無[人不〔知(其名)〕]。 ⇔ 人皆知(其名)。
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Lⅹme)⇔ ∀ⅹ(Mⅹ→ Lⅹme)
といふ「普遍的な論理(UG)」に従ふ「形」で、
Nobody don’t likes me. ⇔ Everybody likes me.
といふ風に、言ってゐる「可能性」が無いわけでは無い。といふことである。
(18)
更に言へば、
無=No
人=one
不=doesn’t
知=know
其名=the name.
であるにも拘らず、
No one doesn’t know the name.
といふ「英語」が、「正しい英語」としては、
No[one doesn’t〔know(the name)〕]⇒
[one 〔(the name)know〕doesn’t]No=
[人として〔(其の名を)知ら〕不るは]無し=
無 人 不 知 其 名。
とはならないとしたら、そのことは、「意外」である。といふ、ことである。
cf.
人皆知其名=
人皆知(其名)⇒
人皆(其名)知=
人は皆(其の名)を知る。
に対して、
無人不知其名=
無[人不〔知(其名)〕]⇒
[人〔(其名)知〕不]無=
[人として〔(其の名を)知ら〕不るは]無し。
(02)
Mⅹ =ⅹは人間である。
Kⅹn=ⅹはある名前nを知ってゐる。
∴
∀ⅹ(Mⅹ→ Kⅹn)=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのⅹはある名前nを知ってゐる。
に対して
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Kⅹn)=
人間であって、ある名前nを知らないⅹは存在しない。
従って、
(01)(02)により、
(03)
人皆知其名=
人は皆(其の名)を知る=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのⅹはある名前nを知ってゐる。
無人知其名=
[人として〔(其の名を)知ら〕不るは]無し=
人間であって、ある名前nを知らないⅹは存在しない。
従って、
(03)により、
(04)
人皆知其名=
人は皆(其の名)を知る。
といふ「命題」と、
無人不知其名=
[人として〔(其の名を)知ら〕不るは]無し。
といふ「命題」が「等しい」のは、
∀ⅹ(Mⅹ→ Kⅹn)=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのⅹはある名前nを知ってゐる。
といふ「命題」と、
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Kⅹn)=
人間であって、ある名前nを知らないⅹは存在しない。
といふ「命題」が「等しい」ことと、「同じこと」である。
然るに、
(05)
① ⅹ=ⅹ は必然であり、
② ⅹ ≠ ⅹ は不可能である。
③ ⅹ= y は可能であり、
④ ⅹ ≠ y も可能である。
然るに、
(06)
∀ⅹ〔Mⅹ→ Kyn&(ⅹ=y)〕
に対して、
∀ⅹ〔Mⅹ→ Kyn&(ⅹ ≠ y)〕=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、yはある名前nを知ってゐて、ⅹとyは違ふ人間である。
といふ場合は、
人皆知其名=
人は皆(其の名)を知る=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのⅹはある名前nを知ってゐる。
といふことには、ならない。
然るに、
(07)
「彼女の名前を知らない人はいない」
この文は、「彼女は非常に有名で今やだれでもその名前は知っている」という肯定を強
調する目的で、二重否定を使っていますので、英語では以下のように、二重否定で表現さ
れます。
There is nobody who doesn't know her name.
[ = Everybody knows her name .]
(Webサイト:二重否定 - RAVCO)
従って、
(06)(07)により、
(08)
∀ⅹ(Mⅹ→ Kyn)=
全てのⅹについて、ⅹが人間ならば、そのyはある名前nを知ってゐる=
There is nobody who doesn’t know the name=
人は皆、其の名前を知ってゐる。
であるならば、必然的に、
③ ⅹ=y である。といふことに、なる。
従って、
(09)
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Kyn)=
ⅹといふ人間であって、ある名前nを知らないyは存在しない=
There is nobody who doesn’t know the name.
に於いて、
who=y
ならば、
body=ⅹ
であって、
¬∃=There is no
である。といふことに、なる。
然るに、
(10)
チャンスが無い。⇒ There is no chance (グーグル翻訳)。
No chance ⇒ チャンスはありません(グーグル翻訳)。
Nobody=No one
従って、
(09)(10)により、
(11)
「理屈」としては、
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Kⅹn)=
人間であって、ある名前nを知らないⅹは存在しない=
No one who doesn’t know the name.
従って、
(11)により、
(12)
「理屈」としては、
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Lⅹm)=
人間であって、meを好きでないⅹは存在しない=
No one who doesn’t like me=
Everybody likes me.
然るに、
(13)
子ども:Nobody don’t like me.
母親 :No,say ”Nobody likes me.”
子ども:Nobody don’t like me.
(同じやりとりが8回繰り返される)
母親 :No,now listen carefully;say ”Nobody likes me.”
子ども:Oh! Nobody don’t likes me.
(大修館書店、生成言語学入門、1999年、76頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
子ども:Oh! Nobody don’t likes me.
は、あるいは、
子ども:Oh! Nobody who doesn’t like me.
子ども:Oh! Everybody likes me.
といふ「意味」である、「可能性」がある。
従って、
(15)
ある子供が、
Nobody doesn’t〔like(me)〕.
とはせずに、
No[body doesn’t〔like(me)〕].
といふ「形」で、
Nobody don’t likes me.
といふ風に、言ってゐるのであれば、
その子にとっては、
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Lⅹme)=
No[body doesn’t〔like(me)〕]
Nobody who doesn’t like me=
There is Nobody who doesn’t like me.
といふことに、なる。
(16)
子供の言葉は、固より、「メチャクチャ」なので、
Nobody don’t likes me.
といふ「英語」も「正しい」とか、「正しくない」といふことを、述べてゐるのではない。
(17)
私が、言ひたいのは、
「ネイティブとしての、正しい英語」を身につける以前の段階にある子供であれば、「正しい英語」には、捉われずに、却って、
無[人不〔知(其名)〕]。 ⇔ 人皆知(其名)。
¬∃ⅹ(Mⅹ&¬Lⅹme)⇔ ∀ⅹ(Mⅹ→ Lⅹme)
といふ「普遍的な論理(UG)」に従ふ「形」で、
Nobody don’t likes me. ⇔ Everybody likes me.
といふ風に、言ってゐる「可能性」が無いわけでは無い。といふことである。
(18)
更に言へば、
無=No
人=one
不=doesn’t
知=know
其名=the name.
であるにも拘らず、
No one doesn’t know the name.
といふ「英語」が、「正しい英語」としては、
No[one doesn’t〔know(the name)〕]⇒
[one 〔(the name)know〕doesn’t]No=
[人として〔(其の名を)知ら〕不るは]無し=
無 人 不 知 其 名。
とはならないとしたら、そのことは、「意外」である。といふ、ことである。
cf.
mistermaxjrさん曰く、
英語の二重否定(double negative)は肯定になることまずありません。否定の強調です。
平成26年06月22日、毛利太。
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