2014年11月13日木曜日

「不敢視」について。

(01)
「日本語」では、
敢へて言ふ=(言ひたくないけれど)敢へて言ふ。
cf.
あえて【敢えて】(副)①しいて、無理に dare(旺文社、英訳つき国語総合新辞典、1998年)
然るに、
(02)
言ひたくないけれど言ふ。
といふことは、
言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを上回ってゐる。
といふことに、他ならない。
従って、
(03)
「漢文」と、「日本語(訓読)」に於いて、
敢言=敢へて言ふ。
であるならば、その「否定」は、
不敢言=(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを上回らないので、)言はない。
といふ、ことになる。
従って、
(03)により、
(04)
不敢言=(言ひたいけれど、)言はない。
然るに、
(05)
言ひたい気持ちが大きい場合は
不敢言=(言ひたいけれど、)言はない。
といふよりも、
不敢言=(言ひたいけれど、)言ない。
と、すべきである。
従って、
(05)により、
(06)
不敢視=(視たいけれど、)視ない。
従って、
(06)により、
(07)
昆弟妻嫂側目不敢視=
昆弟妻嫂目を側目めて敢へて視ず(十八史略)。
の、
不敢視=(視たいけれど、)視れない
を、
見ることができなかった(日英社、要説 十八史略・史記、1970年、147頁)。
と訳してゐることは、納得がいく。
然るに、
(08)
不敢視=(視たいけれど、)視ない。
の、
ない。
は、普通であれば、
視=視ない。
従って、
(08)により、
(09)
視=
従って、
(09)により、
(10)
仰視=莫仰視
従って、
(10)により、
(11)
左右皆泣莫仰視=
左右皆泣莫仰視
であるものの、私が、今日まで、記憶してゐたのは、
左右皆泣莫仰視(笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、60頁)。
ではなく、
左右皆泣莫仰視(旺文社、漢文の基礎、1973年、259頁)。
である。
(12)
といふわけで、何が言ひたいのか言ふと、
以前から、このやうな場合の「(dare)」には、「(can)」といふ「意味合ひ(ニュアンス)」があるはずであると、思ってゐたところ、奇しくも、
(笠間書院、60頁)=
(旺文社、 259頁)
によって、それが、今日、確かめられた。といふことである。
然るに、
(13)
言ひたい気持ちが大きい場合は、
言=(言ひたいけれど、)言はない。
といふよりも、
言=(言ひたいけれど、)言ない。
と、すべきである。
という風に、私をして、思はしめたのは、「私の、日本語の語感」である。
然るに、
(14)
「敢」といふ漢字を、グーグル翻訳にかけると、
「敢」⇒「Dare」
である。
従って、
(13)(14)により、
(15)
あるいは、中国語ネイティブの方たちも、
言ひたい気持ちが大きい場合は、
視=(視たいけれど、)視ない。
といふよりも、
視=(視たいけれど、)視ない。
と、すべきである。といふ風に、思はれるのかも、知れない(?)。
cf.
至是為従約長併相六国。行過洛陽。車騎輜重、擬於王者。昆弟妻嫂、側目不敢視(十八史略、蘇秦・張儀、合従連衡)。
平成26年11月13日、毛利太。

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