2019年6月5日水曜日

三上文法批判:「鼻が」は「補語」か。他。


―「返り点と括弧」に関しては、
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html
(β)「返り点」と「括弧」の条件。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ):(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。:(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html
(ζ)「返り点・モドキ」について。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)⇒
 Web上には存在しますが、何故か、アクセス出来ません。
(η)「一二点・上下点」に付いて。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html
(θ)「括弧」の「順番」。      :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html
(ι)「返り点」と「括弧」の関係   :(https://kannbunn.blogspot.com/2019/01/blog-post_21.html
等々、「その他、諸々」を、お読み下さい。―

(01)
学校文法は単純な英語文法からの輸入で、主語・述語関係を単純に当てはめたものだ。そのため、「象は、鼻が長い」という単純な文でさえ、どれが主語だか指摘できず、複数主語だとか、主語の入れ子だとか、奇矯な技を使う。これに対して三上は、日本語には主語はない、とする。「象は」は、テーマを提示する主題であり、これから象についてのことを述べますよというメンタルスペースのセットアップであり、そのメンタルスペースのスコープを形成する働きをもつと主張する(この場合は「長い」までをスコープとする)。また、「鼻が」は主格の補語にすぎなく、数ある補語と同じ格であるとする。基本文は述語である「長い」だけだ(三上文法! : wrong, rogue and log)。
然るに、
(02)
① 象は鼻が長い。⇔
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}⇔
① すべてのxについて、xが象であるならば、あるyはxの鼻であって長く、すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
従って、
(02)により、
(03)
「述語論理的(Predicate logical)」な「観点」からすれば、
① 象は鼻が長い。⇔
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
には、「複数の主語(x、y、z)」があって、尚且つ、
①{ ( )( ) }
といふ「括弧」があるが故に、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、「入れ子」になってゐる。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
「述語論理的(Predicate logical)」な「観点」からすれば、
「象は、鼻が長い」という単純な文でさえ、どれが主語だか指摘できず、複数主語だとか、主語の入れ子だとか、奇矯な技を使う。
といふ「批判」は、当たらない。
然るに、
(05)
34 文章の主語は、主格で表わされる。それゆえ、αποστολος γινωσκει は、「使徒は知る」(an apostle knows)という意味である。
他動詞の目的語は対格に置かれる。それゆえ、βλεπω λογον は「私は言葉を見る」(I see a word)という意味である。
(J.G.メイチェン 著、田辺滋 訳、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、27頁)
然るに、
(06)
① γινωσκει(三人称単数は知る)。
といふ「述語(predicate)」だけでも、「ギリシャ語は、成立する」。
従って、
(06)により、
(07)
① γινωσκει(三人称単数は知る)。
が、最初に有って、その次に、
② αποστολος γινωσκει(an apostle knows)。
③ αποστολον γινωσκει(三人称単数は使徒を知る)。
といふ、
② 主格+述語=αποστολος γινωσκει(an apostle knows)。
③ 対格+述語=αποστολον γινωσκει(三人称単数は使徒を知る)。
といふ「形」が成立する。
といふ風に、解することも、「可能」である。
従って、
(07)により、
(08)
その「意味」で、
② 主格+述語=αποστολος γινωσκει(an apostle knows)。
③ 対格+述語=αποστολον γινωσκει(三人称単数は使徒を知る)。
に於ける、
② 主格(αποστολος) は、述部(γινωσκει)の「意味を補ふ、補語(complement)」であり、
③ 対格(αποστολον)も、述部(γινωσκει)の「意味を補ふ、補語(complement)」である。
然るに、
(05)により、
(09)
αποστολος γινωσκει は、「使徒知る」(an apostle knows)という意味である。
となってゐて、
αποστολος γινωσκει は、「使徒知る」(an apostle knows)という意味である。
とは、なってゐない
従って、
(08)(09)により、
(10)
② 主格+述語=αποστολος γινωσκει(an apostle knows)。
③ 対格+述語=αποστολον γινωσκει(三人称単数は使徒を知る)。
に於ける、
② 主格(αποστολος) は、述部(γινωσκει)の「補語(complement)」であり、
③ 対格(αποστολον)も、述部(γινωσκει)の「補語(complement)」である。
とすることは、「可能」であるとしても、この場合は、
「使徒」ではなく、
「使徒」が、さうである。
といふ、ことになる。
従って、
(10)により、
(11)
① 使徒は知る=αποστολος γινωσκει.
② 使徒が知る=αποστολος γινωσκει.
に於いて、
②「使徒」は「知る(述部)」の「補語」であるが、
①「使徒」は「知る(述部)」の「補語」ではない。
といふことには、ならない。
従って、
(11)により、
(12)
① 象は大きい。
② 鼻が長い。
に於いて、
②「鼻が」は、「述部( 長い )」の「意味を補ふ補語」であるが、
①「象は」は、「述部(大きい)」の「意味を補ふ補語」でない。
といふのであれば、さのやうな「言ひ方」は、「詭弁」に過ぎない。
(13)
確かに、「象は、鼻が長い。」という文の主語は何か、と尋ねられたら返答に窮する。学校文法に従えば「象は」も「鼻が」も両方とも「主語」ということになる。しかし、単文に2つの主語があるのは変だ。三上文法によると、「象は、鼻が長い。」という文において、「象は」は題(主題、題目 topic)で、残りの部分「鼻が長い」は解説 (comment) だという。この文の場合、「鼻が」という主格が解説に含まれている。しかし、日本語では主格(何が、誰が)がなくても文は成立する。たとえば、料理文がそうだ。料理文では「何を」は何度も登場するが、主格「誰が」は出てこない。言う必要がないからだ。
山崎紀美子著 『日本語基礎講座』三上文法入門 ちくま新書の38ページから、料理文の一例を引用する。
 新ゴボウのかき揚げ」(朝日新聞2002年4月18日)
<主な材料>
新ゴボウ2本(200グラム)、桜エビ(素干し)15グラム、牛乳100cc、大根200グラム
<作り方>
ゴボウは汚れを落とし、斜め薄切りにして水にくぐらせ水気を切り、薄口しょうゆ大さじ1をからめます。ボウルに薄力粉100グラム、牛乳、桜エビ、ゴボウを入れまぜます。8等分し170度の揚げ油で、カリッと揚げます。大根おろしとしょうゆを添えます。
作り方の冒頭にある「ゴボウは汚れを落とし」は、言うまでもなく、ゴボウが自分で汚れを落とすわけではありません。ゴボウについて言えば、その汚れを料理人が落とす、という意味です。「ゴボウは」は、主語などではなく、題なのです(リベラル21私たちは護憲・軍縮・共生を掲げてネット上に市民のメディア、リベラル21を創った。2009.02.21 日本語に主語はあるのか)。
然るに、
(14)
1  (1)∀x(牛蒡x→∃y(我々y&洗yx)} A
1  (2)   牛蒡a→∃y(我々y&洗ya)  1UE
 3 (3)∃x(牛蒡x)             A
  4(4)   牛蒡a              A
1 4(5)       ∃y(我々y&洗ya)  25MPP
134(6)   牛蒡a&∃y(我々y&洗ya)  45&I
134(7)∃x{牛蒡x&∃y(我々y&洗yx)} 6EI
13 (8)∃x{牛蒡x&∃y(我々y&洗yx)} 34EE
従って、
(14)により、
(15)
(1)すべてのxについて、xが牛蒡であるならば、あるyは我々であって、yはxを洗ふ。しかるに、
(3)あるxは牛蒡である。故に、
(8)あるxは牛蒡であって、あるyは我々であって、yはxを洗ふ。
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
「ゴボウは汚れを落とす。」
といふ「日本語」は、
「ゴボウは(我々によって汚れを)落とされる。」
といふ風に、解することが、出来る。
従って、
(16)により、
(17)
「ゴボウは汚れを落とす(ゴボウ is washed by us)。」
に於ける、
「ゴボウは」は、「受動文」の「主語」である。
然るに、
(18)
(1)すべてのxについて、xが牛蒡であるならば、
といふことは、
(1)ゴボウについて言えば、
といふことに、他ならない。
従って、
(18)により、
(19)
(1)ゴボウについて言えば、
が、「題」であるならば、
(1)「∀x(牛蒡x→」=「すべてのxについて、xが牛蒡であるならば、」
も、たしかに、「題」である。
然るに、
(20)
例へば、
メタ トーン アンゲローン アゲイ ホ キュリオス トゥース ディカイウース エイス トン ウーラノン.
に於いて、
キュリオス が「主語」である「所以」は、
キュリオス だけが「主格」の「形」をしてゐるからである。
従って、
(21)
ギリシャ語やラテン語であれば、「主格(形)」が「主語(形)」であり、「主語(形)」が「主格(形)」である。
従って、
(22)
料理文では「何を」は何度も登場するが、主格「誰が」は出てこない。言う必要がないからだ。
といふ「言ひ方」は、私にとっては、
料理文では「何を」は何度も登場するが、主語「誰が」は出てこない。言う必要がないからだ。
といってゐるのと、同じである。
(23)
そもそも、「主語と、主格と、主題」は、「矛盾する概念」ではないはずである。
従って、
(24)
「象は」は題(主題、題目 topic)で、残りの部分「鼻が長い」は解説 (comment) だという。この文の場合、「鼻が」という主格が解説に含まれている。
といふのであれば、「主題とは何で、主語とは何で、主格とは何で、それぞれの何処が、だう違ふのか」といふことを、示してくれない限り、「三上文法」を理解することは、永遠に不可能である。
と、言はざるを得ない。
令和元年06月05日、毛利太。

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