―「返り点と括弧」に関しては、
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)
(β)「返り点」と「括弧」の条件。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ):(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。:(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)
(ζ)「返り点・モドキ」について。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)⇒
Web上には存在しますが、何故か、アクセス出来ません。
(η)「一二点・上下点」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)
(θ)「括弧」の「順番」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)
(ι)「返り点」と「括弧」の関係 :(https://kannbunn.blogspot.com/2019/01/blog-post_21.html)
等々、「その他、諸々」を、お読み下さい。―
―「昨日の記事」を、シンプルなものに、書き直します。―
(01)
(ⅱ)
1 (1) P→Q A
2 (2) P A
3(3) ~Q A
12 (4) Q 12MPP
123(5)~Q&Q 34&I
1 3(6)~P 25RAA
1 (7)~Q→~P 36CP
(ⅲ)
1 (1)~Q→~P A
2 (2)~Q A
3(3) P A
12 (4) ~P 12MPP
123(5) P&~P 34&I
1 3(6)~~Q 25RAA
1 3(7) Q 6DN
1 (8)P→Q 37CP
従って、
(01)により、
(02)
② P→ Q=PであるならばQである。
③ ~Q→~P=QでないならばPでない。
に於いて、
②=③ であって、
この「等式」を、「対偶(contraposition)」といふ。
然るに、
(03)
(ⅱ)
1 (1) 理事長→私 A
2 (2) 理事長 A
3(3) ~私 A
12 (4) 私 12MPP
123(5)~私&私 34&I
1 3(6)~理事長 25RAA
1 (7)~私→~理事長 36CP
(ⅲ)
1 (1)~私→~理事長 A
2 (2)~私 A
3(3) 理事長 A
12 (4) ~理事長 12MPP
123(5) 理事長&~理事長 34&I
1 3(6)~~私 25RAA
1 3(7) 私 6DN
1 (8)理事長→私 37CP
従って、
(02)(03)により、
(04)
② 理事長→ 私=理事長であるならば私である。
③ ~私→~理事長=私でないならば理事長でない。
に於いて、
②=③ であって、
この「等式」を、「対偶(contraposition)」といふ。
従って、
(04)により、
(05)
② 理事長は私です=理事長であるならば私である。
③ 私以外は理事長ではない=私でないならば理事長でない。
に於いて、
②=③ であって、
この「等式」を、「対偶(contraposition)」といふ。
然るに、
(06)
デジタル大辞泉の解説
たい‐ぐう【対偶】
3 論理学で、「pならばqである」に対して、仮定および結論を否定し同時に両者を逆にした「qでなければpでない」という形の命題。原命題が真ならば、その対偶も必ず真となる。→裏 →逆
従って、
(05)(06)により、
(07)
② 理事長は私です=理事長であるならば私、である。
③ 私以外は理事長ではない=私でないならば、理事長でない。
に於いて、
②=③ であって、
この「等式」は、「常に正しい」。
然るに、
(08)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念館は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
① 私が理事長です。
② 理事長は私です。
③ 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=②=③ であって、
この「等式」は、「常に正しい」。
従って、
(01)~(09)により、
(10)
① 私が理事長です。
② 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=② であって、
この「等式」は、「常に正しい」。
従って、
(10)により、
(11)
① 鼻が長い。
② 鼻以外は長くない。
に於いて、
①=② である。
従って、
(11)により、
(12)
① 鼻が長い。
② 鼻以外は長くない。
に於いて、
①=② である。
従って、
(12)により、
(13)
① 象は鼻が長い。
② 象は鼻は長く、鼻以外は長くない。
に於いて、
①=② である。
従って、
(14)
① 象は鼻が長い。⇔
② 象は鼻は長く、鼻以外は長くない。⇔
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}⇔
③ すべてのxについて、xが象であるならば、あるyはxの鼻であって、長く、すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(15)
④ 兎は耳が長く、兎の耳は鼻ではない。⇔
④ ∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)}⇔
④ すべてのxについて、xが兎であるならば、あるyはxの耳であって、長く、すべてのzについて、zがxの耳ならば、zはxの耳ではない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
(1)象は鼻は長く、鼻以外は長くない。
(3)兎は耳が長く、兎の耳は鼻ではない。
(4)すべての兎が象でない。といふわけではなく、ある兎は象である。
と「仮定」すると。「矛盾」せざるを得ない。
従って、
(16)により、
(17)
(1)象は鼻は長く、鼻以外は長くない。
(3)兎は耳が長く、兎の耳は鼻ではない。
が「正しい」とすると、
(4)すべての兎が象でない。といふわけではない。
といふ「仮定」は、「否定」しなければ、ならない。
cf.
背理法(reductio ad absurdum)。
然るに、
(18)
1 (1) ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2) ∀x{∃y(鼻yx&長y)→∃z(~鼻zx&長z)→~象x} 1対偶(contraposition)
3 (3) ∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)} A
4 (4)~∀x(兎x→~象x) A
1 (5) 象a→∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 1UE
1 (6) ∃y(鼻ya&長y)→∃z(~鼻za&長z)→~象a 2
3 (7) 兎a→∃y(耳ya&長y)&∀z(耳za→~鼻za) 3
4 (8)∃x~(兎x→ ~象x) 4量化子の関係
9 (9) ~(兎a→ ~象a) A
9 (ア) ~(~兎a∨ ~象a) 9含意の定義
9 (イ) ~~兎a&~~象a ア、ド・モルガンの法則
9 (ウ) 兎a& 象a イDN
9 (エ) 兎a ウ&E
9 (オ) 象a ウ&E
1 9 (カ) ∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 5オMPP
1 9 (キ) ∃y(鼻ya&長y) カ&E
ク(ク) 鼻ba&長b A
ク(ケ) 長b ク&E
1 9 (コ) ∃z(~鼻za&長z)→~象a 6キMPP
13 9 (サ) ∃y(耳ya&長y)&∀z(耳za→~鼻za) 7エMPP
13 9 (シ) ∃y(耳ya&長y) サ&E
ス(ス) 耳ba&長b A
ス(セ) 耳ba ス&E
13 9 (ソ) ∀z(耳za→~鼻za) サ&E
13 9 (タ) 耳ba→~鼻ba ソUE
13 9 (チ) ~鼻ba セタMPP
13 9ク(ツ) ~鼻ba&長b ケチ&I
13 9ク(テ) ∃z(~鼻za&長z) ツEI
13 9 (ト) ∃z(~鼻za&長z) キクテEE
13 9 (ナ) ~象a コトMPP
13 9 (ニ) 象a&~象a オナ&I
134 (ヌ) 象a&~象a 89ニEE
13 (ネ)~∃x~(兎x→~象x) 8ヌRAA
13 (ノ)∀x~~(兎x→~象x) ネ量化子の関係
13 (ハ)∀x(兎x→~象x) ノDN
13 (〃)すべてのxについて、xが兎であるならば、xは象ではない。 ノDN
13 (〃)兎は象ではない。 ノDN
従って、
(14)~(18)により、
(19)
たしかに、
① 象は鼻が長い。
② 象は鼻は長く、鼻以外は長くない。
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}⇔
④ すべてのxについて、xが象であるならば、あるyはxの鼻であって、長く、すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
に於いて、
①=②=③=④
といふ「等式」は、「正しい」。
然るに、
(20)
伝統的論理学を清水滉『論理学』(1916年)で代表させよう。わたしのもっているのが四十三年の第十九冊の一冊で、なお引き続き刊行だろうから、前後かなり多くの読者をもつ論理学書と考えられる。新興の記号論理学は、沢田允茂『現代論理学入門』(1962年)を参照することにする(三上章、日本語の論理、1963年、4頁)。
然るに、
(21)
私自身は、『論理学』を含めて、何から何まで、すべて、独学であるが、「三上章、日本語の論理、1963年」を読む限り、三上先生は、論理学を、学んでゐたとは、思へない。
従って、
(22)
「日本語の論理、1963年」は、「論理学」を知らない人が書いた、『日本語の論理』に関する「書籍」であると、言はざるを得ない。
然るに、
(23)
主語と主格とはどう違うのか。
主格は国際的な概念である。国語によって広狭も違い。互いに出入りもあるが中心的観念は共通だと考えられる。それが述語(広義の動詞)に係ることも国際的と見てよいだろう。
ただ係り方が二つに分かれる。独占的に述語に係るか、そうでない(他の格と合流)かである。
述語を独占する主格が主語であり。そうでない方は、主格に何も新しい性質が加わらないわけだから、どのまま主格と呼び続けるだけのことである。
ヨオロッパの主格は自縛して主語であり、日本語の主格は主格に止まるのである。
主語―述語の対
主格―対格、位格。デの核。カラの格などの補語仲間のトップ
(三上章、日本語の論理、1963年、171頁)
(24)
「何を言おうとしてゐるのか」、私には、「全く、分からない」。
(25)
主格は国際的な概念である。国語によって広狭も違い。互いに出入りもあるが中心的観念は共通だと考えられる。それが述語(広義の動詞)に係ることも国際的と見てよいだろう。
といふことに関しては、分かるやうな気がするものの、「この部分」は、「本題」ではない。
(26)
例へば、
Rex bonus equiti equum dat.
良い王は 騎兵に 馬を 与へる。
の場合、
dat.
三人称単数は与へる。
だけでも、「ラテン語」は、成立する。
従って、
(27)
Rex bonus equiti equum
良い王は(主格) 騎兵に(与格) 馬(対格)
といふ「3つの格」は、
dat.
三人称単数は与へる。
の「意味を補ふ所の、補語」である。
然るに、
(28)
Rex bonus equiti equum dat.
良い王は 騎兵に 馬を 与へる。
ではなく、
Rex bonus dat.
良い王は 与へる。
であれば、
与へる(述語)を、
良い王(主格)が、「独占」してゐる。
然るに、
(29)
equiti dat.
騎兵に 与へる。
であれば、
与へる(述語)を、
騎兵に(与格)が、「独占」してゐるし、
equum dat.
馬を 与へる。
であれば、
与へる(述語)を、
馬を(対格)が、「独占」してゐる。
従って、
(27)(28)(29)により、
(30)
Rex bonus equiti equum dat.
良い王は 騎兵に 馬を 与へる。
の場合は、
与へる(述語)を、「独占」してゐる「格」など、存在しない。
従って、
(30)により、
(31)
「述語を独占する主格」は無いが故に。
「述語を独占する主格が主語である。」といふこともあり得ず、それ故、
「述語を独占しない主格が主語ではなく、主格である。」といふこともあり得ない。
従って、
(31)により、
(32)
ただ係り方が二つに分かれる。独占的に述語に係るか、そうでない(他の格と合流)かである。
といふ「言ひ方」の「意味」が、「全く、分からない」。
(33)
「自縛」したら、「動けない」ため、主格は主格に止まる。⇒ヨオロッパ語の、主格は「主語」になれない。
とは、ならずに、
「自縛」したら、「動けない」ため、主格は主格に止まる。⇒ヨオロッパ語の、主格は「自縛」して「主語」である。
と、なるのが、「不思議」である。
(34)
「日本語には主語はない。」従って、「鼻が」は「主語」ではなく、「主格」である。
といふことを、言ひたいがための、「理屈」なのであらうとは、思ふものの、いづれにせよ、「私には、だういふことなのか、全く分からない。」
(35)
学校文法は単純な英語文法からの輸入で、主語・述語関係を単純に当てはめたものだ。そのため、「象は、鼻が長い」という単純な文でさえ、どれが主語だか指摘できず、複数主語だとか、主語の入れ子だとか、奇矯な技を使う。これに対して三上は、日本語には主語はない、とする。
(三上文法! : wrong, rogue and log)
(36)
「日本語」には、「英語」のやうな「主語」が無い。
といふのであれば、さの通りである。
然るに、
(37)
「漢文、ギリシャ語、ラテン語」にも、「英語」のやうな「主語」は無いのだから、「それだけの話」である。
(38)
「複数主語だとか、主語の入れ子だとか、奇矯な技を使う。」
とは言ふものの、
① 象は鼻が長い。⇔
② 象は鼻は長く、鼻以外は長くない。⇔
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}⇔
④ すべてのxについて、xが象であるならば、あるyはxの鼻であって、長く、すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
の場合は、「複数の主語(x、y、x)」があって、
③{ ( )( ) }
といふ「括弧」による、「入れ子」になってゐる。
(39)
「メンタルスペースのセットアップであり、そのメンタルスペースのスコープを形成する働きをもつと主張する」といふ「言ひかた」は兎も角、
③ ∀x{象x→
④ すべてのxについて、xが象であるならば、
といふことは、
③ これから象についてのことを述べますよ、
④ これから象についてのことを述べますよ、
といふ、ことであるため、この場合に、三上先生が、
③ 象は=これから象についてのことを述べますよ、
といふ風に、思ったことは、「自然なこと」である。
従って、
(40)
③ これから象についてのことを述べますよ、
④ これから象についてのことを述べますよ、
であるからと言って、そのことが、「特筆」に値する。とは、思はない。
然るに、
(41)
このうち、「象は鼻が長い」と「日本語の論理」をオススメする。あまりのクリアカットな主張に、愕然とする、なるほどそうだったのか、僕らは何も知らなかったのだなと。
(三上文法! : wrong, rogue and log)
従って、
(01)~(41)により、
(42)
(三上文法! : wrong, rogue and log)の記者の方とは、異なり、私自身は、「三上文法」を、全く、評価しない。
令和元年、06月07日、毛利太。
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