― 門外漢ではあるのですが、昭和60年頃、『國語と國文學』に投稿したことが有ります。―
(01)
① A者[読み]Aは:Aは主語[訳]Aは
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、166頁)
従って、
(01)により、
(02)
① A者B也(AはBなり)。
であるため、
① AはBである(A者B也)。
であって、
② AがBである(A者B也)。
ではない。
従って、
(02)により、
(03)
① AはBである。
② AがBである。
に於いて、
① は、昔から有ったが、
② は、昔は無かった。
然るに、
(04)
① Aは の「は」は、「清音」であって、
② Aが の「が」は、「濁音」である。
然るに、
(05)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① Aは の「は」は、「清音」であって、
② Aが の「が」は、「濁音」であるが故に、
② Aが の「心理的な音量」の方が、
① Aは の「心理的の音量」よりも、「大きい」。
然るに、
(07)
私が理事長です。(理事長は私です)
のように、ガの文がいわばハを内蔵していることがあるから、その説明が必要である。このような「私が」を強声的になっていると言うことにする。そこに発音上のストレスを与えたのと似た効果を持っているからである(三上章、日本語の論理、1963年、106頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 私は の「は」は、「清音」であって、
② 私が の「が」は、「濁音」であるが故に、
① 私は に対して、
② 私が は、「強声的」である。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① I am 理事長。
に於ける、
① I を「強調」しない「形」が、
① 私は理事長です。
であって、
② I を「強調」した「形」が、
② 私が理事長です。
といふことになる。
然るに、
(10)
① ειμι 理事長。
② εγω ειμι 理事長。
に於いて、
② εγω は、「人称代名詞の主格」である。
然るに、
(11)
(4)人称代名詞の主格は、特にそれが強調される場合以外には用いられない。
(J・G・メイチェン 著、田辺滋 訳、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、55頁)
従って、
(10)(11)により、
(12)
① ειμι 理事長(I am 理事長)。
② εγω ειμι 理事長(I am 理事長)。
に於いて、
② は、「I(一人称代名詞の主格)」が「強調」されてゐる。
然るに、
(13)
(a)この理由は、動詞の語尾が、主語が一人称であるか、それとも二人称であるか、または、三人称であるかを充分に示しているからである。つまり λεγω は「私は言う」(I say)である。故に、特に「私」を強調が置かれるのでなければ、εγω を付け加えない。
(b)強調というのは、通常対照によって生ずる。たとえば、εγω λεγω,συ δε γραφειs,「私は語るが、しかし汝は書く」(I say,but you write)という文で,εγω と συ とは強調されている。εγω と συ は互いに対照されているからである。そして、εγω λεγω、「私は語る」(I say)という文では、誰か他の人は語っていないということが、当然、類推されるわけである。
(J.G.メイチェン著、田辺滋 訳、新約聖書ギリシャ語原点入門、1967年、55頁)
従って、
(12)(13)により、
(14)
① ειμι 理事長(I am 理事長)。
② εγω ειμι 理事長(I am 理事長)。
に於いて、
② の場合は、「I(一人称代名詞の主格)」が「強調」されてゐるが故に、
② 私は理事長であって、私以外は理事長ではない。
といふ「意味(排他的命題)」になる。
然るに、
(15)
② 私は理事長であって、私以外は理事長ではない。
といふことは、
② 私=理事長
といふことに、他ならない。
従って、
(09)~(15)により、
(16)
① 私は理事長です(ειμι 理事長)。
② 私が理事長です(εγω ειμι 理事長)。
に於いて、
① ではなく、
② に関しては、
② 私=理事長
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(17)
② 私=理事長
であるならば、そのときに限って、
③ 理事長=私
といふ「交換法則(Commutative law)」が、成立する。
然るに、
(17)により、
(18)
② 私=理事長
③ 理事長=私
であるならば、当然、
② 私は理事長であって、尚且つ、
③ 理事長は私である。
然るに、
(19)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。 と直して初めて主辞賓辞が適用されるのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念会は、私が理事長です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念会」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
従って、
(18)(19)により、
(20)
果たして、
② 私が理事長です。
③ 私は理事長であって、理事長は私です。
に於いて、
②=③ である。
従って、
(07)~(20)により、
(21)
① 私は の「は」は、「清音」であって、
② 私が の「が」は、「濁音」であるが故に、
① 私は に対して、
② 私が は、「強調形」であって、そのため、
① 私は理事長です(ειμι 理事長)。
② 私が理事長です(εγω ειμι 理事長)。
に於いて、
① ではなく、
② に関しては、
② 私=理事長
といふ「等式」が、成立し、だからこそ、
② 私が理事長です。
③ 私は理事長であって、理事長は私です。
④ 私は理事長であって、私以外は理事長ではない。
に於いて、
②=③=④ である。
といふ、ことになる。
従って、
(21)により、
(22)
① Aは、BがCである。
② Aは、BはCであり、B以外はCでない。
に於いて、
①=② である。
従って、
(23)
① 象は鼻が長い。
② 象は鼻は長く、鼻以外は長くない。
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
④ すべてのxについて{xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって長く)、すべてのzについて(zがxの鼻でないならば、zは長くない)}。
に於いて、
①=②=③=④ である。
然るに、
(24)
② 象の鼻は、耳ではない。
従って、
(25)
② 象は、鼻以外は長くない。
とするならば、
② 耳が長い動物(例へば、兎)は象でない。
従って、
(23)(24)(25)により、
(26)
(ⅰ)象は鼻は長いが、鼻以外は長くない。然るに、
(ⅱ)兎の耳は長いが、耳は鼻ではない。 従って、
(ⅲ)兎は象ではない。
といふ「推論(三段論法)」は、「妥当」である。
cf.
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
2 (2)∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)} A
3 (3)∃x(兎x&象x) A
1 (4) 象a→∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 1UE
2 (5) 兎a→∃y(耳ya&長y)&∀z(耳za→~鼻za) 2UE
6 (6) 兎a&象a A
6 (7) 象a 6&E
6 (8) 兎a 6&E
1 6 (9) ∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 47MPP
2 6 (ア) ∃y(耳ya&長y)&∀z(耳za→~鼻za) 58MPP
2 6 (イ) ∃y(長y&耳ya) ア&E
ウ(ウ) 耳ba&長b A
1 6 (エ) ∀z(~鼻za→~長z) 9&E
2 6 (オ) ∀z(耳za→~鼻za) ア&E
1 6 (カ) ~鼻ba→~長b エUE
2 6 (キ) 耳ba→~鼻ba オUE
ウ(ク) 耳ba ウ&E
2 6ウ(ケ) ~鼻ba キクMPP
12 6ウ(コ) ~長b カケMPP
ウ(サ) 長b ウ&E
12 6ウ(シ) 長b&~長b コサ&I
12 6 (ス) 長b&~長b イウシEE
123 (セ) 長b&~長b 36スEE
12 (ソ)~∃x(兎x&象x) 36セRAA
12 (タ)∀x~(兎x&象x) ソ量化子の関係
12 (チ) ~(兎a&象a) タUE
12 (ツ) ~兎a∨~象a チ、ド・モルガンの法則
12 (テ) 兎a→~象a ツ含意の定義
12 (ト)∀x(兎x→~象x) テUI
従って、
(26)により、
(27)
(ⅰ)象は鼻が長い。然るに、
(ⅱ)兎の耳は長いが、耳は鼻ではない。従って、
(ⅲ)兎は象ではない。
といふ「推論(三段論法)」を、「妥当」である。
と、思ふのであれば、その人は、必ず、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」を、
② 象は鼻は長いが、鼻以外は長くない。
といふ「意味」に、捉へてゐる。
然るに、
(28)
三上章 先生は、
(ⅰ)象は鼻が長い。然るに、
(ⅱ)兎の耳は長いが、耳は鼻ではない。従って、
(ⅲ)兎は象ではない。
といふ「推論(三段論法)」を、「妥当」である。
と思ふに、違ひない。
従って、
(23)~(28)により、
(29)
三上章 先生も、
① 象は鼻が長い。
② 象は鼻は長く、鼻以外は長くない。
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
④ すべてのxについて{xが象であるならば、あるyは(xの鼻であって長く)、すべてのzについて(zがxの鼻でないならば、zは長くない)}。
に於いて、
①=②=③=④ である。
といふことは、認めざるを得ない。
然るに、
(30)
三上章 先生は、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」の、
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「意味」については、何らの言及をすることなく、
① 象は鼻が長い。
に於ける、
① 象は は、「主語」ではない。
といふことだけを、「力説」される。
然るに、
(31)
① For any x, if x is an elephant then x is an animal.
② すべてのxについて、xが象であるならば、xは動物である。
③ ∀x(象x→動物x)。
④ Elephants are animals.
⑤ 象は動物である。
に於いて、
①=②=③=④=⑤ であって、
④ Elephants が「主語」である以上、
⑤ 象は も、「主語」であるに、違ひない。
令和04年06月05日、毛利太。
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