2017年6月14日水曜日

「提示」としての「・・・は」。

(01)
① 古人成敗を以て之論ずべからざるなり。
という「訓読」に於いて、
①「故人」=「之
である。
従って、
(02)
① 古人成敗を以て之論ずべからざるなり。
といふ「訓読」に於いて、
① 之
を「除く」ならば、
② 古人をは成敗を以て論ずべからざるなり。
といふ風に、「言ひたく」なる。
然るに、
(03)
(六)名をば 「」は他のものと区別して提示する係助詞「」が、格助詞「」と用いられたため連濁したもの。
(中道館、古典新釈シリーズ③竹取物語(全)、1992年、2頁)
従って、
(02)(03)により、
(04)
② 古人をは成敗を以て論ずべからざるなり。
といふ「訓読」は、「連濁」により、
③ 古人をば成敗を以て論ずべからざるなり。
といふ「それ」になる。
然るに、
(05)
(2)「倒置」により、次の各分は文の成分の位置が変わっている。
① 詠嘆 ・・・ 賢人哉回也(賢なるかな回や)。
② 強意 ・・・ 何亡国敗家之有(何ぞ国を亡ぼし家を敗ること之有らん)。
提示 ・・・ 故人不可以成敗論也(古人をば成敗を以て論ずべからざるなり)。
(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、36頁を参照)
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
③ 古人をば成敗を以て論ずべからざるなり。
といふ「訓読」は、
③ 成敗を以て古人を論ずべからざるなり。
といふ「訓読」に対する、「提示(倒置)」である。
cf.
③ 古人不[可〔以(成敗)論〕]也。
③ 不[可〔以(成敗)論(古人)〕]也。
③ 古人=昔の人、成敗=成功と失敗。
従って、
(06)により、
(07)
④ 二階をば、先生に貸せり。
といふ「それ」は、
④ 先生に、二階貸せり。
といふ「それ」に対する、「提示」である。
然るに、
(03)により、
(08)
(38j)2階先生に貸しています。
(39j)2階先生に貸しています。
に於いて、
⑤ 2階
⑤ 2階
といふ「二つ」を「一緒に」すれば、「連濁」により、
⑤ 2階をば先生に貸しています。
といふ「日本語」が成立し、
⑤ 2階をば先生に貸しています。
といふ「口語」を、「文語」で言へば、
④ 二階をば、先生に貸せり。
といふ「文語」となる。
従って、
(07)(08)により、
(09)
⑤ 2階先生に貸しています。
に於ける、
⑤ 2階
といふ「言ひ方」は、
④ 二階をば、先生に貸せり。
に於ける、
④ 二階をば
といふ「提示」に相当する。
然るに、
(10)
(41j)先生2階を貸りています。
(39j)と(41j)における「は」の共通性は何だろうか。(39j)では「」は(38j)の「」に対応しているのだから、少なくとも「主語」という答えは明らかに不可である。
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、102頁)
然るに、
(11)
⑥ 先生2階を貸りています。
に於いて、
⑥ 先生
は、「古文の文法(学校文法)」からすれば、「主語」である。
従って、
(09)(11)により、
(12)
⑤ 2階先生に貸しています。
に於ける、
⑤ 2階
は、「古文の文法(学校文法)」からすれば、「提示」であって、
⑥ 先生2階を貸りています。
に於ける、
⑥ 先生は
は、「古文の文法(学校文法)」からすれば、「主語」である。
従って、
(10)(12)により、
(13)
(38j)2階先生に貸しています。
(39j)2階先生に貸しています。
に於いて、
(39j)では「は」は(38j)の「を」に対応しているのだから、少なくとも「主語という答えは明らかに不可である
といふことになり、
(40j)先生2階を貸りています。
(41j)先生2階を貸りています。
に於いて、「先生が・先生は」は、「主語」である。
といふ、ことになる。
従って、
(14)
「日本語に主語はいらない。」といふ金谷先生の「主張」は、「現代日本語」を外国人に教へる際は兎も角、少なくとも、「古文・漢文」といふ「日本語」を学ぶ上では、「有害」である。
平成29年06月14日、毛利太。
―「関連記事」―
私が大野です(大野は私です)=http://kannbunn.blogspot.com/2017/05/blog-post_29.html

2017年6月12日月曜日

「その璧」は「その璧」ではない。

(01)
① 相如持(其璧)睨(柱)欲〔以撃(柱)〕。② 秦王恐〔其破(璧)〕⇒
① 相如(其の璧を)持ち(柱を)睨み〔以て(柱に)撃たんと〕欲す。② 秦王〔其の(璧を)破らんことを〕恐る=
① 相如は(其の璧を)手に持ち(柱を)見据へると〔それを(柱に)撃ち付けようと〕した。② 秦王は〔其の者が(璧を)を砕いてしまふことを〕恐れた。
(史記 列伝 廉頗藺相如列傳 第二十一)
従って、
(02)
①(其の璧を)
といふのは、「普通に」、
①(其の璧を)
といふ、「意味」である。
然るに、
(03)
② 秦王恐〔其破(璧)〕⇒
② 秦王〔其の(璧を)破るを〕恐る=
② 秦王は〔其の者が(璧を)砕いてしまふことを〕恐れた。
に於いて、
②「璧を、砕こうとする」のは「相如」であって、
②「砕かれるのを恐れた」のは「秦王」である。
従って、
(03)により、
(04)
② 其の(璧を)
に於ける、
② 其
といふのは、
② 相如
といふ、「意味」である。
従って、
(02)(04)により、
(05)
①(其の璧を)
に於ける、
①「其の」は、「英語」で言へば、
①「定冠詞(the)」に相当し、
② 其の(璧を)
に於ける、
②「其の」は、「英語」で言へば、
②「人称代名詞・三人称主格(he,she,it,they)」に相当する。
cf.
【1】[][
(a)主語を示す。日の暮るるとき。汝が去りし日。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
従って、
(05)により、
(06)
① (其の璧を)
② 其の(璧を)
に於いて、
①=② ではなく
② である。
(07)
③ 鳥吾知其能飛=
③ 鳥吾知(其能飛)⇒
③ 鳥は吾(其の能く飛ぶを)知る。
といふ「それ」は、「史記、老子韓非列傳第三」である。
然るに、
(08)
③ 其の能く飛ぶ。
に於いては、
③ 飛ぶ。
が、「動詞」である。
従って、
(05)(08)により、
(09)
③ 鳥は吾其の能く飛ぶを知る。
に於ける、
③「其の」は、「人称代名詞・三人称主格」である。
従って、
(09)により、
(10)
③ 鳥は吾(其の能く飛ぶを)知る。
といふ「訓読」は、蓋し、
③ Birds, I know that they can fly.
といふ、「意味」である。
然るに、
(11)
③ 鳥吾知其能飛(鳥は吾其の能く飛ぶを知る)。
に於いて、
③ 鳥  =鵬之背
③ 知  =不知
③ 其能飛=其幾千里
といふ「代入」を行ひ、尚且つ、
③ 吾
を、「省略」し、
③ 也
を、「加へる」と、
④ 鵬之背不知其幾千里(鵬の背は、其の幾千里なるかを知らざるなり)。
といふ「漢文(荘子、內篇 ‧ 逍遙遊)」が、成立する。
cf.
「幾千里なる」は、「形容・動詞」。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
④ 鵬の背は其の幾千里なるかを知らざるなり。
に於ける、
④「其の」も、「人称代名詞・三人称主格」であって、
④「知らざるなり」の「主語」は、「省略」されてゐる。
然るに、
(13)
⑤ 鵬之背不知其幾千里也(鵬の背は、其の幾千里なるかを知らざるなり)。
に於いて、
⑤ 鵬之背=先生
⑤ 幾千里=何許人
といふ「代入」を行ひ、
⑤ 其
を「省略」し、
⑤ 也
を「除く」と、
⑤ 先生不知何許人(先生は、何許の人なるかを知らず)。
といふ「漢文(陶潜、五柳先生伝)」が、成立する。
従って、
(10)~(13)により、
(14)
⑤ 先生、何許の人なるかを知らず。
といふ「訓読」は、
⑤ 先生、吾其の何許の人なるかを知らず。
といふ「意味」、すなはち、敢へて、「英語」にするならば、
⑤ My teacher, I don't know where he comes form.
のやうな「英語」に、「相当」すると、思はれる。
但し、
(15)
私自身は、ほとんど、「英語」を勉強してゐないので、
⑤ My teacher, I don't know where he comes from.
のやうな、「英語」が、実際に、有るのか、無いのか、私には分らない。
平成29年06月12日、毛利太。

2017年6月11日日曜日

「先生は」の「は」について(Ⅲ)。

(01)
【啓発】(専門家としての観点から)一般の人が看過しがちな問題および問題点について知識を与えること(新明解国語辞典)。
【徳器】人徳と才能、りっぱな人格(学研漢和大辞典)。
【成就】何かを、思った通りにやってのけること。また、その通りに実現すること(新明解国語辞典)。
従って、
(02)
③ 啓発知〔能成‐就(徳器)〕。
③ 啓発は〔能く(徳器を)成‐就するを〕知る。
に於いて、
③「啓発」が、「知る」の「主語であるとは、思へない
然るに、
(03)

従って、
(03)により、
(04)
① 鳥知(能飛)。
① 鳥吾(其の能く飛ぶを)知る。
② 鯤之大不〔知(幾千里)〕也。
② 鯤の大いさ吾〔(其の幾千里なるを)知ら〕ざる也。
といふ「漢文」が「可能」であるならば、
④ 啓発知〔能成‐就(徳器)〕。
④ 啓発は吾〔其の能く(徳器を)成‐就するを〕知る。
といふ「漢文」も「可能」である。
然るに、
(05)
④ 啓発知〔能成‐就(徳器)〕。
④ 啓発は吾〔其の能く(徳器を)成‐就するを〕知る。
であれば、
④ 私は、〔啓発が、りっぱな人格を実現する。〕といふことを、知ってゐる。
といふ、「意味」になる。
従って、
(02)(05)により、
(06)
④ 啓発知〔能成‐就(徳器)〕。
④ 啓発吾〔其の能く(徳器を)成‐就するを〕知る。
に於いて、
④       
といふ「二つの主語」が「省略」された「形」が、
③ 啓発知〔能成‐就(徳器)〕。
③ 啓発は〔能く(徳器を)成‐就するを〕知る。
である。
然るに、
(07)
⑥ 先生不〔知(何許人)〕。
⑥ 先生は吾〔(其の何許の人なるかを)知ら〕ず。
であれば、
⑥ 私は、〔先生が、何処の人であるか〕といふことを、知らない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(08)

従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
⑥ 先生不〔知(何許人)〕。
⑥ 先生は吾〔(其の何許の人なるかを)知ら〕ず。
に於いて、
⑥         
といふ「二つの主語」が「省略」された「形」が、
⑤ 先生不〔知(何許人)〕。
⑤ 先生は〔(何許の人なるかを)知ら〕ず。
である。といふ、ことになる。
従って、
(06)(08)(09)により、
(10)
③ 啓発能く徳器を成就するを知る。
⑤ 先生何許の人なるかを知らず。
のやうな「日本語」の場合、
③ 啓発
⑤ 先生
は、「主文(主節)の主語」ではなく、「名詞節(従属節)の主語」であるので、注意しなければ、ならない。
然るに、
(11)
③ 啓発知能成就徳器。⇔
③ 啓発能く徳器を成就するを知る。
⑤ 先生不知何許人。⇔
⑤ 先生何許の人なるかを知らず。
といふ「漢文訓読」を、「主文(主節)の主語、名詞節(従属節)の主語」といふ「用語」を用ひずに、説明することは、出来ない。
然るに、
(12)
英語や仏語では「文には主語と述語がある」と言える。ところが本書で観察するように、日本語ではこれは明らかに誤った主張なのだ(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、14頁)。

との、ことである。
平成29年06月11日、毛利太。

2017年6月10日土曜日

「漢文」は「ラテン語」等とは異なり、『感』で読む。

(01)
① A者[読み]A : Aは主語[訳]A
② 之[格助詞]《連体修飾格・同格・節の主格を示す》
③ AB也[読み]A、Bなり:Aは主語、Bは体言[訳]AはBである
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、166・137・329頁改)
従って、
(01)により、
(02)
① 者=
② 之=
③ 也=である
従って、
(02)により、
(03)
④ A者B之C也。
⑤ Aである
に於いて、
④=⑤ である。
従って、
(03)により、
(04)
④ 誠
といふ「中庸の一節」は、
⑤ 誠である
といふ、「意味」である。
然るに、
(05)
日本語は、テニヲハを伴わねば文を成さないのに対し、中国語は「助字」を伴わなくても、文を成し得る。あってもなくともよい
(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、47頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
④ 誠
だけでなく、
④   者 之 也
を除いた、
④ 誠 天 道 。
であっても、
⑤ 誠である
といふ、「意味」である。

cf.
④ 孔子魯人 ⇔
⑤ 孔子者魯之人也 ⇔
⑤ 孔子は魯の人なり。
従って、
(06)により、
(07)
「漢文」の場合は、
④ A
④ Aである
といふ風に、書くことが出来るのに
④ A B C 。
といふ風に、書いても、構はない
然るに、
(08)
【誠】① まこと。② まことにする。まことの道を実現する。
(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、699頁)
然るに、
(09)
⑥ 誠者天之道也。誠之者、人之道也。
⑥ 誠は天の道なり。之れを誠にするは人の道なり(中庸、二十、八)。
に於いて、
⑥ 之れを=天の道を。
であるとする。
cf.
之 シ
これ〔に・〕、こノ・ここ〈代名詞〉
② これこそ〈強調〉
③ ~の〈連体修飾格〉、~が〈主格〉
④ 行く
(全国高等学校国語教育研究連合会、必携 新明解漢文、2007年、120頁)
従って、
(04)(08)(09)により、
(10)
⑥ 人之道誠天之道。
⑥ 人の道は天の道を誠にす
である。
従って、
(06)(10)により、
(11)
④ 誠者天之道也。
ではなく、
誠天道
であれば、
⑤ 誠は天の道である。
といふ風にも、
⑥ 天の道を誠にす。
といふ風にも、『二通りに、読める』ことになる。
然るに、
(12)
朝聞道、夕死、可矣。
朝に道を聞かば、夕に死すとも、可なり。
この文は、「如朝聞道、則雖夕死、亦可矣」とも書くこともできるものである。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、295頁)
従って、
(13)
⑦ 朝聞道、夕死、可矣。
といふ「論語の一節」は、
朝聞道、則雖夕死、可矣。
⑦ 如し、朝に道を聞かば、則ち、夕に死と雖も亦可なり!
であるものの、この場合は、
⑦ 如=IF
⑦ 則=THEN
⑦ 雖=EVEN IF
⑦ 亦=TOO
である。
従って、
(14)
「漢文」の場合は、
IFTHEN B.
といふ風に、書くことが出来るのに、
⑦ A B.
といふ風に、書いても、構はない。
従って、
(07)(14)により、
(15)
④ Aである
IFTHEN B.
といふ風に、書くことが出来るのに、
④ A B C。
⑦ A B.
といふ風に、書いても、構はない
然るに、
(16)
④ A B C。
⑦ A B.
と書かれてゐるよりも、
④ AはBのCである。
⑦ IF A THEN B.
と書かれてゐる方が、当然、「分り易い」し、
④ A B C。
⑦ A B.
が、実際には、
④ AはBのCである。
⑦ IF A THEN B.
であるといふことを、「知る方法」は、「文法的な分析ではない所の、要するに、『』だけである
従って、
(17)
漢語におけるこのような表現のしかたは、単語の間の関係を文法的な形式によって示すことを重んじている西欧の言語になれている人にとっては、まことに奇妙なことに思われるものと考えられる。カールグレン氏は、その著書《中国の言語》において、このような奇妙な孤立的な漢語の文法は、「非常に貧弱なものであり」、「漢語においては、文法的な分析は、あまり役に立たず、実際に役立つのは、広い読書を通じて習得した経験、つまり、中国人がどのようにして文をつくりあげているかということに対する感覚が、唯一のものである」と説き、更に、漢語の文の意味を理解するためには、「豊富な直観が、必要である」とも述べている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、293頁)。
といふ、ことになる。
然るに、
(18)
④ 誠天道。
⑦ 朝聞道、夕死、可矣。
の方が、
④ 誠者天之道也。
⑦ 如朝聞道、則雖夕死、亦可矣。
よりも、「簡潔(シンプル)」である。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
漢文の文法は、「(ラテン語等の文法に比して、)シンプルすぎて、だからこそ、却って、難しい。」といふ風に、言へないこともない。
平成29年06月10日、毛利太。

2017年6月8日木曜日

「先生は」の「は」について(Ⅱ)。

(01)
① 臣有〔弑(其君)者〕。
① 臣に〔(其の君を)弑する者〕有り。
① 臣下に〔(自分の主君を)殺す者が〕ゐる。
に於いて、
① 弑(其君)者
といふ「それ」を、
① 有 の前に、「倒置(強調)」すると、
① 臣弑(其君)者有〔 〕。
といふ、ことになる。
然るに、
(02)
① 臣弑(其君)者有( )。
に於いて、
① ( )
の中に、
① 之
を「補ふ」と、
① 臣弑(其君)者有(之)。
といふ、ことになる。
然るに、
(03)
① 臣弑(其君)者有(之)。
① 臣にして(其の君を)弑する者(之)有り。
① 臣下であって(自分の主君を)殺す者(、これ)有り。
といふ「漢文訓読」は、「孟子、滕文公章句下」である。
(04)
② 吾知(鳥能飛)。
② 吾(鳥の能く飛ぶを)知る。
② 私は(鳥が飛べるといふことを)知ってゐる。
に於いて、
② 鳥
といふ「それ」を、
② 吾 の前に、「倒置(強調)」すると、
② 鳥吾知( 能飛)。
といふ、ことになる。
然るに、
(05)
② 鳥吾知( 能飛)。
に於いて、
② ( 能飛)。
の中に、
② 其
をを「補ふ」と、
② 鳥吾知(其能飛)。
といふ、ことになる。
然るに、
(06)
② 鳥吾知(其能飛)。
② 鳥吾(其の能く飛ぶを)知る。
② 鳥について、私は(彼等が飛べるといふことを)知ってゐる。
といふ「漢文訓読」は、「十八史略、老子伝」である。
然るに、
(07)
② 鳥吾知(其能飛)。
② 鳥吾(其の能く飛ぶを)知る。
といふ「漢文訓読」が「正しい」のであれば、当然、
③ 鳥吾〔知(其能飛)〕
③ 鳥吾〔(其の能く飛ぶを)知ら〕ざるなり
といふ「漢文訓読」も、「正しい」。
然るに、
(08)
③ 鳥吾不〔知(其能飛)〕也。
から、
③ 吾 を除くと、
③ 鳥不〔知(其能飛)〕也。
③ 鳥〔(其の能く飛ぶを)知ら〕ざるなり。
といふ、ことになる。
然るに、
(09)
③ 鳥不〔知(其能飛)〕也。
に於いて、
③ 鳥 =鵬之背
③ 能飛=幾千里
といふ「代入」を行ふと、
③ 鵬之背不〔知(其幾千里)〕也。
といふ、ことになる。
然るに、
(10)
③ 鵬之背不〔知(其幾千里)〕也。
③ 鵬の背〔(其の幾千里なるを)知ら〕ざるなり。
③ 鵬の背の大きさは〔(其れが、幾千里になるのか)分からない〕ないのだ。
といふ「漢文訓読」は、「荘子」である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
③ 鳥不〔知(其能飛)〕也。
③ 鳥〔(其の能く飛ぶを)知ら〕ざるなり。
といふ「漢文」は、「正しい」。
然るに、
(12)
中国語の「助字」は、あってもなくともよい字である。さればこそ「補助の字」というのである。添加される場合は、文中のあいの手としてある(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、49頁)。
従って、
(13)
③ 也
だけでなく、
③ 其
も「助字」であれば、
③ 其(名詞節の主語)
は、「省略可能」であるし、固より、漢文の場合は、
③「主語」他を、「省略できる」。
従って、
(08)(11)(12)(13)により、
(14)
③ 鳥吾不〔知(其能飛)〕也。
③ 鳥吾〔(其の能く飛ぶを)知ら〕ざるなり。
といふ「漢文」は、
④ 鳥不〔知(能飛)〕。
④ 鳥〔(能く飛ぶを)知ら〕ず。
といふ風に、書くことが、出来る。
然るに、
(15)
④ 鳥不〔知(能飛)〕。
に於いて、
④ 鳥 =先生
④ 能飛=何許人
といふ「代入」を行ふと、
④ 先生不〔知(何許人)〕。
④ 先生〔(何許の人なるかを)知ら〕ず。
④ 先生〔(何処の人であるのかを)知ら〕ない。
といふ「漢文訓読(陶潜、五柳先生伝)」が、成立する。
従って、
(14)(15)により、
(16)
逆に言へば、
④ 先生不〔知(何許人)〕。
④ 先生は〔(何許の人なるかを)知ら〕ず。
④ 先生は〔(何処の人であるのかを)知ら〕ない。
といふ「漢文訓読」は、
⑤ 先生吾不〔知(其何許人)〕也。
⑤ 先生は吾〔(其の何許人なるか)知ら〕ざるなり。
⑤ 先生ついて、私〔(彼何処の人であるかを)知ら〕ないのだ。
といふ風に、「書き換へ可能」である。
従って、
(16)により、
(17)
意味内容」からすれば、
④ 先生 不〔知( 何許人)〕 。
⑤ 先生吾不〔知(其何許人)〕也。
に於いて、
④=⑤ である。
従って、
(16)(17)により、
(18)
④ 先生何処の人であるのかを知らない。
に於いて、
④「である」 の主語=先生。
④「知らない」の主語=私(たち)。
といふ、ことなる。
従って、
(19)
この文の「先生」は主文の主語ではなく、名詞節の主語である。意味内容からすれば、「我不先生何許人」ということだが、この文のように表現するから注意を要する(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、六〇頁)。
といふ、ことになる。
平成29年06月08日、毛利太。

2017年6月7日水曜日

「先生は私が知ってゐる唯一の日本人である」の「が」について。

(01)
① 我(I)
② 私(I)
に於いて、
①=② である。
然るに、
(02)
① 我が国(My country)。
② 私の国(My country)。
に於いて、
①=② である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① が(格助詞)
② の(格助詞)
に於いて、
①=② である。
然るに、
(04)
[2]格助詞
【1】[が][の]
(a)主語を示す。    日の暮るるとき。 汝が去りし日。
(b)連体修飾語を作る。 夏草や兵どもが夢のあと。
(c)体言の代用をする。 薬は、唐のはめでたし。
(d)同格を示す。    白き鳥の、嘴と足と赤き、水の上に遊びつつ魚を食ふ。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
従って、
(03)(04)により、
(05)
「が」と「の」は、固より、「(基本的に)等しい」ものの、
(d)同格を示す。
といふ「機能」は、「の」だけにあって、「が」にはない。
然るに、
(06)
の 私が話したのは誤です(橋本博士はこれを準體助詞として助詞の中に入れられたが、形式名詞と考へるのが適當であらう。佐久間博士は代名助詞とされる。)(時枝誠記、日本文法 口語編、1978年、78頁)
従って、
(06)により、
(07)
③ 私が話したのは誤りです。
に於いて、
③「の」は「(形式)名詞」である。
然るに、
(08)
「名詞」とは、すなはち、「体言」である。
従って、
(09)
③ 私が話したの。
といふ「口語」は、
③ 私(体言)が(格助詞)話し(連用形)た(連体形)の(体言)。
といふ風に、「品詞分解」される。
然るに、
(10)
④ 汝が去りし日。
といふ「文語」は、
④ 汝(体言)が(格助詞)去り(連用形)し(連体形)日(体言)。
といふ風に、「品詞分解」される。
従って、
(11)
③ 私が話したの。
④ 汝が去りし日。
といふ「日本語」は、両方とも、
③ 囗(体言)が(格助詞)囗囗(連用形)囗(連体形)囗(体言)。
④ 囗(体言)が(格助詞)囗囗(連用形)囗(連体形)囗(体言)。
といふ「文型」をしてゐる。
然るに、
(12)
[5]係助詞
【26】[は]
他と区別して述べる意を表す。花はなでしこ。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、191頁改)
従って、
(04)(12)により、
(13)
③ 体言+が(格助詞)+連用形+連体形+体言。
⑤ 体言+は(係助詞)+連用形+連体形+体言。
に於いて、
③=⑤ ではない。
従って、
(09)(19)により、
(14)
③ 私が(格助詞)+話した(連体形)+の(体言)。
に対して、
⑤ 私は(係助詞)+話した(連体形)+の(体言)。
といふ「日本語」は、存在しない。
従って、
(14)により、
(15)
③ 私が(格助詞)話したのは誤りです。
に対して、
⑤ 私は(係助詞)話したのは誤りです。
といふ「日本語」も、存在しない。
従って、
(15)により、
(16)
⑥ 私が(格助詞)知ってゐる唯一の日本人。
⑦ 私は(係助詞)知ってゐる唯一の日本人。
に於いて、
⑥=⑦ ではない。
従って、
(16)により、
(17)
⑥ 先生は私が知ってゐる唯一の日本人である。
に対して、
⑦ 先生は私は知ってゐる唯一の日本人である。
といふ「日本語」は、存在しない。
cf.
⑥ The teacher is the only Japanese whom I know.
然るに、
(18)
⑥ 先生は私が知ってゐる唯一の日本人である。
⑧ 先生は私の知ってゐる唯一の日本人である。
といふ「日本語」は、「両方とも、正しい」。
然るに、
(19)
[2]格助詞
【1】[が][の]
(a)主語を示す。 日の暮るるとき。 汝が去りし日。
[5]係助詞
【26】[は]
他と区別して述べる意を表す。花はなでしこ。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、154・191頁改)
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
⑥ 先生は私知ってゐる唯一の日本人である。
⑦ 先生は私知ってゐる唯一の日本人である。
⑧ 先生は私知ってゐる唯一の日本人である。
といふ「日本語」に於いて、
⑦ 先生は私は知ってゐる唯一の日本人である。
といふ「それ」だけが、「日本語」ではない「理由」は、
【1】[]が、「格助詞」であるの対して、
【26】[]は、  「係助詞」であるからである。
従って、
(21)
仮に、日本語を学習してゐる外国人が、
⑦ 先生知ってゐる唯一の日本人である。
といふ「言ひ方」が「不可」である「理由」を、
私に対して、質問するのであれば、「助詞と助詞は同じではない」からである。
といふ風に、答へることになる。
(22)
「格助詞と係助詞」とは何か?
と質問されるとしたら、精しくは、「大学受験用の、古文の参考書」を読んで下さい。
といふ風に、答へることになる。
然るに、
(23)
外国人教育など、日本語を母語としない人に対する(国語教育ではなく)「日本語教育」においては、学校文法をベースとした教育は行われておらず、学校文法ないし、現在の国語教育の学校文法をベースとした教育法の限界を示すものとみなされている[誰?]。(ウィキペディア)
との、ことである。
平成29年06月07日、毛利太。

2017年6月6日火曜日

「先生は」の「は」について。

(01)
① 鳥吾知其能飛(十八史略)。
② 先生不知何許人(陶潜)。
に対する「訓読」は、
① 鳥吾其の能く飛ぶを知る。
② 先生何許の人なるかを知らず。
である。
然るに、
(02)

然るに、
(03)
従属節の主語」 といふのは、すなはち、
名詞節の主語」 であって、
名詞節の主語」 といふのは、すなはち、
文の一部の主語」である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 鳥吾其の能く飛ぶを知る。
② 先生何許の人なるかを知らず。
に於いて、
① 鳥  は、「 知る 」の「主語」ではないし、
② 先生 は、「知らず」の「主語」ではない。
従って、
(02)(04)により、
(05)
② 先生はいづこの人なるかを知らず(文語)。
② 先生はどこの人であるか分からない(口語)。
に於いて、
②「知らず」の「主語(私)」が、「省略」されてゐる。
然るに、
(06)
③ 先生は日本人である。
③ The teacher is Japanese.
に於いて、
③「である(is)」の「主語」は、言ふ迄もなく、「先生」である。
従って、
(02)(05)(06)により、
(07)
② 先生はどこの人であるか分からない。
③ 先生は日本人である。
に於いて、
② 先生 は、「文の一部の主語(主格)」であって、
③ 先生 は、「文の全体の主語(主格)」である。
(08)
④ 先生是我所知之唯一日本人。
④ 先生知ってゐる唯一の日本人である。
④ The teacher is the only Japanese whom I know.
に於いて、
④ 先生 は、「文の全体の目的語(対格)」である(と思ふ)。
平成29年06月06日、毛利太。

2017年6月4日日曜日

「我は・我・鳥の・先生は・不仁者は」について。

(01)
英語や仏語では「文には主語と述語がある」と言える。ところが本書で観察するように、日本語ではこれは明らかに誤った主張なのだ
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、14頁)。主語を認めると無数の「主語なし文」に「省略」という別の説明を持ち込
む必要があるが、これは多くの場合正しくない(同書、65頁)。
然るに、
(02)
(ニ)成分の省略
(1)主語の省略
(2)述語の省略
(3)客語、補語の省略
(吹野安・小笠原博慧、漢文の語法と故事成語、2005年、45・46頁抜粋)
従って、
(02)により、
(03)
「日本語(訓読)」の場合は、「主語」だけでなく「述語」や「補語」も、「省略」される。
(04)
「漢文訓読の主語」の場合、
α.主語
β.主語
γ.主語
に於いて、
一番多いのは、αであって、
全く無いのが、γである。
従って、
(04)により、
(05)
「漢文訓読」の場合は、「β.主語」と「γ.主語」の「使い分け」に「悩む必要」がない。
(06)
① 我日本人。
であれば、
① 我は日本人なり。
であって、
① 我、日本人なり。
とは読まない。
(07)
② 我学漢文。
であれば、
② 我、漢文を学ぶ。
と読むのが、「普通」である。
(08)
③ 我学漢文、君学英語。
であれば、
③ 我は漢文を学び、君は英語を学ぶ。
と読むのが、「普通」である。
(09)
口語では、「・・・・・が」は、「鳥が飛ぶ」のように、文全体の主語になるが、「・・・・・の」ほうは、「鳥の飛ぶのを見た。」のように、文の一部の主語にしかならない
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、154・155頁)
従って、
(09)により、
(10)
④ 知(鳥能飛)。
④ 鳥の能く飛ぶを知る。
であれば、
④ 吾知(鳥能飛)。
④ 吾、鳥の能く飛ぶを知る。
④ I know that birds can fly.
のやうに、例へば、
④ 吾=I
が「省略」されてゐる。
然るに、
(11)
⑤ 鳥、吾知(其能飛)。
⑤ 鳥は、吾(其の能く飛ぶを)知る。
の場合は、二畳庵主人も、次のやうに述べてゐるやうに、
もともと「鳥」は「能」の上にあったのに、飛び出して、先頭にきてしまった。そこで、飛びだして抜けたあとを補うために、主語を仮設する必要が生まれたので「其」をもってきたのである。だから、
吾知鳥能飛 → 鳥、吾知其能飛
というふうに変形されたものであることがわかる。これを、諸君たちが得意の英文法の用語でいえば「従属節の主語主節の主語の前に置かれた強意の構文」てなことになろう(二畳庵主人、漢文文法基礎、1984、329頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
④ 鳥の能く飛ぶを知る。
⑤ 鳥は、吾其の能く飛ぶを知る。
に於いて、
④ 鳥 は、「従属節の主語」であって、
⑤ 鳥 も、「従属節の主語」である。
然るに、
(13) ④ 吾知(鳥能飛)。
④ 吾、鳥の能く飛ぶを知る。
といふ「漢文(十八史略)」が「正しい」以上、
⑤ 吾不〔知(鳥能飛)〕。
⑤ 吾、鳥の能く飛ぶを知らず。
といふ「漢文(作例)」も、「正しい」。
(14)
⑤ 吾不〔知(鳥能飛)〕。
⑤ 吾、鳥の能く飛ぶを知らず。
といふ「漢文(作例)」が、「正しい」のであれば、
⑥ 先生吾不[知〔其(何許人)〕]。
⑥ 先生は、吾其の何許の人なるかを知らず。
といふ「漢文(作例)」も、「正しい」。
cf.
何許人=いづこ・の人。
従って、
(11)(14)により、
(15)
⑥ 先生吾不[知〔其(何許人)〕]。
⑥ 先生は、吾其の何許の人なるかを知らず。
といふ「漢文(作例)」も、「従属節の主語が主節の主語の前に置かれた強意の構文」である。
然るに、
(16)
④ 知(鳥能飛)。
④ 鳥の能く飛ぶを知る。
がさうであるやうに、「主節の主語」は、「省略可能」である。
従って、
(15)(16)により、
(17)
⑦ 先生不[知〔其(何許人)〕]。
⑦ 先生は、其の何許の人なるかを知らず。
といふ「漢文(作例)」は、「正しい」。
然るに、
(18)
〔 例 〕先生不何許人
〔読み〕先生は何許の人なるかを知らず。
〔 訳 〕先生がどこの出身の人であるかは分からない。〈陶潜・五柳先生伝課〉
〔 注 〕この文の「先生」は主文の主語ではなく名詞節の主語である。意味内容からすれば、「先生何許人」ということだが、この文のように表現するから注意を要する(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、60頁)
従って、
(17)(18)により、
(19)
⑦ 先生不[知〔其(何許人)〕]。
⑦ 先生は、其の何許の人なるかを知らず。
といふ「漢文(作例)」と、
⑧ 先生不〔知(何許人)〕。
⑧ 先生は、何許の人なるかを知らず。
といふ「漢文(陶潜)」は、「同じ意味」であって、
⑧「先生は」は、
⑧「主文(主節)の主語」ではなく、「名詞節(従属節)の主語」である。
従って、
(11)(19)により、
(20)
⑤ 鳥は、吾其の能く飛ぶを知る。
⑧ 先生は、何許の人なるかを知らず。
に於いて、
⑤「 鳥 」は、「 知る 」の「主語」ではなく、
⑧「先生」は、「知らず」の「主語」ではない。
(21)
* 鳥獣不与同一レ群「不可下与鳥獣上レ群」の倒置形で、鳥獣を強めるために前に出した。それは主語ではなく補語である
(三省堂、明解古典学習シリーズ16、1973年、195頁)。
といふのは、
⑨ 不[可〔与(鳥獣)同(群)〕]。
⑨ 鳥獣と与に群を同じくする可からず。
といふ「語順」が、「倒置」によって、
⑨ 鳥獣不[可〔与同(群)〕]。
⑨ 鳥獣は与に群を同じくする可からず。
といふ「語順」になってゐる。
といふ、意味である。
従って、
(22)
「明解古典学習シリーズ16」に書かれてゐる通り、
⑨ 鳥獣不[可〔与同(群)〕]。
⑨ 鳥獣は与に群を同じくする可からず。
に於いて、
⑨ 鳥獣は
といふ「名詞は」は、
⑨ 与=with
といふ「前置詞」の、
補語
であって、
⑨ 不可=can not
といふ「それ」の、
主語
ではない
(23)
〔読み〕不仁者は与に言ふべけんや。
〔 訳 〕不仁(広い思いやりの心のないもの)の者とともに話し合うことができようか(とても話し合うことはできない)。
(数学社、風呂で覚える漢文、1998年、42頁)
従って、
(22)(23)により、
(24)
⑩ 不仁者可(与言)哉。
⑩ 不仁者は(与に言ふ)可けんや。
の場合も、
⑩ 可〔与(不仁者)言〕哉。
⑩ 〔(不仁者は)与に言ふ〕可けんや。
であるため、
⑩ 不仁者は
といふ「名詞は」は、
⑩ 与=with
といふ「前置詞」の、
補語
であって、
⑩ 不可=can not
といふ「それ」の、

主語
ではない
従って、
(22)(24)により、
(25)
⑨ 鳥獣は与に群を同じくする可からず。
⑩ 不仁者は与に言ふ可けんや。
に於いて、
⑨「 鳥獣 」は、「可からず」の「主語」ではなく
⑩「不仁者」は、「可けんや」の「主語」ではない
従って、
(20)(25)により、
(26)
⑤ 鳥は吾其の能く飛ぶを知る。
⑧ 先生は何許の人なるかを知らず。
⑨ 鳥獣は与に群を同じくする可からず。
⑩ 不仁者は与に言ふ可けんや。
に於いて、
⑤ 鳥は
⑧ 先生は
は、「文頭」にあっても、「英語に於ける主語」のやうな「主語」ではなく、
⑨ 鳥獣は
⑩ 不仁者は
は、「文頭」にあるにせよ、「主語」ではなく補語」であるため、「注意を必要とする」。
平成29年06月04日、毛利太。