2014年11月8日土曜日

二重否定(仮題)。

(01)
無=No
人=man
不=doesn’t
死=die.
従って、
(01)により、
(02)
① 無人不死=
② No man doesn’t die.
然るに、
(03)
① 無い=不有(有らず)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 無人不死=
① 不有人不死=
① 不[有〔人不(死)〕]⇒
① [〔人(死)不〕有]不=
① [〔人として(死せ)不るは〕有ら]不=
① Mors omnibus communis=
① Death is common to all men.
然るに、
(05)
然るに、
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))⇒
③ ((Mⅹ&(Dⅹ)~)(∃ⅹ))~=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
従って、
(01)~(04)により、
(06)
① 無人不死=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
然るに、
(07)
しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した(ウィキペディア:二重否定)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、「英語の否定呼応」は、抹殺されずに、「生きている」。
然るに、
(09)
① 無〔人不(死)〕=
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
であるためには、
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕。
のやうに、
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
である、「必要」がある。
然るに、
(10)
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
であるためには、
② Noman=一語
ではなく、
② No man=二語
である「必要」が、ある。
従って、
(08)~(10)により、
(11)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、
④ No man dies(誰も死なない).
ではなく、
④ Noman dies(誰も死なない).
であると、思はれる。
然るに、
(12)
いづれにせよ、
① 無(人不死)=(人として死せざるは)無し。
① 無(書不読)=(書として読まざるは)無し。
① 無(草不枯)=(草として枯れざるは)無し。
① 無(物不長)=(物として長ぜざるは)無し。
① 無(日不雲)=(日として雲らざるは)無し。
① 無(夕不飲)=(夕として飲まざるは)無し。
⑤ 無(処不傷心)=(処として心を痛めしめざるは)無し。
⑤ 無(教師不如生徒)=(教師として生徒に如かざるは)無し。
・  ・  ・  ・  ・  ・
だけでなく、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「漢文」の場合も、
⑤ 無(所往而不為義)=(往く所として義為らざるは)無し。
との、ことである。
cf.
「笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、58頁」。
然るに、
(13)
⑤ 無(所往而不為義)。
ではなく、
⑥ 無(所往)而不為義。
であるならば、
⑥ 無(所往)而不為義=(往く所)無くして、義為らず。
である。
然るに、
(14)
⑤(往く所として義為らざるは)無し。
⑥(往く所)無くして、義為らず。
に於いて、
⑤と⑥は、もちろん、「同じ意味」ではない。
然るに、
(15)
「漢文(白文)」自体には、「括弧」が書いてあるわけではないので、見た目では、
⑤ 無所往而不為義。
に於いて、
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
の「区別」が、付かない。
cf.
また、童話の題名「眠れる森の美女」も、実は眠っているのは「森の美女」ではなく、「森」であるという話がある。フランス語の原題”La Belle au bois dormant”で、形容詞の性をみるとそう解釈できるのだという。
(木村大治、括弧の意味論、2011年、18頁改)
従って、
(16)
このように「」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふことは、
このように「」が頭にきているときにも、当てはまる。
然るに、
(17)
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
は、「正確」には、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
であるため、
⑤と⑥の違ひは、
⑥[ ]の有無の違ひである。
従って、
(13)(14)(17)により、
(18)
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所往而不為義]。
であると、思ったときに、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]⇒
⑤ [(往)所而〔(義)為〕不]無=
⑤ [(往く)所として〔(義)為ら〕不るは]無し。
といふ風に、「訓読」する。ことになる。
然るに、
(19)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 往く所として義為ら不るは無し。
と読むとしたら、その時には、既に、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思ってゐる。」ことになる。
然るに、
(20)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思った。」のは、「何時」かと言へば、当然、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、「見てゐる時」である。
従って、
(20)により、
(21)
さうである以上、
⑤ 無所往而不為義。
を、「よく見る事」こそが、「大切」なのであって、それ故、二畳庵主人曰く、
この「見る」という造形的感覚はだれでもが持っている。けっして特殊な才能を要さない。「読書百遍、意おのずから通ず」(何度も読んでいるうちに、意味がしぜんとわかる)ということの第一段は、この「見る」、骨格を「見る」ということだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、324頁)。といふことになる。
然るに、
(22)
以上のやうに、二畳庵主人が書いたのは、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
ではなく、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
に関してであって、尚且つ、
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふ「事情」がある。
(23)
もちろん、「二畳庵主人、漢文法基礎」では、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
ではなく、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
であるものの、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
と、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
は、「同じこと」なので、
①〔( )〕( )( )。が、「古注」で、
②〔( )( )〕( )。が、「新注」である。
といふ、ことになる。
従って、
(22)(23)により、
(24)
有祝鮀之佞而有宋朝之美。
を関して、
〔有祝鮀之佞〕而有宋朝之美。
〔有祝鮀之佞而有宋朝之美〕。
に於いて、
①のやうに、「」が、「半」に係る。のか、
②のやうに、「」が、「全体」に係る。のか、
といふ「議論」は、実質的に、朱子も行ってゐる。ことになる。
然るに、
(25)
「新儒教」の朱子学の創始者である朱子は、「漢文訓読」など、行はない。
従って、
(24)(25)により、
(26)
「漢文訓読」の問題(issue)ではなく、「漢文」の問題(issue)として、「括弧」は有ります!。
平成26年11月08日、毛利太。

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