2014年12月28日日曜日

「括弧(scope)」は有ります(Ⅱ)。

(01)
① I meet 先生。
② I become 先生。
に於いて、
① 先生 は、「目的語(object)」であって、
② 先生 は、「補語(complement)」である。
然るに、
(02)
英語とは異なり、漢文の場合は、
目的語と補語とは、それほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(数研出版、基礎からの漢文、1995年、26頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 読書    =書を読む。
② 読論語   =論語を読む。
③ 読韓非子=韓非子を読む。
に於いて、
① 読 の「補足語」は、書。
② 読 の「補足語」は、論語。
③ 読 の「補足語」は、韓非子。
である。
従って、
(03)により、
(04)
② 読 の「補足語」は、論。
③ 読 の「補足語」は、韓非。
とすれば、マチガイであって、
③ 読韓非子=韓非子を読む。
に於ける、
③ 読 の「補足語」は、飽くまでも、「韓非子」である。
従って、
(04)により、
(05)
③ 読韓非子=韓非子を読む。
に於いて、
③ 読      といふ「一つの漢字」は、
③ 韓非子 といふ「三つの漢字」に、かかってゐる。
然るに、
(06)
③ 読韓非子=韓非子を読む。
といふ「命題」の「否定」は、
④ 不読韓非子=韓非子を読まず。
である。
従って、
(06)により、
(07)
④ 不読韓非子=韓非子を読まず。
といふ「命題」に於いて、
④ 不    といふ「一つの漢字」は、
④ 読韓非子 といふ「四つの漢字」に、かかってゐる。
然るに、
(08)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
④ 不(読韓非子)=韓非子を読まず。
④ ~(読韓非子)=韓非子を読まず。
といふ「命題」に於いて、
④ 不    といふ「一つの漢字」、並びに、
④ ~    といふ「一つの記号」は、
④ 読韓非子 といふ「四つの漢字」に、かかってゐて、そのことは、
④ ( )が、「明示」してゐる。
然るに、
(10)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁改:命題論理、今仁生美)。
従って、
(09)(10)により、
(11)
④ 不(読韓非子)=韓非子を読まず。
④ ~(読韓非子)=韓非子を読まず。
といふ「命題」に於いて、
④ ( )は、
④ 不=~
といふ「一字」が「かかる範囲(スコープ)」を、「明示」してゐる。
然るに、
(05)(11)により、
(12)
④ 不読韓非子=
④ 不〔読(韓非子)〕。
といふ「命題」に於いて、
④ 〔 〕は、
④ 不
が「かかる範囲(スコープ)」を、「明示」し、
④ ( )は、
④ 読
が「かかる範囲(スコープ)」を、「明示」してゐる。
然るに、
(13)
管到というのは、「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)
といふことは、「横書き」であれば、
管到というのは、「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということである。
従って、
(10)(13)により、
(14)
「スコープ(scope)」とは、漢文でいふ、「管到」に、他ならない。
従って、
(12)(14)により、
(15)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於ける、
④ 〔( )〕。
は、
④ 不読韓非子。
に於ける、
④「管到(スコープ)」を「明示」してゐる。
従って、
(15)により、
(16)
④ 不読韓非子。
といふ「漢文」には、固より、「管到(スコープ)」が有って、その「管到(スコープ)」を「明示」した「結果」が、
④ 不〔読(韓非子)〕。
である。といふ、ことになる。
然るに、
(04)により、
(17)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於いて、
④ (韓非子)は、
④ 読 の、「補足語」である。
従って、
(17)により、
(18)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於いて、
④ 〔読(韓非子)〕は、
④ 不 の、「補足語」である。
従って、
(17)(18)により、
従って、
(19)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於ける、
④ 〔( )〕。
は、
④ 不読韓非子。
に於ける、
④ 「補足構造」を、「明示」してゐる。
従って、
(16)(19)により、
(20)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於ける、
④ 〔( )〕。
は、
④ 不読韓非子。
に於ける、
④ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
を「明示」してゐる。
従って、
(20)により、
(21)
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
に於ける、
⑤ {[〔( )〕( )]}。
といふ「括弧」は、
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
に於ける、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
を「明示」してゐる。
然るに、
(22)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(21)(22)により、
(23)
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ「漢文の補足構造」は、「国語」では、
⑤ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、「語順」になる。
従って、
(24)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
に対して、
⑤ {[〔( )〕( )]}。
といふ、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
が、「認められる」からこそ、
⑤ の「補足構造における語順」は、「国語」とは全く反対である。
といふ「事実」に基づいて、
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文=
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
⑤ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
⑤ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、「漢文訓読」が、「可能」になる。
従って、
(25)
A:「補足構造」=「管到(スコープ)」=「括弧」
B:「漢文」の「補足構造における語順」は、「国語」とは全く反対である。
といふ「二点(必要十分条件)」が有るが故に、
『返り点に対する「括弧」の用法』は、「可能」になる。
然るに、
(26)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」に、
⑤  「補足構造」=「管到(スコープ)」=「括弧」
が、有ることと、
B: 「漢文」の「補足構造における語順」は、「国語」とは全く反対である。
といふことは、「直接には、関係が無い」。
従って、
(25)(26)により、
(27)
「漢文訓読」とは、「関係なく」、
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文=
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」=「括弧」
が有って、「偶然」にも、
B:「漢文」の「補足構造における語順」は、「国語」とは全く反対である。
といふことから、
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
⑤ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
⑤ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、『返り点に対する「括弧」の用法』は、「可能」になる。
従って、
(28)
「漢文訓読」の、「是非」に拘わらず、すなはち、
中国語を自習され、私に中国語についてするどい質問をされたこともある丸山真男さんは、徂徠が、「自分は一生懸命本来の古典漢文を読んでいるつもりでも、日本式に返り点でひっくり返して読んでいるから、どうしても日本的な考え方を対象に無意識に投影し、それだけ中国の古典本来の意味からずれてしまう」(『「文明之概略を」読む』上、岩波新書、一九八六年)と力説していた、と書いている(安藤彦太郎、中国語と近代日本、1988年、63頁)。
といふこととは、「関係なく」、
⑤ 我不必求以解論理学法解漢文.
といふ「漢文」には、
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ「括弧」が、存在する。
いづれにせよ、
(29)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
に於いて、少なくとも、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
は、存在する。
然るに、
(10)により、
(30)
⑤ 「括弧」は、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
を「明示」する働きを持つ。
従って、
(29)(30)により、
(31)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」に、
⑤「補足構造」=「管到(スコープ)」
といふ、「抽象的な構造」が、有るならば、その「抽象的な構造」は、「具体的」には、
⑤ 我不{必求[以〔解(論理学)法〕解(漢文)]}。
といふ「構造」をしてゐる。と、せざるを得ない。
従って、
(31)により、
(32)
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」=「括弧」 
は、有ります。
平成26年12月28日、毛利太。

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