(01)
① 生徒は、必ず、教師に及ばない。
② 教師であって、生徒に及ばない者はゐない。
といふ「日本語」を、「漢文」で書くと、
① 生徒必不如教師=生徒は必ず、教師に如かず。
② 無教師不如生徒=教師として生徒に如かざるは無し。
然るに、
(02)
① 生徒必不如教師。
の「否定」は、
③ 生徒不必不如教師=
③ 生徒不[必不〔如(教師)〕]⇒
③ 生徒[必〔(教師)如〕不]不=
③ 生徒は[必ずしも〔(教師に)如か〕不んばあら]不=
③ 生徒は[必ずしも〔(教師に)及ば〕ないといふことは]ない。
(03)
② 無教師不如生徒。
の「否定」は、
④ 非無教師不如生徒者=
④ 非{無[教師不〔如(生徒)〕者]}⇒
④ 非{無[教師不〔如(生徒)〕者]}=
④ {[教師〔(生徒)如〕不者]無}非=
④ {[教師として〔(生徒に)如か〕不る者]無き}非ず=
④ {教師であって〔(生徒に)及ば〕ない者が]ゐないわけでは}ない。
然るに、
(04)
① 生徒は、必ず、教師に及ばない。
② 教師であって、生徒に及ばない者はゐない。
に於いて、
①は、②の「言ひ換へ」であって、
③ 生徒は必ずしも教師に及ばないといふことはない。
④ 教師であって生徒に及ばない者がゐないわけではない。
に於いて、
③は、④の「言ひ換へ」である。
然るに、
(05)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(02)~(05)により、
(06)
① = ②
~(①)=~(②)
であるものの、このことを、「等値の対偶則」といふ。
従って、
(04)(06)により、
(07)
① 生徒必不如教師=生徒は必ず、教師に如かず。
② 無教師不如生徒=教師として生徒に如かざるは無し。
③ 生徒不必不如教師 =生徒は必ずしも教師に如か不んばあら不。
④ 非無教師不如生徒者=教師にして生徒に如か不る者無きに非ず。
といふ、
① 壱重否定。
② 弐重否定。
③ 弐重否定。
④ 参重否定。
は、「左辺(漢文)」も、「右辺(訓読)」も、両方とも、「論理学的」である。
従って、
(08)
① 壱重否定。
② 弐重否定。
③ 弐重否定。
④ 参重否定。
に於いて、「左辺(漢文)」だけが、「論理学的」である。
とは、言へない。
従って、
(08)により、
(09)
でも、私はそんなことは無い!!と強く言いたいです!!
「日本語は非論理的で英語は論理的な言語だ。」
という主張を完膚なきまでに論破したいです><;
に対する「ベストアンサー(hjghnmdm85さん)」=
日本語(倭語)は江戸時代までは和歌や小説専門の言語でした。論理的な文章は全て漢語で書いています。今の日本語は漢語の要素を多大に取り入れているとはいえ、元がこれではそもそも論理的なわけがありません。これも歴史を学べばわかります。
は、マチガイです。
(10)
英語が、「論理的」かどうかといふ「質問」を、
英語は、「論理学的」かといふ「質問」に変へるならば、明らかに、No.であると、断言できます。
(11)
つまりは、「英語」は、「論理的」であったとしても、すくなくとも、「漢文訓読」に比べたら、明らかに、「論理学的」では、ありません。
(12)
11月08日の記事でも、書いたやうに、「二重否定」さえ、まともに表現できない「英語」が、「論理学的」であるはずが、ありません。
平成26年11月16日、毛利太。
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