―「昨日(H31年01月21日)の記事」の続きを書きます。―
従って、
(42)(43)により、
(44)
④ 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
④ 是以、大學始敎、必使〈學者皍(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
④ 是以、大學始敎、必〈學者(凡天下之物)皍、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
④ 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)皍きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「漢文訓読」に於ける、
④〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ『括弧』は、
(ⅰ)一つには、「漢文訓読」の「語順」 を示してゐて、
(ⅱ)一つには、「漢文自体」の「補足構造」を示してゐる。
従って、
(42)(44)により、
(45)
「漢文における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふ「事情」が、有るからこそ、
④ 是以、大學始敎、必使〈學者皍(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉
に於ける、
④ 〈 ( ) { [ ( ) ( ) 〔 ( )〕]}〉
といふ『括弧』は、
(ⅱ)「漢文自体」の「補足構造」を示してゐる。
従って、
(44)(45)により、
(46)
④ 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、
④ 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)皍きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ風に、「訓読」したとしても、
(ⅲ)「語順」 に関しては、「同じ」ではないが、
(ⅱ)「補足構造」に関しては、「変り」がない。
然るに、
(47)
例へば、
⑤ ἐν ἀρχῇ ἐποίησεν ὁ θεὸς τὸν οὐρανὸν καὶ τὴν γῆν=
⑤ ἐν(ἀρχῇ)ἐποίησεν(ὁ θεὸς τὸν οὐρανὸν καὶ τὴν γῆν)⇒
⑤ (ἀρχῇ)ἐν(ὁ θεὸς τὸν οὐρανὸν καὶ τὴν γῆν)ἐποίησεν=
⑤ (初め)に(神は天と地とを)創造した。
の場合は、
⑤ (神は天と地とを)
のやうに、 ( )の中に、
(主語 と 目的語)が有る。
従って、
(47)により、
(48)
⑤ エン(アルケー)エポイエーセン(ホ テオス トン ウーラノン カイ テーン ゲーン)。
に於ける、
⑤ ( ) ( )
といふ「括弧」は、「補足構造」を、表してはゐない。
然るに、
(49)
ギリシャ語では通常 ἀπόστλος λέγει λόγον である。だが、λέγει ἀπόστλος λόγον も、λόγον λέγει ἀπόστλος も共に全く可能である。だから、和訳、英訳は、共に順序ではなく、語尾を観察することによって決定しなければならない。
(J.G.メイチェン 著、田辺滋 訳、新約聖書 ギリシャ語原点入門、1974年、29頁)
従って、
(49)により、
(50)
ギリシャ語の場合は、
(ⅰ)ἀπόστλος(主語) λέγει(動詞) λόγον(補足語).
(ⅱ)λέγει(動詞) ἀπόστλος(主語) λόγον(補足語).
(ⅲ)λόγον(補足語) λέγει(動詞) ἀπόστλος(主語).
といふ「語順」が、共に全く可能である。
従って、
(50)により、
(51)
ギリシャ語の場合は、「屈折語」であるため、
⑤ ἐποίησεν ὁ ΘΕΟΣ τὸν οὐρανὸν καὶ τὴν γῆν.
だけでなく、
⑥ ἐποίησεν τὸν οὐρανὸν καὶ τὴν γῆν ὁ ΘΕΟΣ.
といふ「語順」も、「可能」である。
然るに、
(52)
⑥ ἐποίησεν τὸν οὐρανὸν καὶ τὴν γῆν ὁ θεὸς=
⑥ ἐποίησεν{τὸν-οὐρανὸν(καὶ [τὴν-γῆν〔ὁ θεὸς)〕]}⇒
⑥ {([〔ὁ θεὸς)τὸν-οὐρανὸν〕τὴν-γῆν]καὶ }ἐποίησεν=
⑥ {([〔神は)天と〕地]とを }創造した。
に於ける、
⑥ { ( [ 〔 ) 〕 ] }
といふ「それ」は、『括弧』ではない。
従って、
(48)~(52)により、
(53)
④ 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」とは異なり、『括弧』を用ひて、
⑤ ἐποίησεν ὁ θεὸς τὸν οὐρανὸν καὶ τὴν γῆν.
⑥ ἐποίησεν τὸν οὐρανὸν καὶ τὴν γῆν ὁ θεὸς.
といふ「希臘語」の「補足構造」を、表すことは、出来ない。
従って、
(46)(53)により、
(54)
④ 是以、大學始敎、必使〈學者皍(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造の、漢文」を、
④ 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)皍きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ風に、「訓読」することと、
⑥ ἐποίησεν{τὸν-οὐρανὸν(καὶ [τὴν-γῆν〔ὁ θεὸς)〕]}。
といふ「補足構造ではない、希臘語」を、
⑥ {([〔神は)天と〕地]とを }創造した。
といふ風に、「訓読」することとは、「同列に、論じる」べきではない。
従って、
(55)
「漢文訓読」と、例へば、「希臘語訓読」等を、「同列に、論じる」べきではない。
然るに、
(56)
「訓読論」数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
従って、
(55)(56)により、
(57)
『どこの国に、「ギリシャ語」等の外国語を母国語の語順で読む国があろう』かと嘆く筆者の「見解」は、「必ずしも、正しくはない」と、言はざるを得ない。
平成31年01月22日、毛利太。
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