2019年1月7日月曜日

「白話文(北京語)」と「返り点」について。

(01)
① 下{二(一)上}。
に於いて、
① 二( )⇒( )二
① 下{ }⇒{ }下
といふ「移動」を行ふと、
① 下{二(一)上}⇒
① {(一)二上}下=
① 一 二 上 下。
(02)
② 下{二(一)中(上)}。
に於いて、
② 二( )⇒( )二
② 中( )⇒( )中
② 下{ }⇒{ }下
といふ「移動」を行ふと、
② 下{二(一)中(上)}⇒
② {(一)二(上)中}下=
② 一 二 上 中 下。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 下 二 一 上
② 下 二 一 中 上
といふ「返り点」は、
①{ ( ) }
②{ ( )( ) }
といふ「括弧」に相当する。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
上中下点(上・下、上・中・下)は、
一二点だけで示しきれない場合。必ず一二点をまたいで返る場合に用いる。数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、43頁改)
然るに、
(05)
① 下 二 一 上
② 下 二 一 中 上
とは異なり、
③ 下  上 一
の場合は、「上下(中)点」が、「一二点」ではなく、「二点」だけを、またいでゐる
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 下 二 一 上
② 下 二 一 中 上
とは異なり、
③ 下 二 上 一
といふ「それ」は、「返り点」ではない
然るに、
(07)
③ 下{二(上[一)]}。
に於いて、
③ 二( )⇒( )二
③ 上[ ]⇒[ ]上
③ 下{ }⇒{ }下
といふ「移動」を行ふと、
③ 下{二(上[一)]}⇒
③ {([一)二]上}下=
③ 一 二 上 下。
然るに、
(08)
③{ [ ( ) ] }は、「括弧」であるが、
③{ (   ) ] }は、「括弧」ではない
従って、
(01)~(08)により、
(09)
① 下{二(一)上}
② 下{二(一)中(上)}
③ 下{二(上[一)]}
に於いて、
① は、「返り点・括弧」であって、
② も、「返り点・括弧」であって、
③ は、「返り点・括弧」ではなく、言はば、「返り点・括弧もどき」である。
然るに、
(10)

従って、
(09)(10)により、
(11)
③ 要纏擾我。
といふ「白話文(北京語)」を「訓読」しようとすると、
③ 下{二(上[一)]} といふ、「返り点・括弧もどき」が付くことになる。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ 要纏擾我=我ガヤッカイニナル。
といふ「白話文・訓読」に対しては、「返り点・括弧」を付けることが、出来ない
例へば、
(13)
① 四{二(一)三}。
だけを見てゐると、
    四
二 二 ↑
↑ ↓ ↑
一 ↓ ↑
  三 三
といふ風に、「返ってゐる」やうに、見えないこともない
然るに、
(04)により、
(14)
① 四{二(一)三}。 ではなく、
① 下{二(一)上}。 が「正しい」。
然るに、
(15)
① 四{二(一)三}。 ではなく、
① 下{二(一)上}。 である以上、
    四
二 二 ↑
↑ ↓ ↑
一 ↓ ↑
  三 三
ではなく、
  下
二 ↑
↑ ↑
一 ↑
  上
といふ風に、「2回だけ、から、へ、返ってゐる。」
然るに、
(16)
③ 要=我ガ ヤッカイニナル。
のやうに、
③ 要 纏 擾 我。
に付く「それ」が、
③ 下 二 上 一
ではなく、
③ 三 二   一
であったとする。
然るに、
(17)
③ 要=我ガ ヤッカイニナル。
のやうに、
③ 要 纏 擾 我。
に付く「それ」が、
③ 三 二   一
であるならば、
要 纏 擾   が、「1番目」に読まれるため、
要 纏 擾 我 が、「2番目」に読まれ、
要 纏      が、「3番目」に読まれ、
③ 要 纏 擾 我 が、「4番目」に読まれる。ことになる。
従って、
(10)(11)(16)(17)により、
(18)
要 纏 擾 我 が、「1番目」に読まれ、
要 纏      が、「2番目」に読まれ、
要 纏 擾   が、「3番目」に読まれ、
③ 要 纏 擾 我 が、「4番目」に読まれるためには、
③ 下 二 上 一
でないとすれば、
③ 三 二   一
は、固より、「不可」であるため、
③ 四 二 三 一
といふ風に、せざるを得ない。

然るに、
(19)
③ 四{二(三[一)]}。
であるならば、
    四
二 二 ↑
↑ ↓ ↑
↑ 三 三

であるため、
  二
  ↓
  三
に於いて、「上から下へ、下ってゐる。」
然るに、
(20)
「返り点」といふのは、
「下から上へ、返る点」であって、
「上から下へ、下る点」ではない。
従って、
(19)(20)により、
(21)
③ 四 二 三 一
であるならば、
  二
  ↓
  三
に於いて、「上から下へ、下ってゐる。」が故に、
    四
二 二 ↑
↑ ↓ ↑
↑ 三 三

といふ「それ」である所の、
③ 四{二(三[一)]}。
といふ「それ」は、「返り点・括弧もどき」であって、「返り点・括弧」ではない。
従って、
(11)(16)~(21)により、
(22)
③ 要 纏 擾 我。
に付く「それ」が、
③ 下{二(上[一)]}。
であったとしても、
③ 四{二(三[一)]}。
であったとしても、「これら」は、二つとも、「返り点・括弧もどき」であって、「返り点・括弧」ではない。
然るに、
(23)
④ 二(五{三[一)]四}。
に於いて、
④ 二( )⇒( )二
④ 三[ ]⇒[ ]三
④ 五{ }⇒{ }五
といふ「移動」を行ふと、
④ 二(五{三[一)]四}⇒
④ ({[一)二]三四}五=
④ 一 二 三 四 五。
然るに、
(24)
④{ [ ( ) ] } は、「括弧」であるが、
④( { [  ) ] } は、「括弧」ではない。
然るに、
(25)
④ 二(五{三[一)]四}。
であるならば、
二 二
↑ ↓ 五
↑ 三 ↑
一   ↑
    四
であるため、
  二
  ↓
  三
に於いて、「上から下へ、下ってゐる。」
従って、
(20)(24)(25)により、
(26)
④ 二(五{三[一)]四}。
であるならば、
  二
  ↓
  三
に於いて、「上から下へ、下ってゐる。」が故に、
二 二
↑ ↓ 五
↑ 三 ↑
一   ↑
    四
といふ「それ」である所の、
④ 二(五{三[一)]四}。
といふ「それ」は、「返り点・括弧もどき」であって、「返り点・括弧」ではない。
然るに、
(27)

従って、
(26)(27)により、
(28)
④ 端‐的看婆‐子的本‐事
⑤ 西門慶促‐忙促‐急儧造 不
のやうに、
④ 二(五{三[一)]四}。
⑤ 二(五{三[一)]四}。
である以上、
④ 端的 看 不 出 這婆子的本事 来
⑤ 西門慶促忙促急儧 造 不 出 床 来
といふ「白話文(北京語)」に付くのは、「返り点・括弧もどき」であって、「返り点・括弧」ではない
従って、
(22)(28)により、
(29)
少なくとも、
③ 要纏擾我。
④ 端的看不出這婆子的本事来。
⑤ 西門慶促忙促急儧造不出床来。
といふ「白話文(北京語)」に対しては、「返り点・括弧」すら、付けることが、出来ない。
然るに、
(30)
返り点とは、漢文すなわち古典中国語の語順を、日本語の語順に変換する符号である。
(古田島洋介、湯浅吉信、漢文訓読入門、2011年、45頁)
従って、
(30)により、
(31)
「日本語」とは「異なる語順」であるにも拘らず、「返り点」を付けることが出来ないのであれば、その「語順」は、「漢文の語順」ではない
従って、
(29)(31)により、
(32)
③ 要纏擾我。
④ 端的看不出這婆子的本事来。
⑤ 西門慶促忙促急儧造不出床来。
といふ「語順」は、「漢文の語順」ではない
従って、
(32)により、
(33)
その「語順」が、「漢文の語順」ではないが故に、
③ 要纏擾我。
④ 端的看不出這婆子的本事来。
⑤ 西門慶促忙促急儧造不出床来。
といふ「白話文(北京語)」は、「漢文」では、あり得ない
然るに、
(34)
⑥ 這裏宝玉忙忙的穿了衣服出来、忽抬頭見林黛玉在前面慢慢的走著、似有拭涙之状、便忙趕上来、笑道(紅楼夢)。
といふ「白話文(北京語)」を、「漢文」として読もうとしても、
⑥ 笑道=笑って言ふ。
とふ「二語」しか、理解できない
然るに、
(35)
例へば、
⑦ καὶ  ὑστερήσαντος οἴνου λέγει ἡ μήτηρ τοῦ  Ἰησοῦ πρὸς αὐτόν Οἶνον οὐκ ἔχουσιν(ヨハネによる福音書).
であれば、
⑦ λέγει ἡ μήτηρ τοῦ  Ἰησοῦ πρὸς αὐτόν=イエスの母が彼に向って言ふ。
⑦ Οἶνον οὐκ ἔχουσιν=彼らはワインを持ってゐない。
に関しては、理解できる。
然るに、
(36)
「It's(all)Greek to me.(それ、ぼくにはギリシャ語だ)」とは、「ぼくにはまったく意味が分からない」という意味です(マイナビニュース)。
従って、
(34)(35)(36)により、
(37)
漢文」を知ってゐても、「白話文(北京語)」は知らないことは、
英語」は知ってゐても、「ギリシャ語」   を知らないことと、同じである。
従って、
(38)
思ふに、
「支那の言語や文字を研究するのに、漢文支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである(勉誠

出版、「訓読」論、2008年、57頁)。
といふ「言ひ方」は、「マチガイ」であるに、違ひない。
平成31年01月07日、毛利太。

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