(01)
荻生徂徠は、漢文を読むが、英文は読まない。
ラッセルは、英文を読むが、漢文を読まない。
とする。
従って、
(01)により、
(02)
① 荻生徂徠読(漢文)=荻生徂徠(漢文を)読む。
② 荻生徂徠読(英文)=荻生徂徠(英文を)読む。
③ ラッセル読(漢文)=ラッセル(漢文を)読む。
④ ラッセル読(英文)=ラッセル(英文を)読む。
に於いて、
① は「真(1)」であって、
② は「偽(0)」である。
③ は「偽(0)」であって、
④ は「真(1)」である。
然るに、
(03)
① 荻生徂徠読(漢文)。
② 荻生徂徠読(英文)。
③ ラッセル読(漢文)。
④ ラッセル読(英文)。
を、
① 読(荻生徂徠、漢文)。
② 読(荻生徂徠、英文)。
③ 読(ラッセル、漢文)。
④ 読(ラッセル、英文)。
といふ風に、書くことにする。
然るに、
(04)
ところで、このレーマは現在のことばでいえば明らかに命題関数である。つまりf(ⅹ)、f(ⅹ,y)、f(ⅹ、y、z)といったものである(山下正男、論理学史、1983年、95頁)。
然るに、
(05)
「レーマ(ΡΗΜΑ)」は、ギリシャ語で、「名詞(ΟΝΟΜΑ)」に対する「動詞(ΡΗΜΑ)」のことを言ふ。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① 読( )。
② 読( )。
③ 読( )。
④ 読( )。
は、「主語と、目的語の、関数」である。
従って、
(06)により、
(07)
① 荻生徂徠読( )。
② 荻生徂徠読( )。
③ ラッセル読( )。
④ ラッセル読( )。
は、「目的語の、関数」である。
然るに、
(08)
① 読( )。
② 読( )。
③ 読( )。
④ 読( )。
に於いて、
① 荻生徂徠
② 荻生徂徠
③ ラッセル
④ ラッセル
といふ「主語」が、「省略」されてゐる。ものとする。
従って、
(07)(08)により、
(09)
⑤ 読( )。
は、「目的語の、関数」である。
然るに、
(10)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「真(1)」である時、その「否定」、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「偽(0)」であって、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「偽(0)」である時、その「否定」、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「真(1)」である。
加へて、
(11)
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「真(1)」である時、その「否定」、
③ 非[不〔読(漢文)〕]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「偽(0)」であって、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「偽(0)」である時、その「否定」、
③ 非[不〔読(漢文)〕]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「真(1)」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ 非[不〔読(漢文)〕]⇒
③ [〔(漢文)読〕不]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「関数の、関数の、関数」である。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]。
といふ「漢文」が、、
③ 非[不〔読(漢文)〕]⇒
③ [〔(漢文)読〕不]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
のやうに「訓読」出来るといふことは、
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]。
といふ「漢文」が、
③「補足構造の、補足構造の、補足構造」である。といふことを、意味してゐる。
然るに、
(15)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふことは、この場合は、
1.『主述関係』
2.『修飾関係』
3.『補足関係』
4.『並列関係』
に於いて、
1.『主述関係』
2.『修飾関係』
4.『並列関係』
に関して、「国語と漢文は、同じである。」
といふことに、他ならない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
に対して、
1.我(主述関係)
2.常(修飾関係)
2.者(修飾関係)
を加へて、
④ 我非不常読漢文者=
④ 我非[不〔常読(漢文)〕者]⇒
④ 我[〔常(漢文)読〕不者]非=
④ 我は[〔常には(漢文を)読ま〕不る者に]非ず。
のやうにしても、「漢文訓読」は、成立する。
従って、
(15)(16)により、
(17)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」一方で、
「補足構造以外の語順は、漢文と国語の語順は同じである。」が故に、
③ 非不読漢文=
③ 漢文を読ま不るに非ず=
③ 漢文を読まないのではない。
といふ「漢文訓読」に加へて、
④ 我非不常読漢文者=
④ 我は常には漢文を読ま不る者に非ず=
④ 私は、時には漢文を読まない者ではない(私は常に漢文を読む)。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(18)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対であるが、補足構造以外の語順は、漢文と国語の語順は同じである。」といふ「条件」を、「訓読の条件」とするならば、「ある言語」は、「訓読の条件」を満たしてゐない。といふことが、予想される。
然るに、
(19)
通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない(ウィキペディア:漢文)。近代に至るまで、白話は、民衆語として低俗なものとされていたが、1917年(民国6年)、胡適が、アメリカから雑誌『新青年』に「文学改良芻議」を寄稿し、近代的プラグマティズムの観点から、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱した(ウィキペディア:白話)。
従って、
(18)(19)により、
(20)
もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になる「白話(中国語)」は、「訓読の条件」を、満たしてゐない。
従って、
(20)により、
(21)
「漢文」は、「訓読の条件」を満たしてゐて、「中国語」は、「訓読の条件」を満たしてゐない。以上、「漢文」には、「訓読の条件」といふ「ルール」が有る。
従って、
(22)
「漢文」には、「訓読の条件」といふ「ルール」が有って、その「ルール」を、「文法」と呼ぶのであれば、「漢文」には、「文法(ルール)」がある。
従って、
(23)
「そもそも、漢文には文法が存在しない。」といふ「見解」は、「誤り」である。
平成26年11月05日、毛利太。
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