2014年11月27日木曜日

「括弧」は無いのかな。

(01)
① I know that he is a good student=
① I know[that〔he is(a good student)〕]⇒
① I [〔he(a good student) is〕that]know=
① 私は[〔彼が(良い生徒)である〕といふことを]知ってゐる。
然るに、
(02)
① I know that he is a good student.
は、that を、「省略」して、
① I know he is a good student.
としても、かまわない。
従って、
(01)(02)により、
(03)
that=といふこと=[・・・・・] とするならば、
① I know he is a good student.
には、[括弧]があって、その[括弧]が、「省略」されてゐる。
従って、
(03)により、
(04)
① I know he is a good student.
② I see he is a good student.
に、「括弧(that)」は、有ります。
然るに、
(05)
【知覚動詞】
see,hear,smell,feel など
I hear him singing.(彼が歌っているのが聞こえる)
(旺文社、高校総合英語、1989年、106頁)
然るに、
(06)
「聞鳥啼樹」を「鳥の樹に啼くを聞く。」と訓読するときには、前記の「レ」と「一・二」とを合わせてもちいることになり、「啼樹」の部分には「レ」を、「聞・ ・ ・ ・ ・啼」には「一・二」の符号をつけて示す(旺文社、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
③ 我 聞  鳥  啼 樹 =
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕=
③ I hear〔birds singing(in the trees)〕⇒
③ I 〔birds (in the trees)singing〕hear=
③ 我〔鳥の(樹に)啼くを〕聞く。
に於いて、「括弧(that)」が有っても、「矛盾」は、しない。
然るに、
(08)
その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
然るに、
(09)
③ 啼樹=
③ 啼(樹)=
③ singing(in the trees)
等は、「補足構造」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 啼樹=
③ 啼(樹)⇒
③(樹に)啼く。
といふ「漢文訓読」は、「漢文と国語の補足構造の違ひ」による、「必然」であり、
③ 我 聞  ・・・・・ =
③ 我 聞〔・・・・・〕⇒
③ 我 〔・・・・・〕聞=
③ 我 〔・・・・・を〕聞く。
といふ「漢文訓読」も、「漢文と国語の補足構造の違ひ」による、「必然」である。
従って、
(10)により、
(11)
③ 〔( )〕 を介して、
③ 我 聞 鳥 啼 樹 ⇔
③ 我 鳥の 樹に 啼くを 聞く。
といふ「漢文訓読」が成立する「所以」は、要するに、『補足構造の語順が、逆である』からに、他ならない。
従って、
(11)により、
(12)
③ 我 聞 鳥 啼 樹。
といふ「漢文」は、固より、「それ自体」として、
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕。
といふ「補足構造(シンタックス)」をしてゐる。と、すべきである。
従って、
(13)
仮に、
③ 我 聞 鳥 啼 樹 ⇔
③ 我 鳥の 樹に 啼くを 聞く。
といふ「関係」が、「分りにくい」のであれば、その場合、
③ 我 聞 鳥 啼 樹。は、
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕。
といふ風に、書くべきである。
従って、
(14)
省略できるものはすべて省略するというのではなく、省略するかしないかは、「わかりやすい表現かどうか」を基準に判断して下さい(中内伸光、ろんりの練習帳、2002年、71頁)。といふアドバイスは、「論理学の括弧」に関してだけでなく、「漢文の括弧」に於いても、当てはまると、すべきである。
従って、
(13)(14)により、
(15)
① 民可使由之、不可使知之(民は之を由らしむべし、之を知らしむべからず)
② 民可使、由之。不可使、知之(民の使うべきは之を由らしめよ。使うべからざるは之を知らしめよ)
③ 民可、使由之。不可、使知之。(民、可ならば、之を由らしむ。不可ならば、之を知らしむ)
④ 民可使、由之不可。使知之。(民は使うべし、之に由らしむるは不可なり。之を知らしむ)
をどう正確に読解するか、極めてむずかしい(黄文雄、儒禍、2014年、300頁)といふことは、
① 民可[使〔由(之)〕]、不{可[使〔知(之)〕]}。
② 民可(使)、由(之)。不〔可(使)〕、知(之)。
③ 民(可)、使〔由(之)〕。不(可)、使〔知(之)〕。
④ 民〔可(使)〕、由(之)不(可)。使〔知(之)〕。
のうちの、「どれであるのか」といふことが、「難しい」。といふことに、他ならない。
cf.
四書五経についての教育は、私が最後の世代かも知れない。小学校に入る前に、『論語』、『孟子』、『大学』などを暗誦できたが、『中庸』までは暗誦できずに国民学校に入った(黄文雄、儒禍、2014年、331頁)。だが、
漢文古典の白話文(現代語訳)は中国語以上に日本の訓読はすぐれていると、私にかぎらず、たいてい漢文教育を受けてきた私の友人は、異口同音で、そう実感していた(黄文雄、儒禍、2014年、299頁)。
然るに、
(16)
その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
といふことからすれば、私には、
① 民可[使〔由(之)〕]、不{可[使〔知(之)〕]}⇔
① 民は[〔(之を)由ら〕使む]可し、{[〔(之を)知ら〕使む]可から}不。
とするのが、「一番、分かりやすい」。
従って、
(17)
近年、中国のインターネット上でよく話題になっているが、これは四通りに切りうる(加藤徹、本当は危ない『論語』、2011年、157頁)。とのことであっても、「昔からある、次の議論」の方が、私には、「分かりやすい」。
(18)
この言葉は「民にはなにも知らせてはならない、信頼させて黙ってついてこさせるべきだ」と解釈され、それを戦時中の日本になぞらえて批判されてたわけだが、〈中略〉この「可・不可」は「できる、できない」の意味。したがって「民衆からは、その政治に対する信頼をかちうることはできるが、政治の内容を知らせることはむずかしい」という事実を、そのまま述べた言葉である(山本七平、論語の読み方、1981年、18頁)。
すなはち、
(19)
①「できる(CAN)・できない」
②「すべきである(SHOULD)・すべきでない」
のうちの、どちらかである。とする「議論」の方が、「分かりやすい」。
平成26年11月27日、毛利太。

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