2017年8月27日日曜日

「自然演繹」の「日本語訳」。

(01)
1  (1)P→Q           A
2  (2) ~Q           A
3  (3)P             A
13 (4)  Q           13MPP
123(5)~Q&Q          24&I
13 (6)~P            35RAA
然るに、
(02)
右の「自然演繹」を、「日本語」で行ふと、
(1)Pならば、Qである。
(2)ところが、Qでない。
(3)従って、Pである。と「仮定」すると、
(4)Qである。となって、そのため、
(5)Qでないのに、Qである。といふことになり、「矛盾」する。
(6)従って、Pである、はずがない。
といふ、ことになる。
従って、
(01)(02)により、
(03)
1  (1)P→Q           A
2  (2) ~Q           A
3  (3)P             A
13 (4)  Q           13MPP
123(5)~Q&Q          24&I
13 (6)~P            35RAA
といふ「自然演繹」は、「具体的」には、例へば、
(1)天気が良ければ、運動会は行はれる。
(2)ところが、運動会は行はれなかった。従って、
(3)天気が良かった。と「仮定」すると、
(4)運動会は行はれた。ことになり、そのため、
(5)運動会は行はれなかったのに、運動会は行はれた。といふ風に、「矛盾」する。
(6)従って、天気が良かった、はずがない。
といふ「推論」が、「それ」に当る。
然るに、
(04)
(1)天気が良ければ、運動会は行はれる。
といふ「言ひ方」は、
(1)天気が悪ければ、運動会は中止される。
といふ風に、「言ひ換へ」ることが、出来る。
然るに、
(05)
自然演繹は、私たちの認識の根底に近い
私たちは、生まれたときから、誰から教わったわけでもなく、いろいろな推論ができるようになっています。例えば、
雨が降ったら、運動会は中止」と「去年は、運動会が実施された」から、「去年の運動会の日は、雨じゃなかったはず」という推論が自然に出来ます。
これは、そういう思考を訓練した、というより、私たちの自然な認識能力なのでしょう。
(小島寛之、証明と論理に強くなる、2017年、137頁)
従って、
(01)~(05)により、
(06)
1  (1)P→Q           A
2  (2) ~Q           A
3  (3)P             A
13 (4)  Q           13MPP
123(5)~Q&Q          24&I
13 (6)~P            35RAA
といふ「推論(自然演繹)」を行ふのは、私たちの「自然な認識能力」なのでせう。
といふ風に、小島寛之先生は、述べてゐる。
然るに、
(07)

1  (1)P→Q           A
2  (2) ~Q           A
3  (3)P             A
13 (4)  Q           13MPP
123(5)~Q&Q          24&I
12 (6)~P            35RAA
1  (7)~Q→~P         26CP
   (08)(P→Q)→(~Q→~P) 17CP 
(08)
1  (1)~Q→~P         A
2  (2) P            A
3  (3)~Q            A
13 (4)~P            13MPP
123(5)~P&P          24&I
12 (6)~~Q           35RAA
12 (7)  Q           6DN
1  (8) P→Q          27CP
   (9)(~Q→~P)→(P→Q) 18CP
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
自然演繹」により、
① PであるならばQである( P→ Q)。
② QでないならばPでない(~Q→~P)。
に於いて、
①=② である。
cf.
対偶(Contraposition)。
然るに、
(10)
① PであるならばQである。
といふ「言ひ方」は、
② Pである場合は、Qである場合に、「含まれる」。
といふ風に、「解する」ことが、出来る。
然るに、
(11)
① PであるならばQである(P→Q)。
② PはQに含まれる。
③ Q以内にPは在る
④ Q以外にPは無い
⑤ QだけがPである。
⑥ QでないならばPでない(~Q→~P)。
(12)
① QでないならばPでない(~Q→~P)。
② QだけがPである。
③ Q以外にPは無い
④ Q以内にPは在る
⑤ PはQに含まれる。
⑥ PであるならばQである(P→Q)。
従って、
(11)(12)により、
(13)
日本語の論理」により、
① PであるならばQである( P→ Q)。
② QでないならばPでない(~Q→~P)。
に於いて、
①=② である。
従って、
(09)(13)により、
(14)
自然演繹の論理・日本語の論理」により、いづれにしても、
① PであるならばQである( P→ Q)。
② QでないならばPでない(~Q→~P)。
に於いて、
①=② である。
(15)
1(1)P A
 (2)P→P 11CP
(E.J.レモン、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、64頁)
を、「日本語」に「翻訳」すると、
(1)Pであると、仮定すると、Pである。
 といふことは、
(2)もしも、Pであるならば、Pである。
 といふことに、他ならない。
といふ、ことになる。
然るに、
(16)
1 (1) ~(P∨~P)        A
2 (2)   P            A
2 (3)   P∨~P         2VI
12(4) ~(P∨~P)&(P∨~P) 13&I
1 (5)     ~P         24RAA
1 (6)   P∨~P         5VI
1 (7) ~(P∨~P)&(P∨~P) 16&I
  (8)~~(P∨~P)        17RAA
  (9)   P∨~P         8DN
(E.J.レモン、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、67頁)
といふ「定理(排中律)」を、「日本語」に「翻訳」すると、
(1)(PであるかPでない)が、「偽」であると、「仮定」する。
(2)(Pである)が、「真」であると「仮定」する。然るに、
(3)(Pである)が、「真」であるならば、(PであるかPでない)は、「真」である。従って、
(4)(PであるかPでない)が、「偽」であって「真」である。となって、「矛盾」する。従って、
(5)(Pである)が、「真」であるといふ「仮定」は、否定され、それ故、(Pでない)が、「真」である。然るに、
(6)(Pでない)が、「真」であるならば、(PであるかPでない)は、「真」である。従って、
(7)(PであるかPでない)が、「偽」であって「真」である。となって、「矛盾」する。従って、
(8)(PであるかPでない)が、「偽」であるといふ「仮定」は、「否定」され、それ故、
(9)(PであるかPでない)が、「偽」ではなく、「真」である。
といふ、ことになる。
平成29年08月27日、毛利太。

0 件のコメント:

コメントを投稿